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2010年9月26日日曜日

大いなる幻影('37)           ジャン・ルノワール


<「騎士道精神」という「滅びの美学」の不必要なまでの叙情性>



1  「騎士道精神」という「滅びの美学」の不必要なまでの叙情性



「戦時下の敵味方を超えた人間愛を描いた反戦映画」という視座自体、既に「大いなる幻影」であると言いたいが、ジャン・ルノワールは、この「大いなる幻影」を信じて、本気で「敵味方を超えた人間愛を描いた反戦映画」を作っているのである。

それもまた、映画の力を信じる作り手の思いであるが故に、第一次世界大戦の前夜にあって、その足音を微かに聞き取ることができた末の堅固な問題意識であり、強烈な使命感であるのだろうか。

そんな問題意識と使命感だけは、本作から微かに拾い取ることができたのは事実。

但し、「第一次世界大戦まで、戦場には『騎士道精神』が広範囲に残存していた」という類のオーバートークだけは勘弁してもらいたい。

―― ここで、第一次世界大戦という、人類史上の画期を成す凄惨な歴史的事実を簡潔に要約してみる。

初期の多くの騎兵の勇猛な行動を見れば、第一次世界大戦がそれまでの戦争スタイルの延長上に開かれた事実を否定し難いだろう。

ガスマスクを着用し塹壕に隠れるオーストラリア兵
然るに戦争の形態は、この欧州戦争(後に、アジア、アフリカにも戦闘が拡大)の只中で変容する。

攻撃的兵器として機動力を駆使する戦車が登場し、潜水艦と飛行機などの未知なる精鋭兵器が前線を支配するに及んで、貴族階級に象徴される「騎士道」という古典的な戦争倫理観は、完全に安楽死の様態を呈してしまったのである。

未曾有の犠牲者を出した第一次世界大戦は、人類史の戦争観を根柢において変容させ、その後の戦争形態を決定づけたのだ。

必然的に、第一次世界大戦の渦中で、欧州各国は大量殺戮兵器の開発に血なまこになっていく。

戦争リアリズムの中で具現した画期的なイノベーションが、大量殺戮兵器の開発を可能にすることで、未曾有の犠牲者を増幅させるに至ったのである。

ところが、この著名な「名作」の中では、執拗なほど、貴族階級に象徴される「騎士道」精神の伝統的価値が強調されるのだ。

もっとも、「滅びの美学」という流れ方における伝統的価値の強調ではあったが、その辺りのシークエンスが映像総体の均衡感を崩し、「反戦」の理念系を敷延するモチーフを持つ作品のうちに、不必要なまでの叙情性がインスパイアーされてしまったこと。

それが気になるのだ。

貴族の出自の共通点のみによって、「生ける騎士道精神」の認知と、自壊の未来の確認を果たす仮構化された物語の設定は、もうそれだけで映像のリアリティを壊してしまっていると言わざるを得ないだろう。

そのエピソードのうちに、「敵」と「味方」という概念を超克する物語構成の甘さが垣間見えるのである。

因みに、実際のパイロットの殆どが貴族階級の人々で、「騎士道精神」を持って任務を遂行していたという話は事実。

確かに、この物語のようなエピソードが部分的に存在したであろうことを否定しないが、それを強調する物語の設定が充分に理念系であるということなのだ。

詰まる所、立場の異なる人々が理解し合うことこそが、世界から戦争を終焉させることのできる唯一の方法であり、それは不可能ではない。

これこそが、ジャン・ルノワールが考えた「大いなる幻影」だった

松山ロシア兵捕虜収容所の「ロシア人墓地」・ブログより
「捕虜は人道をもって取り扱うべし」(第二章 第4条)と規定したハーグ陸戦条約(1899年採択)を批准する以前から、日本においては、日露戦争(1904年)の際に、数万にのぼるロシア軍捕虜に対して、松山ロシア兵捕虜収容所で人道的な扱いを貫いた歴史的事実が語り草になっているが、それもまた、東條英機が布達した、「生きて虜囚の辱を受けず」という有名な「戦陣訓」(1941年)を例に出すまでもなく、「騎士道精神」の最後の輝きに近いと言える事例なのだ。

敵国同士の貴族出身の将校の奇妙な友情に張り付く、濃度の深いペシミズムのシークエンスの本質は、やはり「滅びの美学」という流れ方における、旧来の伝統的価値へのレクイエムとして処理する類のもの以上ではないということである。



2  第一次世界大戦の戦場合理主義の爛れを希釈化させた、「滅びの美学」をなぞる貴族階級のペシミズム



大体、戦闘シーンを欠落させることで「反戦」という理念系を表現するとき、そこでは物語の中枢を担う登場人物たちへの表現的造形性に肉薄する描写で勝負せざるを得ないだろう。

