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2010年7月27日火曜日

ウルガ('91)    ニキータ・ミハルコフ


モンゴル草原にて①・ブログより
<「全身遊牧民」としてのアイデンティティのルーツを確認する拠り所>



1  「内モンゴル自治区」という縛りの中で ―― プロット紹介



プロットを簡潔にまとめてておこう。

「内モンゴル自治区」 ―― そこは、中国の北方に位置する自治区である。

近年、豊富な石炭と天然ガス等の産出によって顕著な経済発展を遂げている「内モンゴル自治区」だが、草原の面積が全国の草原の4分の1というデータに象徴されるように、ユーラシア大陸奥深くに息づく、広大な草原と原始林を擁する遊牧民の世界も健在である。

本作の舞台は、近代文明と切れたかのような、この大草原の一画に点景の風景を彩り、遊牧民の生命線であるゲルの生活。

そこに広がる大草原の中枢に、馬上の男が長い棹を立て、自らの意志を表明した。

本来、馬を捕捉するための道具であるその棹の名は、ウルガ。

ウルガを持つゴンボ
ウルガを地面に立てる目的は、「『愛情交歓』の邪魔はするな、近寄るな」というシグナルで、遊牧民の生活風習である。

残念ながらその日、ウルガを地面に立てようとしても、男は妻にセックスを拒絶されてしまった。

男の名は、ゴンボ。妻の名は、パグマ。

拒絶理由は、中国の「一人っ子政策」の影響下で、3人までしか許可されない子供を既に儲けているので、パグマにとって、男とのセックスは合理的な避妊による方法以外に考えられないのだ。

そんな折、ゴンボは、鳥葬の風習にショックを受けたことから、トラックを河に突っ込んでしまって、助けを求めて叫ぶロシア人を助け、ゲルに泊め、厚遇した。

ロシア人の名は、セルゲイ。

ミハイル・ゴルバチョフ大統領の時代であるから、男が帰属する国民国家はソ連である。

叔父さんを大草原に鳥葬する風習や、客をもてなすための羊を殺し、血を抜く日常性を正視できず、思わず視線を逸らすセルゲイだったが、ゴンボの家族の素朴な振舞いに感激し、ゲル内での食事、飲酒の後、「音楽の才能があるの」と母に言われ、アコーディオンを奏でる長男の演奏に感嘆し、一家との絆を一夜にして深めていく。

その夜、ゴンボは妻に迫るが、またしても拒まれた。

妻のパグマは、夫のゴンボをゲルの外に出して、避妊具の必要を説くが、知識に欠けるゴンボは気乗りしない。

町育ちのパグマは、ゴンボにテレビ等の購買目的で都市への買い物を依頼したが、本当の理由は避妊具の購買にあった。

ゴンボとセルゲイによる、都市への二人旅。

ゴンボはテレビと自転車を買ったものの、結局、避妊具の購買を回避してしまうのだ。

ディスコでセルゲイが惹起した騒動を、ゴンボは友人を頼って収拾した後、帰途に就いた。

モンゴル草原にて・ブログより
大草原での仮眠の中で、ゴンボはチンギス・ハーンの夢を見た。

そのハーンから、電化製品を持ち、遊び感覚で自転車を乗り回すゴンボに対して、「遊牧民」という「生き方」が否定されるに至り、ゴンボはショックを受けるばかりだった。

それが、帰郷後のゴンボの憂鬱を決定付けたのである。

映像は、そんなゴンボの憂鬱を払拭させる、4人目の子供を儲けた事実を告げるナレーションの内に括られていった。



2  「全身遊牧民」としてのアイデンティティのルーツを確認する拠り所 ―― ゴンボのケース



この映画のテーマは、2つある。

一つは、近代文明とはおよそ疎遠なエリアに住む者たちにも、燎原の火のように広がる近代化のビッグウェーブとの折り合いの付け方である。

もう一つは、以上のテーマを含めて、変遷目まぐるしい時代状況下で、如何に自らのアィデンティティを確保し得るかという問題である。

内モンゴル自治区
共に主題を包括するステージは、中国北部の辺境の地「内モンゴル自治区」。

その辺境の地で大草原に抱かれて、そこだけがポツンと点景となっている一つのゲルに住むモンゴル人家族。

そのゲルの長たるゴンボが抱える悩みは、極めて形而下的問題。

中国共産党指導による「一人っ子政策」の縛りの中で、4人以上の子供を儲けられないというもの。

チンギス・ハーンを自己の精神的アイデンティティのルーツと考える、「全身遊牧民」であるゴンボは、チンギス・ハーンに倣って4人目の子供を切望するが、法の縛りの中で妻のパグマにセックスを拒絶されてしまうのだ。

