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2011年1月23日日曜日

野菊の如き君なりき('55)       木下惠介


<「純愛」が内包する情感系の脆弱さ>



1  木下恵介のリリシズムの極点



最後まで、諄(くど)いほどに流しっ放しのBGMに象徴されるように、大甘なセンチメンタリズムへの耽溺とも思えるばかりの、木下恵介のリリシズムの極点とも言うべき作品。

成瀬巳喜男の「浮雲」(1955年製作)や、一群のベルイマン映像の苛烈なリアリズムを愛好する私にとって、最も対極の映画。

と言うより、センチメンタリズムやロマンチシズムという概念そのものが厭悪すべき何かなのだ。

ともあれ、リリシズムを表現する題材として「純愛」が格好のテーマになることを、まさに過剰なリリシズムによって検証した一篇である。

ここで言う、「純愛」とは何だろうか。

正直言えば、そのテーマに言及したいので、本作を選択したと言っていい。

以下、考えてみたい。



2  恋愛幻想の初発の様態としての「純愛」



私は、「純愛」も「恋愛」の一種と当然考えるので、それを「恋愛」と峻別することはないが、敢えて、「純愛」を定義すると、以下の把握によって集約されるだろう。

「純愛」とは、恋愛幻想の初発の様態であるということ ―― これ以外ではないと、私は思う。

スタンダール
因みに、恋愛至上主義者のスタンダールは、かの有名な「恋愛論」の中で、塩鉱での「結晶作用」を例に挙げて、「恋愛」の過程を説明している。

それを私なりに大別すると、「幻想」(感嘆、美化、希望等の「恋は盲目」のステージ)→「現実」(確信と疑惑の共存・連鎖)→「旅」(新たな発見への昇華=第二の結晶作用)という風に説明できるだろう。

「恋愛」には、不必要なまでに「幻想」が張り付いているのである。

ここで言う「恋愛」を、私なりに定義すると、「性的感情」、「共存感情」、「独占感情」、「嫉妬感情」、「援助感情」(注1)という様々な感情が結合した、人間にとって強力な情感系の様態であると考えている。

更に言えば、「性的感情」が恋愛の本質であって、他の愛の形には存在しないものだ。

この感情が厄介なのは、自我の抑制系を機能不全にするほどの破壊的エネルギーを、その内側に内包するからである。

従って「純愛」とは、以上に挙げた、様々な感情の形成が未成熟な様態であるということである。

「純愛」の脆弱さとは、それが包含する清冽で純粋なイメージと睦み合うように、極めて脆弱な、恋愛感情の初発の様態であるということなのである。


(注1)「援助感情」とは、「特定他者を救うことが、自らの自我を安定に導く感情」と把握している。これを私は、「愛」と呼んでいる。



3  「純愛」が、「恋愛」に成長する時間が削り取られていく未成熟さ



本作を例に取ってみよう。

政夫と民子
本作の政夫と民子が、彼らの「純愛」を貫徹できなかったのは、必ずしも時代状況の封建的な制約下にあって、外部圧力に屈したという一面だけで把握するだけでは不充分であろう。

