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2010年9月13日月曜日

舞踏会の手帖('37)        ジュリアン・デュヴィヴィエ


<寡婦の自我を「恐怖突入」させることで、危惧を漸減する適応戦略についての物語>



1  「過去」に向かう女の「自分探しの旅」



年の離れた夫との夫婦生活の中で、もしこの若妻が、「自分にとって真の幸福とは何か」などという「人生の根源的問題」に深入りしたならば、愛情が一方通行で、物質的に満たされていただけの夫婦生活に深刻な破綻を来たす危機が出来したに違いない。

「私は恋を知らないの」(夫の秘書に語った言葉)

そんな思いを持ちながらも、とりあえず、表面的には平和で安定的な生活を確保していたであろう、クリスティーヌという名のその若妻は、自分の幸福に関わる「人生の根源的問題」に向き合う精神的態度を封印する以外になかったと思われる。

そんな若妻に、「不幸」が突如襲ってきた。

夫の死である。

夫の死によって、クリスティーヌは、内側の表層に封印してきた世界への自己投入を開いてしまったのである。

彼女は、真摯に自らの「現在」に向き合うことになったのだ。

「自分の『本来的幸福』は、一体どこにあるのか?」

「自分に残された長い人生を、有意義に過ごすにはどうしたらいいのか?」

そんな「人生の根源的問題」に、は対峙し、納得のいく答えを顕示せざるを得なくなったのである。

幸いにして、今や寡婦となったクリスティーヌは、齢36の若さ。

ほぼ、人生の折り返し点に達する程度の年齢である。

美貌も保たれている。

経済的な余裕もある。

しかし、肝心なものがない。

それを封印してきたからだ。

クリスティーヌ
その肝心なものを探すための旅に、クリスティーヌは打って出たのである。

今の言葉で言えば、「自分探しの旅」である。

「旧友がどう変わったのかを見てきます。失われた時を求めて・・・それと昔の愛も」

これも、亡夫の秘書に語った言葉。


彼女がそのために選択した手段は、かつて自分が最も純粋に輝いていたと信じる、青春期の心地良き思い出に立ち返ることだった。

16歳の初舞踏会の忘れ難いステージで、自分に恋を囁(ささや)いてくれた10人の男たち。

亡夫の秘書の調べで、既に2人は逝去し、「本命」のジェラールの行方は知らずとも、それでも彼女は、彼らの消息を求める旅に打って出たのである。

クリスティーヌは、「あるべき未来の自己」のイメージの契機を得るために、「過去」に向かったのだ。



2  「未来の自己の確かさ」への架橋という旅 ―― 「『懐古』としてのノスタルジア」という「時間の旅」の本質



「過去」に向かう彼女の旅は、そこに能動的なモチーフが媒介されていようとも、どうしてもノスタルジアの甘美で芳醇な香気によって、不快な臭気が無化されざるを得ないだろう。

ところで、そのノスタルジアには2種類ある。

「郷愁」と「懐古」である。

室生犀星
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」で有名な、室生犀星の「小景異情」(「抒情小曲集」)や、タルコフスキーの「ノスタルジア」(1983年製作)などは、故郷や母国への「郷愁」のイメージを包含すると言えるだろう。

また、成島東一郎監督による「青幻記 遠い日の母は美しく」(1973年製作)のノスタルジアの場合は、ある意味で、「恐怖突入」による「グリーフワーク」という中枢テーマを包含しつつ、映像の基幹ラインは「懐古」であると把握できようか。

そして、本作のノスタルジアの本質は、紛う方なく「懐古」であると言っていい。

ノスタルジアの厄介な点は、自己が回帰する過去の情報からネガティブな部分が巧妙に排除され、自我に張り付く心地良き情報だけが特定的に拾われるので、他者との交叉による特化された情報濃縮の「共有感覚」によって、「思い出」という名のイメージの親和感によって、しばしば顕著な記憶加工が為されてしまう「半ば無意識的な操作性」を削り切れないところにある。

