1 自分で運命を切り開く男の英雄伝説の第一歩
T.E.ロレンスの自伝(「知恵の七柱」)で書かれたロレンス像とどこまで重なり合っているか定かでないが、明らかにデイヴィッド・リーン監督は、本作の主人公を「英雄譚」として描き切っていない。
何より、その辺りが私の興味を引くところなので、本稿では、映像の中の主人公の「心の風景」に言及したい。
自己顕示欲と自己有能感、加えて鼻っ柱も強いこの男は、この時代の大英帝国の英軍将校が、ごく普通に武装し得た冷厳なリアリズムの域に届くことすらなかったが、持前の行動力によって、周囲を煙に巻く「変人性」において際立っていた。
そんな「変人」が「アラブに生まれたということは、辛い思いをしろということだ」(ハウェイタット族の長、アウダの言葉)と言わしめた、苛酷なる砂漠の世界の懐の只中に、情報将校として踏み込んでいった挙句、アラブの部族の信頼を得るに至ったのは、自分の部隊に所属するベドウィン族のガシムを奇跡的に救出する冒険行によってだった。
ロレンスのガシム救出の冒険行を、「ガシムはもう死んだ。彼の死は運命」と言い放ったベドウィン族のアリと、「運命などない」と毅然と答えるロレンスとの差異は、苛酷なる砂漠の世界に生きる者の「自然の掟」に対する受容度の違いである。
アラブ人を率いて、艱難(かんなん)なネフド砂漠を横断し、オスマン帝国の支配下にある港湾都市のアカバ攻略への行軍中に惹起した事態だった。
「偉大な人間は、自分で運命を切り開く」
これは、ガシム救出の成功後、アリから贈られた称賛の言葉。
そのアリからアラブ民族の伝統の白い装束を贈られ、それを身に纏(まと)う男が、そこにいた。
後に、毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする「伝説の英雄」、「アラビアのロレンス」という「風のヒーロー」を立ち上げた瞬間である。
然るに、この冒険行を貫徹し得たのは、机上の学問を広汎に会得しながらも、未だ実感的に砂漠の恐怖の本質にまで届き得なかった男の無謀さであると言っていい。
しかしアラブの民が、男の無謀さを「類稀な勇敢さ」と解釈することで、英雄伝説の第一歩が開かれていったのだ。
2 男の自我に張り付く虚栄の被膜を突き破る一撃
「アラビアのロレンス」となった男の、権力的な英軍将校らしくない振舞いは、「類稀な勇敢さ」を憧憬する砂漠の民たちから尊敬されるに至った。
そして、「類稀な勇敢さ」をフル稼働させたアカバ陥落。
この奇跡的快挙によって、男の英雄伝説は極点に達する。
新任の英軍司令官のアレンビー将軍に、その功績が讃えられ、男は軍人階級のステップを上り詰めていく。
しかし、人生は甘くない。
情報将校という任務から、ゲリラ軍の指導者という任務に格上げされた男は、既に人生の本当の厳しさを充分に学習して来なかったツケを払わされることになるのだ。
オスマントルコ軍に捕捉された挙句,凌辱されてしまうのである。(「レイプ事件」は、後に作り話であったという指摘あり)
「私は普通の人間だった。楽をしたい。私は分った。平凡な生活が幸福だと」
これは、「アラビアのロレンス」を継続することに「重荷」を感じる男が、同志のアリに吐露したときの言葉。
それは、内向性を共存させる男の自我の片鱗を窺わせるものと言っていい。
更に男は、「アラビアのロレンス」を演じることを放棄する旨を、司令官に直訴したのだ。
「平凡な勤務に就きたいので転属願いを出したんです」
「気でも触れたのか」とアレンビー将軍。
「気は確かです」
「何が望みなんだ?」
「普通の人間として生きたいいんです」
彼の英雄願望は、既に崩壊しかかっているのだ。
帰国を希望する男を、大英帝国の英軍司令官が許諾する訳がなかった。
オスマントルコ軍にゲリラ戦を仕掛ける、「アラビアのロレンス」としての利用価値が、なお継続していたのである。
「彼の中では感情が衝突している。1人は怒っているし、もう1人は強引だ」
「アラビアのロレンス」という「英雄譚」を世界に配信した、従軍記者のベントリーに、そう語ったのは、外交官のドライデン顧問。
因みに、このベントリーが、ロレンスの事故死の葬儀で、生前のロレンスを称して、「恥知らずな自己宣伝家」と陰口をたたいた張本人。
ロレンス(左)を拷問にかけ、もてあそぶオスマン軍の将軍(中央)
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それは、男の自我に張り付く虚栄の被膜を突き破る一撃になったようだった。
3 溢れる情感系のアナーキー性を物語る抑制機構の脆弱さ