何よりも、彼らの「純愛」の様態が脆弱であったこと。

その未成熟さが、彼らの「純愛」を貫徹できなかった最大の要因であると、私は考えている。

彼らは、単に外部圧力に屈したのではない。

彼らの恋愛感情の未成熟さが、外部圧力を崩し切れなかったのである。

ここに、印象的なシークエンスがある。

政夫の母の言い付けで、2人が私有の山に綿採りに出かけたときの会話の一端である。

「どうして、政夫さんより年が多いんでしょう。私、本当に情けなくなる」
「民さんはおかしなことを言うんだな」

2人は綿採りの協同作業を通して、多くのことを語り合うが、この短い遣り取りのうちに、既に重要な心理の乖離を読み取れるのだ。

2人の年齢は、15歳と17歳。

この年齢差が重要なのだ。

裕福な地主の息子である政夫は中学生になり、寮生活に入ってしまうことで、17歳の民子が地元に取り残されてしまうのである。

当然の如く、政夫が寮生活に入っている間は、二人の「純愛」は物理的停滞を来たしてしまうのだ。

この物理的停滞を補完するには、外部圧力に耐え切るような、相当程度の心理的な強靭さが求められるだろう。

この時間を徒(いたずら)に延長させては、関係が自我の内側から劣化してしまうに違いない。

二人の「純愛」が、「恋愛」に成長する余地が残されなくなるのだ。

そのことは、二人の結婚が殆ど実現不可能な状況に置かれてしまうことを意味するのである。

民子には、それが理解できている。

それが、「どうして、政夫さんより年が多いんでしょう。私、本当に情けなくなる」という、民子の吐露になったのだ。

しかし、15歳の政夫には、その意味が理解できないのである。

それでも、民子を思う政夫の「純愛」の感情は継続されている。

と言うより、この綿採りの一件を通して、少年の感情は沸点に達したのである。

「僕はどうしてこんなになったんだろう。学問をせねばならない身だから、学校へは行くけれど、心は民さんと離れたくはない。民さんは自分の年が多いのを気にしているようだけど、僕はそんなことは何とも思わない。僕は民さんと離れたくない・・・僕は民さんの思う通りになるつもりですから、民さんも、そう思っていて下さい」

これは、政夫が故郷を離れる際に、民子に宛てた手紙。

この手紙を、嗚咽の中で繰り返し読む民子が、そこにいた。

17歳の彼女は、この手紙を拠り所に生きていこうとするが、しかし二人の「純愛」の発展的形成が困難な状況に陥るであろうという事態をも、明瞭に予見していたはずなのである。

現実に、事態は、民子が最も回避したい状況になっていくことで、この悲恋の「純愛」物語は、観る者を落涙させずにはおかない括りとなって、静かに閉じていった。

そんな「純愛」物語を、回想シーンで懐古する手法のうちに、ノスタルジアによってオブラートに包み、特定的な過去の「苦い記憶」を相対化し切ってしまったのである。

本作の回想シーンが、楕円の切り取りの中で表現されていたのは、辛い過去の「苦い記憶」を、今や、単に忘れ難い「追憶」として存在する心理効果によって「浄化」(注2)させるためだったのだ。


(注2)その本質は、「あれはあれで、仕方なかったのだ」という類の、「認知の不協和」の解消にある。



4  「純愛」が内包する情感系の脆弱さ



以上の文脈で分るように、民子は、明らかに「恋愛」を意識している。

彼女は既に、「恋愛」が内包する幻想の甘美な求心力と、それが成就していくことの困難さを認知しているのである。

即ち、「恋愛」の怖さを、彼女なりの繊細な感受性のうちに受け止めているのだ。

それに対して、政夫はあまりに幼すぎる。

少なくとも、彼女との「2歳」という年齢差以上に、恋愛幻想の初発の様態の中で騒いでいる印象が強いのだ。

政夫にとって、二人に共有されている「プラトニック・ラブ」の甘美な幻想に搦(から)め捕られていて、初心(うぶ)な「共存感情」への傾向だけが、常に先行しているように見えるのである。

従って、このような微妙な感情の落差を見せる二人の「純愛」が、成熟した大人の「恋愛」にシフトしていくには、二人を囲繞する外部圧力への果敢な突破力が必要とされるのだ。

それが、決定的に不足していた。

だから、先んじて自我の成長を刻む民子が、外部圧力のプレッシャーと果敢に対峙することなく、「意に反する結婚」に同調せざるを得なかったのである。

それは、共に手を携えて突き抜けなければならないパワーを、肝心の政夫の人格総体のうちに確認できなかったという面を無視できないだろう。

詰まる所、二人は挫折すべくして、挫折する「純愛」の脆弱さを露呈させてしまったのである。

「純愛」が外部圧力にからきし無力なのは、「純愛」が内包する情感系の脆弱さにあるということだ。

そういう映画として、私は本作を理解した次第である。

(2011年2月)



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