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2011年4月1日金曜日

鳥('63)      アルフレッド・ヒッチコック


<「得体の知れない恐さ」を描き切った本作の凄み>



1  「得体の知れない恐さ」を描き切った本作の凄み



恐怖は、怒り、嫌悪、喜び、悲しみと共に、人間の基本的な感情である。

生物学的感情を惹起させる、特定的対象に対する「得体の知れない恐さ」を持ったとき、副腎髄質から分泌されるアドレナリンによって、その特定的対象と戦う生理的反応の供給を途絶えさせる〈状況〉に自我が捕捉されてしまったら、人間はどうなるのか。

怯え、慄き、震えるだけであろう。

理屈で説明し得ない〈状況〉に呑み込まれた恐怖感の極点こそ、「得体の知れない恐さ」に対する無力感であると言っていい。

この無力感を分娩させる「得体の知れない恐さ」を描き切った本作の凄さは、何より理屈で説明し得ない〈状況〉に呑み込まれた人間の、本来的な「脆弱さ」に肉薄し得た故である。

「鳥が、なぜ人間を襲うのか」

この根源的問題が最後まで説明されない本作の物語構造こそ、本作の凄みであり、最大の成功因子だった。

この本質的事態についての、トリュフォーの指摘は正しいのである。

以下、映画関係者のバイブルのような、「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」からの引用。

「鳥たちがなぜ急に人間を襲うようになったかという、もっともらしい理由づけをおこなわなかったことは、この映画の最大の成功だったと思います。これは明らかにスペキュレーション(空想のこと/筆者注)であり、ファンタジーであるわけですね」」(「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」山田宏一、蓮實重彦訳 晶文社)

ヒッチコック監督
このトリュフォーの指摘に対する、ヒッチコック御大の反応は、「まさにそのとおりだ」の一言。

「つぎのシーンで何が起こるか、絶対に予測できないようにつくった」

ヒッチコックは、こうも言うのだ。

そして、その言葉通りの映画を作り上げたのだ。

何より、本作の凄いところは、「核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品」(ウィキ)という、「ゴジラ」(1954年製作)映画に象徴される、如何にも取って付けたような、動物を「主役」した特撮恐怖映画に堕する欺瞞性を、べったりと張り付ける愚を犯さなかったことに尽きる。

或いは、ヒッチコック自身の観念の含みの有無を理解せずとも、「『文明』の象徴としての『バベルの塔』を作り出す、傲慢な人間に対する自然界の復讐」などという、安直なテーマ設定を拒絶した点にあると言ってもいい。

大体、ヒッチコックの映像宇宙に、「深遠なテーマ」を要求する方がどうかしているのだ。

更に、本作が素晴らしいのは、「『善』なるものとしての、襲撃された人間の、『悪』なるものとしての『鳥退治』」という、予定調和のハッピーエンドの解決をも蹴飛ばしているところである。

「サイコ」より
それ故、本作は、人間の防衛機構としての「恐怖感情」を、最高の物語構成と、ヒッチコック流の凝った、映像を切り繋ぐカット割り(画面の転換効果)などの巧みな表現技巧によって、テンポの良い演出を保証することで、マキシマムに表現し切った奇跡的傑作という評価を決定づけるに至る。

且つ、本作は、独自のスタイルを決して捨てることがなかったヒッチコックの、「実験映画」としての面目躍如たる、ヌーベルバーグ好みの一篇でもあった。

かくて、前作の「サイコ」(1960年製作)の成功で、需要サイドからのハードルを上げられたプレッシャーを物ともせず、その上をいく「全身娯楽映画」の快作を世に放ったという訳である。



2  人間を特定的に襲う、「悪魔」の使いをイメージさせる無秩序の世界



前掲書で、ヒッチコックは、物語の布石となる冒頭シーンについて言及していた。

「可哀想じゃない。可愛い小鳥を閉じ込めてさ」

これは、妹への贈り物として、ラブバード(ボタンインコ)を買いに来た弁護士のミッチが、バード・ショップの店員に成り済ましたメラニー(本作のヒロイン)に放った言葉。

ボタンインコ(ウィキ)
「放し飼いにはできませんもの」

気の強いメラニーも、負けてはいない。

「別の籠に入れるのは何の目的?」とミッチ。
「種族を守るためです」とメラニー。

この何気ない会話が、初対面のミッチへのリベンジ目的で、番(つが)いのインコを持って、ミッチが週末に戻るサンフランシスコの、ボデガ湾沿いの集落の実家に、いたずらを仕掛けに行くというユーモア含みの展開に繋がっていく。

邪気のないメラニーの児戯的な振舞いだったが、このシークエンスの中で、そんな彼女が唐突に、湾内に巣食う一羽のカモメに襲われるという最初の受難に遭遇する。

いたずら返しのメラニーの振舞いが示唆するものは、「放し飼いにはできませんもの」と言った彼女への、「鳥からのペナルティー」の初発の一撃だったという訳だ。

そして、この小さな個人的アクシデントが、ここから開かれる異常な事件の発端になっていく。

ボデガ湾沿いの集落に出現する鳥の大群。

カラスだらけのジャングルジム。

まもなく、その鳥の大群が人間を襲い始めたのだ。

かつての恋人であるミッチへの想いを捨てられない、アニーが勤務する小学校の庭に、カモメの群れが生徒たちを急襲したのである。

以降の展開は、まさに人間を特定的に襲う、「悪魔」の使いをイメージさせる無秩序の世界。

暖炉の煙突から舞い込んで来た鳥の群れ。

目玉をくり抜かれていた農夫の死。

軽食堂で、鳥の異常現象について語り合う人々の眼の前で出来する、「悪魔」の使いの「狂気」の乱舞。

ガソリンスタンドの給油管からガソリンが洩れ、爆発と火災の連鎖。


本作の中で出色の出来栄えとも言える、有名な「鳥の俯瞰ショット」のシーンである。

「カモメが町を襲うために降下しはじめるところを見せるため」と説明する、このシーンについて言及したヒッチコックの言葉を、前掲書から引用する。

「ほんものの生きたカモメを高い台から放った。もちろんカモメ専門の調教師がいて、その男の頭上すれすれに飛ぶように訓練されたカモメだ。その調教師が給油係の役をやって、カモメが頭上をかすめていった瞬間に、いかにもひとつきやられたようにオーバーに演じてみせてくれたわけだよ」

