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2011年2月8日火曜日

ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~('09)       根岸吉太郎


<「あなた、人非人でもいいじゃないですか。私たちは生きていさえすればいいの」―― 覚悟を括った女の、男へのアウトリーチ>



1  「欠損感覚」を埋める、包括的で献身的な「愛情補償」



男は常に欠損感を抱えている。

この欠損感の大きさによって、男は「肯定的自己像」を結べない人生を繋いで生きている。

その欠損感のルーツがどこにあるか、映像は一貫して説明しないが、大抵、このような男の人格像のケースでは、幼児期の「愛情欠損」にあると説明されるだろう。

その「愛情欠損」によって、「見捨てられ不安」を肥大させた時間を常態化させ、それが発達課題のコアなプロセスを十全にクリアし得ないまま、大きく社会規範を逸脱する現在の〈生〉を延長させるに至ったと考えられる。

「見捨てられ不安」を日常的に常態化させた事態は、健全な自我形成に大きな支障となっていったはずだ。

そのため、未成熟で脆弱な自我を分娩してしまったに違いない。

脆弱な自我は、人間が普通に生きていくに足る自給熱量を、充分に補填できずに推移してきたことで、「肯定的自己像」の獲得を成し得なかった。

男の自我にべったりと張り付く、厄介な「欠損感覚」。

通常、人間はこれを放置してくことをしない。

「生存・適応戦略」としての自我が壊れ切っていない限り、「欠損感覚」を修復すべく、そこに代償化された何かを十全に補填しないと生きていけないからである。

男の自我にべったりと張り付く「欠損感覚」を補填するために、発達課題のコアなプロセスを十全にクリアし得ない自我の、その確立過程の多くの重要な時間を消費していくのだ。

そんな人生を遣り過ごしてきた男には、もう、それ以外の時間の消費の方略が液状化してしまっているのである。

男にとって、その「欠損感覚」を埋めるに足るものこそ、ひたすら、男自身の自己中心的な欲求を満たすだけの「愛情補償」であると言っていい。

それは、殆ど包括的で、献身的な「愛情補償」である。

そして男は、その「愛情補償」を満たすに足る格好の対象人格を見い出した。

それが、本作のヒロイン(以下、「女」とする)であった。

件の男が、女を「発見」したエピソードが興味深かった。

男が女を初めて視認したのは、交番だった。

女は、弁護士を目指す「別の男」(辻)のために襟巻を万引きしたのだ。

「惚れた女の弱み」を露呈するシーンである。

「今度で何度目だ。初めてじゃないだろう」と警官。
「私、牢屋に入れられるですか?」と女。
「だから、調べているんだ」と警官。

ここで、威勢のいい女の啖呵が開かれた。

「私を牢屋に入れてはいけません。私は悪くないのです。私は22になります。22年間、私は親孝行いたしました。人様から後ろ指一つ指されたことありません。辻さんは立派な方です」
「その辻という男のために盗んだのか?」

この警官の「普通の尋問」に対して、「倍返し」のような女の啖呵が全開するのだ。

「辻さんは、寒いねと言いました。私はあの方を温めてやることもできません。せめて、襟巻でも巻いて頂こうと・・・それが、なぜ悪いことなのです。私は弱い両親を一生懸命労(いた)わってきたじゃないか。私には仕事があります。22年間、勤めて、勤めて、そしてたった一瞬、間違って手を動かしたからといって、それだけのことで22年間、いいえ、私の一生を目茶目茶にするのはあんまりです。私はまだ若いのです。これからの命です。私は今までと同じように、辛い貧乏暮らしを辛抱して生きていくのです」

左翼アジと見紛うばかりの、威勢のいい啖呵を切る女の「主張」のうちに、現代日本の雇用状況への異議申し立てのメッセージが窺われるが、そこだけは、女の啖呵の不自然さを感じない訳にはいかなかった。

