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2011年3月26日土曜日

邪魔者は殺せ('47)     キャロル・リード


<「受容型関与」と「利益追求型関与」 ―― インボルブされた人々の行動様態>



1  孤立した男



映画の原題である「ODD MAN OUT」、即ち、「孤立した男」という意味が、本作の全てを表している。

序盤の20分で、組織から「孤立した男」が、重傷を負って逃亡する暗鬱な半日を描くシークエンスの嚆矢(こうし)にシフトし、それがラストシーンにまで流れていくのだ。

「やっぱり、ジョニーには無理な仕事だったんだ」

ジョニーとは、警察の捜査網から追われる逃亡者のこと。

本作は、組織の仲間に同情されるジョニーという男の、絶望的なまでの孤立感を描く物語である。

その組織の仲間も、懸賞金目当てで信頼する女に警察に売られて、殺害されるシーンに見られるように、サスペンスフルで、冷厳なリアリズムによって貫徹される映像構成は抜きん出ていた。

以下、批評含みで、物語を追っていきたい。



2  「受容型関与」と「利益追求型関与」 ―― インボルブされた人々の行動様態



「この映画の舞台は北アイルランドだが、体制と非合法の闘争が、テーマではない。事件に巻き込まれた人々の反応を描いたものだ」

冷厳なリアリズムの筆致と、ヒューマニズムの精神を程好く均衡させた本作のテーマは、以上の冒頭のキャプションの内に集約されるものであろう。

従って本作は、IRAの活動をテーマにしたものではない。

本作の製作時の制約もあってか、ここでは政治的なメッセージを拾い上げることはできない。

ここで描かれたのは、IRAの支部組織による資金調達のための工場襲撃を指導した男が、図らずも逃亡に失敗し、殺人事件を犯したばかりか、自らも重傷を負って逃亡する暗鬱な半日である。

このようなフィルム・ノワールのリアルな手法で表現されるとき、モノクロのフィルムに光と影が交錯する、キャロル・リード監督独特の映像宇宙が冴えまくっていく。

そして、そのフィルム・ノワールの暗鬱な半日の中で、男の出口なき逃亡行程にインボルブされた人々の行動様態や、その心理の振幅を鋭利に描き出していくのだ。

私は、ジョニーという男の逃亡行程にインボルブされたか、或いは、利益目的でそこに近接した者たちを、一応類型的に大別してみた。

以下の通りである。

1 「受容型関与」
2 「利益追求型関与」

ここで重要なのは、このIRAの殺人犯に懸賞金がかけられたことで、そこに絡んで、逃亡者であるジョニーを「商品価値」として見るか否かという点である。

それが、1と2の大別の根拠である。

更に私は、逃亡者を「商品価値」として見ない1に属する人々を、「完全受容」(全人格的受容)、「倫理的受容」、「防衛的受容」と分けてみた。

当然、その逆のパターンの者が「利益追求型関与」。

まず、1の「完全受容」(全人格的受容)に該当する者は、逃亡者であるジョニーを心から愛する女性、キャスリーンの存在以外ではない。

そして、「倫理的受容」に属する象徴的人物はトム神父。

ここに、その二人の会話がある。

その経緯は、雨で濡れた路傍で倒れているジョニーを匿う浮浪者が、彼を案じる神父に金をふっかけ、売ろうとしたことだが、それを契機にした会話である。

「ジョニーを私に下さい」とキャスリーン。
「品物ではないよ」とトム神父。
「どうなさるの?」
「彼は死にかけているようだ。懺悔を聞いて、慰めてやりたい。自首を勧めるよ。仲間の所へ返したら、また、人を殺したりするだろう」
「私が遠くへ連れてって、ご迷惑をかけませんわ」
「匿う気かね?」
「はい」
「人を殺した罪を償わねばならない」
「いっそ、私の手で彼を・・・」
「それはいけないよ」
「なぜ?死刑の方が可哀想ですわ」
「君はどうなる?」
「一緒に」
「何てことを!」
「彼が捕まったら、裁判やら、処刑やら・・・とても耐えられません」

