<「緩やかな権力関係」の形成と自壊の構造 ―― 「ペレストロイカ」という名の文化革命の振れ方の中で>
1 選択肢の幅を広げてしまう当惑と恐怖 ―― 私権と自由の幅の拡大的定着のアポリア
自由を大幅に制限する特殊な国家に呼吸を繋ぐ人々にとって、その状況を特段に疑問視することがない時代の海と睦み合うとき、そこに住む人々にとって、それはごく普通の社会の、ごく普通の時代が延長されているとしか思わないだろう。
自由とはどこまでも相対的であり、実感的なものでしかないからだ。
ところが、その特殊な国家の為政者が「上からの革命」という強い問題意識によって、人々の自由の制限枠を許容臨界点まで取り外す社会を構築したならば、そこに社会の劇的な変動を伴う、〈固有の時代性〉の〈固有の相貌〉が歴史に記述されることになるだろう。
そんな状況下にあって、私権と自由の幅を相対的に拡大する社会を歓迎する者たちにとって、そんな時代との睦みの中で、それぞれの身体表現を限りなく謳歌し、愉悦していくに違いない。
私権と自由の幅の拡大的定着は、彼らの欲望の稜線を、彼ら自身がより懇望していた方向に伸ばし切っていくはずである。
然るに、自由が制限された社会の有りように特段の疑問視をする者たちにとって、私権と自由の幅の拡大的定着は、それまで経験したことのない未知の世界に誘導されることによって、或る者は戸惑い、立ち竦み、恐怖すら覚えるかも知れない。
なぜなら、私権の自由の幅の拡大を得ることのメリットよりも、そこで失われるだろうデメリットのほうが、彼らにとって看過し難い現実として直面するからだ。
そこで失われるデメリットとは、自分の意志によって、それまで決定することのなかった選択肢の幅を広げてしまうからである。
国家機関が決定した制度の枠に、ごく普通に従っていた関係性が反故にされ、言わば、上意下達的に手に入れた私権と自由の幅の拡大的定着によって、自律的に選択せねばならない状況に置かれることは、ある意味で、それに馴致していない者にとっては苦痛でしかないかも知れないのだ。
ジャン=ポール・サルトル |
2 「緩やかな権力関係」の形成と自壊の構造 ―― 「ペレストロイカ」という名の文化革命の振れ方の中で
本作で描かれた二人の相反する人物造形は、前二者の典型例とも言えるだろう。
自由の幅の拡大によって、欲望の稜線を限りなく伸ばすことで、その破滅的な人生を包括する芸術表現活動が西側の世界に認知されることで、自らの職業的成功を達成するに至った「サックス奏者の自由人」(以下、「芸術家」)。
ところが、自由を制限された社会に対して特段の不満を抱くことなしに遣り過ごしてきた、勤勉で安月給の「タクシードライバー」にとって、己が自我の拠って立つ安寧の基盤であった、体制的秩序の変容という現実の到来がもたらす心理的インパクトの内実は、そこに普通の感覚で馴致するには、極めて難しい時代の姿形とのコンタクトを露呈するものでしかなかった。
秩序の変容への適応に苦労する、武骨で不器用な「タクシードライバー」は、その現実の只中で、なお自分の生き方を変えることなしに、ルーチンワークと化したハードな筋トレと、ごく普通のレベルで発散する欲望処理を繋いできたにも拘らず、本来的におよそクロスの余地のない、前者の「芸術家」との奇妙な出会いによって、件の男との「奇妙な共存関係」(その本質は、「緩やかな権力関係」)が生まれるに至る。
タクシー料金を払わない「芸術家」との共存は、件の男へのペナルティの意味を持つ「緩やかな権力関係」の様相を呈することで、音楽への無理解による劣等意識を封印することを可能にしたのである。
「インテリなんか、前は何も言えなかったんだ。急に威張りくさって、説教まで垂れやがる。牛や馬のように働けば、人間らしくなる」
これは、「タクシードライバー」が「芸術家」を「弟子」と呼び、強制的に労働させるときの説教。
然るに、「サックス奏者の自由人」を自称する「芸術家」にとって、労働させられることは屈辱的なことだった。
それでも金欠を常態化する「芸術家」は、「タクシードライバー」に泣きつくばかり。
「苛酷な労働」の挙句、遂に神経を病む「芸術家」がそこにいた。
「俺は自由人なんだ。芸術家なんだ。お前らは皆ゴミだよ!」
「芸術家」はそんな叫びを放って、モスクワの地下鉄の車両内で上半身裸になり、終いには、全裸で夜の街を暴れ回る始末。
「芸術家」が、この不埒な行動を身体化したのは、女の前で、サックス奏者の超絶的技巧を見せる「芸術家」に対する「タクシードライバー」の嫉妬によって、サックスを半壊された腹いせでもあった。
