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2010年8月3日火曜日

Love Letter(‘95)    岩井俊二


<「グリーフワーク」という基幹テーマの内に、べったりと添えられた「感動譚」の洪水>




1  奇麗事満載の「純愛幻想」の「お伽話」



映画の最終的評価が「好みの問題」に落ち着くことを、否が応でも認知させてくれる典型例のような一篇。

その「好みの問題」で言えば、私の最も嫌悪する要素の詰まった表現作品が本作だったということ。

それ以外ではない。

「青春」を純化したエキスを、この国では特段の「商品価値」となる「繊細さ」に包み込んで、現実感を削り取らなければ成立しない嘘話のオンパレードの内に、小器用にまとめる技巧だけが「快走」することで、特段の「商品価値」を持つに至った「純愛幻想」の「お伽話」。

さすがに、ここまで奇麗事満載の「純愛幻想」の「お伽話」を観せられてしまうと、「評論」する気が失せるが、ここでは限りなく冷静な批評を心がけて言及してみたい。



2  「グリーフワーク」という基幹テーマの内に、べったりと添えられた「感動譚」の洪水




どう考えても、本作のテーマは、ヒロインである渡辺博子の人格を深々と呪縛する自我に張り付く原因子を、「グリーフワーク」に向けてソフトランディングさせていくプロセスと、その克服と再生を描くもの。

それは、以下のエピソードによって判然とするだろう。

渡辺博子と義母の会話である。

以下の通り。

「この写真、私に似てますか?」と博子。
「似てるかなあ。似てるとどうなんの?」と義母。

これには、若干の説明が必要だ。

3年前に山岳遭難事故で死んだフィアンセ、藤井樹(いつき)への追慕の念が強く、義母に見せてもらった「開かずの間」(樹の部屋)から持ち出した中学の卒業アルバムの写真。

その写真に写っている一人の女子中学生を、博子は指差したのだ。



冬の小樽(イメージ画像・ブログより
それ以前に、博子は樹の小樽(画像)時代の住所を発見していて、今は国道になっているその住所に手紙を出していた。

ところが、「天国に眠るフィアンセ」(以下、こう呼ぶ)に出した手紙の返事が来たのだ。

その手紙の主との往復書簡の中で、どうやら藤井樹の中学校の同級生の中に、同姓同名の女子がいることが判明し、博子は、「もう一人の藤井樹」(以下、こう呼ぶ)に対して手紙を送っていたのである。

博子にとって看過し難いのは、その「もう一人の藤井樹」が自分に瓜二つでないかと訝い、既に彼女に異性感情を抱く秋葉との小樽行きの中で、「もう一人の藤井樹」と偶然出会っていたという経緯を持っていた。

無論、その際には、「もう一人の藤井樹」が博子を特定できなかったが、しかしその相手こそ、博子が「天国に眠るフィアンセ」に出した手紙の受取人だったのである。

博子は文通の過程で、「天国に眠るフィアンセ」の中学時代の様子に多大な関心を持ち、「もう一人の藤井樹」に対して、今や、「二人の藤井樹」の関係の交流濃度を確認することを求めていくに至った。

要するに博子は、中学時代の「もう一人の藤井樹」に嫉妬感を覚えたのである。

これが、義母に対する発問の背景である。

ところが、信じ難いことに、義母は「もう一人の藤井樹」の存在について全く認知していなかった。

この辺の現実感の欠如は殆ど致命的だが、それは問わないことにしよう。

そのときの博子の反応は、以下の通り。

「似てると、許せないです。それが私を選んだ理由としたら・・・あの人、私に一目惚れだって、言ったんです。それを信じていたんです。でも、一目惚れには、一目惚れの訳があるですね」

「天国に眠るフィアンセ」が自分に一目惚れした理由は、「もう一人の藤井樹」の「代り」だったのではないか。

そう訝ったとき、人生で一番愛したはずの対象人格に対する、「無垢」で「シャイ」なイメージラインが、博子のの中で揺らいでしまったのである。

彼女は、「天国に眠るフィアンセ」によって支えられていた「簡単に消えない愛の残影」の在り処ばかりか、自らのアイデンティティの危機にも搦め捕られてしまったのだ。

それでも、「天国に眠るフィアンセ」の「非在の存在性」が支配する大きさが変らない思いを否認し得ないが故に、彼女は苦しむのである。

ともあれ、彼女の言葉で判然とするように、ここで彼女の自我を捕捉する心理は、3年前に山岳遭難事故で死んだフィアンセの「非在の存在性」の決定的な大きさである。


博子は、「天国に眠るフィアンセ」の「非在の存在性」の呪縛から解放されない中空状態の中で、新しい恋人(藤井樹の友人の秋葉)との関係構築に踏み切れない複雑な心理状態を顕在化させていた。

