<「袋小路の閉塞感」の表現力を相対的に削り取ることで希釈化された、ダークサイドの陰鬱感漂う「フィルム・ノワール」>
1 澱みのないセリフの応酬による饒舌な筆致の瑕疵
「男を破滅させる女」 ―― このような女を、「ファム・ファタール」と言う。
ここに、ラストシーン近くに用意された短い会話がある。
「俺を愛してたのか?」
「人を愛したことなどないわ」
これが、ハリウッド史上に「ファム・ファタール」=「悪女」の誕生を告げる有名なシーンだ。
尋ねたのは、ネフ。
保険会社の有能な営業マンであったが、女のアンクレットに誘(いざな)われて、まんまと、そのハニ―トラップ(「蜜の罠」)網に搦(から)め捕られたアホな男である。
そして、この無意味な問いに答えたのが、「ファム・ファタール」である実業家の後妻。
その名は、フィリス。
ともあれ、このフィリスと共謀して、保険金目当てで夫を殺害するという、ハリウッドの「フィルム・ノワール」のネガティブなストーリーは、当然の如く、「ヘイズ・コード」(後述)のターゲットにされたとされる曰くつきの作品。
松葉杖をつきながら、モノクロの闇の画面の中枢に、そこだけスポットが当たるように出現する、いかにもノワールらしい映像の導入である。
「これは自供のようなものだ。私は君の眼の前で不正を働いていた・・保険金殺人事件をやったのは、この私だ。しかも、金と女の両方も手に入らなかった」
この言葉は、左肩辺りに銃弾を受け、重傷を負った男が会社の自分のオフィスに戻った直後、徐(おもむ)ろにディクタホン(ボイスレコーダー)を手に持ち、自らが犯して頓挫した事件の全貌を告白する男の切り出しだ。
これが、冒頭のシークエンス。
この冒頭のシークエンスので判然とするように、「フィルム・ノワール」の本作は、最初から犯人が登場する倒叙形式(最初に真犯人が出て来て、犯行過程が明かされていく推理小説の一つの形式)の手法によるハンディを、狭隘な映画空間で展開される人間の心の闇に焦点を当てた、相応の「心理サスペンス」という装飾を施している。
しかし本作は、その後の物語のサスペンスフルな展開に、観る者の好奇の感情を抱かせる映像構成の技巧によって、この導入は相当程度成就しているだろう。
あとは、物語のサスペンスフルな展開の内実のみということになるが、その肝心なストーリー展開もまた、心憎い程の構築力を見せていくが、それにも拘らず、私が気になったのは、以下の点に尽きる。
そこだけは特段に拘泥して欲しかった、「フィルム・ノワール」特有のニヒリズム・ペシミズム・シニシズム・デカダンス等々の、ダークサイドの陰鬱感漂う空気の澱みや、ドイツ表現主義的な「袋小路の閉塞感」が精緻に表現されていなかったこと。
これは、私の映像感性から言えば、看過し難い何かであった。
その理由は簡単である。
一点目。
1944年製作という時代状況の制約と、この場面が回想シーンであると把握できていても、ワイルダー流のテンポの速さを抑制し切れなかったのか、不必要なまでの、澱みのないセリフの応酬による饒舌な筆致が気になったのだ。
要するに、本作もまた、数多のジャンクなるハリウッド映画同様に、精緻を極めた心理描写の決定的欠如が目立つのである。
それは、この回想シーンで描かれる男女の保険偽装殺人事件のプロセスが、あまりにお座成りで、且つ、粗雑・拙劣であり、それはまるで、突拍子もなく思い付いたように、スーパーの強盗を強行する軽量感に近い何かなのだ。
以下、稿を変えて言及する。
2 「袋小路の閉塞感」の表現力を相対的に削り取ることで希釈化された、ダークサイドの陰鬱感漂う「フィルム・ノワール」
「ファム・ファタール」の女と2度目に会ったとき、保険会社の有能な営業マンの勘が働いたのか、フィリスの思惑を認知したネフは、相手にせずに帰宅した。
そのネフの部屋を、フィリスが訪ねて来た。
その行動を予想できなかったネフは、その日のうちに、フィリスのハニ―トラップ網に搦め捕られ、女の夫への保険金殺人の計画を練っていくのだ。
「もう、後戻りはできないのだ」
これは、その夜のネフのモノローグだが、以前から、プランニングとして想定することがあったとしても、それは営業マンとしての防衛戦略の一環であった。