そんな厄介な「芸術家」を、警察から引き取る「タクシードライバー」。
「もう少し、君の所に置いてくれ」
かくて、「芸術家」と「タクシードライバー」の間に形成された「緩やかな権力関係」がピークアウトに達したとき、劇的な変化が出来した。
アメリカからやって来た著名なサックス奏者によって、「芸術家」の才能が認知され、プロとしての活動機会を与えられることで、「芸術家」の生活が一変するに至ったのである。
まさに、アメリカン・ドリームの現出だった。
そしてそれは、「芸術家」と「タクシードライバー」の間に形成された、「奇妙な共存関係」にも似た、「緩やかな権力関係」が自壊する現実を意味したのである。
それは、「芸術家」の成功によって、「タクシードライバー」の中で封印されてきた音楽への劣等意識が顕在化すると同時に、「芸術家」の権威を加速的に高めることによって、それまでの「緩やかな権力関係」は呆気なく破綻していくに至るのだ。
冷戦下での敵国であったアメリカ本国での「芸術家」の成功と、その逆輸入に象徴されるように、社会の空気が劇的に変容していったのである。
自由を謳歌する空気がモスクワの街を蔓延し、「タクシードライバー」の仲間までが「西側」の歌を合唱し、和やかな連帯感を作り出したのである。
しかし、武骨で不器用な「タクシードライバー」だけは、その空気に自己投入できないのだ。
「タクシードライバー」は矢庭に立ち上がって、「西側」の歌を合唱する和やかな空気を切り裂いた。
「俺の歌はこれだ。“俺たちは敵に囲まれたが、絶対に降伏しなかった。運命を甘んじて受けよう。乗ってる船に穴を開けた”」
愛国者の思いを存分に乗せて、男は「ソ連」への郷愁を、辺りかまわず喚き立てた挙句、暴れ出したのだ。
モスクワのテレビモニターの大型画面に映る、「芸術家」の成功の雄姿を仰ぎ見る、件の「タクシードライバー」が立ち竦む姿は、本作の基本的主題を決定的に構図化したものだった。
この二人の関係の劇的な変化を作り上げた、「ペレストロイカ」という名の「上からの革命」は、この構図のうちに全て手集約されると言える。
作り手は、自らが造形した「芸術家」と「タクシードライバー」の二人に不均衡な思い入れをすることなく、社会が大きく変動する時代性の中で、そこに関わる者の喜怒哀楽を些か類型的になりながらも、深みを持った人間ドラマとして構築し得たのだ。
「ペレストロイカ」なしに生まれなかった本作に漲(みなぎ)る生命の律動感は、変わりゆく大都市の爛れの様態をも念写して、ほぼ一級の社会派の人間ドラマに結晶させたのである。
顔が青白く、働くことをしない怠惰な若者や、ドラッグやセックスに耽溺する無数の男女。
そして、高層ビルが放射するネオンの眩さの中で、「ファシスト」呼ばわりしながらも、「タクシードライバー」は、ひたすら自らの身体を痛めつけ、必要以上に筋肉質のアンドロイドに改造させていくかの如き一連の描写は、まさに、男にとって自分が拠って立つ価値を守る唯一の防衛戦略であるかのようだった。
パーヴェル・ルンギン監督 |
―― 本稿の最後に、「芸術家」と「タクシードライバー」という、対極的に類型化された二人の関係を心理学的に要約してみよう。
「金」を媒介にして形成された二人の「緩やかな権力関係」は、サックス奏者としての成功によって「金」の問題が解決されることで自壊するに至った。
元々、権力関係に固執しない「芸術家」が権威を一気に高めることで、その権威に対する「自我関与効果」(注1)を持つ「タクシードライバー」は、「反映過程」(注2)の心理学をなぞるように、自己評価維持の格好のモデルでもあった。
しかし「タクシードライバー」は、自分を特別に扱わない(ダッチロールのプレゼントに象徴)「芸術家」に対する「自我関与効果」が反故にされ、「反映過程」の心理が自壊することで、既に失った権力関係への拘泥によって、「芸術家」への暴力的リベンジを果たそうとするが惨めに頓挫し、二人の関係の距離感は、その価値観において、本来そうであったような埋められない落差の関係の辺りにまで戻ってしまったのである。
(注1)自分が関与するものに対して、特段に感情が高まっていく心理。
(注2)他者との心理的距離が近ければ近いほど、他者の成功が自分の評価を上げるので、他者の成功を誇りたくなる心理。
(2010年9月)
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