<「贖罪」の問題に自己完結点を設定することへの映像的提示>
1 「贖罪」という名の作り話が閉じたとき
「1930年代、戦火が忍び寄るイギリス。政府官僚の長女セシーリアは、兄妹のように育てられた使用人の息子、ロビーと思いを通わせ合うようになる。しかし、小説家を目指す多感な妹ブライオニーのついたうそが、ロビーに無実の罪を着せ、刑務所送りにしてしまう」
以上の一文は、「シネマトゥデイ」からの引用。
本作は、「小説家を目指す多感な妹ブライオニーのついたうそ」によって翻弄された、ロビーと長女セシーリアの悲恋と、13歳の少女の嫉妬感ゆえの嘘が招来した不幸な事態へのトラウマが、贖罪を内的に必然化する行程をサスペンスの筆致で描き切った秀作である。
13歳の少女であるブライオニー(トップ画像)の嘘によって、刑務所送りになったロビーはナチスドイツとの大戦の前線に、一兵卒として志願することで、何とか命を繋いでいた。
彼の切なる思いは、セシーリアとの再会のみ。
「僕は戻る。君と再会し、愛し、結婚するために。堂々と生きるために」
彼の懐には、セシーリア宛ての戦場からの手紙が、大切に保管されていた。
「すげえ。聖書みたいだな」
有名なダンケルク(1940年5月、独軍の電撃戦によって、敗走する英仏軍が劇的な撤退をした地)の撤退の風景を俯瞰した、ロビーの戦友の言葉。
そのダンケルクの撤退に間に合わなかったロビーは、そこで負傷して意識を失ってしまう。
一方、ロビーを追い駆けるように、セシーリアは従軍看護師になっていた。
セシーリアとロビー |
更に、ロビーと姉に対する深い悔悛の思いから、18歳になったブライオニーもまた、ナースとして働いていた。
そんな折り、ロビーが逮捕されるレイプ事件の被害者である、かつての友人のローラと、彼女に恋心を抱いていたポニー・マーシャルとの結婚の事実を知って、ブライオニーは、「今、この時」を逃したら永遠に贖罪を果たせないという思いを強め、恐る恐る、姉の元を訪ねたのである。
姉を訪ねたブライオニーは、そこでロビーと出会い、気が動顛した。
ロビーは、ブライオニーを厳しく難詰していく。
「正直に言おう。首をへし折るか、突き落とすか迷っている。刑務所がどういうものか知らないだろう?想像して楽しかったか?」
毒気に満ちたロビーの攻撃性に、ブライオニーは言葉を失う。
抑制の効かないロビーは、一気に捲し立てていく。
「何もせずに。僕が襲ったと?」
「いいえ」
「当時は・・・」
「ええ。でも・・・」
「なぜ、変った?」
「大人になって・・・」
「13歳では・・・」
「何歳で善悪の区別がつく?君は今、18歳か?18でやっと嘘を認めるのか。18歳で道端で死んでいく兵士もいるんだぞ。5年前は真実に無頓着。僕にどれほど教育があろうと、君らには下層の者だった訳だ。君のせいで、皆、平然と僕を見捨てた」
感情の昂揚を抑えられず、ロビーはブライオニーを殴ろうとして、セシーリアに止められた。
「戻って来て。私の所へ」とセシーリア。
セシーリア |
「できるだけ早く、君の証言が偽りだと両親に話すんだ。弁護士と陳述書を作り、署名して送ってくれ。なぜ、僕を見たと言ったか、詳しく説明する手紙も」
ロビーはブライオニーに、なお迫っていく。
ここでブライオニーは、ローラと結婚したポニー・マーシャルが「レイプ事件」の犯人であると釈明した。
「本当にごめんなさい。こんなひどい目に遭わせて」
「頼んだことをやれ。本当のことを書くんだ。二度と来るな」
「ええ、約束する」
ここで、本作の最も重要な3人の絡みのエピソードが閉じていく。
しかし、映像は一転して、晩年のブライオニーを映し出した。
以上のエピソードは、「小説の中の作り話」であったのだ。
2 心の琴線に触れるラストシークエンスの括り
「贖罪」という名の、作り話の小説を書き上げたのは、今や老作家となり、重篤の認知症に冒されているブライオニーである。
ここで映像は、ブライオニーのインタビューを提示していく。