そのノスタルジアの、甘美で芳醇な香気を内包させた「時間の旅」を、本作のヒロインは開いたのである。

この選択が、本作のヒロインの、彼女なりの問題意識を抱懐した起動点であると言っていい。

その心理的構造を本質的に言えば、こういう簡潔な文脈で把握し得るだろう。

「本来あるべき自己」と、「それを探す自己」が微分裂している状態を認知するが故に、彼女は「空洞感を感受する現在の自己」を起動点に、「本来あるべき自己」を見つけるための旅に打って出たということ。

それ以外ではないだろう。

それ故にこそ、彼女の旅は、そこに多分に感傷が張り付いていたとしても、単なる「懐古」趣味的なノスタルジアではないと言えるだろう。

それは、「観念の旅」という属性を内包させながらも、その観念の中枢に「実感的幸福感」=「持続的満足感」を与えるための全人格的な身体表現によって、自らを具象世界に自己投入したのである。

従って、それは「過去への旅」という性格を包含しながらも、「未来の自己の確かさ」への架橋という旅でもあったのだ。



3  「自分探しの旅」が終焉したとき



クリスティーヌが、自分の思いを吐露した会話がある。

クリスティーヌが訪ねた、「4人目の男」である山岳ガイドとの会話である。

以下の通り。

「なぜ、ここに来たの?」と山岳ガイド。

この問いに、クリスティーヌは正直な思いを吐露した。

「あなたではなく、自分の過去を尋ねて。未来を探すため・・・不安からよ」
「それで、見つかった?」と山岳ガイド。

この問いに対するクリスティーヌの答えも、率直なものだった。

「死者・・・生ける死者ばかり」
「待つ人は?」
「いないわ」

この会話で吐露されているように、クリスティーヌは「舞踏会の手帖」に記された、かつてのダンスパートナー(オークス馬にあらず)を訪ねる旅の中で、未だ、「本来あるべき自己」を見つけられてない心境を露呈しているのである。

「4人目の男」であるアルプスの山岳ガイドは、彼女に人生の再出発への思いを語るが、しかしクリスティーヌは、山を故郷にする男との共存の人生が不可能であると疾(と)うに認知していて、別れの言葉を残して去って行った。