ところが本作では、その辺りの物語構成が決定的に脆弱なのだ。

それは、作り手の理念系が過剰に前のめりになっていたことと関連するだろう。

国家や人種、民族や階級の隔壁を超克して、相互に理解し合えれば、「戦争の基本的要件は無化させ得る」という稚拙で、あからさまなメッセージだけが浮き上がってしまうのだ。

従って、貴族階級出身の上官を巻き込んでまで、捕虜仲間たちが立場の違いを超え、脱獄を計画し、それを着々と遂行しながらも、それを描くシークエンスからは全く緊迫感が感じられないのである。

大体、「騎士道精神」の体現者である収容所長による手厚い保護が保証されていて、およそ理不尽で非人道的な待遇とは無縁な状況下であったにも拘らず、彼らはなぜ脱獄に向かうのだろうか。

「大いなる自由」への渇望なのか。

映像からは、その渇望感も伝わってこない。

他に為すべきこともないから、「脱獄ゲーム」を愉悦しているという印象しか受けないのだ。

要するに、ほのぼのとした筆致で描かれた、この物語の人間的交流の表現力において、観る者に相応の感銘を与える程度の、主題の構築に向き合う作り手の迸(ほとばし)るパワーが感じられないのだ。

映像構築力が弱いのである。

登場人物たちへの表現的造形性で勝負しながら、内面深く掘り下げられることのない映像の脆弱さは、結局、作り手の理念系の前傾姿勢が空転する演出の中で、程々に浄化される類のカタルシスを散らせただけで、本作には、そこから汲み取るべきメッセージの力動感を欠落させた印象だけが捨てられていた。

映像の中枢的なエピソードを繋ぐ描写の流れ方に、物語展開の律動感が決定的に削り取られた印象を受けるのは、そこに如何にも取ってつけたような「騎士道精神」賛歌と、潔い「滅びの美学」という類の不釣り合いなエピソードを張り付けてしまったからである。

ここに、それを象徴する短い会話がある。

敵味方に分かれた貴族同士の会話だ。

ドイツ軍人ラウフェンシュタイン大尉(左)とポアルディウ大尉
脱獄をサポートした仏軍大尉が、独軍の収容所長に打たれて息を引き取るシークエンスである。

「お詫びします」と独軍の収容所長。
「私こそ。フランスもドイツ人も義務は義務です」と仏軍大尉。
「痛みますか」
「腹に当たった、弾はひどく痛い」
「私は足を狙った」
「私は走っていた」
「私を庇わんで下さい・・・私の腕が未熟でした」
「私は終わる。が、あなたは終わらない」
「甲斐もない人生を引き摺って生きていくのです」
「人は戦死を恐ろしいと思う。あなたと私にとっては、良い解決です」
「私は死に損ねた」

その直後の仏軍大尉の死を看取って、心を痛める独軍の収容所長。

「私は死に損ねた」と呟く所長は、戦場で脊椎を損傷し、前線で戦闘を指揮できない致命的な障害を負っていた。

彼の精神世界には、貴族階級が時代を仕切る栄誉が終焉したというペシミズムが澱んでいて、その精神性において、同じ貴族階級を出自とする仏軍大尉との共有感覚を抱いていたのである。

しかし残念ながら、この類のエピソードの押し付けは、「ベルダンの地獄」と称された人類史上稀に見る惨禍であった第一次世界大戦のリアリズムを、相当程度希釈化させてしまっていた。

そして、ラストシーン近くでの、「国境を越えたラブロマンス」のエピソードの抑制がきかない甘さには、映像が構築的に作り出す「物語の芯」というものが完全に欠落していて、あまりにフラットなエピソード挿入に付き合い切れない遣り切れなさだけが印象付けられてしまったのだ。

結局このシーンも、あらゆる「境界」を超えた人間的交流の堅固な連帯感だけが、悲惨な戦争を回避する唯一の手段であるという、作り手の理念系が前のめりに疾駆した所産である。

それもまた一つの見識だから一向に構わないのだが、しかしそのような困難な主題性を映像化するには、そこに作り手の相当の覚悟と腕力が問われるだろう。

ジャン・ルノワール監督
即ち、映像構築力が全てを決定付けるのである。

最も重要なこの一点において、本作は単なる「傑作もどき」の凡作に終始してしまったのだ。

「国境なんて、人間の作ったものさ」
「何もかも終わるとい・・・戦争はもう止めて欲しいぜ。これを最後にな」
「君の幻影さ」

ラストシーンでの2人の脱獄者の、この短い会話の中に、作り手の問題意識が読み取れるが、彼らの追っ手である独兵の指揮官が放った、「撃つな、スイス領だ!」というラストカットの挿入によって、恐らく本作は、人道的ルールが支配する「反戦映画のバイブル」として語り継がれてきたのだろう。

そう思わせる括りだった。


(2010年9月)

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