男は既に、未知のゾーンに搦(から)め捕られてしまっていた。
ロレンスの部隊から犠牲者が出るに及び、彼は本来の任務とは無縁な、常軌を逸した暴力の稜線を開いてしまうのだ。
男の命による、残留トルコ兵への大虐殺である。
「皆殺しだ。捕虜はいらん」
男は、自軍の部隊にそう命じたのだ。
ダマスカス進軍の途中で出来した、特定の村への大量虐殺。
この忌まわしき事件によって炙り出されたのは、冷厳なリアリズムを貫徹できない無計画性と、自分が担う使命の本質から逸脱してしまう自己統制力の脆弱さであった。
犠牲者の血にべっとりと濡れたナイフを右手に持ち、立ち竦む男。
「汚れた英雄だ」
ベントリー記者によって吐き捨てられた言葉の対象人格こそ、件の記者が、その「英雄譚」を世界に配信した「アラビアのロレンス」その人である。
「英雄譚」幻想のピークアウトに達した感のある、「アラビアのロレンス」による、このサディスティックな行為の心理的背景には、トルコ軍の司令官による凄惨な恥辱という蛮行が横臥(おうが)しているだろう。
恐らく、男は一貫して自己をコントロールできないのだ。
この抑制機構の脆弱さが、男の気紛れや、溢れる情感系のアナーキー性を物語っているのだろう。
このとき、冷徹な映像が捉えた男のアップの表情には、明らかに自己をコントロールできない脆弱さが浮き彫りにされていた。
男は、怒りと恐怖に震えているようだった。
その恐怖とは、沸騰し切った〈状況〉下での、「最適戦略」に則った合理的行動に導く方向への迷妄であると言えるのか。
4 固有の身体表現の強靭さと、内面的脆弱さを共存させた男の人格の「変人性」
そして、「アラブの反乱」を身体化し切った男の存在を、時代の激しい流れの中では、もう不要となっていた。
例の有名な、英国の「三枚舌外交」(注)がそれである。
加えて、強い目的意識を持って一丸になれないアラブ国民会議の内部混乱に嫌気がさしたロレンスは、遂にアラビアとの別離を決意するに至った。
そんな状況下で、「政治を勉強したい」というアリに対して、「卑しい職業だ」というロレンスの一言が捨てられた。
オマー・シャリフ扮するハリト族の“シャリーフ・アリ” |
そのときの会話。
「戦士の仕事は終わった。取引は老人の仕事だ。若者は戦い、戦いの美徳は若者の美徳だ。勇気やら、未来への希望に燃えて、そして平和は老人が請け負うが、平和の悪は老人の悪である。必然的に相互不信と警戒心を生む」
これは、ファイサル王子の言葉。
そのファイサル王子は、「アラブの英雄」と讃えられている記事を見て語っていた。
「我が軍の現役将校の指揮です」
ロレンスを庇う英軍司令官、アレンビー将軍の言葉に、ファイサル王子はきっぱり言い切った。
「ロレンスは両刃の刃だ。今となっては両方の厄介者」
ロレンスとファイサル王子 |
そこにはもう、「私がアラブのために自由を与えてみせる」と豪語し、カメラを構えるベントリーの前で、オスマン軍から奪った列車の上で舞って見せた男の、殆どナルシズムの魔境に搦(から)め捕られたかのような、夢幻の華麗な身体表現が侵入する余地がないのだ。
自分の本来的なアイデンティティがどこにあるのか、確信的に定められないで悶々とする男の余生はもう、男の「英雄譚」を伝説化する一篇のお伽話のうちに括られていった。
ファーストシーンで露にされた、男の無謀なオートバイ事故による死は、最後まで、男のアイデンティティの行方を曖昧にさせた苦悩を検証するものだったのかも知れない。
一見、あまりに鋭角的に尖って見せた、その固有の身体表現の強靭さと、その裏腹に張り付く、内面的脆弱さを共存させた男のキャラクターの不思議な様態は、まさに「変人性」の振舞いの独壇場であった。
但し、常に個人評価において厄介なのは、持前の行動力によって周囲を煙に巻く「変人性」もまた、一篇の「英雄譚」のうちに収斂されてしまう危うさを持っているということだ。(画像は、T.E.ロレンス)
「英雄譚」を不要にする国家と、そこに住む人々の等身大の「幸福」を保証し得る社会こそ、私たちが切に求めて止まないものである。
ともあれ、本作の主人公を「英雄譚」として描き切ることを拒絶したに違いない、デイヴィッド・リーン監督の、映像作家としての客観的視座の継続力に感嘆するばかりである。
(注)アラブ地域の独立を認めたフサイン=マクマホン協定、英・仏・露によるオスマン帝国領の分割を決めたサイクス・ピコ協定、パレスチナにおけるユダヤ人居住地を明記したバルフォア宣言という、イギリスの矛盾する外交の現実。
(2010年12月)
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