<「父に迫る息子、頭を抱える父」から「縋りつく息子、受容する父」への変容>
1 「古き良き時代」の映画の範疇を逸脱しない健全さ
誰が観ても分りやすいシリアスな映画が、量産された時代があった。
主題も、それに対する答えも同時に表現される「映像」に馴染んだ時代があったのだ。
「フィフティーズ」(「古き良きアメリカ」の原点と言われる、1950年代のアメリカ文化)の時代の只中で作られた本作もまた、その例外ではない。
戦勝気分も手伝って、人々が押し並べて裕福な生活を渇望し、家族のために消費することが社会の安定に直結するという「家族主義の時代」である「フィフティーズ」は、同時に、「暴力教室」(1955年製作)や、本作で描かれた「青春の反抗」をも分娩したゴールデンエイジでもあった。
エルヴィス・プレスリー等によるロックンロールを生み出した、件のゴールデンエイジは、リーバイ・ストラウス社のジーンズと、軍人経由のスーベニアジャケットによるファッションで「武装」=自己主張する、華やかなりし若者文化の先駆でもあったのだ。
エルヴィス・プレスリー |
2 「父親不在」を象徴するシークエンスとしてのファーストシーン
本作の主題は、「フィフティーズ」を特徴づける「家族主義の時代」下にあって、「家族主義」の欠損の典型的様態である「父親不在」である。
その「父親不在」を象徴するシークエンスがある。
ファーストシーンである。
某警察署内に3人の高校生がいる。
一人は、真っ赤な口紅をつけ、赤いコートに身を包んだ少女。
名前はジュデイー。
夜間外出の故に、警察に保護された少女である。
「私の何もかも気に入らないのよ。汚らわしい不良娘ですって。実の父親が」
少年課の刑事の質問に、ジュデイーが答える。
「本気だと思うか?」と刑事。
「ノー」
そう答えた後、ジュデイーは言葉を繋ぐ。
「本気でないにしても、そんな顔つきでした。一家で揃って復活祭に行く予定でした。私は無理して新しい服を着ました。すると、父が私を捕まえて、口紅をこすり落としました。それで家出を」
しかし、刑事が少女から聞いた住所に電話して、父親に来てもらおうとしても、母親が来ることを知って、更に少女は怒りの感情を露わにするばかりだった。
2人目は、子犬を銃で殺した罪で補導された少年。
名前はプレイトー。
両親の不仲で、母は家を出て精神を病み、父親も帰って来ることがない家庭環境下にある少年だ。
今は広い自宅で、送付されてくる養育費によって、黒人のお手伝いさんに面倒を見てもらっている。
少年課の刑事に全く心を開くことなく、不貞腐れた態度をを見せるのだ。
拳銃を自分の手元に置いているという事態こそ、この少年の屈折した心情を説明するものだった。
ジム(左)と父 |
泥酔で補導されたジムは、刑事に家族のことを聞かれ、少年はそこだけは明瞭に答えた。
「パパは僕も好きなことは好きなんですよ。だから苦しませたくないけど、死ぬしか道はなさそうだ。パパにママを殴る勇気があったら、却ってママも幸福になる。皆がバカにして、パパを小突き回してる。あんな人にはなりたくないんだ。あんな家じゃ、育たないよ」
実の息子にここまで言われた当の本人は、部屋の外で、耳を澄ましてこの話を聞いているが、簡易的な取り調べが終わって、息子が部屋から出て来ても、不問に付すという態度に終始していた。
以上、3人の高校生の非行の実態をフォローするファーストシーンこそ、本作の主題である、「父親不在」を象徴するシークエンスであったと言えるだろう。
3 「父に迫る息子、頭を抱える父」から「縋りつく息子、受容する父」への変容
物語の展開が、「理由なき反抗」を具現化していく中で、本作の主題である、「父親不在」を象徴する会話がある。
本作の主人公であるジム少年と、この息子から、「苦しませたくないけど、死ぬしか道はなさそうだ」とまで言われた父親との会話である。
「ヒヨッコ」と罵られたら、「売られた喧嘩は買う」しかないというのが、不良少年ジムの「ルール」なのだ。
しかし父親との会話の時点で、本人はチキンレースの詳細についての情報を持っていなかった。
そんなジムが、思い余って、父親に相談したのである。
「あることをしなければならない時、あるところに行き、あることをする。しないと名誉に関わることになる。そんなときは、どうしたらいいのです?」
既に、不良学生のリーダーと喧嘩済みの息子のシャツに血痕を視認した父の反応は、ここでも曖昧なものだった。
「そういう問題に、すぐ答えろというのは無理だ。考えて分らないときは、誰かに相談する」
