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2010年10月9日土曜日

ベティ・ブルー 愛と激情の日々('83)       ジャン=ジャック・ベネックス


<対象人格の包容力によってもカバーできない、「ディストレス」による破壊的衝動の暴発>



1  「損得原理」で武装できない幼児的自我と共存する人格像



映像の基本骨格とも言えるベティのキャラクターは、「愛と激情の日々」版(122分)の、冒頭の25分間の中で余すところなく提示されている。

海辺のバンガローの一つを借りて生活するゾーグは、突然出現した奔放な少女ベティと意気投合し、セックスに明け暮れる日々を耽溺する。

「一週間前、ベティと出会い、毎日セックスした。嵐の前触れだった」(冒頭でのゾーグのモノローグ)

海辺のバンガローの家主にセックスを覗かれたことから不満を持ったベティは、数百軒分のペンキ塗りの仕事を請け負った事実を知らずに、一軒目のペンキ塗りに必死に取り組み、完遂させた満足感で、二人でポーズを決めて記念撮影した。

ところが、再び家主が現われ、請け負った仕事の実状を知って、ベティは大暴れするのだ。

「見るがいい。これが返事よ。車に化粧したわ」

家主の車に、ペンキを吹き掛けたのである。

このシーンで重要なのは、請け負った仕事の実状を知らせなかったゾーグに対してではなく、家賃代りに仕事を請け負わせた家主に対して怒りをぶつけたことにある。

そして、怒りをぶつける手段が、車にペンキを塗るという直接行使であったこと。

このベティの直接行使の心理的背景にあるのは、セックスを覗かれた家主に対する遺恨によって形成された「生理的嫌悪感」と、一軒のバンガローのペンキ塗りの作業を完遂させた「共有的達成感」や、自己満足感が台無しにされたという感情的反発であると言えるだろう。

「イカレてる!」と捨て台詞を残して去って行った家主への感情的反発が、今度はその作業の概要を説明しなかったゾーグに向けられていく。

直接的には、大人の対応を結べないベティに対する、ゾーグの不満の吐露が契機となったが、そのことがベティの逆ギレを生み、感情爆発を噴き上げていったのだ。

「男は皆、ロクデナシよ。殺してやる!あんな男に媚びへつらって、あなたの才能は、一体何なの?」
「人間は皆、同じだ!僕らも妥協が必要だ!愛の巣を失いたくない」
「哀れな男!」

ベティはこう叫んで、ゾーグのバンガローにある家財を外に捨ててしまうのだ。

このシークエンスでのベティの行動原理は、極めて単純であることが分る。

彼女の行動原理は、明らかに、「損得原理」による現実原則的な振舞いよりも、遥かに、「快不快の原理」を起動点にする幼児的行為であることが判然とするのである。

そこには、「今」、「自分が抱える不快感情」に対して、ストレートに反応する性格傾向が露呈されている。

そして興味深いのは、そんな彼女の感情爆発が、「一つの発見」によって簡単に収拾されてしまうという行動傾向である。

即ち、今まで誰にも見せたことのないゾーグの小説の原稿を発見したベティが、それに関心を持ち、一気に完読した挙句、「あなたは才能があるわ」と絶賛するや、劇的な感情変容のうちに自己完結するという件(くだり)である。

ベティ(右)とゾーグ
要するに、ベティは自分の感情に対して率直に反応し過ぎるのだ。

この行動原理は、自我の未成熟を検証する幼児的性向以外ではない。

未だに、「損得原理」で武装できない幼児的自我と共存する人格像が露わにされているのである。

ゾーグの未発表の小説の発見によって感情爆発が収まってしまうのは、ご馳走を出されて機嫌が良くなる子供の発想と同じであると言っていい。

私たちはこのような性格傾向を持つ大人に対して、時には、「純粋」・「純心」などという形容を付与するが、ベティのケースもまた、それに当て嵌まるだろう。

「ベティは僕の最初の読者だった。沈黙が訪れた。僕は30歳にしてようやく、幸福の味わいを知った」(ゾーグのモノローグ)

ところが、ベティの感情爆発は、この海辺のバンガローにあって、遂にピークアウトに達してしまうのだ。

三度(みたび)、家主がゾーグのバンガローにやって来て、殆ど予約されたかのようなベティとの直接対決が開かれた。

彼女は家主を二階から突き落としたばかりか、あろうことか、ゾーグのバンガローに火を点けて全焼させてしまったのだ。

ジャン・ジャック・ベネックス監督
ベティとゾーグが濃密に共存した海辺のバンガローの生活は、こうして閉じていったのである。



2  自己に向かう破壊的衝動が炸裂したとき



どうやらベティという女は、「生理的嫌悪感」を惹起させる対象人格・対象行為に対しては、破壊的衝動しか起こらないようなのだ。

「生理的嫌悪感」を惹起させる対象人格・対象行為に対する彼女の破壊的衝動を象徴する「事件」は、海辺のバンガローを立ち去って、ベティの友人の恋人が経営するピザ店でアルバイトする渦中で惹起した。

