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2010年7月24日土曜日

地下水道('56)      アンジェイ・ワイダ



<「深い情愛」と「強い使命感」という、「情感体系」の補完による「恐怖支配力」>



  1  「希望」に繋がる当てのない「出口」を模索する恐怖を抉り出した、究極の人間ドラマ



 大脳辺縁系の扁桃体に中枢を持つ「恐怖」こそ、「喜び」、「怒り」、「悲しみ」、「嫌悪」と共に人間の基本感情であると言われるものだ。

 「恐怖」は、自己防御と生存に関わる本能的感情であるのは言うまでもないが、この感情が備わっているからこそ、私たちは特定の否定的な刺激に対する反応を表現し得るのである。

 人間が恐怖心理に捕捉されると、自己防御のための最適な方略を選択するが、そこでは大脳の役割がフル稼働される。

 一貫して、人間の恐怖心理の対象になっていたのは、天然痘、ペスト、コレラ、マラリア、インフルエンザ、結核などの「疫病」であり、近年で言えば、SARS(サーズ)騒動などのパンデミックであるだろうか。

 ところが、人間の恐怖心理の対象として何より看過し難いのは、最も大掛かりな人為的な集団暴力である「戦争」であり、21世紀段階では「テロリズム」に対する「恐怖」と言っていいだろう。

 更に、動物が恐怖による混乱した心理状態に置かれるとパニックを起こすが、とりわけ、密閉した空間に閉じ込められた動物が出口を求めて暴れ出す行動は周知の事実。

 これは、人間の場合でも変わらない。

 トラップに捕縛された動物が傷付きながらも暴れ回る行動をイメージするまでもなく、大脳がフル稼働する人間が、パニック下の行動で捕捉される恐怖心理の根柢には、「敵」の存在を明瞭に認知しつつも、その「敵」の存在が視覚的に捉えられない状態が延長されてしまうとき、それでも闇と異臭を掻き分けて展望の見えない「進軍」を余議なくされるなら、フル稼働する大脳という自我の司令塔からの「最適戦略」が導き出せず、自壊の恐怖に捕捉されるだろう。

 いつ襲いかかるやも知れぬ、強大な「敵」の存在が視覚的に捉えられない「見えない敵」こそ、真の「恐怖」なのだ。

 「見えない敵」に囲繞された極限状況下でも、「希望」に繋がる当てのない「出口」を模索せざるを得ない「恐怖」とは、「地下水道」にシンボライズされた当時のポーランドそれ自身であり、それは「見えない敵」= 独軍への「恐怖」であるが、それよりももっと「見えない敵」である、スターリン体制下のソ連への「恐怖」でもあった。

 「地下水道」 ―― この震撼すべき映像は、その両対極の方向に絶対支配のバリアを構築する「見えない敵」への「恐怖」を描くことで、「自壊へのプロセス」を加速させるだけの、闇と汚濁の下水道を抜けていく「行軍」の中で露呈する、密閉した空間に閉じ込められた動物の絶望的足掻きの如く、「希望」に繋がる当てのない「出口」を模索する「恐怖」を抉り出した究極の人間ドラマである。



 2  「善き蜂起者は完全な人間である」というデマゴーグを否定した冷徹なリアリズム



独軍占領下のビルを銃撃する国内軍兵士(ウィキ)
「1944年9月末、ワルシャワ蜂起の悲劇的な最期も間近だ。旧市街及び川沿いの地区は占領され、中央区、北区、南区も敵に包囲され燃えている。

 悲劇の勇者たち ―― 

 この中隊には43名がいる。3日前までは70名を数えたのだが・・・。中隊長のザドラ中尉である。招集した部下の全責任を負っている。副官のモンドリ中尉。鉄の軍規を部下に教え込んだ。連絡係のハリンカ。家を出る時、母親に薄着はしない約束をした。女親への約束は、男も同じだろう。クラ軍曹 ―― 立派な字を書く中隊の記録係である。小隊長のコラブ ―― 毎日入浴できないのが苦の種だ。(略)

 悲劇の主人公たち。彼らの人生の末期をお目にかけよう」

 これが、映像冒頭のナレーション。

 映像前半は、圧倒的なドイツ軍の攻勢の中で追い詰められた蜂起軍が、いよいよ死を待つだけの状況下で、ワルシャワ市街の中央区への脱出を賭けて、闇と異臭の「地下水道」に潜り込んでいくまでの絶望的な戦いをリアルに描き出していく。

 映像後半は、「希望」に繋がる当てもなく、「出口」を模索せざるを得ない「地下水道」の「行軍」の現実を描き出す。

 「静かだ。濃い霧だ。汚物を掻き分けて、暗い森を散歩していく」

 女に助けられながら闇の中を進む状況下で、既に敗走戦によって、胸を撃たれて深傷を負ったコラブ小隊長のこの言葉が、散り散りになった蜂起軍の「行軍」の本質を端的に説明している。

