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2011年7月14日木曜日

川の底からこんにちは('09)    石井裕也


<「深刻さ」を払拭した諦念を心理的推進力にした、「開き直りの達人」の物語>



1  「開き直った者の奇跡譚」という物語の基本骨格



本作の物語の基本骨格は、「開き直った者の奇跡譚」である。

「開き直った者の奇跡譚」には、物語の劇的変容の風景を必至とするだろう。

独断的に言えば、物語の劇的変容の風景を映像化するには、コメディーというジャンルが最も相応しいと考えたに違いない。

奇麗事で塗りたくってきたこの国の映像文化から、一切の虚飾を剥いで、裸形の人間像を生のまま提示できるからであり、また、精緻な内面描写も、「展開のリアリズム」への配慮も蹴飛ばせるからである。

だから、スラップスティック・コメディと一線を画して、そこに過激とも思える会話や振舞い、加えて、作り手が勝負を賭けたに違いない過激な社歌の合唱シーンを挿入することで、限りなく虚飾を剥いだ、裸形の人間像を生のまま提示したかったのではなかったのか。

物語の劇的変容の風景を必至とする「開き直った者の奇跡譚」は、或る意味で「戦略的映像」ではなかったか。

その「戦略的映像」を、私なりに受容していくと、その問題意識は、「開き直り」の心理学が教える、「奇跡譚」のパワーの人間学的考察という文脈に落ち着くだろう。

従って、本稿のテーマは、「開き直り」の心理学が教える、「奇跡譚」のパワーの人間学的考察の内実ということになる。

結論から書いていく。

この「奇跡譚」のパワーの人間学的考察を要約すると、「ネガティブな自己像」を持つ者が、その自己像を囲繞する「ネガティブな状況」にすっかり搦(から)め捕られて、そのまま放置しておくと、自己像の主体である自我が壊されるかも知れないというギリギリの辺りで、その時点で選択し得る最も合理的な自己防衛戦略を駆使することである。

以下、物語に沿って考えてみよう。



2  「ネガティブな自己像」が「ネガティブな状況」に持っていかれたとき



本作のヒロインである佐和子は、自分は「中の下」であるという「ネガティブな自己像」で固めていた。

高度成長期の根拠の希薄な中流幻想とは異なって、「中の下」であるという、極めてリアルな把握自体、特段に問題ないが、佐和子の場合、そこに自虐的とも思える諦念が張り付いてしまっていたのである。


具体的に言えば、転々して、5つ目の職場の派遣社員であると同時に、故郷から駆け落ちした18歳以来、既に4人の男に捨てられて、5人目の現在は、女房に逃げられた、セーター編みを趣味とする、子持ちの女々しい男を彼氏にしているという「妥協の産物」。

このような経験則の中で固められた自己像は、彼女にとって、不毛な上昇志向を寸止めにする、一種の有効な自己防衛戦略であったと言っていい。

ところが、有効な自己防衛網を巡らしたヒロインが、彼女の叔父(父の弟)によって、半ば強制的に、「ネガティブな状況」に持っていかれてしまったのだ。

一度は捨てた故郷で、シジミ工場を経営する父の入院という由々しき現実が、彼女をして、女性中心の工場の従業員たちからモテモテの、父の不在のシジミ工場の再建のために帰郷せざるを得なくなり、有無を言わさず、その状況に捕捉されてしまったのである。

「尊敬すべき父親を捨てて、東京に駆け落ちした性悪女」



このラベリングが、帰郷した佐和子を包囲し、性悪女を冷眼視する視線が職場の空気を、一層、険悪なものにしていくのだ。



佐和子にとって、ある種、自己防衛戦略的な「ネガティブな自己像」を繋いできただけの青春の軽量感が、「ネガティブな状況」に捕捉されることで、否が応でも、彼女の内側に「二重課題」の負荷を受けるに至ったのである。


