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2011年2月18日金曜日

セントラル・ステーション('98)        ヴァルテル・サレス


<感覚鈍磨させてきた「情愛」を復元させる心情変容のステップ>



序  説得力のある映像構成によって成就した秀作



本作は、善悪の感覚に鈍磨した中年女性が、父を捜し求める少年との長旅を通して、感覚鈍磨した自我が、本来そこにあったと思わせる辺りにまで、曲接的に心情変容していくプロセスを、精緻で説得力のある映像構成によって成就した一級の秀作である。

私は本作を、この中年女性の心情変容を三つのステップに区分することで、限りなく詳細に言及していきたい。

そこに、本作の基幹テーマが垣間見えるからである。

ヴァルテル・サレス監督
以下、ストーリーラインをフォローしながら、このテーマに沿って稿を進めていく。



1  良心の呵責に苛まれる中年女性の片鱗 ―― ドーラの心情変容の最初のステップ



件の中年女性の名は、ドーラ。

リオのセントラル・ステーションで代筆業を営む元教諭である。

映像は冒頭から、逃走する万引き犯への銃殺のシーンを唐突に挿入させた。

この信じ難い荒業で遂行された銃殺事件が、この国の「日常性」であるかと言わんばかりの尖った描写挿入の目的は、それに対して殆ど特段の反応を示さないドーラの、感覚鈍磨した心情世界を強調する効果を狙ったものだろう。

識字能力の欠ける客が引きも切らず詰めかける、そんなドーラの元に、睦ましい印象を与える母子がやって来た。

代書を頼むためだ。

母にはその気がなかったが、どうやら、少年の達(たっ)ての懇望で、故郷にいる父への手紙の代書を依頼したのである。

ところが、その直後、少年の母親は交通事故に遭って即死してしまうのだ。

ジョズエ
あっという間に、ストリートチルドレンと化した少年は、ブラジルの大都市の中枢で置き去りにされたのである。

少年の名は、ジョズエ。

この事故にも、さして反応を示さないドーラがそこにいる。

このドーラは、手紙の投函料を横取りするために、あろうことか、価値のないと看做した手紙を廃棄してしまうのだ。

ジョズエの達(たっ)ての懇望で代書した手紙もまた、価値のない紙片の一つに過ぎなかった。

しかし、ストリートチルドレンと化したジョズエを視認したドーラは、少年を家に連れ帰り、翌日、ジョズエを「養子縁組斡旋所」に売り渡してしまう始末だった。

そんな折り、ドーラは、親しい友人のイレーネから思いがけない言葉を耳にする。

「駅の友だちが、外国で里親を探す所を教えてくれたの」とドーラ。
「で、預けたわけ?」とイレーネ。
「リオにいて、教護院に送られるよりまし」とドーラ。
「知らないの?里親なんて嘘よ。子供を殺して臓器を売るの」とイレーネ。

