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2011年9月19日月曜日

飢餓海峡('65)       内田吐夢



<「極貧者利得」の欺瞞性を衝かれた男の脆弱性、或いは、「聖なる娼妓」の「無垢」という名の非武装性>


 1  「無償の愛」の底力の前で屈服する男の崩れ方に集約される物語の決定力



 「八重はソーニャのように、男主人公にとっては無償の愛をかわしあう相手でなければならぬ。(略)とにかく、二人の主人公が出来上がると、その二人の性格や、こし方や、生きているけしきの実在化に汗をながす楽しみが加わった。あり得ない犯罪ながら、あり得たように書いて、しかも作者は、この種の小説の本道を裏切って、のっけに犯人を登場させたのだから、興味は謎解きにはなかった。この主人公たちが如何に生きて行くかにあった」(『飢餓海峡』あとがきより 「水上勉全集 6」中央公論社)

 これは、原作者本人の言葉。

 ここで原作者によって語られているように、原作との若干の差異が認められながらも、二人の男女の主人公の人物造形の構築度が本作の生命線になっていると言っていい。

 従ってこの映画は、その時代に住む庶民の大半がそうであったように、赤貧洗うが如しの生活を余儀なくされた、二人の男女の人物造形の構築度と、その人物を演じる俳優の表現力の達成度に決定的なウェイトが置かれることになる。

 そして、多分に類型的な人物造形のうちに、深い陰翳と、それを束の間抱擁する生命の躍動を身体表現し切るという、その高いハードルをクリアし得たにかに見える俳優の表現力と、決定的な局面での突破力の凄み。

 それが、一貫して妥協を許さず、力技で押し切った感のある映像構成の根柢を支え切っていた。


 これは何より、「ソーニャ」の「無償の愛」を貫徹した、極めて文学的なシークエンスを内包しつつ、その「無償の愛」の底力の前で屈服する男の崩れ方に集約されるように、決定的な局面での突破力の凄みを見せた、俳優の表現力の達成度の高さを検証した一篇だった。



 2  「ソーニャ」の人格的イメージに模した「聖なる娼妓」



 「樽見の生家を訪れましたときに、そのあまりの悲惨さに、こういう所に育った人間は、一体どういうことを考えるんだろうか、罪の意識を持たない人間が出来上がるんではないだろうか、ふと想像に襲われました。恐らく少年時代の樽見は、自分の貧しい境遇を憎んだに違いありません。もっと人間らしい生活をしたいと思ったに違いありません。何とかして世の中に出たい、浮かび上がりたいという焦りが、犯罪と結び付いたのではないだろうか」

 これは、本作の主人公である樽見を事情聴取する直前での、捜査会議における若い刑事の報告。

 樽見の生い立ちを調べた若い刑事ならではの情感が、ここには投影されていた。

 映像後半での、クライマックスのシークエンスが開かれたときだ。


 この刑事の言葉に集約される男の生い立ちの描写は、この時代の多くの社会派映画がそうであったような確信的言辞で結ばれていて、恰も、その生い立ちが男の犯罪を分娩させたと言い切る論法であった。

 これを、犯罪の主体である者の行動を科学的に検証する犯罪心理学の概念で言えば、「犯罪原因論」と言う。

 因みに、「犯罪原因論」の科学的検証が不十分であることによって、現在では、防犯カメラシステムに象徴されるように、犯罪機会を減少させることで犯罪を未然に防止しようとする、行動心理学な考え方である「犯罪機会論」が主流になっている。

 捜査会議における若い刑事の報告という、この1点のシーンを特段に強調する限り、本作は、「極貧の生活が犯罪を生む」と一方的に短絡させる、「犯罪原因論」全盛期の時代が分娩した社会派映画の典型であると言っていい。

 しかし、「犯罪原因論」という、単純な「社会派」の論法に振れていく事態を回避するためとは思えないが、いずれにせよ、この「犯罪原因論」を相対化し切る人物造形として描かれたのが、ヒロインの八重である。

