1 防波堤に立つ黒衣の女の支配力
富豪の娘と婚約した男は、ある日、荒れ狂う防波堤に立つ黒衣の女に注意を呼び掛けるために、埠頭の先端まで走って行くが、女の鋭い視線を浴びただけだった。
しかし男は、黒衣の女の鋭い視線に一瞬にして捉われ、魅了されていく。
「フランス軍中尉」から捨てられた女は、人々から「悲劇さん」という仇名で呼ばれ、巷で蔑まれていたが、考古学者である件の男だけは女に惹かれ、いつしか彼女の身の上話を聞く間柄になっていく。
男の名はチャールズ。
19世紀のイングランドの地方の話である。
以下、黒衣の女サラの話の内実。
難破した船に乗っていた男を介抱し、その勇気に感動した女は、すぐに男の不実に気付きながら、ハンサムな男に惹かれていく。
まもなく、男は女に「港で一週間待つ」と言い残して、帰船の途に就こうとしていた。
しかし女は、胸を抉る寂しさに息が詰まりそうになり、男を追い、男の泊っていた如何わしい宿に出かけて行った。
男は女を一瞥して歓んだが、既に別人だった。
女は、男の優しい笑顔の裏に潜む不実を実感したのである。
女は結局、男の慰みものに過ぎなかったのだ。
女はそれを分っていながら、承知でそこに留まった。
女は本物の「はみ出し者」になった。
結婚に恵まれない運命(さだめ)の女は、「堕ちた女」というスティグマによって、自らの〈生〉を支えてきたのである。
世間の女たちと違って、夫や子供に縁がないが、それでも女には、彼女たちが知らない自由がある。
世間の非難など、一向に気にする必要などないのだ。
以上がサラの告白の内容だが、最後に彼女は言い切った。
「私は女のクズ。人間以下に成り果てた女。私は『フランス軍中尉』の妾です」
しかし、サラの話は嘘だった。
彼女は宿屋に行かなかったのだ。
途中まで行って、「フランス軍中尉」が如何わしい女と出て来る現場を視認して、その場で立ち去ったのだった。
「『フランス軍中尉』に捨てられた悲劇の女」を演じることで、サラはチャールズの気を引こうという戦略に打って出て成功したのである。
チャールズは、ロンドンへ発ったサラと、町の宿で初めて結ばれることで、漸く告白の真相を察知した。
女は処女だったのだ。
「あなたに愛された日の思い出で、私は充分よ。生きる力が出てくるわ」
そう言って、女は帰ろうとする男の手を握った。
サラはどこまでも、「『フランス軍中尉』に捨てられた悲劇の女」を演じることで、男の気を引くゲームを愉悦しているのか、それとも、自らが介抱した「フランス軍中尉」の不実を許せず、「至福に満たされた男」を狙い撃ちし、自分と同じ境遇に堕ちていく復讐劇をなぞっているのかは定かではないが、このときの女の精神が病理に捕捉されていた事実だけは否定し難いだろう。
更に不幸なのは、女のそんな手の込んだ「姦計」に引っ掛かって、チャールズという真面目な男が自らの幸福を捨ててまで、限りなく堕ちていく未来のイメージについては殆ど予想されたことだった。
防波堤に立つ黒衣の女の支配力は、その姿形を消すことによって決定付けられたかのようだった。
2 劇中劇の、ヒロイン探しの旅に同化した男優の迷妄の森
ここで、場面は現代に戻る。
以上の話は、恋愛映画製作の中の劇中劇だったのだ。
劇中劇の不条理劇をなぞるように、1980年の現代での映画製作の現実もまた、それぞれの役柄を演じる男女の不倫が浮遊していたのである。
サラに扮する女優のアンナは、チャールズに扮する男優のマイクとの不倫関係を形骸化しつつあって、出口の見えない性愛のゲームは如何にも発展性なき様態を晒していたが、二人の劇中劇への自己投入が俳優の内面をも包括し、いつしか劇中劇の虚構性とのボーダーを希薄にさせていった。
―― 一方、劇中劇の虚構の世界では、チャールズはサラに対する自分の思いを制御することが困難となり、遂に彼は、フィアンセに婚約の破棄を申し入れるに至った。
「私は君に値しない男だ。私の君に対する感情は不純だった。君の父上の財産に眼が眩んでいたんだ。恥ずべき男だ」
その場凌ぎの弁明を認めないフィアンセは、チャールズを追求するに及んで、正直に告白したのである。
その後のチャールズの行動の選択肢は限定的だった。
サラとの結婚以外の選択肢がないのである。
しかし、既に彼女はチャールズの前から姿を消してしまったのだ。
サラを探し続けるチャールズの困難な彷徨が開かれたが、全てを失った男の悲哀だけが時間の迷妄の中に置き去りにされたのである。
3年後、チャールズはサラから手紙を受け取った。
裏切られた思いを抱懐するチャールズは、富裕な家庭で絵画の家庭教師を務めているサラを責め立てた。
サラは、チャールズへの背徳行為を詫び、自分の正直な思いを吐露していく。
「あの頃の私はどうかしていたのです。心がいじけ、僻(ひが)んでいて、私は婚約しているあなたにつけ入った。恥ずべきことです。私たちの関係を壊すべきだと思ったのです」
サラの説明は、チャールズの誇りを深く傷つけるのに充分過ぎた。
「私を愛していなかったと!」