「私の最後の小説です」とブライオニー。
「筆を折るんですか?」とインタビュアー。
間髪を容れないブライオニーの忌憚のない物言いは、インタビュアーの反応を支配する空気を作り出した。
「死ぬんです。主治医によれば、脳血管認知症だそうです。だんだん脳が壊れていく。作家にとっては致命傷です。だから完成させました。書かねばならない本を。私の遺作として。おかしなことに、私の処女作とも言える作品です」
「死ぬんです」と淡々と語るブライオニーには、覚悟を括る者の潔さが垣間見えた。
「自伝的な小説ですね?」とインタビュアー。
この問いにも、限りなく誠実に答えるブライオニー。
「ええ、私の名前を含めて全て実名です。真実を語ろうと、ずっと前から決めていました・・・実際に見てないことは、当事者に聞きました。刑務所の状況もダンケルクの撤退も何もかも。でも、事実はあまりに非情で、今更、何のためになるかと思ったのです」
「つまり、正直に語ることが?」
更に、このインタビュアーの問いに対するブライオニーの長広舌の反応は、本作の根幹に関わる最も重要な言葉を記述するものだった。
「正直に語ること、つまり真実がです。実は1940年6月、怖気づいた私は、姉に会いに行けませんでした。姉の家には行けず、告白のシーンは想像です。真実ではありません。私の創作です。と言うのは、ロビーはブレー砂丘で、敗血症で亡くなりました。撤退の最終日です。姉とも仲直りできませんでした。同じ年の10月15日、姉は空爆で亡くなりました。二人はとうとう一緒の時は過ごせませんでした。心からそれを望み、報われるべきだったのに。私がそれを妨げたのだと思います。でも読者は、そんな結末から、どんな希望や満足感を得られるでしょうか。だから本の中では、二人が失ったものを取り戻させたかったのです。これは弱さでも、言い逃れでもありません。私にできる最後のことです。二人に贈られたのは、幸せな日々です」
ブライオニー |
ブライオニーは、「二人が失ったものを取り戻させたかった」という物語の立ち上げによって、彼女なりの贖罪を遂行したのである。
然るに、観る者は、「読者は、そんな結末から、どんな希望や満足感を得られるでしょうか。だから本の中では、二人が失ったものを取り戻させたかったのです」というブライオニーの言葉に、狡猾な欺瞞性を感じるかも知れない。
或いは、「これは弱さでも、言い逃れでもありません。私にできる最後のことです」という言葉に、開き直りの態度を見るかも知れない。
それとも、彼女の小説が自分に都合の良いように書かれたもの、と断じるかも知れない。
しかし、私たちはよくよく考えてみなければならない。
晩年のブライオニーが仮構した物語の中に、毒気に満ちたロビーの攻撃性の前で言葉を失い、18歳のブライオニーが謝罪する描写を挿入したのが、遂に贖罪を履行し得ないまま関係を閉じることになった、シビアな現実の理不尽さを溶解するために、せめて物語の中で贖罪を履行することによって、自我が抱える負性意識の重さを少しでも軽くしたかったという心理が働いたのは事実であろう。
それ故、ラストシークエンスでのブライオニーのインタビューで語られたものの中には、彼女に都合の良い語りがあったとしても、それは意図的に加工した嘘話というより、そのように望んだ彼女の想いの結晶であり、同時に、そのように記憶された彼女の「真実の語り」であって、それが事実と食い違う内容を持っていることも有り得ることなのである。
フェスティンガー |
自身の中で、認知に矛盾を抱えた者は、大抵、その矛盾を自分に都合の良いように合理的に解釈することで、「自我の不快」を解消しようとする心理傾向に振れてしまいやすいのである。
自我の防衛戦略であると言っていい。
それが人間なのだ。
それよりも、ブライオニーのインタビューそれ自身が、彼女の「贖罪」であるという把握こそ重要であるだろう。
インタビューによって、読者はブライオニーの「真実の語り」を聞くことになるのである。