 以下、それを検証していこう。

 この二人が殆ど運命の糸のように出会い、僅かだが、一日にも満たない時間の中でクロスした関係の濃密度は、少なくとも、ヒロインの八重にとって決定的だった。

 彼女は、「聖なる娼妓」なのである。

 男から受け取った金の出所について疑いを持ちながらも、男を追う弓坂刑事の事情聴取に対して真実を語らなかった理由は、無論、受け取った金を返却することや、事件にインボルブされることを恐れたからではない。

 「あんた、良い人ね」

 初対面で、男の「本性」=「善性」を見抜いたと信じて、本人の前で、直截(ちょくさい)に言ってのける八重は、驚くほど鈍感な態度を露わにする中年刑事に対して、「愛する男」を守り切る、「聖なる娼妓」の面目躍如たる防衛的バリアを張って追い返ししたのである。

 無論、犬飼多吉(後の樽見京一郎)という男が、この時点で、凶悪犯罪の共犯者として警察にマークされているという確信的イメージの形成など、彼女の中には微塵もなかった。

樽見京一郎と弓坂元刑事
「八重さんは殺さなくとも、あんたの秘密を金輪際、口にしなかったでしょう」

 これは、今や捕捉され、警察署に留置されている男(樽見)に向かって難詰した、弓坂元刑事の言葉。

 家庭を犠牲にしてまで、男を追って、10年の歳月を費やした函館警察署の刑事だったが、現在は、函館少年刑務所の刑務官を務めている初老の男である。

 この弓坂元刑事の言葉に現れているように、仮に八重の心中に、その把握があったとしても、彼女は決して男の秘密を守り抜いたに違いない。

 だから彼女は、「聖なる娼妓」なのである。

 この国の「ソーニャ」なのである。

 「無償の愛をかわしあう相手」でなければならないのだ。

 言うまでもなく、「ソーニャ」とはドストエフスキーの「罪と罰」のヒロインの名で、家族を救うために娼妓となったばかりか、ラスコーリニコフの犯した罪を共有した「聖女」である。

 この「ソーニャ」の人格的イメージに模して、「聖なる娼妓」である八重の人物造形が立ち上げられたのである。



 3  「極貧者利得」の欺瞞性を衝かれた男の脆弱性



 この日もまた、大湊における娼家での出会いの日と同じように、外は雷光が空を裂き、弾丸の雨が降り注いでいた。

 ベタなサスペンスの定番のような構図である。

 「聖なる娼妓」である八重は、「無償の愛をかわしあう相手」と10年後再会し、苦々しく自分を特定せざるを得なかった男の懐に飛び込んでいった。

「聖なる娼妓」・八重
「犬飼さんだ!犬飼さんだ!」

 かつてトロッコに轢かれたという、樽見の欠損した親指を視認して、今や篤志家として功なり名遂げている男の胸に飛び込んでいった女は、尚も拒絶する男の腕力によって頸椎を折られ、無念の死を遂げるに至ったのである。

 更にこの日もまた、出会いの日と同じように、逃げ惑う男の怯懦(きょうだ)に触れても、突進する女の、「無垢」という名の非武装性が露わにされたのだ。

 そして、怯懦を晒す男の防衛的な腕力によって殺害されたときの、そこだけは、殆どリアリティと切れた女の緩やかな笑み。

 これは、殆ど文学的な表現であると言わざるを得ない。

 作り手は、彼女の「聖なる娼妓」性の、それ以外にない自己完結点を映し出したかったのだろう。

 男にとって、唯一の誤算は、たった一度の娼家での濃密な出会いが、男に対する報恩の気持ちを継続させていたという、信じ難き〈生〉の有りようである。

 他者を心から信じ切る〈生〉を繋いできたとは思えない男でなくとも、件の女の人生の軌跡など、とうてい想像しようがないのだ。

 このような文学的な人物造形を敢えて極端に膨らませ、「聖なる娼妓」という類型性を作り上げることで相対的に壊してしまうリアリズムを、そこもまた捨て切って、「極貧にめげず、生き抜いていく女の強さ」というイメージのうちに、巧みに造形されたヒロインの決定的な存在感。
 
 物語の前半の実質的な主人公であった「聖なる娼妓」が、時代の後押しがあったとは言え、相当に骨太ながら、訴求力の高い本作に生命を吹き込んでいた事実は認めざるを得ないだろう。