サラも反応する。
「違うわ。自分の生き方を探していたのよ。年月をかけて、やっと自分の自由を手に入れたんです」
「“自由”だと!?君は私の真剣な愛を平気で踏みにじった。私の胸にナイフを刺し、それを捻(ねじ)るのが君の“自由”か!」
チャールズは思い余って、女を押し倒した。
そこで少し冷静になって、女の言葉を聞き取る余裕を持ち得たのである。
「許しを乞いたいのです。あの時の愛が今もあるなら、私を許して下さい。私を罵るのは当然です。でも、もし愛があるなら・・・」
チャールズの内側に存分に溜められた憤怒の感情は、もうこの女の甘言のうちに呆気なく吸収されていったのである。
「分った。君を許す」
劇中劇のラストシーンは、二人がボートを漕いで、殆ど予定調和の律動感のうちに、湖面をゆったりと揺蕩(たゆた)っていく絵柄を描いいたもの。
そして、1980年の現代のラストシーン。
それは、チャールズに扮するマイクが、サラに扮するアンナへの愛をすっかり昂揚させながらも、ダブル不倫の現実の障壁の前で、自分の感情だけが前のめりになって、苛立ちばかりが募っていくのだ。
パーティの場から姿を消したアンナを求めて、マイクは必死に彼女を探し続ける。
「サラ!」
これが、アンナを求めるマイクが放った一言だった。
劇中劇のヒロイン探しの旅に同化した男優の迷妄の森が、いよいよ深まっていく括りだった。
3 現実の時間感覚を曖昧にする虚構の世界の推進力
現実とは、実に様々な虚構を拾い上げている包括的で実感的な時間感覚である。
カレル・ライス監督(右)と原作者のジョン・ファウルズ(左)・ブログ
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こうして虚構は、現実の中で重要なポジションを手に入れて、頼りなき現実の脆弱感を補強していくのだ。
虚構なしに現実は存在しないと言っていい。
虚構とは、「自在な想像力による観念の分泌物」である。
この「観念の分泌物」が、空疎な現実のうちに必要な熱量を供給することで、しばしば現実の亀裂を埋め、その崩壊感覚を巧みに救い出す。
虚構と現実の二重構造になっている映像は、虚構が供給する分泌物(物語)の蠱惑(こわく)的な自己運動の推進力によって、いつしか現実の不定形な自己運動に深く入り込み、それを仮構するようになっていた。
頼りなき脆弱な現実は、虚構が供給する物語の推進力に自らの律動感を合わせるようになっていく。
虚構と現実は、その境目が不分明になるほどに融合していくのだ。
二人の男女の俳優が演じる、虚構の世界の自己運動に引っ張られていくことで、キャラクターを演じる俳優の魂の中枢が、まるで吸い取られるようにして、虚構の分泌物のうちに、その誤差が不分明なほどに溶融していくのである。
劇中劇の蠱惑(こわく)的世界が、現実の時間感覚を曖昧にしていくことで、劇中劇を演じる俳優の実在感が仮構されていくとき、虚構によって補完される現実の自己運動が規定され、俳優の情感世界をも奪い取ってしまうのである。
「フランス軍中尉の女」という映画の骨子は前述した通りだが、防波堤に立ち竦む女の視線が男を捉えたとき、男の運命は決定されてしまった。
男はもう、この運命から逃れようもない振れ方を示していく。
3年後、全てを失った男が出会った女は許しを乞い、変らぬ思いを男に告げた。
男はそれを拒めない。
そこまで決定付けられた運命が、男の魂の中枢を支配するのだ。
「悲劇さん」と呼ばれた女が防波堤に立って放った視線は、その視線に嵌る男を特定的に拾い上げ、心を病んだ女の運命の向こうにまで連れていく。
男はそれを求めるようにして貪った挙句、紛う方なく破綻した。
男の選択的行動は、女の視線に捕捉された者の運命の奴隷と化して、「道行きの旅」に踏み込んでいくかのようだった。
そして、突然姿を消した女に翻弄され、流されていくだけだった。
この劇中劇が閉じる辺りでは、もう現実は虚構に舐め尽されていた。
男は虚構の世界をなぞるように、今また消えた現実の女を求めて、虚構の世界の女の名を叫ぶ。
映像はそこで閉じる。
ハロルド・ピンター |
2008年の暮れに逝去した、今は亡きハロルド・ピンターのシナリオもいい。
その6年前に逝去した、チェコスロバキア出身のカレル・ライスの演出もいい。
男と女を演じる著名な俳優もいい。
観る者に過剰な説明を省く映像は、もっといい。
観る者は、「物語」の解釈の了解点を、自らが納得し得る辺りにまで咀嚼(そしゃく)せねばならない。
その辺りが一番いい。
勝手に進んでいくキャラクターの独歩の速度と、そのキャラクターの情感に追い付いても解釈が間に合わない苛立ちの中で、いつも観る者だけが置き去りにされるよう映像だった。
虚構の世界の中で、最後に帳尻合わせの懺悔が捨てられていたが、それを鵜呑みにできない不条理感が何よりいい。
そんな映画だった。
(2010年9月)
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