<「対象喪失」の深甚な懊悩を糊塗するための、それ以外にない幻想の城砦が崩されたとき>
1 愛する者を喪った悲嘆を癒す「仕事」の艱難さ
「対象喪失」の懊悩を描いた作品は多いが、その代表的作品は、ナンニ・モレッティ監督の「
息子の部屋」(2001年製作)であると、私は考えている。
「息子の部屋」では、「グリーフワークのプロセス」について精緻に描き切っていて、極めて印象深い作品だった。
因みに、「グリーフワークのプロセス」とは、愛する者を喪った悲嘆による「ショック期」→「喪失期」→「閉じこもり期」→「再生期」と続いていく、曲折的なプロセスである。
とりわけ、「喪失期」は、訳もなく怒鳴ったり、ぶつけようのない怒りを噴き上げたり、或いは、特定他者への敵意を剥き出しにしたり、更に厄介なのは、深い自責感によって、必要以上に自己を追い詰めていくという負の感情がリピートされていくが故に、自己の精神状態の抑制的維持がとても難しいのである。
また、「閉じこもり期」では、自責感情が噴き上がって止まらないという精神状態を露呈し、時には、自死に振れていく危うさをも持つだろう。
愛する者を喪った悲嘆を癒すのは、如何に困難であるかということだ。
2 「対象喪失」の深甚な懊悩を糊塗するための、それ以外にない幻想の城砦が崩されたとき
ところが本作では、「息子の部屋」のように、「グリーフワークのプロセス」という曲折的な心理的展開が見られないのである。
なぜなら、ヒロインのマリーは、「夫の死」を受容していないからだ。
通常の観念では、「愛する者の死」を受容していないということは、「愛する者の不在」を認知しても、その「不在」に対する孤独感を感受している心情が生き残されていることと同義である。
然るに、彼女の場合は、この通常の観念をも突き抜けていくのである。
彼女は、「愛する夫の不在」の認知すら拒絶するのだ。
彼女の中で、「夫の死」の受容の拒否を支えている観念は、「夫の死」が物理的に確認されていないという現実が存在するからである。
夫が突然、避暑地近辺の海岸から姿を消した理由について、彼女なりに懊悩し、その合理的解答を得るための煩悶を重ねたに違いないだろうが、その結果、彼女は、「愛する夫の不在」の認知に逢着したのである。
「夫から愛される妻」という自己像が、彼女の内側深くに根を張っている、幻想の城砦のうちに依拠し得たからだ。
万が一にも、愛する夫が、自分を見捨てて失踪する訳がないと考えたであろう。
従って、「夫の不在」という現実を受容するには、「夫の死」の現実の受容以外に心情的に考えられないが故に、彼女は、「夫の不在」という現実の認知を拒否する以外になかったのである。
この発想は、現実を根柢から歪める思考であるが、しかし彼女には、それ以外に自己防衛の手段がなかったのだ。
だから彼女は、「夫の不在」を認知せず、友人たちにも、夫との同居の継続を語って止まないのである。
精神科へのケアを勧めたい友人たちも、彼女の思いを汲み取ることによって、一切、彼女のプライバシーに関与しなかった。
当然の心理である。
そんな中で、彼女への想いを抱くヴァンサンだけは積極的にアプローチしていく。
いつしか、二人は男女の関係を結ぶに至るが、ヴァンサンに対するマリーの基本感情は全く変わることがなかった。
単に、更年期の肉体の疼きによる衝動が、ヴァンサンとの関係を保持しているに過ぎない現実を露わにしていくのだ。
「だって、あなた、とても軽くて」
そう言って、笑い出すマリー。
二人が初めて関係を持ったときの、マリーの言葉である。
何より、この言葉は、肥満気味の夫への触感的記憶のみを持つ彼女自身の、頑なな想いを代弁するものだった。
そんな彼女に、ヴァンサンが執拗に絡んできた。
以下、その時の会話。
「私だよ。大丈夫だ」
夫の書斎のソファーで、横になっていたマリーを起こした際の、ヴァンサンの言葉である。
「何で見つめるの?」とマリー。
「目覚めたら、君がいなかった。心配したよ」とヴァンサン。
「ここで寝たかっただけ」
「ご主人の書斎か?」
「そうよ」
「今となっては・・・」
この時点で、ジャンと思われる遺体が発見されたという事実を、ヴァンサンは知っていたのだ。
だからこそ、余計、ヴァンサンは通常の精神状態を保持し得なかったのである。
マリーもまた、同質の精神状態だった。
「それ、どういう意味?」とマリー。
「ご主人の件は知っている。君が口を開くのを待っていた」とヴァンサン。