「あなたは、山が奥様よ」

特段の思い入れもない別離の後も、彼女は旅を継続する。

既にそれまでの旅の中で、クリスティーヌは存分なまでに、「懐古」という名のノスタルジアの、甘美で芳醇な香気を内包させた「時間の旅」の幻想を味わっていた。

クリスティーヌの婚約を知って自殺した青年(「非在なる『1人目の男』」)と、その死を認知しない母親の狂気。

ギャングになった「2人目の男」には、「金の無心かと思った」と言われる始末。

更に、「2人目の男」が逮捕される現場の只中に、クリスティーヌは立ち合ってしまうのだ。

音楽家志望の年長の男(「3人目の男」)は、クリスティーヌとの苦い思い出(自ら作曲した曲を聴いてもらえず)故に絶望し、信仰の世界に入った顛末を聞かされるばかり。

そして、「4人目の男」である山岳ガイドとの空回りのエピソード。

今や県会議員となっていた男(「5人目の男」)と再会しても、性悪(しょうわる)の養子に手を焼き、子を持つ親の養育の困難さを一方的に見せつけられるだけ。

更に最悪なパターンは、「6人目の男」のケース。

仏領サイゴンで片目を失明した男に待ち受ける凄惨な人生の末路(?)には、あろうことか、クリスティーヌの訪問を機に、妻を射殺しようとするシーンが挿入される始末。

クリスティーヌの「自分探しの旅」は、終焉が近づいているにも関わらず、失意の連続だった。

彼女は、幻想を確認するためだけの旅に打って出たのか。

そんな彼女に、辛うじて救いが用意されたのは、パリで美容師をしていた男とのエピソード。

「7人目の男」である。

その「7人目の男」に案内された舞踏会会場は、16歳のクリスティーヌが記憶に留める、甘美で芳醇な香気を醸し出していた。

それだけだった。

かくて、幻想に帰した「自分探しの旅」が閉じられたのである。



4  寡婦の自我を「恐怖突入」させることで、危惧を漸減する適応戦略についての物語



もう訪ねる者がいないクリスティーヌは、コモ湖の自宅に帰って、嘆息するばかりだった。

以下は、そんな彼女が亡夫の秘書に語った言葉

「残ったのは手帳だけ。青春はもぬけの殻。後悔をしに旅したみたい。いい勉強をしたわ」

このときの亡夫の秘書の切り返しの一言は、人生経験の豊饒さを印象付けるものだった。

「過去のしがらみです。旅に出ねば、過去の亡霊に一生縛られていましたよ」

クリスティーヌの「自分探しの旅」を、冷静に受け止める亡夫の秘書は、彼女の前にとっておきの「プレゼント」を提示した。

クリスティーヌが本心から再会を望んでいたであろう、ジェラールの消息が判明したのである。

残念ながら、湖の対岸に住んでいたジェラールは逝去していたが、彼の遺児が元気に生きていることを知り、程なくクリスティーヌは、その遺児を養子に迎えるに至ることで映像は閉じていく。

「初めての舞踏会は少し緊張するけど、初めて煙草を吸う程度よ」とアドバイスして。

―― ともあれ映像の余情は、初見時よりも褪せた印象を残したが、ジュリアン・デュヴィヴィエ特有の叙情と冷厳な観察眼が溶融した佳作として、なお時代に耐える一定の普遍性を持ち得ていると言えるだろう。

以下、そんな本作を、簡潔にまとめてみよう。

クリスティーヌの「自分探しの旅」で出会った男たちの人生は、「非在なる『1人目の男』」、「2人目の男」、「6人目の男」のエピソードに象徴されているうように、常識では考えられない劇的要素に満ちていたが、何より本作を、単純に「リアリズム」の視座によって把握する作品ではないことを確認すべきであろう。

そこで描かれた男たちの人生は、世俗に溢れる様々な人生模様の象徴として集約されていると見るべきである。

従って、亡夫の秘書が端的に放った「旅に出ねば、過去の亡霊に一生縛られていましたよ」という言葉が包含する意味こそ、或いは、クリスティーヌの「自分探しの旅」の基幹テーマであるとも言えるのだ。

豊かであるとは言え、人生経験の不足する寡婦が後半生を能動的に生きるには、「懐古」的なノスタルジアを削り取る必要が存在したということである。

ジュリアン・デュヴィヴィエ監督
だから、この極めて仮構性の強い映像は、過去の亡霊に一生縛られる寡婦の幻想を、限りなく相対化・客観化するために、世俗に溢れる男たちの様々な人生模様のうちに寡婦の自我を「恐怖突入」させることで、彼女の後半生に潜む予想し難い危惧を漸減する適応戦略についての物語とも考えられるのである。

それが暗鬱な映像を希釈させるに足る救いであるかのように、本作ではヒロインに心地良き軟着点が用意されていたが、そこだけはリアリズムの視座で捉えるならば、彼女の後半生には、このような類の様々な人生模様との交叉が不可避であるという教訓を導き出すことが可能だろう。

その意味で、「本来あるべき自己」に到達するための、クリスティーヌの「自分探しの旅」は、決して無駄ではなかったのだ。

寧ろ、彼女が垣間見た様々な人生模様との濃密なクロスなしに、孤独に潜り込むことのない「開かれた後半生の旅」を構築していくなど思いも寄らないのである。

そんなことを、ジュリアン・デュヴィヴィエは言いたかったのかも知れない。

(2010年9月)

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