その夜、眠れないで悩むドーラ。

感覚鈍磨した心情世界を露わにするとは言え、ドーラの人格は子供を殺める行為に加担するほど荒んでいないのである。

良心の呵責に苛まれる中年女性の片鱗を、映像は映し出したのだ。

ニーチェの「道徳の系譜」によると、良心とは、攻撃的な衝動が自分自身に向けられることである。

私見によると、良心もまた、自我の高次の機能の範疇にある。

その良心によって、ジョズエを強引に連れ出すことに成功したドーラだが、無論、彼女はスパーウーマンではない。


コルコバードのキリスト像とリオデジャネイロ(ウイキ)
これが、ドーラの心情変容の「第一のステップ」となった。



2  「中年の恋」の破綻と嗚咽、そして近接



ドーラはジョズエに、一緒に父の所に帰ることを求めるが、ジョズエから信頼されていないドーラは、僅か9歳の児童に烈しく拒絶される。

「あんたなんか、嫌いだ!あんたは悪い人だ」
「一人で行けると思うの?」
「ご飯のお金だけ貸して。あとで父さんが返す。母さんの手紙を返せ」


ジョズエは、ドーラが金だけで動く大人であることを知り尽くしているから、端(はな)から信じようとしないのだ。

そんな雰囲気の中で、二人は無理に長距離バスに乗り込んでいく。

かくて二人は、ジョズエの父を捜す長い旅を開いたのである。

しかし、本気でジョズエの父を捜す気がないドーラと、その心を見透かすジョズエの反目については、バスの中で幾つかのエピソードが拾われている。

ドーラの酒を飲んで酔ったジョズエは、ドーラと喧嘩する始末。

「何でついて来た」
「人助けよ。あんたのためよ」

その後、途中の駅で、眠っているジョズエの財布に金を入れた後、ドーラは運転手に無責任なことを依頼する。

「私はここで降りるから、この住所まで、あの子を頼めない?」

当然、拒まれるが、金を一方的に渡して降車するドーラ。

ところが、ジョズエもバスを降りていた。

バスの中に、ジョズエは鞄を忘れて、二人は途方に暮れてしまうのだ。

そんな二人の旅を助けてくれたのが、一人のトラック運転手。

巡回伝道師である。

まもなく、穏和なトラック運転手の存在によって辛うじて保持された二人の関係は、破綻の危機を内包しながらも、旅を繋いでいく風景のうちにユーモアが漂わせていた。

途中の店で、ジョズエの盗みを叱りながら、自分ではソーセージを盗むドーラの悪癖には、未だ変化が見えない。

巡回伝道師をする、親切なドライバーとの「中年の恋」を、映像は拾い上げた。

ドーラ
と言うより、心優しいドライバーに、ドーラが一方的に想いを寄せたのである。

ドライブインのテーブルで、ドーラはドライバーの手を握り、露骨に感情を表現する行為に及んだのだ。

この大胆な行為によって、「中年の恋」は呆気なく破綻する。

ドーラが化粧膣で口紅を塗っている間に、トラック運転手は、既にドライブインを後にしてしまったからである。

思えば、ドライブインでのエピソードは、ドーラのストレートな性格を露わにするものだった。

ジョズエをテーブルから追い払って、ビールを酌み交わしたドーラと、巡回伝道師のトラック運転手。

夫を持たないドーラにとって、このような人物の優しさは、彼女の女心を駆り立てるものだったのか。

唐突過ぎた、ドーラの愛の告白。

この描写に露呈されているドーラの遠慮のない性格は、異性との関係の非武装性を露呈するものだろう。

それはなお、彼女が「恋する女」であることを捨てていない、ホットな人間像を検証するものだった。

「怖くなったんだよ」

ドライバーに逃げられたときの、ジョズエの一言である。

特段の違和感はないが、ジョズエは、信じ難いほどの洞察力を持つ9歳の少年と言う訳だ。

「口紅を塗ったとき、すごく奇麗だったよ」

これも、ジョズエの一言。

置き去りにされ、嗚咽するドーラへの、ジョズエの励ましである。

ジョズエはこのとき、ドーラの生身の人柄に触れ、その率直さに近接したことで、彼女との距離を自ら縮めていったのである。



3  「職業的アイデンティティ」を感受したとき ―― 心情変容の「第二のステップ」




乗り合いのトラック便を利用して、何とか次の町に辿り着いた二人を待っていたのは、キリスト教の祭礼だった。

二人が乗り込んだ乗り合いのトラック便にも、その町に行く巡礼者で溢れ返っていた。

その町の名は、ボム・ジャズス。

二人は住所をあてに、ジョズエの父の住む家を訪ねたが、そこにはもう、少年の父はいなかった。

二人は、その家の亭主に教えられた、ジョズエの父の正確な住所を知るのが精一杯だった。

その町の名は、ヴィラ・ド・ジョアン。

当て所なく、ボム・ジャズスの町を彷徨する二人には、金も使い果たし、満足に食べる物も手に入らない苛立ちが募っていた。

「なぜ、私がこんな眼に遭わなきゃならないの?皆、あんたのせいよ」
「お腹すいた」
「でも、お金なんかない」
「どうするのさ」
「さあね。お手上げ。なのに、あんたを置いて行けない。両親はとんだ邪魔者を産んだものよ。疫病神だわ・・・地獄よ」

