<「昼間意識」の「光」の世界と、「夜間意識」の「闇」の世界を交叉させた絵画的構図の表現力の達成点>
1 「狂気感覚」、「夢幻意識」、「夜間意識」等によって構成される「異界」の世界
「俗界」 ―― それは「俗世間」を意味する「聖界」の反意語だが、同時に「異界」の反意語でもある。
通常、私たちが呼吸を繋ぐ「俗界」の世界は、意識主体を包括し、囲繞するファクターによって構成されている。
それらは、「日常性」、「規範性」、「遵法性」、そして「生命・自我の安定的継続性」であるだろう。
これらのファクターが、普段は取り立てて気にも留めないのは、私たちの「俗界」の世界に特段の亀裂が生じていないからである。
ところが、一旦、そこに看過し難い亀裂が生じ、それを日常的に意識せざるを得ない状況に拉致されたとき、私たちの「生命・自我の安定的継続性」が、それを支えるのに足るほどの熱量を枯渇させることで、「日常性」を構成する「正気感覚」、「覚醒意識」、「昼間意識」などが加速的に希釈化してしまうのだ。
私たちはそのとき、私たちが呼吸を繋ぐ「俗界」の世界とは切れた価値観や環境と交叉し、しばしばその世界の蠱惑(こわく)的な求心力に吸い寄せられて、それまでの「日常性」を支えた「規範性」の形骸化のうちに、一気に「狂気感覚」、「夢幻意識」、「夜間意識」等によって構成される「異界」の世界に潜入してしまうことがある。
通常、私たちが呼吸を繋ぐことがない「異界」の世界とは、「非日常性」、「脱規範性」、「脱法性」、そして「生命・自我の非安定的刹那性」であるだろう。
由々しきことは、「異界」の世界との接続を濃密にすればするほど、その世界が、実は私たちの自我が拠って立つ通常の、安定的な「俗界」の世界と「隣接」している現実に気付かされることだ。
「異界」の世界への躙(にじ)り口を視界に収めなかった私たちが、「異界」の世界との見えにくい「隣接」の現実に気付かされることで、それを内部世界の奥深くに封印していた真実の様態を露わにするのである。
それを視界に収めなかった所以は、「生命・自我の安定的継続性」を保証するが故に、私たちが呼吸を繋ぐ「俗界」の世界を捨てる必要がなかったからだ。
隔離施設に収容される必要がないとは言え、重度な「脊髄損傷」という厄介な疾病に捕捉されていて、「絶対依存」の生活を余儀なくされる私自身もまた、現実社会の中の「異界」の住人であることを自覚している。
それは、かつて想像しなかった世界であり、「生命・自我の安定的継続性」の亀裂を常態化している怖さの中に、「非日常」の生活様態を晒している。
そのことを思うとき、現実社会の中の「異界」には、ネガティブで、脱出不能の「閉塞的世界」と、蠱惑(こわく)的な求心力を内包する「魔境」に大別することが可能であると思われる。
さて、本作のこと。
本作で描かれた「異界」は、脱出不能の「閉塞的世界」の性格を持つと同時に、それ以上に、蠱惑(こわく)的な求心力を内包する「魔境」によって支配されていたと言えるだろう。
ジェフリー(左)とフランク(右) |
2 「小さな健全な田舎町の日常の下に隠されたもの、人々の心の奥に隠されたものについての映画」
「ブレードランナーの未来世紀 〈映画の見方〉がわかる本 80年代アメリカ映画カルト・ムービー篇」 (町山智浩/著 洋泉社)によると、作り手のデヴィッド・リンチ監督は、本作を映像化するに際して、3つのモチーフが存在することを明かしている。
それは、ボビー・ヴィントンの歌う「ブルーベルベット」であり、女性の部屋への覗きの欲望であり、そして、空き地に落ちた耳のイメージであるということ。
この3つのモチーフが「異界」への切符であると、デヴィッド・リンチ監督は語るのだ。