このあまりに直截な表現による長広舌は、説明的過ぎるばかりか、活字だけで勝負する「文学」への依存性を強調する印象を拭えなかった。

映像によって見せられない表現技巧の瑕疵ではなかったか。

ともあれ、ここまで言い終わった後、先程から遣り取りを見ていた男が入って来て、自分が襟巻を盗ませた男であると語ったのである。

男の助け船によって、救われた女。

これが、二人の「運命的邂逅」の顛末だった。

男は女を特定的に選択し、特定的に選択された女は、以降、男の甘言に誘(いざな)われ、情感ラインを重ねていく。

しかし、自己中心的な「愛情補償」を求めるばかりか、作家生活で稼いだ全ての金を蕩尽してしまう、規格外れの男の未成熟な人格像にたっぷり触れた女は、狭隘な自己基準のパーソナルスペースに拘泥する男の、その脆弱さのうちに共存する、戦略的な色気のセールスに誘(いざな)われる弱みをも露わにして、その蠱惑(こわく)的なゾーンで手に入れる快楽を捨てられなかった。

それでも、男の逸脱的行動に対して耐性限界を感受したとき、女は男との距離を広げていく。

そのことによって、少しでも関係の相対化を図ろうとするが、狡猾な男はそんなとき、決まって女の懐の奥深くに飛び込んで来るのだ。

酒代を踏み倒した男の放蕩のツケを、バーの女給に支払って貰った夜の出来事。

「怖いんだよ・・・怖いんだよ・・・僕は」

そう言って、泣き崩れる男は、女の下肢に絡みつき、女の柔肌に包まれていくのだ。

それは、自分の愛情欲求を受け止めて欲しいと懇願し、存分に甘えて見せる態度は、包括力のある相手の女の心を掴むことで、ギリギリに〈生〉を繋ぐ自我の生存戦略である。

男の振舞いは「否定的自己像」をセールスすることで、自分のパーソナルスペースに誘(いざな)う女たちの「援助感情」を引き出すのである。

結局、男にはこのような生き方しか選択できないと思わせる脆弱さが露わにされるばかり。


(注)この万引きの件は、「灯籠」の中にあるが、そこでは、惚れた男のために「黒い海水着」を盗む話になっていて、しかも交番に連れて行かれた女が、黒山のような人だかりを前に啖呵を切るが、「私は、きっと狂っていたのでしょう。それにちがいございませぬ。おまわりさんは、蒼い顔をして、じっと私を見つめていました。私は、ふっとそのおまわりさんを好きに思いました」という自戒を込めた、一人称の短編小説になっている。



2  夜の闇の中で恐怖と闘う男



生来的な危うさが、男を常に追い詰めていく。

「生存・適応戦略」としての自我が壊れ切っていくギリギリの辺りで、男は「自死」という究極の〈状況脱出〉に振れていくのだ。

男と女の印象深い会話が拾われていた。

「とっても私は幸福よ」と女。
「女には、幸福も不幸もないものです」と男。
「そうなの?そう言われれば、そういう気がしてくるけど。じゃあ、男の人は?」
「男には不幸だけがあるんです。いつも、恐怖とばかり闘っているんです・・・僕はキザなようですが、死にたくてしょうがないんです。生まれたときから、死ぬことばかり考えていたんだ。皆のためにも死んだ方がいい。そのことは確かなんです。それでいて、中々死ねない。変な怖い神様みたいなものが、僕を引き止めるんです・・・恐ろしいのはね、この世のどこかに神様がいるっていうことなんです。いるんでしょうね?いるんでしょうね?」