まさに、インタビューそれ自身が示す意味を、私たちは素直に受容すべきなのだ。
そのことを示すラストシークエンスこそ、そこに勝負を賭けた本作の決定力であると言っていい。
少なくとも私にとって、本作のラストシークエンスは心の琴線に触れる括りであった。
3 「裁きの論理」による、「道徳の論理」である贖罪への指弾の怖さ
前述したように、本作のラストシークエンスにおいて、死期を間近に控えて、「自己総括」を遂行したときの老作家ブライオニーの、その穏やかな表情に違和感を持ち、強い反発感を覚える人が少なくないだろう。
以下、それについて、アングルを変えて論じたい。
「これが、この女の贖罪なのか。甘過ぎる」
恐らく、その類の感懐を持つ人も多いと思われる。
しかし、私は寧ろ、その類の感懐を持つ反応にこそ違和感を持つのだ。
贖罪とは何か。
その根源的な問題から考えてみよう。
それは字義通りに言えば、「自分の犯した罪を償うこと」である。
贖罪には、強制力を持つ「法の論理」による外部機関からの制裁と、強制力を持たない「道徳の論理」という内的過程の二つがある。
前者は「裁きの論理」であり、後者は「自治の論理」である。
この映画でテーマ化されている贖罪とは、紛れもなく、後者の「道徳の論理」だろう。
無論、そこに強制力を伴う「法の論理」の媒介も求められるが、本作は敢えて、それを封印し、内的過程としての「道徳の論理」である贖罪=「つぐない」に主眼を置いた映像構成を作り出している。
だから、ここでは、後者の贖罪の問題を考えることが重要であると言えるだろう。
単刀直入に言えば、私たちはブライオニーに対して、強制力を伴う「裁きの論理」によって指弾し、「人間としてあるまじきその行為」=「小説の完成」という「自己総括」で裁こうとしているのではないか。
これは、モラルによって人間の「悪しき振舞い」を裁く行為であって、それは無限に続く攻撃性が内包する危うさをも随伴するものだ。
とかく、私たち日本人には、法に抵触することのない人間の振舞いをモラル(空気と言ってもいい)によって裁くことで、それを「善」や「正義」と考える傾向が強い。
だから憂慮するのである。
道徳とは、「社会的に支持された規範」に過ぎず、その道徳的質の高さを「善」と呼ぶに過ぎないのだ。
「社会的に支持された規範」は普遍的でもなければ、絶対的でもない。
それは、時代が分娩した規範の体系であるに過ぎない。
それ故、それによって裁くことの怖さを憂慮するのである。
まさに、本作のラストシークエンスにおける、死期を間近に控えたブライオニーに対する、観る者の違和感や反発感もまた、「裁きの論理」による、内的過程としての「道徳の論理」である贖罪=「つぐない」への指弾ではないか。
それこそが、私の違和感の内実である。
4 「贖罪」の問題に自己完結点を設定することへの映像的提示
本作のケースを、様々な視点から仔細に考えてみよう。
まず、ブライオニーの「贖罪の方法論」について。
ブライオニー |
彼女に贖罪の機会が全くなかったとは思えない。
しかし恐らく、彼女は恐怖に竦んで、姉に会いに行くことすらできなかったに違いない。
赦しの重さという深いテーマについては後述するが、少なくとも彼女なりに、それだけ自分が犯した罪の重圧感を感受していたことは間違いないだろう。
然るにブライオニーが、贖罪を遂行するには時代状況の変化が激しく、その変化の波に翻弄された「被害者」の状況は暗転するばかりで、遂に「告白」という、贖罪の重要なプロセスの機会を逃してしまった。
贖罪の一つとして、ブライオニーがナースになってまもなく、大戦下で、まるで示し合わせたかのように、愛し合っていた二人は戦死してしまったからだ。
直接的な贖罪の機会を奪われた、ブライオニーだけが生き残されてしまったのである。
ブライオニー |
文才豊かな彼女は、小説家として成功しても、彼女の自我にべったりと張り付く贖罪意識をクリアできない限り、自分の真実の〈生〉を獲得できないと考えたのだろう。
