<ハッピーエンドの「ヒューマンドラマ」に収斂される流れを担保にとる姑息さ>
1 「旅は、人を変容させる」というロードムービーの基本命題
「旅は、人を変容させる」
全てとは言わないが、この「変容」という概念に収斂される極め付けの幻想が、ロードムービーの基本命題である。
従って、ロードムービーを成功させるのは、「変容し得る」エピソードを繋いでいくしかない。
時には、劇的な事件・事故を挿入させる定番的手法を踏襲し、最後にとっておきの「感動譚」を待機させることで、観る者が予約しているはずのカタルシスを先読みし、それを保証する。
「心が浄化された」という印象を決定づける「ヒューマンドラマ」が、ここに自己完結するのである。
2 長男の「行動変容」と、姉弟のリターンの速攻性
さて、本作のこと。
この映画が鬱陶しいのは、殴り合いの喧嘩さえ辞さない兄姉弟のうちの、兄と姉が、本当に殴り合いの喧嘩をする程に険悪な仲であるのに、「文明」のバリアを少しずつ剥いでいき、否が応でも、「苦闘の旅路」の中で裸形の人格を濃密に交叉させていけば、「感動の抱擁」を手に入れることが可能であるというメッセージを、オーソドックスな批判を封じ込めるに足るコメディラインを通して堂々と描き切ったことにある。
9人もの登場人物を配して、それぞれに相応の「人生」の交叉を入れ込んで、煩わしい時空の旅を、シュールな映像付きの「夢」のシーンの挿入を繋ぎながらも、この兄姉弟のエピソードだけは、比較的に丹念に拾い上げていた。
以下、再現してみる。
キリスト教の聖地、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(画像は、サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂)に到達することなく、遺産をもらえる地点まで歩行を繋いで来て、兄姉弟は旅を中断して戻って行く。
ところが、長男のピエールは途中で引き返すのだ。
「どこへ?」と弟のクロード。
「続ける。旅を。聖地まで。途中で止めたくない」と兄のピエール。
ピエールには心臓病のリスクがあり、そのため薬が不可欠なのだ。
その薬がなくても、彼は旅を繋ぐ意志を結んだのである。
「何の途中だ?」とクロード。
「遺産をもらいに行けよ」とピエール。
「サン・ジャックへ?」と姉のクララ。
「歩くと気分がいいし、サン・ジャックを見たい」とピエール。
「大聖堂しかない。大聖堂はフランスにも」とクララ。
「バスに乗れよ。私は止めていない」とピエール。
「私たちより優秀だと証明したいのか?」とクロード。
「勝手にそう思え、私は何もして来なかった。私の人生は失敗だ。誰にも愛されず、妻は酒びたりで、自殺寸前。でも、私にも生きる権利が。初めて人と交流できたんだ。なぜ、邪魔をする?皆に好かれているくせに、この上何が望みだ?」
そう言って、ピエールは巡礼の後を追い駆けていった。
ついで、クララが追い駆け、クロードが一緒に付いていく。
これが、本作の中で最も重要なシーンであると言っていい。
3 ハッピーエンドの「ヒューマンドラマ」に収斂される流れを担保にとる姑息さ
財産目当てで、「サン・ジャック」を目指したはずの兄姉弟が、待望の財産獲得権を手に入れていたにも関わらず、長男のピエールが「行動変容」を示した心理は理解できなくもない。
彼のこの吐露は本音であるだろうし、今や、大自然に抱かれて、「苦闘の旅」を繋いで来た、その汗と苦労を全人格的に染み込ませているが故に、簡単に「ここで降りた」と締め切ってしまうのは、ある意味で、「敗北感」という厄介な感情を分娩することにもなり兼ねないだろう。
それは、「苦闘の旅」の内実が、彼の「行動変容」をもたらした副産物であると言える。
同時に、ピエールの後に続いて、クララとクロードが「行動変容」を身体化した心理も、同じ文脈で読むことが可能だろう。
既にこの時点で、険悪だった兄姉弟の関係修復の軟着点は、ほぼ完成されたと言っていい。
この辺りの3人の心理の振れ方には、それなりの説得力があったが、勝負を賭けたこの描写がコメディラインの枠を逸脱することで、観る者に与える効果的、且つ、柔和な温度差となって、「心が浄化された」という印象を決定づける、「ヒューマンドラマ」の定番的保証のうちに収斂されていったのだ。
効果的且つ、柔和な温度差を、巧みな表現技巧で見せた物語には、それを検証する背景があった。
クララには、友人に騙されて、この旅に随伴した非識字者のラムジィへの識字教育が、重要なエピソードとして描かれていたことを思えば、彼女の「行動変容」には主体性が見られるのである。
ただ、私が気になるのは、携帯が唯一通じる場所で、皆が「文明」に残した家族と集中的に連絡を取り合うシーンに象徴されているように、このロードムービーの背景に、「文明から最も離れた時空」という格好のステージが用意されていて、恰も、このような種類の旅を繋ぐ条件さえ揃っていれば、「文明」で喪失された「人間性の復活」が可能になるという、身も蓋もないメッセージが読み取れることだ。
しかも、このメッセージを、コメディラインの物語の中枢に軽い筆致で流していくので、観る者はそこに、社会派的なテーマの押し付けを、特段に受信せずに済む気楽さが保証されているのである。
社会派的なテーマの押し付けを、簡単にスル―し得るからだ。