それは本作が、この「非在の存在性」の呪縛の大きさを露呈させる行動から開かれたことでも自明である。

「天国に眠るフィアンセ」に、「お元気ですか? 私は元気です」という手紙を送った行為それ自身が、彼女の自我の拠って立つ安寧の基盤の脆弱さを示したものだ。

「グリーフワーク」を自己完結していないからである。

そんな不安定な彼女の自我の様態が、この会話に繋がったのである。

彼女に異性感情を抱く秋葉の計らいによって、藤井樹が遭難した山に登ることになった。

当然、博子の心は激しく揺動する。

「グリーフワーク」の必要性を認知できても、そこに容易に踏み込めないのだ。

フィアンセが遭難した山に登るという行為は、充分に「喪の作業」に成り得るものだが、しかしそれは、彼女にとって「恐怖突入」と言っていい。

だから、身体が動かないのである。

それでも博子は登った。

秋葉の強力なサポートが介在されていたからだ。

秋葉もまた、覚悟を括っていたのである。

この機会を逃したら、二度と博子の心を解放系に戻し得ないと考えたからだろう。

博子と秋葉は、藤井樹の岳友だった男の山小屋に一泊した。

恐らく、この休息が博子の緊張著しい心を中和化した。

そこでの3人の会話の中で、博子は自己を思い切り開いたのである。

「彼(藤井樹のこと・筆者注)はどんな女の子が好きだったんでしょうか?」

未だそんな発問を、「もう一人の藤井樹」に要望していた博子の心を知り尽くす秋葉は、登山中に博子に迫っていくのだ。

「ふっ切らな、あかんねんて、博子ちゃん」

そんな彼女が、山小屋で吐露したのである。

「私ね、プロポーズしてもらえなかったんだよ、あの人に。ちゃんと手には指輪ケース握り締めているんだけど、あの人何も喋らないの。二人で2時間くらいかな、黙って夜景見ていて、そのうち何だか可哀想になって来ちゃって、仕方がないから、こっちから『結婚して下さい』って言ったの。そしたらあの人、一言、『いいよ』って・・・でも、皆良い思い出。良い思い出いっぱいもらったの。それなのに、まだ何か欲しがっちゃって。死んだ後まで追い駆けて、一杯おねだりするなんて、我が儘な女よ」

これだけで、「喪の作業」の半分が遂行されたと言っていい。

しかし、全てではない。

だから、彼女は「恐怖突入」を遂行せざるを得ないのだ。

翌朝のこと。

「お元気ですか! 私は元気です!」


彼女は、そう叫んだのだ。

藤井樹が遭難した山に向かって、繰り返し山に向かって彼女は叫び、最後に嗚咽したのである。

以上が、本作の基本構造である。

少なくとも、私にはそれ以外の把握は考えられなかった。

しかし本作の作り手は、ヒロインの「グリーフワーク」という基幹テーマの内に、物語をソフトランディングさせるだけでは面白くないようなのだ。

それ故、映像の律動感の均衡を壊しても、そこに「まだまだ、こんな感動譚が詰まっているぞ」という味付けをべったりと添えてくるのだ。

だから、とんでもない冗長な作品になってしまったのである。



3  伸ばされた物語の稜線によって剝落した、ヒロインの身体性と肉感性




前述した基幹ストーリーの内に、「もう一人の藤井樹」という同姓同名の、小樽の女性の話を濃密に絡ませ、そこから「天国に眠るフィアンセ」のキャラクターが不必要に紹介される、中学時代のエピソードが物語の稜線を伸ばしていく。(画像)