 携帯する懐中電灯の灯りだけを頼りに、人間の咳の音ですら反響する闇のゾーンの中で、下水道の汚水に塗れながら、既に人物の特定すら困難な者たちの「行軍」はあまりに絶望的だった。

「地下水道」の向こうにある世界への明るい展望が、全く予約されないからだ。

 そんな極限状況下で、今や殆ど「戦闘集団」の体を成していないワルシャワ蜂起の主体であるポーランド国内軍の1中隊は、這う這うの体(ほうほうのてい)で下水道に潜り込み、「行軍」の継続を維持しようとするが、元々、強固な組織基盤を構成し得ていない蜂起軍が、組織的行動を貫徹するのには無理があった。

 なぜなら、懐中電灯頼りで闇の世界を「行軍」するという行動自体が、組織基盤の維持を自壊させる危うさを持っていたからだ。

 しかも、独軍がガスを投入したいう情報が組織を混乱に陥れ、いよいよ無秩序を極めていく。

 パニックを起こすのだ。

 裸形の自我が晒され、混乱に拍車を掛ける。

 まして、マンホールから投げ込まれた独軍の手榴弾が、反響する闇のゾーンで炸裂するのだ。

 それでなくとも、全き未知のゾーンの「恐怖」に捕捉された自我が組織的な連携を果たし得ない状態を延長させてしまうとき、もうそこには、「自分の身は自分で守る」という観念しか分娩できないだろう。

 要するに、他者の安全について不感症になってしまうのである。

 普通、このような極限状況下では、真っ先に崩されていく理念系の文脈がある。

 それは、「我が身を犠牲にしてまで、『蜂起』の大義名分を貫徹しよう」という理念系の文脈である。

 実際、この40名程度の中隊では、殆どこの文脈をなぞっていた。

 ある者は発狂し、ある者は自殺し、そして、ある者は独軍の餌食にされやすい危険を顧みず、下水道の明るい出口から脱出しようと図って、独軍の機銃掃射の格好の的になってしまったのである。

 また、右手に銃を持つ泥だらけの男は、漸く出口を見つけて、そこから這い上がって来た。

 副官のモンドリ中尉である。 

 すっかり視界を閉ざされた中尉は、後方から残酷な告知を受けた。

 「手を上げろ」

 一人のドイツ兵が待っていたのだ。

 映像は、カメラをゆっくり廻していく。

 そこで捕捉された構図は、このモンドリ中尉の残酷な結末が予約されたものであることを裏付ける、蜂起軍の生き残りの者たちの捕虜の風景だった。

 彼は思わず泣き崩れた。

映像の残酷が極まった瞬間である。

 「恐怖」を超えて辿り着いた世界こそ、本当の「恐怖」だったのだ。

 「恐怖を支配する力」 ―― 私はこれを「胆力」と呼んでいる。

 しかし、この「胆力」には当然限界がある。

 「見えない敵」との絶望的な戦いを延長していくプロセスは、同時に自分の拠って立つ精神基盤を削り取っていく、「もう一つの内なる恐怖」との戦いが分娩されるのである。

 人間はそういうとき、大抵「もうどうなってもいい」というようなネガティブな感情を生みやすいのだ。

 生存と適応の司令塔である大脳の機能が麻痺してしまうからである。

 この映画は、そのような極限状況下に置かれた者たちの現実の様態を余すことなく描き出した。

何より、「善き蜂起者は完全な人間である」というデマゴーグを否定した冷徹なリアリズムに驚かされる。

 少なくとも、その意味から言えば、本作の完成度の高さは、偶然性に依拠し過ぎた「灰とダイヤモンド」(1958年製作)と比較するとき、遥かに上質であると私は思う。

 話を戻す。

 然るに映像は、1中隊の崩壊過程の中で、特筆すべき人物像を造形した。

 前述した「真っ先に崩されていく理念系の文脈」の「不幸」をなぞらない、「強き善き蜂起者」をも描いたのである。

 デイジーとザドラ中隊長である。

 次稿では、彼らについて簡単に言及する。

 彼らはなぜ、極限状況下で理性的自我を保持し得たのか。

 それを考えたいからである。



 3  「深い情愛」と「強い使命感」という、「情感体系」の補完による「恐怖支配力」



 まず、デイジーの場合。

 冒頭で、「毎日入浴できないのが苦の種」と紹介されたコラブ小隊長を、女の限定的な腕力で抱えるようにして、希望に繋がる当てもない全き未知のゾーンを進んでいくのである。