客へのホスピタリティに著しく欠けるベティの対応に、些か感情的なクレームを付ける女性客の腕を、彼女はフォークで突き刺してしまったのである。

そして極め付けは、ゾーグの小説に辛辣な批評を加えた編集長の自宅を訪ね、彼を罵ったばかりか、挙句の果ては、相手の男の顔を傷つける始末だった。

まさに、「快不快の原理」を起動点にして、「今」、「自分が抱える不快感情」にストレートに反応する性格傾向を保有する、19歳の「少女」がそこにいた。

そして、殆ど「自己基準」で動く「純粋さ」・「純心さ」を持つが故に、その悲劇的な青春の自壊が予想される物語が開かれ、一気に加速していくのである。

「君と生きることが僕の生きがいだ」

失意の中にあっても、ゾーグはベティに対する深い情愛をもって包括していた。

ゾーグとの子供を儲けることを切望していたベティに届いた、一通の通知書。

妊娠検査の通知書である。

結果は陰性だった。

ベティの受けた衝撃は、彼女の自我を切り裂き、彼女から「日常性」を奪っていった。

対象人格・対象行為に対する彼女の破壊的衝動が、「愛する男の子を産めない不幸なる女」という自己像に結びついたとき、その破壊の矛先は自らに向かっていくのだ。

自分の眼を抉る女。

廃人化した彼女は、精神病院に強制入院するに至る。

置き去りにされたゾーグは、悩み抜いた末、彼女を窒息死させた。

最も愛する者を自分の手で死なせるに至ったゾーグは、再び小説を書き始めた。

作家としての成功の見込みがつき始めた彼は、恐らく、ベティとの短いが、濃密な愛情を交歓した日々をモチーフにした小説を書くだろう。

それ以外に、30歳を過ぎた男が、「第二の人生」を立ち上げていく強靭なメンタリティを継続するのは難しいと思われるほどに、ベティと共有した時間の重量感は絶大だったのである。



3  対象人格の包容力によってもカバーできない、「ディストレス」による破壊的衝動の暴発



このようなキャラクターの主が、このような状況に捕捉されれば、恐らく、このような振れ方をするだろうという流れ方によって、映像は閉じていった。

ここでは、この流れ方を心理分析してみよう。

ベティの固有の欲望が〈状況圧〉と顕著なミスマッチを惹起させたとき、当然、そこにストレスが溜まる。

そのストレスは、彼女の場合、「ディストレス」になるだろう。

因みに「ディストレス」とは、人間の「耐性獲得」にとって有益なストレスである「ユーストレス」の対語であり、自我がストレスを合理的に処理できない有害なストレスのこと。

ベティの場合、ストレスを貯蓄する「ストレス瓶」が、ごく普通の人々のサイズと比較して相当程度小さいから、そこからストレスが洩れる状態になっているのだ。

絶えず、彼女の「ストレス瓶」は飽和点に達しているのである。

だからほんの少しのストレスでも、彼女には「ディストレス」になってしまうのだ。

ここで言う「ストレス瓶」とは、自我による抑制系の機能の証となる「不快情報の処理システム」。

育ちの悪さからか、それともDNAに由来するのか、「ディストレス」を惹起させるストレッサーが外部因子なら、その対象人格・対象行為に対して、本来的な彼女の攻撃性は一気に増強し、破壊的衝動の暴発を身体化するのだ。

ところが、その対象人格・対象行為が外部因子になく、自己の内側に求められることが認知されるとき、彼女は自らをも破壊の対象にしてしまうのである。

その自傷行為こそ、破壊的衝動の暴発を抑制できない彼女の自我の有りようであった。

結局、短期爆発的に振れていく彼女の生き方が、自らにフィットした柔和な対象人格への激しい愛と、その包容力に支えられている限り、破壊的衝動の暴発を抑制できていたが、その包容力によってもカバーできない「ディストレス」(この場合、妊娠反応の陰性のこと)に捕捉されたとき、彼女はもう自壊に向かう以外になかったのである。

一方、「ゾーグの再生」の可能性によって閉じていった、インパクトのあるこの映像は、一人前の作家として立ち上げるには、この程度の困難な体験が不可避であるというメッセージを提示したのであろう。

そういう映画として、私は本作を把握したい。

(2010年10月)

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