ところが本作は、この軽快なタッチのコメディラインの勢いで、世俗化した既成宗教へ辛辣な批判をも内包させていくから、正直、私にはそのあざとさが最後まで気になって仕方がなかった。例えば、旅の冒頭で、こんなシーンがあった。
カトリックを手酷く批判する、労働者階級を代表するような、頑固な性格のクララの物言いだ。
世俗化し、堕落した既成の教会批判への一例を拾ってみよう。
教会で祈りを書いた紙を箱に入れれば、ミサで読まれるという神父の話に則って、一人一人、祈りを書いた紙を書いていく。
その一文。
「ガンも夫も戻って来ませんように」
こう書いたのは、中年の女性マチルド(画像左)だ。
以下、彼女の紙を読む尼僧同士の会話。
「ガンはともかく、夫は・・・」
「夫は削除?」
「望は叶えないと」
「“夫は戻るな” とミサで言うの?夫は悪者かもね」
「病気も彼のせいかも」
「そうね。どうする?」
「“病気の治癒と、家族への加護を・・・”」
こんな感じで、カトリック教会の尼僧たちは選別するのだ。
これは、世俗化した既成宗教を指弾する、クララの主張の随所に散見されるものであった。
最も自立的で強気の女を重要な登場人物に据えることで、そこに、作り手の仮託された思いが収斂されているように見える。
非識字者のラムジィに、まさに、この艱難(かんなん)な旅の行程で識字教育を実践するという、その一連のシークエンスにおいても、現代教育批判のメッセージを受信し得るものだが、このクララが、兄と和解するラストシーンを見る限り、彼女の「行動変容」の本質が、「聖地到着」という宗教的なメンタリティに存在しないことを、この映画の作り手は存分に語らせているようでもあった。
しかし、私には大いに不満が残る作品だった。
深みが希薄な印象を拭えない本作の物語を通して見えたもの ―― それは、アラブ教徒の非識字者が、「聖地」のモニュメントに上がって、「アラーの神、万歳!」と叫ばせるシーンに至るとなると、もうこれは、宗教・人種・思想・文化などの一切の障壁を除けば、均しく平和になるというメッセージすら挿入させてしまうのである。
このような主張を、ハッピーエンドの「ヒューマンドラマ」に収斂される流れを、観る者に予約するという担保をとる姑息さが、「何でもあり」の、お手軽なコメディラインを通して押し出されて来るから厄介なのだ。
要するに、「旅は、人を変容させる」というロードムービーのキーワードを、関係の交叉を精緻に累加させるプロセスを通して描くという手法を捨てて、「あれもこれも」という、様々なエピソードを満載させた群像劇の中に拡散されてしまっていたのである。
これが、本作の物語の骨格の脆弱さであった。
だから、多くの「感動譚」を混淆させてしまうことで、鑑賞後の「余情」が呆気なく雲散霧消してしまったのである。
残念ながら、私にとって本作は、「何となくハートフルコメディ」という印象のまま閉じて、鑑賞後5分も経てば忘れる類の凡作でしかなかった、と言わざるを得ないのだ。
4 ロードムービーのハードルの高さを突き抜けるもの
この映画を観て、つくづく再確認させられたことがある。
それは、「旅は、人を変容させる」というロードムービーの基本命題に固執する限り、観る者にカタルシスを保証する、在り来たりの「ヒューマンドラマ」のカテゴリーを逸脱することがないということ。
今や、ロードムービーのネタが枯渇しているとは言わないが、それでも、「旅は、人を変容させる」というロードムービーの物語構成は、「山の郵便配達」(1999年製作)のように登場人物を限定(2人+1匹)し、そこで精緻な内面交叉を描くという方法論か、それとも本作のように、シュールあり、大自然をステージにしての識字教育あり、というような様々な要素を包含させた群像劇という、奇を衒(てら)った方法論で勝負するか、殆ど、そのネタが出尽くされているようにも見えるのだ。
そして、両作品ともに、「文明」批判のメッセージを張り付けるという厄介な問題を抱え込むことで、主題先行の自家撞着に陥るリスクを内包させる羽目になって、自らの手足を縛り兼ねない、狭隘な表現世界のお伽話と化す危うさを持つに至った。
思うに、「文明批判」などという厄介な問題を確信的に蹴飛ばすことで、「ヒューマンドラマ」の最高到達点を示したと思われる、「スケアクロウ」(1973年製作)という大傑作と比較した場合、もう、これを凌駕するロードムービーを立ち上げるのは殆ど不可能であると言っていい。
コリーヌ・セロー監督 |
今や、「旅は、人を変容させる」という、ロードムービーの構築力の難しさを甘受せざるを得ないのだ。
だからこそ、「バウンティフルへの旅」(1985年製作)とか、「ハリーとトント」(1974年製作)のように、ロードムービーの基本命題に雁字搦めに縛られることなく、日常性のレベルを、ほんの少し「非日常」の世界に近接しただけでも、地味な作品だが、これほどの名画の創作の可能性の存在を無視できないのである。
要するに、ロードムービーのハードルが、ここまで上がってしまった以上、本作のように、何でもありの「ごった煮」とも言える、「ヒューマンドラマ」の方法論で勝負する以外になかったのだと思われる。
詰まる所、気楽に観れば、それで万事良いOKなのだろう。
(2011年6月)
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