また前掲書で、彼はこうも言っている。
「これは、小さな健全な田舎町の日常の下に隠されたもの、人々の心の奥に隠されたものについての映画だ」
デヴィッド・リンチ監督 |
本作の主人公である大学生のジェフリーは、まさに彼自身の分身であった。
「ベルベットが柔毛に覆われた子宮の壁のメタファー」と分析したのは、前掲書の著者である町山智浩。
恐らく、間違った分析ではない。
本作の主人公であるジェフリーは、日常性に特段の破綻が生じていないのに、「耳の一件」の一件から「異界」の世界に踏み込んでいった。
ジェフリーが女性歌手ドロシーの部屋に忍び込んだのは、紛れもなく、作り手のモチーフにあった、覗き趣味の欲求実現の具現であるだろう。
なぜなら、ジェフリーという誠実な青年の人格造形には、前述したように、デヴィッド・リンチ監督の青春期の想念が反映されているからである。
ともあれ、「恐怖突入」する怖さも手伝ってか、ジェフリーはガールフレンドのサンディを共犯者にする必要があった。
まだその時点では、好奇心の延長だったからだ。
要するに、「俗界」のフラットな「日常性」、「規範性」、「遵法性」のルールの内側で呼吸を繋いでいた主人公の大学生には、「耳の一件」によって触発されるに充分な「異界」への好奇心があったのだと言っていい。
それは多分に、「俗界」のフラットな「日常性」への退屈感であっただろう。
覗き趣味の欲求のレベルという「異界」への好奇心だったが、一旦開いた未知の世界への大胆な行動が、自分の身を危険に晒す事態を予知しつつも、その行動を抑制できない欲求が、本作の主人公に存在していたということだ。
3 「魔境」と、「脱出不能」の「閉塞的世界」としての「異界」からの解放へ
「人生には知識や経験を積む機会がある。時には、危険を冒すのもいい」
これは、野原で拾った耳をサンディの父親である刑事に届けた後、そのサンディに放った言葉。
全ては、ここから開かれたのだ。
ドロシー(左)とジェフリー(右) |
それこそが、ジェフリーの潜在的願望の具現とも取れるような、心の振れ幅の変容を顕在化していく。
それは、後に「私たち同類ね」とまでドロシーに言われるほどの変容だった。
一方、ジェフリーの「恐怖突入」の共犯者に仕立てたサンディは、学生の暇を潰すに足る好奇心の発動の範疇を、遥かに超えた事態の推移に戸惑い、置き去りにされていくのだ。
遂に事件の真相を確信したジェフリーとサンディとの、印象的な会話がある。
事件の真相を突き止めたジェフリーは、サンディに思わず洩らした。
「全く変な世界だよ。なぜ、あんな男が野放しになっている?」
フランク(左)とドロシー(右) |
そんな危険な世界に踏み込んでしまったジェフリーに対して、サンディが滔々と、しかし思いを込めながらゆっくりと語ったのは、相も変わらず、「異界」とは無縁な少女的感性を延長させるロマンチックな文脈だった。
「夢を見たわ。夢の中に私たちの世界があったわ。暗い世界だった。コマドリがいないからよ。コマドリは恋愛を表すの。そして、長い長い間、暗闇の世界が続いたの。ところが突然、何千羽というコマドリが放たれて、愛の光をもって舞い降りて来たの。恋愛だけが、暗い世界を変えられるのよ。明るい世界に。だから私は、コマドリが来るまで待つの」
愉悦の表情を崩さないで吐露した、ジェフリーへの愛の告白である。
「君って面白いね」
「あなたも」
ドロシー |
然るに、好奇心旺盛な若者が「異界」に踏み込んでいく物語の終焉は、至ってシンプルな流れ方だった。