しかしブライオニーは、仮にそれが事実であることを前提にして言えば、ローラとポニー・マーシャルのことを考えたら、この「自伝的な小説」を発表しにくかった。
しかし、もう彼女には時間がない。
だから、意を決して書く以外になかったのだ。
それ故、文字通りのライフワークとして、彼女は本作で描かれた物語を完成させることで、インタビューでの晴れ晴れした表情に結びつくに至ったのである。
この晴れ晴れとした表情の持つ意味は、必ずしも贖罪の完遂を意味しない。
タリス邸ロケ地(ウィキ) |
カタカタとタイプライターの機会音を響かせる彼女は、それ以外に為し得ない方法で、それを遂行した。
ただ、それだけのことなのだ。
そういう映画として見ない限り、この映画の本質は理解できないだろう。
笑顔を交叉し、海岸を戯れるセシーリアとロビーを描くラストシーン。
この括りでいいかどうか。
少なくとも、それはどこまでも、作り手の軟着点でもあると同時に、ブライオニーの内的過程である贖罪の自己完結であって、それ以外ではないのである。
それはまた、贖罪という重い問題に対して、一定の自己完結点を設定することの重要性を提示するものであった。
5 「贖罪のプロセス」について
次に、「贖罪のプロセス」について。
「贖罪のプロセス」とは、心理学的に捉えるならば、「罪悪感の認知」→「告白」→「謝罪」→「善行」→「赦し」という一連の行程を言うだろうが、その行程の遂行は容易ではない。
「贖罪のプロセス」には、当然の如く、「罪悪感の認知」が不可避となる。
この心の扉を抉(こ)じ開けることで、罪悪感を自己にもたらす特定他者に対する「告白」が、意を決して開かれていく。
但し、この「告白」が、本質的に自己が負った心理的重圧を軽減する一方、罪悪感を自己にもたらす特定他者の感情に、「赦しの行程」という葛藤・混沌状態に陥れる時間を作り出す危うさを持つことで、罪悪感の対象人格の「内的秩序」の破壊性を随伴する自覚をも視野に入れねばならない。
そこにこそ、「贖罪のプロセス」の重さがある。
「赦し」を求める行為が、罪悪感の対象人格に及ぼした損害を償うに足る、その行為の艱難(かんなん)さを随伴してしまうからだ。
胃潰瘍という持病で神経まで摩耗させていった夏目漱石が、人間のエゴイズムの問題を極限まで追い詰めた心境下の作品として著名な、「後期三部作」の二作目に当たる「行人」では、主人公は「死ぬか,気が違うか,それでなければ宗教に入るか」という袋小路に陥るが、三作目の「こゝろ」では、自分のエゴで親友を自殺させたことの罪悪感に苛まれた「先生」は、それ以外にない贖罪の手立てとして自殺するに至った。
この死は、この国の近代知識人の苦悩を象徴すると言えるが、強力な一神教に依拠しない日本人にとって、ある意味で合理的な贖罪観を持つキリスト教文化圏の人々のように、「告白」→「神への帰依」という「贖罪のプロセス」によって一定の軟着点を持ち得ない分、却って厄介なのだ。
内的過程としての「道徳の論理」でもある贖罪のうちに、強制力を伴わないはずのモラルによる「裁きの論理」が侵入することで、「贖罪のプロセス」がエンドレスに続く危うさが尖り切ってしまうのである。
それが、この国の人々が「美徳」にするかのような、「死んで詫びる」という厄介な短絡性に流れ込んでいくのである。
然るに、キリスト教圏では、イエスが人類の罪を負ってくれたことで、人々が心から悔い改めさえすれば, 罪を拭うことが可能なのである。
だから、若き日の過誤を、その後の人生で幾らでも軌道修正できるのだ。
ここが理解し得ないと、本作のラストシークエンスの決定力を見間違えるだろう。
本作は、「無宗教」の文化土壌を持ち、「空気」で生きる私たち日本人の把握の盲点を衝いた一篇なのである。
本作の場合で言えば、「効果的な嘘」(注)による「罪悪感の認知」によって開かれた「贖罪のプロセス」は、まさに、この「罪悪感の対象人格に及ぼした損害を償う行為の艱難さ」をなぞるものだった。