セックスレスの状態に置かれた男の悩みを解決する方法は、唯一つ。

避妊具の使用である。

そのためには、コンドームを使用することが最も手っ取り早いのに、コンドームを使い方をも知らないだけでなく、それを都市に出て購買することを妻に求められても、恥ずかしくて買えないのだ。

彼は何と、遥か遠くに住むラマ僧にまで会いに行って、避妊具の使用の是非を問う始末。

パグマは、「全身遊牧民」としての夫の「オーパーツ」(時代遅れの遺物)ぶりに付いていけないのである。

そんな男が、妻に頼まれたテレビを買って、帰郷の途に就いた。

途中、自らの物理的アイデンティティのルーツである大草原の中枢で休んだ後、自転車を疾駆させ、故郷の空気を存分に吸って愉悦するゴンボ。

モンゴル草原にて・ブログより
そこで唐突に出会った、チンギス・ハーンの軍団。

チンギスの妻ボルテは、何と妻のパグマだった。

そこでの軍団との会話こそ、ゴンボの自我アイデンティティの拠り所を問うものだった。

以下、その会話。

「お前はモンゴル人か?」とチンギス・ハーン。
「当たり前だ」とゴンボ。
「馬はどうした?」
「向こうにいる」
「従軍か?」
「街にいたんだ」
「占領地か?」
「いや、テレビを買った」

そう言って、近くに置いてあるテレビを見せるゴンボ。

チンギス・ハーンの肖像(キ)
ところが、テレビに映る異民族の蛮行を見て、チンギス・ハーンはテレビの破壊を命令する。

運悪く、そこにトラックの故障を訴えるセルゲイが現れるが、彼のトラックも破壊のターゲットにされ、炎上してしまう。

結局、二人とも捕捉・虐待される始末。

ここでゴンボは、午睡から解放された。

衝撃を受けたゴンボは、夢から覚めても自我を安定できないのだ。

帰郷し、テレビを風力発電に繋いで小器用にセットし、それを家族団欒で観る中で、妻に避妊具の購買の有無を聞かれて、ゴンボは誤魔化すばかり。

「頼んだものを買ってきた?」
「いや。品切れだ」

これだけの会話だった。

しかし、眼には涙を溜めたゴンボが、そこにいた。

その直後、夫への配慮から、パグマは一人ゲルの外に出て、微笑みを返して夫を誘った。

喜び勇んで夫はそれに応じ、ウルガを立て、叫びを上げた。

これだけの物語だった。

しかし、物語が内包するテーマは普遍的であり、根源的である。

モンゴル相撲として有名なブフ(キ)
主人公のゴンボは、「全身遊牧民」としてのアイデンティティのルーツが、チンギス・ハーンであることを信じることによってしか近代文明との上手な折り合いをつけられないのである。

町の中枢を馬で疾駆する男には、「近代文明の快楽」はあまりに限定的なのだ。

いつしか夫婦関係に溝ができ、そのストレスが昂じてもなお、「全身遊牧民」であることを捨てられない男が、そこにいる。

なぜなら、彼はモンゴル人でありながら、中国共産党指導下の地である「内モンゴル自治区」に住んでいて、1979年に始まった中国の人口規制政策の縛りを受け、人間の自然な欲望の自然な発散・解消すらも儘(まま)ならないのだ。

「自分は一体、モンゴル人なのか?」

そう自問自答しても、可笑しくないのである。

まして彼は、「全身遊牧民」なのだ。

そんな彼にとって、「チンギス・ハーン」の存在とは単なる憧憬ではなく、「全身遊牧民」としてのアイデンティティのルーツを確認する拠り所であったのである。

町育ちの妻は、そんな夫を心底から愛らしく思いつつ、燎原の火のように広がる文明との最低限の折り合いをつけることの価値を、時間を要しても共有したいのである。

映像は、その可能性を示唆して閉じていった。

印象深いラストシーン。

ウルガを立てるゴンボの、天に弾けるような歓喜の叫び。

そのウルガを見て、アコーディオンの伴奏で、セルゲイはワルツを歌うのだ。

「こうして4人目が生まれた。私だ。この名は、チンギス・ハーンの幼名だ。両親が考えて名づけてくれた。父がウルガを立ててたところに、今では煙突がそびえたってしまった。私はそこで働いている。妻はもらったが、まだ子供はいない。私は旅行が好きだ。去年は妻とロシア人がいるバイカル湖へ行って来た。今度は、日本人と一緒にロスにいる日本人の所に行く。休暇を過ごすつもりだ」