保険金殺人への心理プロセスが削り取られている根拠が、蠱惑(こわく)的な女の強力なハニ―トラップの故であると言うなら身も蓋もないが、それにしても、あまりに単純な心理の変容ではなかったか。
二点目。
今でも進化論を否定(一説には、国民の約50パーセント)する「宗教国家」としてのアメリカらしい、「ヘイズ・コード」(猥褻や極端なインモラルを規制する、保守派の映画製作倫理規定)の縛りから巧みに解き放つためなのか、本作の主人公の上役でもあり、実質上の探偵役となるキーズの人物造形による、ノワール感の希釈化。
冒頭のシークエンスでの「深夜の告白」の対象人格となった、キーズのパーソナリティが醸し出す、その本来的な闊達さ・明朗さ・哀感によって希釈化されたノワール感によって、狭隘な映画空間で展開される人間の心の闇に焦点を当てたはずの本作を、限りなくフラットなヒューマンドラマに近い、「そこそこに良くできた」サスペンス・ムービーに変容させてしまったのだ。
「殺人の共犯は特急列車と同じだ。終点の墓場まで、誰も下車できない」
これは、そのキーズの言葉。
保険金殺人の計画が遂行し、上首尾に終わっても、鋭利な頭脳の主であるキーズを恐れるネフが、切っ先鋭く受け止めた言葉である。
松葉杖をついていたのに、フィリスの夫が傷害保険を請求しない行為に疑問を持つキーズ(画像右)は、紛う方なく刑事コロンボだったという訳だ。
明朗闊達な、この刑事コロンボの存在感の大きさこそ、本作のノワール感を希釈化させた最大の因子だったと言っていい。
それほど印象深いキーズの人物造形であった。
三点目。
女の人物造形の脆弱さ。
ただ単に、悪女ぶりを際立たせたイメージのみが浮き上がってしまっていて、金髪のかつらを着用した「ファム・ファタール」のハニ―トラップの威力は、その蠱惑性を相当程度中和させてしまったであろう。
以上、3点について言及したが、これらが、「フィルム・ノワール」のダークサイドの陰鬱感が希釈化された因子だったと、私は考えている。
それが良いか悪いかについては、観る者の受け取り方次第であることを認知してもなお言い添えるならば、ノワール感の希釈化は陰鬱感ばかりか、「袋小路の閉塞感」の表現力を相対的に削り取ることで、前述したように、本作を限りなくフラットなヒューマンドラマに近い、「そこそこに良くできた」サスペンス・ムービーに変容させてしまったのである。
「そこそこに良くできた」サスペンス・ムービーが希釈化させたものは、サスペンスの本質である、心の安寧の拠り所を失った自我の防衛機構が過剰に反応する「緊張感」であるだろう。
この「緊張感」が、クリティカルポイントにまで追い詰められるときの限界状況の心理が、少なくとも、私にはあまり伝わってこなかったのだ。
それは、前述したノワール感を希釈化させた因子の故である。
ビリー・ワイルダーは「サンセット大通り」(1950年製作)や「情婦」(1957年製作)を例にとっても、畢竟(ひっきょう)するに饒舌すぎるのだ。
語ることが止められない映像作家なのである。
だから私は、中々、この個性的な巨匠の、器用であるが故にか、技巧先行のように印象付けられてならない映画空間に馴染めないのである。
ビリー・ワイルダー監督 |
それが、器用貧乏なストーリーテラーの宿命なのか否か、私には分らない。
ただ、本物の心理サスペンスには、「驚かしの技巧」とは無縁の、それ以外にない「間」が不可避であるだろう。
この「間」が、心の安寧の拠り所を失った自我の、その防衛機構が過剰に反応する「緊張感」を作り出す。
これが、観る者の「緊張感」をも掻き立てていく。
クリティカルポイントにまで追い詰められるときの限界状況の心理描写の、整合性を壊さない物語と睦み合って、完成度の高いサスペンスを構築するのである。
本作は極めて瑕疵の少ない佳作であったが、サスペンス・ムービー特有の「緊張感」を、ひしひしと醸し出す映像というイメージには結びつかない、フラットなヒューマンドラマのカテゴリーに近い何かであった。
増して、「フィルム・ノワール」というカテゴリーとは、相当に乖離した一篇だった。
それが、本作に対する私の批評のエッセンスである。
(2011年11月)
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