 「生きようと思わないの?」

深傷を負った男の弱音を拾って、必死に勇気づける女が、そこにいた。

 その女が、深傷を負った男を抱えるようにして辿り着いた先に見えたのは、川に繋がり、鉄格子に覆われた下水道の出口。

 川の向う岸に待機するのは、ソ連軍。

 「ワルシャワ蜂起」を裏切ったスターリン体制下のソ連にとって、蜂起を起こした「ポーランド国内軍」の存在は、傀儡化し得ないナショナリストなので抹殺したい対象なのだ。

 鉄格子の向こうの風景の「恐怖」を象徴的に映し出した、アンジェイ・ワイダ監督の演出が冴えたショットである。

 しかし、万事休すの「行軍」の現実を、男は認知できなかった。
 
 男の視力が、暗闇の中ですっかり奪われていたからだ。

 「まだ遠い?」と男。

 男を励まし続ける女は、ここで天晴れな言葉を結んだのだ。

 「水が見えるわ。緑の草も」
 「早く行こう」

 男の性急な督促に、女はもっと天晴れな言葉を結んで見せた。

「ひと休みしてね。すぐに野原に出れるわ。眼は瞑っていて。朝日が眩しいから」

 このエピソードは、暗鬱な映像を救い切るメッセージをもたらせた。

 最後まで理性的自我を保持し得た女の、生来的な「胆力」の凄みを称えるべきなのか。

 「ワルシャワ蜂起」に理念系でのみ身を投入したとは思えない女の、その「胆力」を支え切ったのは、恐らく、男への深い情愛以外に考えられないのである。

 情愛は、しばしば「恐怖」を制圧してくれるのだ。

 深い情愛もまた、「情死」という概念が存在するように、「死」の「恐怖」を内側で抱え込み、同化させているからである。

 私は、この文脈によって、女の献身的行動が説明できると思っている。

 即ち、「特定他者」への深い情愛を身体化した女の献身的行動こそが、極限状況下で理性的自我を保持し得た心理的風景にあるものだと言っていい。

 そう思うのだ。

 そして、もう一人の人物。

 ザドラ中隊長である。

 一方、中隊を率いたザドラ中尉は、爆薬の炸裂によって犠牲者を出すことになったが、苦労して出口を見つけ、何とか街路に出ることに成功した。


ワルシャワ蜂起・撃破された軽駆逐戦車ヘッツァー(ウキ)
すっかり崩落したワルシャワの市街に出たクラ軍曹は、一人呟いた。

 「マリア様のお陰で・・・」

 この中隊の記録係は、生還できた喜びを神に感謝したのである。

 その余裕から、彼は先に市街に出た中尉に問いかけた。

 「中尉殿、ここはどこです?」

 厳しい表情を崩さぬザドラ中尉は、クラ軍曹の問いを無視した。

 彼には、中隊の他の部下たちの安否だけが気がかりなのだ。

 「残りはどうした?呼んでくれ」
 「助かった。外に出られた。行きましょうよ」

 ザドラ中尉の口調は厳しさを増した。

 「皆を呼べ、。行き過ぎたのかも」

 追い詰められたクラ軍曹は、意外にも正直に反応した。

 「後続はなしです。とっくに逸(はぐ)れて。後からついて来ると言ったのは嘘でした」

 自分の生還のみを考えたエゴイズムに、ザドラ中尉は激昂した。

 「この豚め!」

 そう叫ぶや否や、ザドラ中尉はクラ軍曹を射殺した。

 「我が中隊は・・・」

 そう呟きながら、地下水道の中に、この中隊長は戻って行った。

 これが、映像のラストシーン。

 この一連のザドラ中尉の行動を象徴するのは、「我が中隊は・・・」という呟きである。

 彼の行動原理は、明らかに中隊を率いる者の「使命感」であると言っていい。
 
 この「使命感」が、彼の「胆力」を補完し、その理性的自我を支え切ったのである。

 自我の中枢を支配する「強い使命感」は、しばしば、迫りくる「見えない敵」の「恐怖」を制圧してくれるのだ。

アンジェイ・ワイダ監督
深い情愛と同様に、「使命感」もまた、「死」の「恐怖」を内側で抱え込み、同化させているからである。

 思えば、「こんな最期なんて嫌だ。俺は生きるんだ」と、必死に呪文をかけることで「恐怖」を中和化しようとする男の如く、〈状況圧〉に呑まれないように、無理に言葉を吐き出す厖大な消費エネルギーを考えた場合、デイジーやザドラ中隊長の自我を支える「情感体系」(前者は「深い情愛」、後者は「強い使命感」)は、彼らの行動原理を十全に補完することによって、「自壊へのプロセス」を加速させるだけの、闇と汚濁の下水道を抜けていく「行軍」の中で消費される、厖大なエネルギーロスをミニマムに抑え切ることができたのではないか。

 だから、彼らは崩れなかったのだ。

 極限状況下での「未知なる恐怖」を制圧するには、この類の「情感体系」が如何に重要であるかということを教えてくれる人間ドラマだった。

 これが、本作に対する私の率直な感懐である。

(2010年8月)

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