「二重課題」とは、単に、彼女を捕捉した「ネガティブな状況」が分娩する心理的不安感に留まらず、彼女の自我のうちに不必要な観念が形成されたことで、これが厄介な克服課題と化した現象を言う。



不必要な観念とは、「工場を再生させなければならない」という、言わば、断崖を背にした者の過剰な使命感のみならず、同時に、ほぼ同質の重量感を乗せて、「この仕事は失敗するだろう」という相反する観念のことで、これらが彼女の自我のうちに共存してしまったのだ。

後者の場合は、明らかに、自己防衛戦略を駆使して仮構した彼女の「ネガティブな自己像」が、殆ど問題なく推移してきた、これまでの、実質「損得ゼロ」に近い、ダメージ・コントロールの固有のプロセスの中に、リアルな絶対課題が侵入してきてしまったことを意味する。

彼女を侵蝕するこの心理圧は、以下のシーンで、その苛立ちが読み取れるだろう。

「やんなきゃ、しょうがないでしょ。自分で出したものなんだしさ。そもそも、ウチはボットン便所なんだし、あたしが撒くよ。母さんが死んだ6歳のときから、これやってんの、あたし。いいからやってよ。エコライフがしたいんでしょ」

これは、会社を辞め、子連れで随伴して来た、恋人である健一にぶつけた佐和子の苛立ち。

因みに、「あたしが撒くよ」と言って、「自分で出したもの」とは、佐和子自身の糞尿のこと。

「結婚、どうするの?」と健一。
「そういうこと、聞ける立場なの?ちょっとは私の立場、考えてくれない。もう、ここまできたら、やっていくしないんだからね」
「ごめん」
「ごめんじゃないよ。工場だって危ないんだから。貯金だってないし・・・」

ざっと、こんなリアルな会話だが、その直後、一転して、佐和子の駆け落ちの件で逆襲する健一。

「自分で罪悪感とか、負い目とかないの?」
「あるよ。ある。ある。バカだなって思うし、自分、ダメだなって色々考えるし、だから、あんたみたいなバツイチと付き合ってるんでしょ。あんた、ダメな男。だって、あたしだって、大した女じゃないからね。悪いけど。だから、この先、あんたとやっていくって、あたし決めたの」
「佐和ちゃん、それ、開き直り過ぎじゃない?」

如何にも、コメディーラインの展開だった。




3  二重課題の負荷を克服する方略




ここで、「二重課題」の負荷の問題に、もう一度戻そう。

父の発病と、不安を抱える叔父
即ち、防衛戦略としての彼女の「ネガティブな自己像」が、「ネガティブな状況」というリアリズムに雁字搦めに縛られることによって、「事業の再生」という難題が突き付けられたとき、既にそこには、「失敗するだろう」という意識が張り付いてしまっているので、軽量感覚で鈍走してきた彼女の青春史の中で、最も苛酷な状況に呪縛されてしまったのである。

これが、二重課題の負荷の内実である。

この二重課題の負荷を克服するには、方法は一つしかない。

不安を持つ心理は変えようがないので、もう一方の、不必要な観念を起因とする心理圧を無化することである。

即ち、「工場を再生させなければならない」という過剰な使命感を捨てて、「出来る限りやって失敗したら、それまでだ」と観念することで、限りなく、己が自我を閉塞させている心理状況を払拭することである。