「私の力は、信仰より強いんです」と言い切って、キャスリーンは、「愛」の力で彼に寄り添い、苦悩を共有し、自らの手で殺めようとするのだ。

共に慈愛による「受容型関与」ながら、「完全受容」の女と、どこまでも「信仰」という絶対規範によって行動しようとする、「倫理的受容」の神父との対極の構図がくっきりと映し出されたシーンであった。

この説明的会話は、ラストシーンの重要な伏線になると同時に、作り手のメッセージに通じるので、最後に言及する。



3  「倫理的受容」と「排除型」の交叉、或いは「防衛的受容」について



次に、「倫理的受容」と「排除型」の交叉、或いは「防衛的受容」について。

これは、以下のようなエピソードに象徴されるもの。

中でも、手負いのジョニーを良心的に保護しようとした女性のエピソードが印象的である。

しかし、彼女の夫が帰宅した後、空気が一変する。

IRAの殺人犯と関わり合いになることを恐れる夫は、重症の逃亡者を体よく追い返そうとしたのである。

以下、緊張感溢れる夫婦の会話。

「手配中の男だぞ!何で中に入れた!」
「怪我人だと思ったのよ」
「警察が総出で捜しているテロリストだぞ」
「でも、あの状態じゃ・・・」
「会計係が殺された。罪のない人間を殺すなんて、許せん!」
「仲間を呼んでやりたいわ」
「正気か?」
「犬だって死ぬときは・・・」
「犬は人間の味方だ」
「死にかけている人に冷たくしたくないのよ」
「警察に任すがよい」
「可哀想よ」
「庇い立てすると、俺たちも疑われるぞ」
「じゃあ、あなたが追い出して」

手負いの男が逃亡犯と知った妻は、なお無力なる男に同情するのだ。

「これ以上、ご迷惑をかけません。ドアを開けて下さい」

夫婦の話を聞いていたジョニーは、そう言って、そのまま消えようとした。

厄介者を追い払うことができた安心感からか、礼を言って消えようとする男を、「待って」と止めて、その家の亭主はウィスキーを渡した。

「私のことは忘れて下さい」

そう言い残して、ジョニーは夜の闇の中に消えて行った。

街灯に照らされて、光輝く雨が降っていた。

しかし、夫婦の反応には明瞭な乖離があった事実は否めない。

それは、一貫して自己防衛的な亭主と、限りなく良心的であった妻の乖離である。

この乖離の本質は、「倫理的受容」の行動様態を身体化する妻と、自己防衛的反応に終始する亭主との乖離であると言っていい。

既に、家の中に隠れ込んだ逃亡犯を追い出す術を知らない亭主の行動様態は、「商品価値」という基軸で分けた、先の大別の類型に収斂されないが、その心理に「商品価値」を内包せずとも、限りなくそれは、「排除型」という概念によって説明し得る何かであるだろう。