いつしか、「天国に眠るフィアンセ」を巡る二人の女性の、「純愛」に関わる物語がパラレルに進行することで、感動譚の奥行きを無秩序膨らませてしまうのである。

然るに、物語の中心が渡辺博子であることは、本作の基幹テーマが、彼女の「グリーフワーク」であることによって瞭然としている。

なぜなら、物語を根柢において支配していたのが、「グリーフワーク」に向かう彼女の心の振幅であるからだ。

「もう一人の藤井樹」のエピソードは、どこまでも、博子の心の振幅によって規定され、動かされていく役割を担っていたに過ぎなかった。

しかし「天国に眠るフィアンセ」の中学時代のエピソードを拾い上げていくにつれ、独立系のストーリーが立ち上げられていく。

それは、「観客を驚かせる」ことが映像作りの技巧の証左であると信じているか否か定かではないが、作り手にとって、この構成は当初からの狙いだったに違いない。

しかし、この独立系のストーリーの立ち上げによって、肝心の博子の「グリーフワーク」のプロセスが希釈化され、相対化されてしまったのだ。

そのことは、肝心の博子の心象風景の中枢がハレーションを惹起し、いつしか、その人格総体から生身の身体性と肉感性を白化させることで、固有の色彩感を剥落させていったことを意味するだろう。

この瑕疵は決定的である。

なぜなら、博子の「グリーフワーク」の現実感を削り取ってしまうからだ。

或いは作り手が、単に小器用に構成された技巧による成功に充足しているならば、それは初めから、テーマへの固執が欠落していたことを露呈するものと言っていい。

不必要な描写と、過剰な演出によって結実したと信じる感動譚の内実は、「美しきもの」に執拗に拘泥する取るに足らないファンタジーの嘘話によって、極めてフラットな奇麗事満載の「純愛幻想」の「お伽話」以上の何ものでもないだろう。

それは、単にハンカチを忍ばせて映画館に行くとというモチーフを抱懐する人たちの、その本来的な需要を満たすに足る充分な商品価値を保証したに違いない。

それもまた良い。

商品価値としての表現作品が、より多くの者に消費されるというビジネスラインにおいて成就したからだ。

ただ、私のような映像との付き合い方をする者にとっては、相当に不愉快で、不満の残る作品以外ではなかった。

映像の完成度を貶めるぎゅうぎゅう詰めの作品から奪われた、ヒロインの身体性と肉感性があまりに無残であり過ぎたからだ。

もう一度整理してみたい。

ラストシーンにおいて、「もう一人の藤井樹」が結局、同姓同名の藤井樹から思いを寄せられた事実を検証するエピソードが用意されていた。

しかし、彼女はこのエピソードを、神戸の渡辺博子に報告しなかった。

それを報告しても、物語が壊れてしまうことはないだろう。

既に渡辺博子は、彼女なりの「グリーフワーク」を自己完結させていたからである。

そのように明瞭なテーマを内包した映画であるにも関わらず、物語の稜線を広げてしまったために、冗長になり過ぎた瑕疵の根柢には、「美しきもの」に執拗に拘泥する取るに足らないファンタジーの嘘話を塗り込めたからだ。


なぜなら、彼女にとって登山行は、「天国に眠るフィアンセ」に関わる過去のリサーチの累積の果てに、「美しきもの」の「思い出」をより膨らませる類の心理によって自己を駆動させたのではない。

彼女にとって、どこまでも「非在の存在性」の支配力の大きさによって、「現在」という時間を一歩でも前に動かせない心的状況を克服したいという思いが根柢にあった。

それを、彼女の新しい恋人である秋葉は認知している。

だから彼は、彼女を強力にサポートした。

そして、叫びの現場に立ち会ったのだ。

そのような映画であったにも関わらず、テーマに重厚に関与しないような末梢的なエピソードを拾い上げ過ぎたことで、本作は単に、「青春」を純化したエキスを、この国では特段の「商品価値」となる「繊細さ」に包み込んで、現実感を削り取らなければ成立しない嘘話のオンパレードの内に小器用にまとめあげてしまったのである。

沖縄旅行のシークエンスが冗漫過ぎた「リリイ・シュシュのすべて」(2001年製作)を例に挙げるまでもなく、岩井俊二監督の多くの作品がそうであるように、この映画の中でも、過剰に冗長な表現癖が眼についてならなかった。

些か諄(くど)過ぎる言及だったが、それが本作に対する私なりの結論である。

(2010年8月)

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