ドロシー宅を訪れたジェフリーがフランクに見つかったことで、アウトローのフランクたちの格好のサンドバッグ代わりにされたが、一連の危機を脱したジェフリーが、麻薬取引でフランクと関係を持つ殺人課の腐敗刑事の犯罪を含めて、サンディの父に報告し、最後は、死体と化した腐敗刑事から奪った拳銃で、ジェフリーがフランクを銃殺して、ほぼ予定調和の大団円。
息子を取り戻したドロシーもまた、「脱出不能」の「閉塞的世界」としての「異界」から、やがて全人格的に解放されていくであろうカットが挿入されて、一応はハッピーエンドの括りとなった。
4 「昼間意識」の「光」の世界と、「夜間意識」の「闇」の世界を交叉させた絵画的構図の表現力の達成点
ドロシー |
以下、冒頭で流された「ブルーベルベット」の歌詞。
女のドレスは青いベルベット
夜より青いベルベット
星の光より柔らかい
サテンの肌触り
女のドレスは青いベルベット
瞳より青いベルベット
5月の陽よりも 温かな愛の吐息
固く抱きしめたあの胸
狂おしく燃えたあの恋
炎の如く輝いたあの瞬間
だが 女は去った
光も失せた青いベルベット
けれど 心にいつまでも残る あの温かな愛の思い出
好奇心旺盛な若者が踏み込んでいった「異界」の世界は、そこでダブルバインド状況に捕縛された女との 「蜜の味」を愉悦する、蠱惑的な求心力を内包する「魔境」の世界だった。
「俗界」のフラットな「日常性」、「規範性」、「遵法性」のルールの内側で呼吸を繋いでいた若者は、「正気感覚」、「覚醒意識」、「昼間意識」の「光」の世界から、「狂気感覚」、「夢幻意識」、「夜間意識」等によって構成される「闇」の世界に潜入してしまったのである。
冥闇(めいあん)の「異界」である、「闇」の世界の恐怖に触れた若者は、「生命・自我の非安定的刹那性」の本質に最近接したことで、「闇」を内包する世界の現実について充分に学習したのだ。
充分に学習した若者は、蠱惑的な求心力を内包する「魔境」の世界に隣接する、「脱出不能」の「閉塞的世界」としての、「異界」という「闇」の世界の洗礼によっても自我を壊されなかった強さを検証したが故に、「日常性」という「光」の世界(「俗界」)に帰還したとき、それはもう、「異界」を潜(くぐ)った者だけが知る「人生」のフィールドの広さと複雑さに対して、「書生っぽ」の屁理屈や感傷過多なアンチテーゼが殆ど無効である現実を経験した分だけ、未知のベールを剥ぎ取って、そこに何かが突き抜けたかのような成長を遂げたと言えるのだろう。
耳を媒介に踏み込んだ「異界」から帰還したのもまた、耳という迷宮の象徴からの媒体だった。
更に、暗い世界を変容させるに足る、「愛の光」の象徴であるコマドリが虫を啄むラストシーンが示唆するイメージは、「非日常性」、「脱規範性」、「脱法性」を内包する「異界」という「闇」の世界が、私たちが呼吸を繋ぐ「俗界」の世界と地続きであるという現実の提示であったに違いない。
「雲ひとつない青空、その下には白いフェンス、真っ赤なバラ。
ファーストシーンの青と白の夢のようなコントラスト」(前掲書)等々の色彩の対比効果は、ワシントン美術大学で絵画を習得した、画家志望のデヴィッド・リンチ監督の映像色彩への拘泥を示していて、架空(ランバートンはテキサス州の町)だが、静寂な町に潜む「異界」で炸裂する倒錯的エロス(「マミー」と叫びつつ、ガス吸入器を使ってまで女を犯す殺人鬼の「狂気」等)と、アンダーグラウンドの世界の表現に芸術的均衡を担保したと言えるだろう。
「昼間意識」の「光」の世界と、「夜間意識」の「闇」の世界を交叉させた絵画的構図の表現力の成功によって、本作は極めて高い完成度に達した一篇となった。
(2010年11月)
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