この夫婦の行動様態の乖離は、「倫理的受容」と「排除型」の交叉という心理の乖離であった。

更に、馭者(ぎょしゃ)に纏(まつ)わる、こんなエピソードがあった。 

「巻き込まれたら困るんだよ」

これは、重傷で殆ど体力が切れたジョニーが、馬車に無断で乗った際に、馭者に言われた言葉。

それでもジョニーは、馭者に安全な場所まで連れて行ってもらったのである。

「仲間には俺が助けたと言ってくれ。警察には黙っててな」

ジョニーを雨の中に放り出したとき、馭者はそう言ったのだ。

この馭者の行動様態は、限りなく「排除型」の心理と切れていて、どちらかと言えば、「防衛的受容」であると言える。

その心理に、特段の「商品価値」を内包していないし、警察への通報も想像できにくいからだ。

雪の中を、一人で彷徨う男。

ジョニーはアイルランドの仲間の酒場にやって来て、酒場の主人から、「これ飲んだら、すぐ出ろ」と言われる始末だった。

この酒場の主人の行動様態こそ、「防衛的受容」の典型であったと言えるだろう。

警察に通報しないが、一時(いっとき)保護することで、自分に及ぶ迷惑だけは絶対に回避したいと願って止まないからである。



4  「利益追求型関与」の者たち



ところで、本作では、逃亡者であるジョニーを「商品価値」として利用しようと振舞う男たちがいた。

私が言うところの、「利益追求型関与」の者たちである。

このIRAの殺人犯に懸賞金がかけられたことで、そこに絡んで、逃亡者であるジョニーを「商品価値」として見るその象徴は、ジョニーをトム神父に売り渡そうとした浮浪者であり、その浮浪者から自分の芸術表現の完成の故に、瀕死の状態にある男の肖像を描こうとした絵描きである。

件の絵描きは、こんなことを言ってのけるのだ。

「他の奴と違う。死にかけてるんだぜ。眼が素晴らしい。精神はまだ生きている。死ぬ前の顔には何かが出るんだ」

嘯(うそぶ)く態度すら見せずに、、性急に絵を描く画家がそこにいた。

瀕死のジョニーの絶え絶えの表情から零れるイメージこそ、件の絵描きが狙う完成形の芸術表現だったのだ。

そして、その絵描きの家に滞在していた元医学生もまた、ジョニーを「商品価値」として利用しようと振舞う男だったと言える。

ジョニーを運び込んだ際の会話がある。

「応急処置して入院だ」と元医学生。
「元気にして、処刑させるのか?」と絵描き。
「消毒薬を早く持ってこい」
「影を作らないでくれ」
「何を描く気だ?」
「死ぬ前の顔には何かが出るんだ」
「誰でもな」
「出てる」
「不可解な恐ろしいものかも知れんぞ」
「俺には理解できる」
「何がだ?」
「人間の正体だ」

その手に湯の入った洗面器を持って、この会話を耳にした浮浪者は、絵描きを横に見て、訝しげに元医学生に問いかけた。

「彼は呪われている」と浮浪者。
「皆だ」と元医学生。
「歩けるようにできないか?俺が送って行くからさ」と浮浪者。

浮浪者は、トム神父の所に、ジョニーを連れて行く約束をしていたからである。

一方、元医学生は、ジョニーの命を救おうと簡単な外科治療を試みた。

しかし穿って見れば、彼の関心は、瀕死の男の生命を救うことで自分の医療技術の腕を検証し、それを病院で認知させるために、ジョニーを利用したに過ぎないようにも思えるのである。

それでも、絵を描き続ける男に輸血の必要を説いて、入院させようとする元医学生の振舞いは、医師になれなかった若者のヒューマンな思いが蘇ったと見えなくもなかったが、そのモチーフがどうであれ、彼の救命行為を「利益追求型関与」のカテゴリーに包含してしまうのは無理があるかも知れない。

また、金のない神父から、金の代りに信仰を授けると言われ、「信仰を金にすると幾らですか?」などと質問する程に無学であるが、その実は、ヒューマンな振舞いをも身体化する浮浪者もまた、単純に「利益追求型関与」のカテゴリーに包含させるのは難しいだろう。

人間は、極めて複雑な存在なのだ。

その行動様態も、多分に〈状況〉に支配されやすく、曲折的に振れやすいのである。

従って、「利益追求型関与」のカテゴリーに包含されるに最も相応しい人物は、絵描き以外ではないと言える。

彼にとって、ジョニーは格好の「商品価値」であった。

薄気味悪い設定だが、それを否定すべくもないだろう。

そんな絵描きと元医学生の口論に、浮浪者は極めて人間らしい言葉を口にした。

「言い争っている間に死んじまうぜ。聞いちゃいられないよ」

なお、口論を続ける二人。

「絵を描かすために処置したんじゃないぞ」と元医学生。
「病院で腕前を自慢するためだろう」と絵描き。
「死ぬぞ」
「静かに死なせろ」
「お前の責任だぞ」
「邪魔するな」
「見殺しにはできん」
「どうせ警察に渡すんだろう」