巡礼で賑わうボム・ジャズスの夜の町の一角で、ストレスを沸点に達しつつあったドーラは、決して言ってはならない言葉を、9歳の少年に放ってしまったのである。

泣きながら走って、逃げていくジョズエ。

ジョズエを捜すドーラ。

しかし見つからない。

巡礼団の群衆の渦に呑み込まれながらも、ジョズエを捜すドーラ。

その表情には激しい疲労の色が滲み出ていて、今にも倒れそうな状態だった。

視野に入る一切のものがグルグル回り、遂に卒倒したドーラ。

空腹も大きな原因だった。


翌朝、気が付いたら、傍らにジョズエがいて、ドーラを介抱していた。

ジョズエの心は、決してドーラから離れていなかったのである。

一文無しの二人が、巡礼の町で、「仕事」を始めたのは、その直後だった。

「聖者への伝言。家族への手紙!」

ジョズエの機転により、ドーラに代筆業を開業させたのである。

次々に訪れる「客」こそ、一文無しのドーラが、その「仕事」の本来の意味を確認させてくれるに足る誠実な人たちだった。

ドーラはこのとき、初めてと言っていい程に、「職業的アイデンティティ」を感受し、そこに誇りを見い出したのだろう。

そのことを、彼女は一文無しになることによって学習したのである。

昨夜からのジョズエとの感情的離反から、この日の「仕事」の経験の中で、ドーラが手に入れたものは、彼女の人格の芯に近い辺りにある情感世界を大きく変容させる何かになった。

この経験こそ、彼女の心情変容の「第二のステップ」と言えるものだった。

それは、キリスト教の祭礼の賑わいの中で浄化されたと印象付けるシークエンスだったのか。

弾けるる笑顔。

交叉する二人の感情は、それまでの心理的距離を一気に縮めるに至った。

以下のエピソードは、そんなドーラの変化を鮮明に伝えるものであった。

その夜、ジョズエは、「聖者への伝言。家族への手紙!」によって溜まった手紙を捨てようとした。

「ダメよ。あとは任せて」

ドーラはそう言って、ジョズエから手紙を受け取り、袋に入れ直した。

そして翌日、ドーラはその手紙を投函したのである。



4  「家族」という観念が包含する情緒的結合力の濃密さを目の当たりにして ―― 心情変容の「第三のステップ」



二人はバスに乗り、ヴィラ・ド・ジョアンの町に辿り着いた。

そこで、遂に二人は、偶然ジョゼズエの父親の住所を捜し当て、そこに住む二人の青年と対面することになった。

彼らの話だと、ジョゼズエの父は不在であると言う。

そこでドーラは、ジョゼズエの異母兄から、父から送られたという手紙を読んで欲しいと依頼された。

半年前に届いた、父からの手紙である。

文字が読めない二人は、半年間も放置しておくしかなかったのだ。

以下、父からの手紙。

それを読むのは、代筆を「仕事」にするドーラ。

「アンナ。哀れなお前、ようやく代書人を見つけた。お前は戻ったんだね。やっと分ったよ。俺がリオで探す間、お前の方はリオを出て、擦れ違いに。手紙より先に着くよ。俺も家に向かう。もし手紙が先だったら、待っててくれ。俺も家に戻る。家はイザイアスとモイゼズに任せた。アンナ。俺は一カ月ほど金鉱で働くつもりだ。でも、必ず帰る。皆で暮らそう。俺とお前とイザイアスとモイゼズ。・・・とジョゼズエも。ジョゼズエに早く会いたい。お前も短気だが、俺も構ってやらなかった。今度は気をつける。赦してくれ。俺には、お前だけだ」

父からの手紙を涙ながら聞くイザイアスは、すぐに反応する。

「帰って来る」

しかし、ジョズエの腹違いの次兄のモイゼズは、それを否定する。

「来るもんか」とモイゼズ。

最後は、ジョゼズエの反応。

「いつか帰って来る」


その夜のこと。

「僕に会いたいなんて、書いてあった?」とジョゼズエ。
「勿論よ」とドーラ。
「嘘だ。分ってる」

聡明なジョゼズエに、嘘は通用しないのである。

明け方、ドーラは父からの手紙の横に、自分が代書いた母からの手紙を添えて、そっと家を出た。

映像は、バスに乗っているドーラと、そのバスを追い駆けるジョゼズエを映し出し、手紙を書くドーラのボイス・オーバーが流れていく。

「ジョゼズエ。手紙など書かない私が、あなたには書きます。あなたの言う通り、父さんはきっと帰るわ。偉い父さんだもの。あなたは私と暮らすより、あなたは兄さんと暮らす方がずっと幸せになるわ。私に会いたいときは、2人で撮ったあの写真を見てね。いつか、あなたが私のことを忘れるのが怖い。私も父に会いたいわ。やり直したいのよ」