そう言って男は、夜の闇の中で、真顔で辺りを見廻した。

「私には分りませんわ」
「あ、そう・・・」

力のない男の言葉が、夜の闇の中に捨てられた。



3  「あなた。人非人でもいいじゃないですか・・・私たちは生きていさえすればいいの・・・」―― 覚悟を括った女の、男へのアウトリーチ




男は、女の愛の包括力の大きさを信じ切れない。

それだけ、男の自我の「欠損感覚」が大きいのだ。


だから男は、飲み屋に勤め始めた女が、愛想を振り撒く振舞いの変化に嫉妬し、根拠なき感情の噴出の中で、女を責め立てていく。

そして、女の愛を一方的に勘違いした男は、女の元を去っていくのだ。

男に恋慕する、バーの女給に感情をシフトさせるのである。

その女給は、男との心中を厭わないまでに、男に惚れ抜いているのだ。

アルコール依存症の世界に潜り込んでも、なお消化し切れない「欠損感覚」が噴き上がってきたとき、男にはもう、女給との心中以外の流れ方しか選択肢がなかった。

男の心中事件のバーの女給(左)
しかし、未遂に終わった心中事件によって、男は死んでも死に切れない極限的な脆弱さを晒すばかりである。

これ以上堕ちるところがない辺りにまで堕ちていったとき、絶望的な男の情感系に、女の存分な情感が柔和な思いを込めて入り込んできた。

留置所接見室での、男と女の会話。

「私、自惚れていました。あなたに愛されていると思って・・・心中されて、嘘つかれて、どこに愛があるんでしょうか。夫に心中された女房は、一体どうすればいいの?夫を他の女に盗られた妻は、何と言うんですか?ただこうして、醜く、狼狽(うろた)えるしかないんですか・・・あまり惨め・・・」

女は嗚咽の中で、言葉を振り絞っていく。

「勝手なようだが、今は責めないでくれないか・・・死に損なって、今言うのは変だが、何だか生きられるような気がするんだ・・・何とか生きていけそうな気がするんだよ・・・だから・・・済まない・・・許して下さい」

男もまた、嗚咽にも似たくぐもった声で、言葉を振り絞って答える。

まもなく、全てを失って釈放された男は、既に戻るべき場所もなく、女が働く飲み屋にやって来た。

去って行く男。

追い駆ける女。

そして、覚悟を括った女の、男へのアウトリーチ。

男が持っていた桜桃を口に含んだ女は、「美味しい」と一言。

女は男に寄り添って、それ以外にない言葉を結んだ。

「あなた。人非人でもいいじゃないですか・・・私たちは生きていさえすればいいの・・・」(トップ画像は、ラストシーンの、この決め台詞)

これが、本作で描かれた男と女の物語の基本ラインである。

以上の言及は、本作の原作のモデルとされた有名作家の生き方とは無縁に、ただ映像総体から感じ取った私の感懐を述べたもの。

恐らく、男の「欠損感覚」のルーツに関わる人格の様態は、「境界性人格障害」であると思われるが、そのことの心理学的説明はここでは不要である。

どこまでも、男と女の関係濃度の固有の曲析を、皮膚感覚の襞(ひだ)に触れる精緻な描写を鏤刻(るこく)し、余分なものを削り取った本作の、その構築力の高さを評価する一文を記述したまでである。



4  男と女の関係の距離感覚の微妙な交叉の中で



本稿の最後に、本作を要約してみよう。

本作で描かれた男と女の関係は、以下のイメージで把握することが可能であろう。

「光と闇」、「日常と非日常」、「昼間意識と夜間意識」、「未来と過去」、「受容と逃亡」、「健全と退廃」、そして「生と死」であり、以上の対語の構図が、「タンポポと桜桃」というイメージのうちに収斂されていく。

男と女の関係の距離感覚の微妙な交叉の中で、女の求心力によって、男の底知れぬ陰翳が半ば稀釈され、程々に吸収されているときは、殆ど、ごく普通の夫婦の日常性の様態とさして代わり映えがしなかったが、しかし、男の自我に張り付く厄介な「欠損感覚」が、何某かの契機を起動点にして暴走することで、二人の距離は、恰も、遠心力の作用によって修復困難な事態に陥ってしまうのである。

 根岸吉太郎監督
それが、心中未遂事件であった。

しかし、それでも「こんな女が傍にいたからこそ、この男の情感系の暴走があの程度で済んだ」と思わせる説得力が、本作にはあった。

その辺りが、映像の表現世界の独壇場であったと言えるだろう。

それは、この映画のモデルとなった著名な作家の陰翳な自我に、この映画のヒロインの包括力の媒介さえあれば、非日常の極点としての、男の死を防ぎ得たかも知れないというメッセージであったかも知れない。

そんな風にも考えられる映画だった。

(2011年2月)

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