こんな不毛な問答を耳にしたジョニーは、朦朧(もうろう)とした意識の中で幻覚に襲われる。

そして、その幻覚の終わりにトム神父が現れて、ジョニーはそこだけは明瞭な意識の中で、神父に呼びかけたのである。

「大人になって子供の心を捨てたのです。立派な話ができても、慈悲の心がなければ虚しい言葉になってしまう。予言の才能や理解力や充分な知識があっても、山を動かす信仰があっても、慈悲の心がなければ無意味だ」

それは、瀕死のジョニーの、最初にして最後の絶叫だった。

本作は、これを言わせたいための映画だったのだ。

キャロル・リード監督
この辺りのエピソードは、キャロル・リード監督の人間観察への関心の奥行きの深さを窺わせるものであったが、些か文学的であり、過剰でもあった。

とりわけ、ジョニーの絶叫はあまりに説明的過ぎていて、冷厳なリアリズムの筆致で描き切っていた映像の均衡感を壊してしまったようにも思えるのだ。



5  「完全受容」の振れ方を自己完結したとき



そして、物語は印象的なラストシーンに流れていく。

雪の中、浮浪者に神父の所に連れて行かれるジョニー。

フラフラになって歩行するが、倒れては起き上がり、匍匐(ほふく)のような歩行を繋いでいく。


そしてキャスリーンと再会し、彼女に抱えられながら、ジョニーはなお、朦朧(もうろう)とした意識の中で歩行を繋いでいる。

「まだか・・・」とジョニー。
「うんと遠い所に行くのよ。一緒にね」とキャスリーン。

もはや救えないと覚悟したキャスリーンの拳銃によって、ジョニーは「道行き」の死を遂げるのだ。

雪に埋もれた路傍に、二つの遺体が寄り添っていた。

「いっそ、私の手で彼を・・・」

そう語っていたキャスリーンの言葉が具現したとき、「完全受容」(全人格的受容)を身体化する彼女の行動様態は、このような状況下にあって、それ以外にない振れ方を自己完結してしまったのである。



6  冷厳なリアリズムの筆致で描き切った映像的価値



人間は、自分の意志と無縁であるか否かに関わらず、「非日常」の時間を開いたとき、実に様々な行動様態を身体化する。

或る者は、「善」という名の「道徳的質の高さ」を身体化し、また或る者は、限りなく自己防衛的に振れていく。

その振れ方が過剰になったとき、人間は、「非日常」の起因となった特定他者への排除に動くのだ。

多くの場合、自己防衛的であるか、或いは、排除的な振舞いを身体化するか、そのいずれかの内に収斂される行動様態を具現化するに違いない。

更に、特定他者に対する「商品価値」を見い出して、利益追求的な行動様態を晒すような、極めてグロテスクな風景を剥き出しにする者たちもいるだろう。

本作では、特定他者に対して、「倫理的受容」の行動様態の生き方を挿入することで、作り手特有ののヒューマニズムの表現を代弁させていた。

それらを、冷厳なリアリズムの筆致で描き切った本作の映像的価値は決して低くはない。

傑作であると言っていい。

前述したように、グロテスクなシーンの挿入が些か気になったが、それでも、「非日常」の時間の侵入を受けたときの人間の行動と、その心理の振幅を、モノクロの暗鬱なフィルムに刻み付ける物語構成には、決定的な破綻は全く見られなかった。

第三の男」に継承されていく作り手の、その本来の力量が深く記憶された一篇だった。


(2011年4月)

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