 恐らく彼女の存在は、観る者の感情移入を容易にするための物語構成に矮小的に収斂される何かではなく、「極貧者利得」(極貧者であることによって被る不利益を心理的な楯にして、罪悪感を希釈化させること。私の造語)に胡坐(あぐら)をかいているかのような男の「贖罪的行為」によって、自己正当化を図る欺瞞性を撃ち抜く存在として、対比的に表現する意図を持って人物造形されたと思われるのである。

 ともあれ、「聖なる娼妓」を繋いできた女の信じ難き訪問それ自身によって、既に男は決定的に敗北したと言っていい。

 「聖なる娼妓」の真情のアピールを破壊する以外に、篤志家としての自己の名声を守護し得ないと確信する男の「ガラスの城砦」の脆弱性は、決定的に敗北する人生の振れ方をなぞっていくしかないのだ。


そこに関わるエピソード挿入を繋いでいくことで、「極貧者利得」に胡坐をかいているかのような男の人生の闇をこそ、本作は浮き上がらせたかったに違いない。

 後に、守り神のように、女が大事に持ち続けていた男の爪を見せられた際に、それまで頑なに犯行を否認していた男の情動が噴き上がってしまったシーンは蓋(けだ)し印象深かった。

 原作にはない、このエピソードを挿入させた文学性と、そんなエピソードを包括するに足る圧倒的な映像表現のパワーのうちに収斂されるが故に、原作者本人が「興味は謎解きにはなかった」と言い切っているように、観る者は、かなり粗雑なミステリードラマの瑕疵(注)について気にならなくなるだろう。

 ここに、重要な言葉がある。

 「・・・どうも私には、物による証を立てられない樽見は、心による証を立てようとしているようにしか思えないんです。樽見は偶然のことから大金を掴み、八重も同様。同じケースの中に、一方は加害者となり、一方は被害者となっております。貧乏人の金に対する執念と犯行。これは極貧の味を知らない者には分らないんであります・・・」

味村刑事(左)と弓坂元刑事
これは、樽見の供述について、舞鶴警察署長から意見を求められたときの弓坂元刑事の言葉。

 その後、弓坂元刑事は、証拠隠滅と焚き火のために解体した船を焼却した灰を持って、留置場に拘束されている樽見に会いに行く。

 「八重さんは殺さなくとも、あんたの秘密を金輪際、口にしなかったでしょう。そんな八重さんをなぜ、あんた、あんな惨いことを。私はあんたが憎い。あんたの歩んで来た道には、草や木も生えんのですか!」

 これは、そのときの弓坂元刑事の言葉。

 その直後、一人になった樽見は、弓坂元刑事が置いていった灰を、右手で何度も叩きつけ、慟哭するような唸り声を上げたのである。

 犬飼多吉=樽見京一郎の心が大きく振れて、決定的に変容した瞬間である。

 自分の封印したい過去を、船を焼いて灰にしてしまうように清算する男の、その歪んだ「極貧者利得」の欺瞞性を衝かれて、心による証を立てようとする限界に立ち往生し、慟哭するに至るのだ。

 「あんたの歩んで来た道には、草や木も生えんのですか!」

 この言葉は相当に重いのだ。


 これが、原作通りのラストシーンの投身自殺に繋がったのである。

 初見者を驚かせるラストシーンは、樽見の煩悶の後姿だけで良いと考える向きもあるだろうが、相手の脆弱性の本質を衝く、これらの弓坂元刑事が放つ言葉を重要な伏線として、その元刑事との、たった1度の男の濃密な絡みを、本作の決定的転換点に据え、映像構成の心象風景のハードランディングのうちに特段の重量感を持たせるには、これ以外の括り方は存在しなかっただろう。

 結局、本作は、極貧に生きる二人の男女の対比を描くことで、この時代に呼吸を繋ぐ庶民の人生の選択肢を極端に二分化した作品であるとも言えるのだ。

 その意味で、この映画で最も成功したシークエンスは、軽便鉄道で出会った二人の微笑ましいエピソードに尽きると思う。

 と言うより、このエピソードなしに語れない映画であると言っていい。

 なぜなら、「闇の海峡」から、命からがら下北半島に辿り着いた男が、その物質的飢餓と、自分が犯した犯罪の重みに恐れをなし、まさに、雁字搦めに封印された自我を一時でも解き放つ必要があった。

