<肥大し切った虚栄心の、伸び切ってしまった欲望の稜線の迷走の果てに>
1 虚栄の心理学
虚栄心とは、常に自己を等身大以上のものに見せようという感情ではない。
自己を等身大以上のものに見せようとするほどに、自己の内側を他者に見透かされることを恐れる感情である。
虚栄心とは、見透かされることへの恐れの感情なのである。
同時にそれは、自らの何かあるスキルの向上によって生まれた優越感情を、他者に壊されないギリギリのラインまで張り出していく感情であるとも言える。
スキ ルの開拓は、自我の内側に今まで把握されることもなかった序列の感覚を意識させることにもなる。
この主観的な序列の感覚が、内側に優劣感情を紡ぎ出すので ある。
自分より高いレベルにあると勝手に認知された者への劣等意識が、自分より低いレベルにあると勝手に認知された者への優越感情をほどほどに中和し、自分なりに相対化している限りでは、その平穏なるラインを喰い千切って、空気を破壊するような虚栄心の暴走は見られない。
ところが、スキルの意志的向上は、大抵、そのプロセスで「道」(本作では、ハリウッドの「クィーン」への栄光のプロセス)の序列者たちと観念的に出会ってしまうから、自らの序列性を測ることで、自己を基準にした他者の優劣度が観念的に把握されざるを得なくなってくる。
この主観的把握がスキルの前線で他者とクロスするとき、他者の多様性に即して虚栄心が様々に反応するのは、それが見透かされることへの恐怖感情を本質とするからだ。
その些か繊細で、特有の心象を括っていくと、虚栄心には、二つの文脈が包含されていることが分る。
その一つは、「私にはこれだけのことができるんだ」という自己顕示的な文脈。
もう一つは、「私はそれほど甘くないぞ」という自己防衛的な文脈。
虚栄心と は、この二つのメッセージが、このような特有な表出を必要とせざるを得ない自我のうちに、べったりと張りついた意識の内実なのである。
虚栄心は、相手が必要以上に踏み込んでくると察知したら、プライドラインを戦略的に後退させ、水際での懸命の防衛に全力を傾注する。
いずれも、見透かされないための自我防衛のテクニックであると言っていい。
件(くだん)の者を厭味(いやみ)たっぷりで、殆ど偏執狂的な自慢居士に駆り立てる心理的推進力は、一体何か。
以下、本作のケースで考えてみよう。(なお、以上の1文は、拙稿「虚栄の心理学」(「心の風景」所収)からの引用である。
2 「虚構の『日常性』」を仮構せざるを得ない「精神の過剰性」
虚栄の心理学という問題意識で考えるとき、本作の「ヒロイン」であるノーマ・デスモンドの虚栄心の在り処は、彼女が固執するある種の優越感情(ここでは、「自分はこんなに優秀な女優なのだ」という感情)の根拠となる対象(優秀な女優を気取っているという事実)に対して、彼女の周囲の者、とりわけ、彼女が意識する特定他者やその周辺者が、その事実を充分に認知していないのではないかという不安が潜在するところにある。
詰まる所、ノーマ・デスモンドは、「終わった女優」と見られる不安に耐えられないからである。
そして、何より由々しき事態 ―― それは、自分が「終わった女優」であるという隠された自己像を見透かされたくないという心理が、その奥に伏在していること。
これが、彼女の厄介極まる振舞いの根柢にあるのだ。
彼女の虚栄心の一つの表れ方が、ここにあると言っていい。
この不安を払拭するためには、ノーマ・デスモンドは、「現役の女優」である希望的・観念的自己像を、常に「日常性」の只中で継続していかねばならなかった。
それは、贔屓目(ひいきめ)に解釈すれば、「不屈の女優魂」という風に見ることが可能だろう。
しかし現実は、そんな「栄光なる伝説的な女優像」と明瞭に切れていた。
ノーマ・デスモンドは、単に、かつて存分に被浴したであろう、「栄光なる伝説的な女優像」に張り付く快楽を捨てられないだけである。
それを捨てたら、「栄光なる伝説的な女優像」を希望的・観念的自己像に据えた、ノーマ・デスモンドの自我の拠って立つ安寧の基盤が根柢から崩れ去ってしまうのだ。
それは、ノーマ・デスモンド自身の「精神の死」を意味するだろう。
だからノーマ・デスモンドは、彼女の「栄光なる伝説的な女優像」の「記憶」を「共有」する、執事であるマックスの存在を絶対的に必要とし、彼に対して、「栄光なる伝説的な女優に仕える執事」を求めて止まないのだ。
ハリウッドサイン |
それは、彼女の内側に潜む、「終わった女優」であるという隠された自己像の存在を照射すると言っていい。
そんな彼女の前に出現した男。
それが、ジョー・ギリスだった。
だが、ジョー・ギリスの存在は、彼女にとって「両刃の刃」だった。
なぜなら、ジョー・ギリスもまた、彼女の本質を見抜いていながら、彼女を利用しようと考え、それを具現していこうとしたからだ。
「僕は従うだけ。夢遊病者は起こしちゃいけない。彼女は過去の栄光の夢を見続けているのだ。大女優の幻影に取り憑かれている。屋敷の中は彼女の写真だらけ。どこもかしこもノーマだらけだ。それだけじゃない。居間に寄贈の油絵がある。それは、時々引き上げられる。そこで時々、マックスが映写機を回して映画を観るのだ。彼女が観たがるのは自分の映画だけだ。彼女は外に足を踏み出すのが怖いのだ。現実を直視するのが・・・」