「あなたには分らない」
「力になる」
「よして。あなたは私の何?何者でもない。ほっといて!」
その日の朝食後、話があると呼び出されたのに、無粋な態度を取られたヴァンサンは、封印し切れない思いを吐き出した。
「僕を何だと思ってる?彼のことは忘れろ」
「じゃ、言うわ。あなたは重みがないの」
禁句とも思える、尖り切った一言だ。
既に、そんな彼女に決定的な事態が訪れていた。
夫の死の報告である。
それは、夫婦の夏のバカンスであったランド地方の近くの浜辺で、泳ぎに行くと言って、そのまま行方不明になった夫の水死体が発見されたという、警察からの連絡だった。
この報告を受けた彼女が、正常な精神状態を保持するのは極めて困難だった。
内側に封印してきたものが、一気に現実の世界に引き戻されてしまうからである。
幻想の世界で仮構していた、自己防衛のための都合のいいお伽話が、その根柢から瓦解する危機に陥ったのである。
およそ世俗の何ものとも共有し切れないお伽話の生命線は、本来的に脆弱である外ないのだ。
決してあってはならない、「対象喪失」の深甚(しんじん)な懊悩を糊塗(こと)するための、それ以外にない彼女の幻想の城砦も、その例外ではなかったのである。
3 「愛する者の死」を受容する現実の崩壊感覚の危うさ
もし、夫の死が事故死ではなく自殺であったなら、自殺せざるを得なかった夫の思いを忖度(そんたく)し得なかった、自分の道義的責任の問題に還元されてしまうのである。
贖罪感が形成されてしまうのだ。
然るに、その後、夫が精神科医に通院していた現実を彼女が知り、そこで処方されていた抗鬱剤についての情報を知るに至る。
明らかに、夫であるジャンは、自分が全く想像し得ない世界で一人悩んだ末、自分を置き去りにしたまま、夏の海の彼方に確信的に潜り込んでいったのである。
その現実を認知することは、「グリーフワーク」の広義の範疇をも逸脱して、殆ど、PTSDの世界に搦(から)め捕られていく危うさをも露わにするだろう。
彼女は養老院に入っている、夫の実母を訪ねたとき、その母から冷たく言い放たれた。
「真実はもっと残酷。ただ単に失踪したのよ。人生に飽きたか、あなたに飽き飽きしたか。新しい人生に出発したのよ」
ウツの薬を常飲していた事実を知りながらも、息子の自殺を信じないジャンの母は、こう言い切ったのだ。
「真実はもっと残酷」と言い放った、夫の実母の毒気に満ちた言葉を受けた後、彼女は重い腰を上げて、腐敗し、膨張して爛(ただ)れ切った夫の検死を自ら望むが、遺品の時計が夫のものではないという理由で、なお、夫の死を拒絶するのだ。
この心情は、相当の危うさを孕んでいる。
それでも、懸命に自己防衛してきた幻想の城砦が崩壊し、そこに穿(うが)たれた決定的な心的外傷の故に、彼女自身、狂気とのボーダーが見えない辺りにまで潜り込むしかなくなっていく。
しかし彼女は、「対象喪失」の懊悩から、もう逃げられない。
心のどこかで、「愛する夫の不在」を拒絶し得ない現実に捕捉され、「グリーフワークのプロセス」という曲折的な心理的展開を必然化しつつあったからだ。
映像のラストシーン。
海岸に向かったマリーは、浜の砂を手で掻きながら、存分に嗚咽するのだ。
「愛する者の死」を受容したのである。
「グリーフワークのプロセス」で言う、「喪失期」が開かれたのである。
そんな中で、遠方にジャンと思しき男を視認した彼女は、居た堪れなくなって、その幻影を確認するかのように駆け走っていく。
この詩的な構図は、「愛する者の死」を受容しつつも、容易に捨てられない想いとの、内的共存を必至とする女の、困難な精神世界を示すものと言っていい。
PTSDの世界に搦(から)め捕られていく危うさをも内包する彼女の、近未来の予定調和の軟着点は全く保証されていないのだ。
「悲嘆は悲嘆によってのみ癒される」
グリーフワークの基本命題とも言える言葉だ。
この言葉の重さを充分に痛感させるに足る、寡黙な映像の内面的表現力の高さに脱帽した。(画像は、フランソワ・オゾン監督)
「愛する者の死」を受容する現実の崩壊感覚の危うさという、基幹テーマとは脈絡を持たない余分な贅肉を一切削り取って構築した映像は、ヒロインの内面世界の漂流感が際立つ効果を生み出すに至った。
とても良く構成された映像だったと思う。
(2011年7月)
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