<「おとぎ噺の世界」と、中年男の人生のリアリティの溶融のうちに、人生の哀感を表現し切った傑作>
1 成人女性への潜在的恐怖感を埋めるに足る、ローリスク・ローリターンの「恋」の終焉
小心で神経質、コンプレックスが強く、臆病でありながら、人一倍の見栄っ張り。
そんな男に限って、自分が「何者か」であることを求めている。
件の男が主人公の本作もまた、「小説家を目指しているシナリオライター」という自己像が張り付いていて、勢い余って、テレビ局との関係を切ってしまった。
虚栄と同居する小心さを持つ男は、このときばかりは前者の推進力によって駆動したのだろう。
どこにでもいそうな、そんな喰えない男が、人生の中で、2度に及ぶ結婚生活に破綻を来たした。
それだけだったら特段の問題も出来しないが、2度目の妻との離婚理由が看過し難かった。
最初の妻がドラッグ中毒であったことも、男のプライドを傷つけたのだろうが、2度目の妻の場合は、相手が同性愛の女性であったからだ。
この現実は、その妻との間に子を儲けていながら、男の自我に相当のダメージを与えたに違いない。
男には、この忌まわしき経験が、トラウマと言うべきネガティブな何かになっていく。
そのトラウマの根源には、紛う方なく、バイセクシャルの性癖を具有する前妻が、人生の伴侶に「男」である自分よりも、同性の「女」を選んだことが横臥(おうが)しているだろう。
そのことは、男の「男性性」が否定されたことにあると、男は考えたに違いない。
男の自我に貯留された憤怒の感情が、前妻の不倫を疑った男がスパイ中に知った事実にショックを受け、前妻の不倫相手への女性を轢き殺そうとした行為に現れていた。
「何で、僕より彼女の方が良いんだ?」
あまりに端的な、男の感情表出である。
加えて、その前妻が自伝を出版すると知った男は、自分の性体験や「奇行」が暴露されることに不安を持ち、繰り返し、前妻の元に抗議に行くが、逆に、レズ相手を轢き殺そうとしたことを難詰(なんきつ)される始末。
そんな男にとって、前妻から否定された「男性性」の魅力を取り戻すためなのか、最もリスクが少なそうな相手を選び、彼女を自分の恋人にした。
「男性性」であることを証明することは、自分が「何者か」であることを求めている男にとって、自我アイデンティティに関わる人生の一大事なのである。
そう思わざるを得ないのだ。
男の名はアイザック。
「不惑」とは無縁な、小説家を目指している42歳のシナリオライターだった。
そのアイザックが恋人にした「リスクが少なそうな相手」とは、自分の娘のように年の離れた17歳の女子学生。
その名はトレーシー。
この42歳と17歳のカップルは、寧ろ、後者の方が、父に近い男に恋をする関係を保持しているのだ。
この関係様態は、男にとって好都合であると同時に、17歳の女子学生とのセックスを介して、崩されかけた男のアイデンティティを相応に復元したであろう。
だからと言って、過去に付き合った男が3人もいたと言うトレーシーは、異性関係に無防備なふしだらな不良少女でもなく、そのキャラは「純粋無垢」のイメージに近い。
「愛してるのはあなただけ」
そんなことを吐露するトレーシーの存在こそ、アイザックの崩されかけたアイデンティティを埋めるに相応しい「パートナー」だった。
まさに、最もリスクが少なそうな「パートナー」だったのだ。
決してロリコン趣味ではないが、アイザックの内側に、どこかで、2度にわたる離婚のアブノーマルな経緯によって、成人女性への潜在的恐怖感が寝そべっているのだろう。
「僕みたいな人間は回り道だと思わなきゃ」
そんなことを言う42歳の中年男は、当面の「パートナー」として特段の不足がないが故に、以下のような気障(きざ)な文句を、17歳の女子学生に放つのである。
「君はヨブへの神の答えだ。神が『私は試練も与えるが、いい女も造れる』と言うと、ヨブが『恐れ入りました』」
男にとって無垢で、人を疑うことを知らない少女の存在は、性を処理し、心を一時(いっとき)癒すに足る希少価値であったかも知れないが、どこかでいつも消化不良の気分が残っていた。
深い教養に満ちた話題の不足感。