それは同時に、「失敗するだろう」という、自家撞着の意識をも相対化することに繋がるだろう。

よく言われることだが、「真剣さ」と「深刻さ」とは異質なものである。


事態に対して真剣になることは重要なことであるが、しかし、その心的状況が「深刻さ」を過剰に露呈させるものである様態は決して好ましくはない。

心理圧を高めるからである。


人間が未知のゾーンに搦(から)め捕られたとき、不安感情を抱くのは当然のことなのだ。

不安感情を抱くことと、その不安感情によって引き出されてきた、別の負性感情を加速させることは同義ではない。

未知のゾーンに搦め捕られた場合、その時点で、為し得るマキシマムな行為を身体化することで、それで良しとする覚悟を括ることこそ大事なのである。

あとは野となれ山となれ、というくらいの開き直りをしない限り、いつまで経っても不必要な観念に縛られて、結局、どうにもならなくなってしまう場合があまりに多いのだ。

開き直るとは、「深刻さ」を払拭した諦念を心理的推進力にして、自分を囲繞する〈状況〉を受容することである。

そして、その〈状況〉に拉致された自己を受容することである。

それが、「開き直りの心理学」の唯一の突破口となるだろう。



4  「深刻さ」を払拭した諦念を心理的推進力にした、「開き直りの達人」の物語



「開き直りの達人」・佐和子
ヒロインの佐和子には、前述したような、大胆な発想の転換を可能にする技術があった。

それは、彼女の防衛機制の継続力が培ってきたものであり、その技術によって、彼女は、彼女なりの等身大の人生を繋いできたのである。

「無理しても意味のないものには、余計なエネルギーを使わない」

恐らく、こんな相対思考が、彼女の自我を根柢から支えてきたはずである。

私たちは、そんな彼女の生き方を、「夢のない青春」と揶揄するが、しかし考えてみれば、不可能なことに余計なエネルギーを消耗して失うものよりも、少しでも可能なものにエネルギーを注入することで得られる、小さな「幸福」の有り難さを馬鹿にする思考こそが、自分が何もできなかったことを平気で棚に上げて、青春に過剰な期待をかける大人のエゴイズムそのものなのである。

本作のヒロインは、追い込まれ、追い込まれた末に、遂に開き直ることに成功したのだ。

その契機となったのは、彼女の恋人である健一の浮気と、東京への駆け落ちだった。

そんな健一を嘲罵する父に、佐和子は言い切った。

「私さ、あの人と結婚するわ、逆に」
「お父さんの言っていることと、全然違うぞ」と父。
「所詮、私なんて大した人間じゃないしさ。だから、頑張るよ。よし、寝る!終わり!」

ここでも、彼女の「開き直りの心理学」が堂々と展開されていた。

立ち上がろうとする娘の腕を掴んで、父の説教は続く。

「お前、捨てられたんだぞ」と父。
「それは、私には関係ないから」と娘。
「関係あるだろう。あんなの、どこがいいんだ!」
「いいとか、悪いとかじゃなくてさ、私、もう決めたから。それはもう、しょうがないから」
「ああ!」

こんな調子で、噛み合わない父と娘の感情のコンフリクトが閉じていった。

全てを失ったと感受しながらも、失って初めて知る自分の想いに整理をつけられない脆弱さを、彼女なりに知り尽くしたであろう佐和子は、男が置き去りにした一人娘である幼女に、「一緒に寝て」と言って誘うのだ。


いつしか、離れていた二人の距離は縮まっていったのである。

「開き直りの心理学」は、表現することで内化していくものだ。

「あの人と結婚するわ」と言い切ることで、ストレスを封印せずに、寧ろ外化していく。

「外化効果」を疎略に扱ってはならないのだ。

男を許せない感情を持つ自己を相対化していくことによって、男の存在感の大きさを感受し、そこで自分のスタンスを定めていく。

逃げない者の一つの生き方が、そこにある。

言わずもがな、開き直った後の彼女の行動は素早かった。

工場の作業台に上って、演説をぶつ佐和子。

「あ、すみません。皆さん、ちょっと聞いて下さい。あ、こんにちは!駆け落ちした女です。あ、皆さん、私が駆け落ちした女だとか、親を捨てた女とか、散々言ってますけど、好きだったんですよ!すごく好きで、18だったし、青春の勢いに任せちゃって、駆け落ちしちゃったんですよ!青春の勢いで、バカだし、駆け落ちすることありますよね!でも、ですよ、結果的には失敗だったかも知れないですよ。でも、私だって所詮、中の下の女ですからね。逆に、中の下じゃない人生を送っている人なんて、いるんですか?いたら、手を上げて下さい。ほら、いないでしょう。でも、普通の人なんですって。それの、何が悪いんですか!私なんかね、何度男に捨てられても、頑張りますからね!て言うか、頑張るしかないんですから!」