息子は、父親の日和見的な反応に満足せず、憤怒の思いを吐き出した。
「男になるためだ。はっきり答えてくれ!」
命の遣り取りを覚悟している息子の心情が、この一言に込められていた。
逃げられない父親と、追い詰める息子の緊迫した構図が、そこに生まれた。
「お前は一番良い年頃だ。10年経つと分る」
「今、知りたいんです!」
「お前が考えていることは、実にバカげたことだ。年を取って、今を振り返れば、可笑しくなるさ。そんなに真剣に悩んだことが。悩むのはお前だけじゃない。誰しもだ」
日和見的な反応を重ねる父親の態度に嫌気がさして、息子は怒り狂ったように外に飛び出した。
「決闘」に向かったのだ。
「決闘」とは、海岸の崖の上で、不良学生のリーダーとジムの二人が車を並走させて、崖に車が転落する前に車外に飛び出すという、文字通りのチキンレースだった。
この「決闘」の結果、不良学生のリーダーはチキンレースにしくじって、海へ飛び込み、落命してしまった。
危ういチキンレースから生還したジムの衝撃は、甚大だった。
ジムは再び、父親に向かっていく。
「お父さん。今度だけは答えて下さい!困っているんです!」
今度は縋るような心情が、息子の心を支配していた。
その傍らには、少年の母もいた。
ジムは、チキンレースと崖の事故の話を、正直に吐露したのだ。
「僕もいた。盗んだ車で競争したんです」
「まあ、私たちに恥をかかせるんですか?」
母はそう言った後、夫に向かって不満をぶつけた。
「なぜ、止めなかったんです?」
「ママは駄目だな」とジム。
「命を賭けて、この子を産んだのに」と母。
今度は父に向かって、息子は自分の思いを語っていく。
「名誉に関わる問題って言いましたね。ひよっこと呼ばれた。臆病のことです。だから、行った。行かないと、皆に二度と顔向けできないから・・・僕は間違ったことばかりして、いつも騒ぎを起こしてきました。今度もこんなことになってしまった。勇気があることを見せるなんて、くだらないことだ。考えていることと、やることとが・・・」
息子の話に耳を傾けていた父親は、事態を穏便に済まそうとして本音を吐いた。
しかし、父の言葉に憤怒した息子は、それを遮った。
「警察に知らせてきます」
「バカ正直はよせ。誰の為にそんなことをする!」と父。
「自分のためです!」と息子。
「行っては駄目よ。なぜ、お前だけが罪を着るの?」と母。
「僕の責任だ!皆の責任だ!」と息子。
「もう少し大人になると分る」と父。
「そんなのは、分りたくない!どうすべきか、早く答えて下さい!」
父に迫る息子。
頭を抱える父。
突然、息子は父の胸倉を掴み、「立つんだ!」と叫んで、て床に押し倒したのだ。
父親の首を絞めた後、その手を放して、息子はそのまま家を出て行った。
その後の物語の展開は、悲劇への行程だった。
簡単に書いておこう。
ジムを含むファーストシーンの3人(ジュディ、プレイトー)が空き家に籠り、警察への密告を恐れた不良学生の連中が、彼らを追って、空き家内で直接対決するに至るが、既に恋愛関係に発展していたジムとジュディは、プレイトーと離れて一室で睦み合っていた。
置き去りにされたと決め付けたプレイトーは、不良学生たちと対峙していたのである。
プレイトーは自宅から持ち出した拳銃で、彼らの一人を撃ったが、空き家を包囲する警察網の存在を知ったジムは、恨みを抱かれたプレイトーから拳銃を向けられ、一発の銃丸を放たれた。
完全に常軌を逸していたプレイトーを制止しようとしたジムの行為も実らず、プレイトーは警官に射殺されるに至ったのである。
全てを失って嘆き悲しむジムが、そこにいた。
彼は思わず父親に縋りついた。
縋りついて来た息子を受容する父。
「今度こそ、私を頼りにしなさい。どうなろうと、二人で戦おう。私が傍にいるぞ。お前が望み通り、強くなって見せる」
これが、息子を抱く父親が、映像の中で初めて放った覚悟の言葉。
「父親不在」をテーマにする物語は、このカットを刻んで閉じられた。
4 「敵対物」の仮構によって鍛えられる、通過儀礼としての青春の輝き
以下、本稿のテーマを包括しつつ、「人生論的映画評論」に即した言及をしていく。
(なお、以下の内容は、「心の風景」等に書いた拙稿を、ピックアップして要約したものをベースに加筆した文章である)
―― 青春の輝きは「敵」の強大な権力に比例し、しかもほどほどに強大であるほど増していく。
そして「敵」は、常に実体性と具体性を持たねばなならない。
「敵」の存在が抽象化するほど、青春は輝きを失うのだ。
このことは、青春にとって最初の「敵」が「親」であり、「教師」であることを考えれば了解し得るだろう。