未だ文字の読めない少年に、嗚咽交じりで手紙を綴るドーラ。

「家族」という観念が包含する情緒的結合力の濃密さを目の当たりにして、ジョゼズエを媒介にすることで、「家族」という観念を実感的に内化し得たドーラの、この心情変容のプロセスこそ「第三のステップ」と言っていい何かだっだ。

それは同時に、未だ文字の読めない少年の向上心を信じ切って、初めて真情を吐露する中年女性の人生再編への意志表明だったのだ。



5  感覚鈍磨させてきた「情愛」を復元させる心情変容のステップ



以上が、本作のストーリーラインをフォローしながら、ドーラの心情変容のプロセスを辿ってきた本稿の基本的な骨格である。

ここで改めて、ドーラの心情変容のプロセスを客観的に見るとき、最も重要なステップが「第二のステップ」であることが了解されるだろう。

それは、バスとトラックを乗り継ぐ二人の長い旅のプロセスを経て、最後に辿り着いた心のステーションだった。

中でも、ボム・ジャズスという町での、その夜と翌日に亙(わた)る濃密な時間の意味が持つ重量感は決定的である。

決して放ってはならない言葉を思わず吐いたドーラのストレートな性格は、ここでも相変わらず露呈されているが、それでもなお、この時間以降に開いた彼女の「疾走」は、既にジョゼズエの存在なしに済まない、彼女の自我の有りようを検証するものだった。

そんな彼女の思いを、9歳の聡明で情感豊かな少年が、感覚的に受容し得る能力を持ち得ていたのである。

少年の膝枕で休むドーラが覚醒したとき、彼女の内側では、「家族」という観念が包含する情緒的結合力の重要性を実感的に認知し得たのである。

この変容こそ決定的であると言っていい。

なぜなら、そのとき、父を捜す少年の思いの深さに彼女の心が届き得たからである。

代書業という「仕事」の持つ価値を実感するドーラ
そして、知らない町で初めて開く代書業という、掛け替えのない「仕事」の持つ価値の深さを、恐らく、バージン感覚に近い思いのうちに経験したのだろう。

「聖者への伝言。家族への手紙」という内容を持つ手紙は、リオのセントラル・ステーションで開業していた代筆の手紙のそれと、明らかに切れるものだった。

彼女はそこで、手紙に仮託する人々の思いの深さを感じ取ったのである。

そして、その「仕事」を、文字通り、一文無しの状態で始めたことによって手に入れた価値は、そこだけは彼女の休眠状態の自我のうちに、紛う方なく、「職業的アイデンティティ」を分娩させしめたのである。

彼女は、この時間帯の中で、「家族」と「職業」という観念が内包する価値を真に実感的に認知したのであろう。

この彼女の心情変容の「第二のステップ」が、その延長上にある、「第三のステップ」に繋がったのだ。

「私と暮らすより、兄さんと暮らす方がずっと幸せになるわ」と書かせる心情にまで辿り着いた「第三のステップ」は、未だ迷いを残しつつも、「第二のステップ」で手に入れた価値を肉付けするために、彼女が本来戻っていく場所で、自分の人生を再編していく決定的な起動点と言えるものだったと言える。


まさに本作は、「家族」という観念が包含する情緒的結合力の欠損において、中年女性の自我に看過し難い空洞感をもたらしたであろう、実父との感情関係の歪みを、まだ見ぬ幻想の父を思う少年との旅を通して、痛切に認知した一人の中年女性が、内深く感覚鈍磨させてきた「情愛」を復元させるための、その曲折的な航跡を描き切った秀作である。

それは、本作を、単に「お涙頂戴」の映画として安直にカテゴリー化することの軽薄さについて、改めて認知させるに至った一篇だった。

本作は私にとって、「良い映画」であると同時に、「良くできた映画」でもあった。 

(2011年2月)

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