「贖罪のプロセス」の重さを描き切った本作のテーマは、そこにある。
それは、「赦しの行程」の難しさなのである。
(注)私見を述べれば、、嘘には三種類しかない。「防衛的な嘘」、「効果的な嘘」、それに「配慮的な嘘」である。己を守るか、何か目的的な効果を狙ったものか。それとも相手に対する気配り故のものか、という風に分けられる。従って、「効果的な嘘」とは、「何か目的的な効果を狙った」嘘ということになる。
6 赦しの重さこそ贖罪の重さ ―― 赦しの心理学について
最後に、「赦しの心理学」について。
赦しとは、自我が空間を処理することではない。
それは、自我が開いた内側の重い時間を自らが引き受け、了解できるラインまで引っ張っていく苦渋な行程の別名である。
従って、笑って赦そうなどという欺瞞的な表現を、私は絶対支持しない。
笑って赦せる人は、最初から赦さねばならない時間を抱え込んでいないのである。
赦す主体にも、赦される客体にも、赦しのための苦渋な行程の媒介がそこにないから、「愛」とか、「優しさ」とかいう甘美な言葉が醸し出すイメージに、何となく癒された思いを掬(すく)い取られてしまっている。
この赦しの行程には、四つの微妙に異なる意識がクロスし、相克しあっている、と私は考えている。
これを図示すると、以下のようになる。
(感情ライン) 赦せない ⇔ 赦したい
↑ X ↓
(道徳ライン) 赦してはならない ⇔ 赦さなくてはならない
感情ライン(赦せない、赦したい)と道徳(=理性)ライン(赦してはならない、赦さなくてはならない)の基本的対立という構図が、まず第一にある。
次いで、それぞれのラインの中の対立(赦せない⇔赦したい、赦してはならない⇔赦さなくてはならない)があり、この対立が内側を突き上げ、しばしばそれを引き裂くほどの葛藤を招来する。
赦しの行程は、この四つの感情や意識がそれぞれにクロスしあって、人の内側の時間を暫く混沌状態に陥れ、そこに秩序を回復するまで深く、鋭利に抉(えぐ)っていくようなシビアな行程であると把握すべきなのである。
この赦しの重さこそ贖罪の重さなのだ。
7 「絶対書かねばならない小説」を発表するに至ったとき ―― 総括として
ここで、本作を総括しよう。
結論から言えば、ブライオニーの贖罪の重さは、この赦しの重さなのである。
だから彼女は、この赦しの重さ故に、贖罪のプロセスを容易に遂行できなかったのである。
それでも彼女は、彼女の人生の中で避けて通れない罪悪と、その贖罪をテーマにした小説を書かねばならなかった。
「今、書かねば一生の後悔になる」
そんな切迫感の中で、彼女は書かねばならなかったのだ。
贖罪の対象人格を喪ってもなお、彼女には、贖罪に関わる内的過程が延長されてしまったのである。
無論、人間だから、常に贖罪のことを考えていた訳ではないだろう。
当然のことだ。
ただ、彼女の日常性に空洞感が生まれたとき、そこに彼女にとって、「なお未解決である贖罪の重し」という内的過程が忍び寄ってきて、それが、彼女の自我を突き刺す棘になっていったと考えられる。
ローラとポニー・マーシャルの夫婦が健在である限り、彼女にとって、実名入りの小説を上梓するのは躊躇(ためら)いがあっただろう。
それでも彼女の中で、どこかで、なぜ、ローラとポニー・マーシャル夫婦が自分にばかり罪を押し付けてしまうのか、という疑問が起こったのかも知れない。
その矛盾が、遂に噴き上げてきてしまったのか。
認知症と診断され、もう二度とペンを握ることが叶わなくなるという冷厳な現実を前にして、或いは、まだ生きているかも知れない、ローラとポニー・マーシャル夫婦への不必要な配慮を捨てて、彼女は「絶対書かねばならない小説」を発表するに至ったのだ。
私はそう把握している。
(2011年2月)
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