そもそも、「敵」とは何か。
異質な価値観を持ち、その存在によって、己が自我の安定的秩序を崩してしまう不安を抱かせる存在それ自身である。
その意味で、青春の最初の「敵」は青春それ自身と言っていいだろう。
思春期のテストステロンなどの男性ホルモンの分泌によって、青春は自分の中に全く異質の現象のうねりを経験し、しばしばそれに翻弄され、突き上げられ、名状し難い恐れや不安、時めきや感動、と言った過剰な衝動に動かされるのである。
内なる攻撃性を感覚的に認知したとき、既に青春は独自の航跡を描き始めているのだ。
青春の衝動とは、その体内に、これまでのそれとは別の自我が胚胎することによって起こる、ある種の生物学的必然性の帰結であるだろう。
青春の最初の「敵」は、まさに自分自身なのである。
やがてその新しい生命の展開は、その展開に驚き、しばしば怯懦(きょうだ)する周囲の大人たちの抑圧に阻まれるという、殆ど原則的な展開に立ち会うに至るであろう。
青春は、その展開の直接的な対峙者である親たちの存在に、第二の「敵」を見出すことになるのだ。
ここで青春は、自らの自我の支配の枠組みを超えて、「法治下の社会」という未知なる世界に飛び出していく。
「敵」の存在が、今度は社会の中で再発見されていくのだ。
その世界での青春の彷徨は、新たなる敵との遭遇でもあると言っていい。
それらは、時とともに様変わりするが、常に程々に強大であることによって、青春を鍛え上げていくのである。
前者の尖りは青春そのものの尖りであり、未だ固まっていない漂泊する青春が、その内側に蓄えてきた熱量が噴き上がっていくときの、「怒りのナルシズム」である。
それは、青春が初めて、その怒りを身体化させていくに足る頃合いの敵と出会って、そこで仮構された前線で展開される、一種ゲーム感覚の銃撃戦を消費する快楽であるだろう。
従ってそれは、そこで分娩された快楽を存分に味わっていく過程で、自我を固有な形に彫像していく運動に収斂されていくので、その運動が極端に社会規範を逸脱しない限り、一種の通過儀礼としての一定の社会的認知を享受すると言っていい。
青春を鍛えるには、それが鍛えられるに相応しい「敵対物」が求められるからである。
「敵対物」の存在しない青春ほど、哀れを極めるものはないのだ。
漂泊する青春を過剰に把握し、その浮薄なる「既得権」を必要以上に守る社会が一番駄目なのである。
5 分りやすい映画の、分りやすいテーマの、分りやすい括りが記録されていた、「古き良き文化」の一つの結晶
以上の把握を踏まえるとき、本作の主人公が自己の成長の故に、父親に「敵対物の存在」を求め、それが叶わず、地団駄を踏んだ振舞いを身体表現した心理は理解できるものだったと言える。
彼は自己のリアルな青春の日々に、それが鍛えられるに相応しい、「敵対物の存在」を切望したのである。
その「敵対物の存在」の価値を身体表現しなかった時間を延長させたとき、彼はダイレクトに外部世界の只中に、「敵対物の存在」を闇雲に求め、体内熱量の全てを外化していったのだ。
「お父さん。今度だけは答えて下さい!困っているんです!」
チキンレースで不良のライバルを事故死させた贖罪意識が、少年を精神的に追い込んでいく。
少年は、もう父親に正直に吐露する外になくなったのだ。
それでも、息子に対峙できない父親。
「息子の壁」とも言うべき、良き「敵対物の存在」に昇り切れない父親の日和見的な反応に対して、少年は頭を抱える父の胸倉を掴み、「立つんだ!」と叫んで、て床に押し倒したのだ。
父親の首を絞めた後、その手を放して、息子はそのまま家を出て行ったのである。
更に、「父親不在」を常態下させていた、もう一人の少年の死という悲劇が惹起したのは、その直後だった。
全てを失って嘆き悲しむ少年が、思わず父親に縋りついたとき、初めて「息子を受容する父」の構図が映像に提示されたていた。
「ここまで追い込まれなければ、『父親不在』を超克できないのか」
本作の作り手の、憤怒にも似たそんな声高の叫びが聞こえてきそうな、スモールサイズだが、恐らくそれ以外にない閉じ方に流れていったのは、まさに本作のテーマの所在を、あまりに平易な構図のうちに結ぶためであったに違いない。
分りやすい映画の、分りやすいテーマの、分りやすい括りによってしか、観る者に「共感的理解」を提示できないと考えていた時代の、「古き良き文化」の一つの結晶が、そこに記録されていた。
(2010年10月)
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