そして何より、恋をしたときの「ときめき」の感情が希薄だからだ。
そんな男が、一人の成人女性と知り合うに至る。
メリーとアイザック |
親友の大学教授であるエールの不倫の相手で、その名はメリー。
雑誌編集者のキャリアウーマンである。
ところが、初対面で「優秀な編集者」を自慢するメリーから、あろうことか、アイザックが尊敬するベルイマンをけなされて、彼女に悪印象しか受けなかった。
それでも、生意気でペダンチックながらも、話題を共通に持つ同世代の女性と出会ったことで、男の心は揺れ動き、見る見るうちに男女の関係にまで最近接していったのである。
それは、成人女性への潜在的恐怖感を埋めるに足る、ローリスク・ローリターンの女子学生との「恋」の終焉を意味していた。
2 成人女性への潜在的恐怖感を希釈化させていく感覚の氾濫の狡猾さ
アイザックとメリーの、ロマンチックなデート。
夜のマンハッタンの散歩の終わりは、マンハッタン島に架かるクイーンズボロ橋(マンハッタンとクイーンズを結んでいる橋)の下のベンチだった。
「きれいね」とメリー。
「夜明けの光が美しい」とアイザック。
「うっとりよ」とメリー。
「実に偉大な街だ。魂を奪われてしまう」とアイザック。
これだけの会話だが、程なく、「あなたは子供を産んでみたい人よ」と告白するメリーに、アイザックは、「電気消して、子供を産もう」と反応するまでの関係に発展していく。
ダンスする二人。
ボートに乗る二人。
成人女性への潜在的恐怖感を、どこかで張り付けているかのような男だったが、それでもなお、異性を求めざるを得ないアイザックの、恋多き人生には終わりが見えないようだった。
成人女性への潜在的恐怖感が加速的に希釈化されていく感覚の氾濫は、まもなく、恋多き中年男の狡猾さを露わにしていく。
17歳の女子学生との恋の、殆ど予約されたかのような決定的破綻である。
常に、自分が「何者か」であることを求めている男には、幼い思考を脱却できないトレーシーとの関係は、時間潰しのゲームであったかのようだった。
「もう、会わない方がいい」とアイザック。
「なぜ?」とトレーシー。
「僕にイカレ過ぎている」
「私は愛しているのよ」
「違うだろ。まだ子供だ。愛なんて分らない」
「でも、楽しいわ。セックスもいいし」
「まだ17だ。21までには男性関係も増える」
「愛してないの?」
「実は他の女を・・・」
「ホント?」
「君とは一時的なものと言っただろ」
「会ってるの?」
「僕より年下だけど、同世代の女だ」
「面白くないわ」
「深入りしちゃダメだ。人生の間口を広げた方がいい」
「逃げたいくせに、お為ごかしだわ」
「いじけた考え方をするな。僕は42だ。髪は薄いし、右の眼は遠い」
「私より好きな人なんて・・・」
「怨めしそうに言うな。同世代の男と付き合え」
嗚咽するトレーシー。
「泣かないでくれ」とアイザック。
「ほっといて」
そこには、「君はヨブへの神の答えだ」と放ったアイザックの言葉さえも、お為ごかしのように思える乾いた毒気があった。
マンハッタン島①(ウィキ) |
3 恋のタイトロープの終焉が露わにした男の哀感
身勝手な男の恋のタイトロープは、呆気ない形で終焉するに至った。
話題を共通に持つと信じる同世代の女性との関係幻想が、袈裟斬りに遭った者の悲哀を晒したのである。
アイザックの親友の不倫相手だったメリーは、男の親友への愛を告白し、男から離れていったのだ。
「ショックだ」
怒りを真っ向勝負で激発できない内向性の故か、全てを失った男は、そう吐露するに留まった。
既に、前妻が出版した、「結婚 離婚 そして自己」という表題の「暴露本」によって、すっかり傷ついた男には、反発力の欠片を当人への抗議で晴らす熱量しか残っていなかった。
「深く巧みな女性との愛の行為で悟った.夫との体験の虚しさ」
「彼は突如、ユダヤ的進歩主義。男性優位主義。人間不信の発作に襲われた。私の恐怖を悲劇的に語るものの自己陶酔に過ぎない」
そんな言葉が書かれてある「暴露本」の中で、「人間不信」という言葉に反応した元夫の心理を読み解けば、それが男の性格の本質を言い当てているからだろう。