4番目の子供を儲けたことを告げる回想のナレーションによって、ゴンボのアイデンティティが充分に確保されたのである。

モンゴルの国民行事・ナーダム祭り(ウキ)
以上が、主人公のゴンボの、「全身遊牧民」としてのアイデンティティのルーツに関わる言及である。



3  勤続顕彰を無価値とするほどに「魂のルーツ」を求められない男 ―― セルゲイのケース



次に、セルゲイのケースを見ていこう。

「内モンゴル自治区」で仕事するセルゲイにとっても、「ペレストロイカ」、「グラスノスチ」を基本政策としたゴルバチョフ時代の、変転する時代のうねりの中で、自らのアイデンティティを確保するのに苦労していた。

ゴンボと一緒に都会に出て、ディスコに入ったときに、友人を交えた会話がある。

以下の通り。

内モンゴルでの民族衣装・ブログより
「なぜ俺たちはこの国にいるのか?稼いだ金で物を買って、家に帰るためか?ロシアの道路は整備されたのか?小麦が余ったか?バカげている。国でまともに暮らすため、辺鄙なところで働くなんて。金ならあるんだ。でも故郷では。いくら汗水垂らして働いても、女房に粗末な箪笥(たんす)一つ買ってやれない。恥ずかしいよ」

そんなセルゲイの提起した根源的問題に、簡単に答えるのは容易ではない。

話を聞くセルゲイの友人は、ゴンボを意識した抽象的反応でお茶を濁した。

「彼(ゴンボ)には俺たちの魂が分るか?」

この反応に、セルゲイは尖って見せた。本気なのである。

「魂だと?どんな魂だと言うんだ。その魂を見せてやる。これが俺たちの魂だ。たかだか2元の安っぽい魂だ。何が魂だ!」

そう言い放ったセルゲイが取り出して見せたのが、「魂」の証左となるだろうソ連の勤続顕彰バッジ。

ソ連を象徴するレニングラード(サンクトペテルブルク・ウィキ)
それは、「ソビエト社会主義共和国連邦」という、1991年に解体された連邦国家の軍隊に長い間勤めたことを示す「名誉の勲章」だ。

しかし、「内モンゴル自治区」で仕事するセルゲイにとって、ソ連の勤続顕彰バッジは「名誉の勲章」などではなかった。

そんな物理的遺物の内に、己が自我が拠って立つアイデンティティが確保されないからだ。

更に彼は、友人から曽祖父の名前を聞かれて、答えられなかった。

セルゲイの顔から汗が吹き出して、激しく動揺し、反応すべき言葉を持ち得ない表情の困惑こそ、本作の主題を顕在化させる構図となったのである。

その表情を凝視するゴンボの表情のアップもまた、主題に深く関与する構図となったのは言うまでもない。

その直後のセルゲイの振舞いは、彼の心情を言い当てていただろう。

セルゲイは、唐突に上半身裸になり、背中に彫ったワルツの歌詞をバンドに教えて、有無を言わさず唄い出したのだ。

“ロシアよ、叫びが聞こぬか。懐かし母、若き妻。嘆き悲しみ”

そしてセルゲイは、「内モンゴル自治区」を管轄する漢民族の国家、中華人民共和国の警察官に捕捉され、ゴンボの孤軍奮闘の救出劇の内に収斂されていったのである。

勤続顕彰を無価値とするほどに「魂のルーツ」を求められない男には、「内モンゴル自治区」でのゴンボとの交流は心を癒すに足るものだった。

モンゴル草原にて・ブログより
二人とも異国に住み、労働するモンゴル人、ロシア人であったこと。

この冷厳な現実が、自我アイデンティティの拠り所を問い続けていた二人を最近接させたのだろう。



3  「余情」を置き土産にする映像の決定力



ニキータ・ミハルコフ監督は、「映画の嘘」を最大限活用して、訴求力の高い映像を構築する名人である。

複雑に交叉する人間の〈生〉の現実を精緻に把握し、一切の奇麗事を排してフィルムに焼き付ける能力に長けているからである。

当然、そこには〈生〉の現実が抱える脆弱性がしっかりと捕捉されていて、それが丹念に積み上げられたエピソードの累積を通して繋がれていくので、観終わった後の「余情」が記憶の襞(ひだ)に鮮烈に焼き付いて止まないのである。

ニキータ・ミハルコフ監督
その叙情的な作風が常に抑性的に機能しているので、そこには情感過多な感傷に流れることがないのだ。

ニキータ・ミハルコフ監督は、まさに、「余情」による表現力で勝負できる映像作家なのである。

本作が素晴らしいのは、ウルガを立てるラストシーンの叫びの内に映像総体を集約させることで、決定的な「余情」を置き土産にする映像を構築したからである。

あのワンシーンによって、自我アイデンティティを求める二人の男の、そこに至るまでの心の揺曳と振幅が悉(ことごと)く生命感を持ち得たのだ。

観る者の訴求力を高める映像を構築する名人が本領発揮したとき、一度観たら決して忘れることがない本作が置き土産にされたのである。

(2010年7月)

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