 このエピソードについては、稿を変えて言及したい。


津軽海峡の大パノラマ・大間町:西吹付山展望台(イメージ画像・下北観光協議会HP
(注)まず一番気になったのは、乗船者名簿の人数が生存者数と、遺体収容者数とが合致することなどあり得ないという点(更に、ここでは2名の強殺犯が特定されずに加わっていた)。行方不明者ゼロになるのは、終戦直後の混乱という要素を考えれば尚更のこと。当然の如く、映画のモデルとなった洞爺丸事故(1954年9月26日)でも行方不明者を多く含んでいた。2名の強殺犯が特定されずに加わっていたところから開かれるミステリーだが、もっと工夫があったのではないか。これが2点目。それでなくとも時化が続く津軽海峡を、まして荒れた海の中を、手漕ぎボートで「海峡越え」することは不可能であるというのが3点目。八重を見張っているはずの弓坂刑事が、八重が立ち寄る友人の粗末な家屋の前で、ウロウロする決定的な手抜かり。これが4点目。更に、極め付けは、海峡に身を投じる危険性を予知し得なくとも、重要な容疑者を船内で、手錠なしのフリーハンドの状態にしておくか、等々。





 4  本作の男と女の運命を分ける象徴としての恐山の霊力



 「眼がさめると、太陽が真上に高く上がっておりましてん・・・」

 これは、犬飼多吉=樽見京一郎の、舞鶴警察署での供述の冒頭の言葉。

 「闇の海峡」から物理的・心理的に解放された男にとって、燦燦(さんさん)と降り注ぐ太陽光線の眩さに、一縷(いちる)の希望を何とか繋ぐ日常性を生きる者の触感を手に入れて、そこから開かれる未知の時間のゾーンに怯えつつも、自由になった我が身を投げ入れていく何かが煌(きら)めいたのか。

しかし、犯罪に手を染めた感触がベッタリ張り付く男の自我には、まだ決定的な何かが必要だった。

 〈生〉と〈性〉を触感させ、不安定な精神を浄化させてくれるに相応しい何か ―― それが必要だったのだ。

 女と会ったのは、そんな時だった。

軽便鉄道で、握り飯を美味しそうに頬張っている女を、羨ましそうに見入る男。

 男の視線を背中に感じて、笑いを堪え切れない女。

 「握り飯ば、食べるか?」

 首を横に振る男。

 握り飯を持って、男の傍に寄る女。

 「握り飯か?」

 そう言うなり、もぎ取るようにして手に取った握り飯を、一気に口に頬張る男。

犬飼多吉と八重の出会い
男の物質的飢餓はピークアウトに達していたのだ。

 「あんた、親切な人ね。私には分る」

 そう言って、もう一つの握り飯を渡す女。

 恐山のイタコの話をする女。

 死者の霊を呼び出すという女の言葉に、一瞬、怯える男。

 そんな二人がバスに乗り換えて、大湊駅に着き、女と別れるが、別れを惜しむ男は、娼家に戻る女の後を付いていく。

 それを知って、歓待する女。

 事故の新聞を見て、怯える男。

 男の事情を知らない女は、男の前で営業とは切れた笑みを振り撒くのだ。

 「あんた、親切な人ね。私には分る」と言い切る女には、男の「飢餓」を満たしてやりたいと、本気で思っているようなのだ。

 自己紹介し合う二人。

 女の名は八重。

 男の名は犬飼多吉。

 窓を開けて、弾丸の雨を確認した女は呟いた。

 「恐山、雨っこ降って泣いてるみてぇだ」
 「死人が蘇るやんか?」

 ここでもまた、怯える男。

 それを見て、からかう女。

 「戻る道ないどぉ。帰る道ないどぉ」

 布団を両手で抱えた女が、男を包み込み、戯れるのだ。

 布団の中の二人は、いつしか、男女の〈性〉を激しく交歓していくが、ここで武装解除した男は、不安定な精神を浄化させてくれるに相応しい時間のうちに自己投入していく。

 不安定な精神を、束の間、浄化させてくれるに相応しい対象人格を得たからだ。

 初め、「やめてくれ」と叫んで、女の首に手を回す男との裸形の絡みの構図は、10年後に、不幸な再会をしたときの構図と重なり合う運命を、既に手繰り寄せていたのである。


 