CGのない時代の撮影の困難さを印象付けるエピソードである。

以降も、集落がパニックに陥り、ミッチの妹のキャシーを守って死んだアニーの悲劇。

そして、本作のヒロインであるメラニーが、屋根裏部屋で鳥の群れに襲われた。

ミッチに救出されるメラニー。

ミッチは、母や妹、メラニーを連れ、集落を脱出する。

本作のラストシーンである。



3  「メラニー・ダニエルズの試練の物語」という受難の映像



ここでもう一度、テーマについて考えてみよう。

「餌」を枯渇させた猛禽類が人間を襲うなら、一定の説明がつくだろう。

カモメに襲われるメラニー・ダニエルズ
しかし、カモメが人間を特定的に襲うという〈状況〉を、誰が正確に、科学的に説明し得るのか。

だから怯え、慄き、震えるのだ。

この「得体の知れない恐さ」こそ、本作の全てと言っていいかも知れない。

ヒッチコックは、最も弱き動物が人間を襲うという「得体の知れない恐さ」の極限を描き切ったのだ。

自分より圧倒的に弱いと信じるものに襲われる恐怖が、そこにあるのだ。

その意味で、本作を形而上学的に、或いは、メタファーで説明し得る方法論も可能であろう。

それについての最も分りやすい説明は、以下のような文脈である。

即ち、「得体の知れない恐さ」の極限を描き切っていく心理プロセスと、恰もパラレルに進行していくかのような人間ドラマとの連関がそれである。

例えば、ボデガ湾沿いの集落で、週末に一人息子を待つ母親の独占欲が、それを妨害するであろう二人の女性に対する防衛的攻撃性という、歪んだ自我の曲折的行為になって顕現したというもの。

息子を占有したいという母親の尖った嫉妬感が、鳥の化身になったというメタファーな解釈がそれに当たるが、しかし、その母親も鳥の襲撃の対象にされ、自我を劣化させていく心理をも本作が拾い上げていたことを考えれば、この解釈には相当無理があると言わざるを得ない。

メラニーとミッチ母子
なぜなら、その母親の心理の歪みが、彼女の攻撃性の標的になったはずの二人の若い女性の受難の中で、却って懊悩を増していた内的過程があり、とりわけ、メラニーに介抱されて、「傍にいて欲しい」などという懇願を示すシーンに象徴されるように、彼女への深い感謝の心情をも描かれていたからである。

しかも、自分の一人娘の窮地を救ったアニーに対する敵意など、本作では全く拾い上げられていなかった。

他にも、「得体の知れない恐さ」の受難の中で、母親の独占欲から解放されたミッチの「父性」の立ち上げという解釈など、本作のメタファーを、人間ドラマの交叉の中から読み取ることも可能であるが、私から言えば、それらの穿った解釈こそ、ヒッチコックのシンプルな物語構成から、「深いテーマ性」の含意を我田引水的に引き出そうとする斜め読みでしかないように思えるのだ。

ここで、ヒッチコック自身の言葉を引用することで、「得体の知れない恐さ」の受難の意味を考えてみよう。

アニーはミッチの傍にいられるだけで満足な女性ゆえ、「すでに死を宣告された人間のようなものだ」(ヒッチコック)と考えたから、彼女は自分の命を犠牲にして死んでいく。

しかし、メラニーの場合は、アニーとは違う。

ヒッチコックは、そう考えた。

「この映画を一つの体験として生きてきた主役はティッピ・ヘドレン扮するメラニー・ダニエルズなのだから、当然、最後の試練も彼女が受けるべきだとわたしは考えたのだ」(前掲書)

本作の最も迫力ある火事のシーンで、メラニーが電話ボックスに閉じ込められた描写の構図こそ、「得体の知れない恐さ」の受難の極点であると言っていい。

支配する者が、支配されるものから支配されるという、「権力関係の逆転」を示す究極のパラドックスが、そこにある。

「何でこんなことが・・・貴女がこの町に来てからだわ…あんた、誰なの?何処から来たの?原因は貴女なのよ。この悪魔!」

このシーンの直後、鳥が去った軽食堂で、一人の婦人からメラニーが指弾されるのである。

まさに、メラニー・ダニエルズこそ、「得体の知れない恐さ」の受難に遭遇する、「善良」なる村民からラベリングされた、それ以外にない「悪魔」の記号であるという訳だ。

その帰途、キャシーを守るアニーの死と、カラスの群れの不気味な構図が挿入され、全面的解決を得られないラストシーンに流れていくのである。

そこで、私の主観の濃度の深い解釈。

私は本作を、シンプルに「最も弱い動物」である鳥の群れが、この世で「最も強い動物」である人間たちを襲撃することで、最大級の恐怖感を与えたサスペンスホラーであると把握しているが、敢えて、人間のドラマとしての本作を拾い上げるとすれば、前述したように、「この映画を一つの体験として生きてきた主役」であり、中心的視点を占有し続けた「メラニー・ダニエルズの試練の物語」という風に考えている。

全ては、彼女の悪戯から端を発し、それ故に受難に遭うという読解の方が、より説得力を持つと言えるからである。

(2011年4月)

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