これは、彼女の本質を認知しているが故に、それを秘匿し、ノーマ・デスモンドを利用して、「当座凌ぎ」を図っていかざるを得ない現状に甘んじた、ジョー・ギリスのモノローグ。
元々、売れないライターが車のローンの返済ができず、借金取りからの逃亡の末に逃げ込んだサンセット大通りにある古い邸宅に、最初の夫だった男(マックス)を執事として、「栄光なる伝説的な女優像」という、過去の夢の世界への懐古にのみ呼吸を繋ぐ「無声映画のクイーン」が、まさに、その物語を不断に確認するためにこそ贅沢三昧な暮らしに甘んじていたのである。
この文脈で考えるとき、ジョー・ギリスのモノローグの内実は、自己の内側を他者に見透かされることを恐れる感情である、肥大し切った虚栄心に生きる、件の女の心理の本質を的確に衝いていると言えるのだ。
そのジョー・ギリスが脚本家であったということ。
そして、件のハリウッドの脚本家が、ノーマ・デスモンドの「サロメ」の3流のシナリオを上手に褒め挙げたこと。
これで、ハリウッドへの「大復帰」を妄想するノーマ・デスモンドによる、ジョー・ギリスの占有化・奴隷化状態が決定付けられていくのである。
3 肥大し切った虚栄心の、伸び切ってしまった欲望の稜線の迷走の果てに
かつての無声映画の仲間たちを呼んで、ブリッジに興じるノーマ・デスモンドが、まもなく、若いジョー・ギリスに対して恋心を持ち、それを告白していくことで、遂にジョーの許容限界がクリティカルポイント(限界点)に達するに至る。
同世代のの笑い声が聞きたくて、今やジゴロと思しき、体裁が悪い屈辱的生活を拒否したジョー・ギリスは、意を決して逃亡を決行する。
かくて、一時(いっとき)の青春の謳歌し、恋人を作るに至るのだ。
「事態の一切」を認知し、それを百も承知で、「女王」のプライドラインを守り切ってきた執事のマックスが、せっせと書き続けていた偽ファンレターで慰撫されていたものの、気分次第で抑鬱状態の激しい性格の故に、過去に自殺を何度か試みたという「栄光なる伝説的な女優像」は、肥大し切った虚栄心に張り付く過剰なる独占欲を抑制しようがないのである。
当然、ジョー・ギリスの身勝手な振舞いを許容し得る道理がない。
肥大し切った虚栄心と、留まるところのない過剰な独占欲。
そこにこそ、「化石」と化した「栄光なる伝説的な女優像」のシンボライズとして映像提示された、「猿の死体」のシーンのうちに表現されているように、一見すると、「自己愛性パーソナリティ障害」のようにも見える、そこだけが尖り切ったプライドのみで生きる中年女の、伸び切ってしまった欲望の稜線の迷走が露わにする、単に「勝気」なだけで、そこに生活者の粘り強い「強さ」の裏づけのない自我の、圧倒的な脆弱さが晒されていたのである。
「栄光なる伝説的な女優像」に拘泥する中年女は、今また、リストカットに及ぶことで、屈辱的なジゴロを拒否した男を、再び屋敷に呼び寄せた。
その稚拙なる戦略の浮薄さ、安直さ。
但し、そこに存分に不要なる感情が張り付いているので、ノーマ・デスモンドにとって、それ以外にない自己防衛戦略だったのだ。
再び占有化され、奴隷化される男。
しかし、そのような強引極まる虚構の城砦が継続力を持つ訳がない。
男の本心を知ったとき、女は男を屠り、そして、〈生〉の根源において自壊していくのだ。
拠って立つ自我を占有した、肥大し切った虚栄心の城砦が崩れ去ったとき、彼女はこれまでのような、ある種の「見せかけ」のリストカットではなく、人格の本質的解体の悲哀に振れていく以外になかったのである。
結局、狂気に憑かれた妄想だけが生き残されて、虚空を舞う千切れ切った観念の残滓が、約束された残り火を焼却するためにのみ、そこに浮遊し、くすんだ色彩を弥(いや)増して、深い迷妄の奥にフェードアウトしていくのである。
「映画こそ、私の人生。監督、クローズアップを」
このラストカットが露わにしたものこそ、恐怖感を本質とする、肥大し切った虚栄心に生きた中年女の、伸び切ってしまった欲望の稜線の迷走の果ての相貌だったのだ。
4 「哀感」を表現し切れない、特化された困難なキャラ設定の瑕疵
最後に一言。
巷間、過分なまでに評価の高い、本作に対する私の評価は決して高くない。
主観的に言えば、その理由は、ただ一点。
自身の内的風景を投影させた印象の深い、ノーマ・デズモンドを演じたグロリア・スワンソンの「演技」が、まるでフリークスの如く過剰に流れて、特化された困難なキャラで勝負を賭ける必要性が強調され過ぎたのか、それ故にこそ、このキャラを抑制することによって表現されたに違いない、その胆ともなる、「人間ドラマ」として屹立し得るような、ノーマ・デズモンドの「哀感」を表現し切れていなかったと思えるからである。
ビリー・ワイルダー監督(画像)の作品の系譜で言えば、フィルム・ノワールの傑作とも言える「深夜の告白」(1944年製作)や、「失われた週末」(1945年製作)のような、本格的な人間ドラマの映像の方を好む私としては、「サンセット大通り」の物語の俗流過ぎる騒ぎ方に馴染めないのである。
「サンセット大通り」にオマージュを捧げた、デヴィッド・リンチ監督の「マルホランド・ドライブ」(2001年製作)の切れ味鋭い映像とは、当然、比較すべくもないが、純粋な娯楽作品として観るには、些か尖り過ぎていた点が気になった次第だ。
(2011年8月)
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