恐山(イメージ画像・ウィキ)
恐山 ―― それは、死者への供養の場として知られるが、そこは同時に、「賽の河原」と「極楽浜」が共存する霊場でもある。

 要するに、地獄と極楽が共存する霊場こそ、ゲームと化したパワースポットの軽量感とは切れた、恐山の懐ろの深さであり、怖さでもあるのだろう。

 「戻る道ないどぉ。帰る道ないどぉ」という、女の掛け声のリアリティを体現した男にとって、地獄と極楽を分ける運命の出会いを、まさに大湊の一軒の娼家の中で具現してしまったのである。

 それでも、女によって浄化させた心身を得て、幾分の余裕ができた男は、自分と同じ極貧に生きる者の身の上話を聞き、娼家暮らしから抜け出る思いの強さを知った。

 陰翳を全く感じさせない女から、爪を切ってもらった男は、そこだけは存分の思いを込めて、一言洩らす。

 「あんた、親切な人やなぁ・・・」

 男は、神経症で木こりができず、逼迫(ひっぱく)している家計を助けるために、娼妓を続ける女の前に、新聞紙で包んだ札束を置いて、そのまま帰っていく。

 「悪い金やない。闇商売で儲けた金や」

 それが、再会を望む女の思いに反応しない男の別れの言葉だった。

 ―― 以上、詳細に二人の出会いのシークエンスを批評含みで再現したが、このシークエンスのうちに本作のエッセンスが凝縮されていることは論を待たないであろう。


 「極貧者利得」を既得権にするかのような人生を歩む男と、それとは無縁に生きる女との対比が、その後の二人の人生の振れ方によって決定的に分れていく物語の起点になった出会いが、そこに印象深く映像化されていたのである。

 「賽の河原」と「極楽浜」が共存する霊場である恐山が、本作の男と女の運命を分ける象徴として描かれいたことは興味深い。

 極楽の浜(仏ヶ浦)に辿り着いて、陽光を浴びた男は、地獄と極楽を共存させる恐山の魔力に怯える心が過剰反応させたかのように、「極貧者利得」に胡坐をかいた欺瞞性を延長させて、そこだけは絶対に正当化し得ない「書生殺し」の罪悪性を付加し、まさに、あってはならない地獄道に堕ちていくばかりであった。

 地獄と極楽を分ける運命の出会いを果たした男と女の物語が、恐山を前にした男の贖罪的な投身自殺のうちに閉じた映像の、その唯一の起点となったシークエンスが、本作を根柢から支え切っていたからこそ、ミステリーとしては粗雑な構成力をも包括する力技を発揮したのである。

 「闇の海峡」(修羅)→「仏ヶ浦」(極楽)→「恐山」(地獄と極楽)へと流れていく序盤の物語構成は、 「闇の海峡」=戦時下 → 「仏ヶ浦」=戦後直後の人心の混乱 → 「恐山」を前にしての八重との濃密な交歓 = 地獄と極楽を分けた二人の運命的な出会いであると同時に、「食」、「性」、「自由」を得た男の束の間の物理的・生理的・精神的飢餓からの解放を意味するものだったということだろう。

内田吐夢監督
そして、八重への施しは、後の慈善家の最初の施しになったが、「聖なる娼婦」の情の深さまで斟酌できず、その「聖なる娼婦」を屠る行為は、「書生殺し」の罪悪性に加えて、「極貧者利得」で仮構した自己像(俺は「悪人」にあらず)の否定になったという把握で了解し得るに違いない。

 そこに編集上の問題(世俗描写のカット)が介在していたにせよ、私としては構成力に不満の残る本作(特に、犬飼多吉=樽見京一郎の内面描写の脆弱さ)であったが、それでもミステリーの瑕疵が目立たないほどに、力技で構築した映像の完成度は決して低くなかったと評価している。

 無論、本作が、内田吐夢監督の最高到達点であるという評価には異論がない。

(2011年10月)

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