既に、風景の変容は決定的だった。

まもなく、「開き直りの心理学」を逆手に取った過激な社歌を作り、それを先導する彼女は、完全に物語の前半で見せた人格像と切れていた。

以下、佐和子が作った「木村水産新社歌」の一節。

上がる上がるよ消費税 
金持ちの友だち一人もいない
来るなら来てみろ大不況 
そのときゃ政府を倒すまで 
倒せ倒せ政府
シジミのパック詰め 
シジミのパック詰め 
川の底からこんにちは

無論、政治批判の社歌ではない。

開き直った女たちの、覚悟を括った社歌である。

今村昌平監督の「赤い殺意」(1964年製作)に代表されるように、この国では、開き直った女たちほど強い者はいないのだ。


父の死と、悲哀のピークアウトに至った、一人残された娘の絶叫。

土下座して謝罪を乞うだけの、開き直れなかった男の母性帰り。

許しながらも、失って初めて知る自分の想いの悔しさを、河に流すという遺言を残した父の遺骨投げという、我を失った行為によって身体表現する女。

「しょうがないから、明日もがんばるね」

これが、フェードアウトした画面での、台詞のみのラストカットとなって閉じた映像のインパクトは、観る者の胸元に切っ先を突き付ける効果を持ちつつも、粗雑な物語構成だけは、時として、アナクロのベタな描写を臆面もなく提示する、些か看過し難い瑕疵を露わにした一篇でもあった。

詰まる所、ヒロインの帰郷に待っていた、「ネガティブな状況」が極点辺りにまで追い詰めた果ての心理圧の胆を、彼女は決定的に突き破ったのである。

そのポイントは、前述したように、二重課題の自家撞着の意識を無化したことにあるだろう。


即ち、「やって失敗したら仕方がない」という、「深刻さ」を払拭した諦念を心理的推進力にして、自分を囲繞する〈状況〉を受容する「開き直りの心理学」を身体化し切ったことである。

何のことはない。

佐和子は、「開き直りの達人」だったのだ。



5  奇麗事で塗りたくってきた、この国の映像に注入する一服の「毒素」



「木村さん、ストレス溜まってるんですね」
「ハイ、すいません」
「じゃ、嫌なことも全部吸い取っちゃいましょうね」
「ハイ。昔の男の思い出とか、そういうの、全部吸い取っちゃって下さい。男に捨てられた思い出なんですけど。しかも、4人分なんですけど」
「ただの冗談ですから。無理ですから」

これは、消化器科での腸内清浄のシーン。

 石井裕也監督
佐和子は、女性に多い自力排便が困難な患者なのである。

「出口なし」の閉塞感を象徴する、この冒頭のシーンのインパクトは、恐らく映像総体を貫流する「毒素」と化している。

若い女優に、本人の糞尿を撒かせるシーンばかりか、「全部吸い取っちゃって下さい」という台詞を言わせる、この冒頭のシーンの「毒素」によって、本作が、邦画のフィールドのうちに、過剰な感傷と欺瞞を垂れ流してきた文脈と切れていることが判然とするだろう。

恐らく、奇麗事で塗りたくってきたこの国の映画は、この国の若い気鋭の映像作家たちから、このような世界に向かわざるを得ないだろうと思わせる、ごく普通に受容し得る程度の「毒素」に満ちた映像をも擯斥(ひんせき)してきた、必然的なバックラッシュの逆風を、今や、時代の報いの如く受けているのだ。

本作は、奇麗事で塗りたくってきた、この国の映像に注入する一服の「毒素」だった。

(2011年8月)

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