全てを失ったような心境下で、今や、男は「何者」でもなくなったのか。
心に穿たれた空洞感を埋めるべく、42歳の中年男は、アイデンティティークライシスに陥った者の如く瞑想に耽っていく。
「不必要な精神問題を、次々に作り出すマンハッタンの人々。それは解決不能な宇宙の諸問題を逃れるため。楽天的に考え、人生は生きるに値するか。生きがいは確かにある・・・」
アイザックの瞑想は、しばしば溜息をつきながらも、広がりを持ちつつ延長されていく。
「そう、僕にとっては、まずはグルーチョ・マルクス(注1)…それからウィリー・メイズ(注2)、それから……交響曲ジュピターの第二楽章(注3)、それから、ええと……ルイ・アームストロングがレコーデイングした『ポテト・ヘッド・ブルース』……もちろんスウェーデン映画……フローベールの『感情教育』……ええと、マーロン・ブランドにフランク・シナトラ……それからセザンヌが描いたあの素晴らしい林檎と梨……それからサム・ウー(注4)の蟹…」
トレーシー |
ここで、42歳の中年男の迷妄が一瞬固まった。
「トレーシーと別れたのはバカだった。一番気の置けない関係は、あの子だけだ。でも若いからね」
これは、親友の妻に吐露した言葉。
縋り着きたい何かを求める男にとって、「これだけは失いたくないもの」に逢着したとき、その短躯を駆動させる熱量を自給するのに充分な行為に繋ぐのだ。
マンハッタンの街の中枢を走って、走って、走り抜くアイザック。
トレーシーに会いに行くためだ。
ロンドンの演劇学校へ行く準備で忙しいトレーシーとの、間一髪の再会を果たしたアイザックは、自分の思いを吐露する。
「行かないで」
トレーシーに正直な思いを懇願しても、彼女の意思は固かった。
半年の留学と聞き、必死に止めるアイザック。
「愛があれば問題ないでしょう」
「君は変わる。半年で別人になる」
「そういう経験を積めと言ったのはあなたよ」
「でも、今変わるのは嫌だ」
「変わらない人もいるわ。」
既に、この会話の中に、「失恋」して初めて、「大人の世界」の狡猾さを学習し得たトレーシーの成長が垣間見えていた。
マンハッタン島②(ウィキ)
|
トレーシーの旅立ちは、まさに、彼女自身の本来のアイデンティティーを獲得するための自立行でもあったのだ。
恐らく、ロンドンへの彼女の旅は、一向に変わり得ない42歳の中年男を置き去りにするものになるだろう。
中年男にも、その辺りの心理の機微は把握できている。
だから男は、必死に懇願したのだ。
懇願する以外にない男の哀感だけが、そこに露わにされていたのである。
小心でシャイで臆病でありながら、人一倍見栄っ張りのアイザック以外の「何者」でもない男は、今や「ときめき」よりも、「安らぎ」を求めるばかりだったのだ。
人は最も辛いとき、自我の拠って立つ心の安寧だけを求めるだろう。
一時凌ぎのセックスの快楽よりも、遥かに継続力を持つ心の安寧こそが、幸福のイメージに近い何かである。
なぜなら、幸福とは、「持続的な充足感情」であるからだ。
特別の「何者か」でなくてもいいのだ。
自分の適正サイズに合った幸福の実感さえ手に入れられれば、それでいいではないか。
存分に軽薄なように見える男にとって、己がアイデンティティに関わる、真剣な人生の一大事を、男なりに動き、漂流し、傷ついた果てに置き去りにされたが、それもまた、男の変わり得ない人生の宿命であるだろう。
この辺りが、滋味深い本作から直截(ちょくさい)に受けた私の感懐である。
4 「おとぎ噺の世界」と、中年男の人生のリアリティの溶融のうちに、人生の哀感を表現し切った傑作
どこにでもいそうな男の人生の断片を、ダッチロールする「恋模様」をテーマに描いた本作の等身大の「普通さ」こそ、ニューヨークの中枢であるマンハッタンをこよなく愛する、ウディ・アレンの真骨頂であった。
「彼はマンハッタンに惚れていた。街の雑踏で育ったのだ」
これは、映像冒頭で紹介された、「小説家を目指しているシナリオライター」という自己像を持つ42歳の中年男の、その小説の草稿の中の言葉である。
マンハッタンの街の雑踏を愛する中年男は、そのままウディ・アレン自身の思いでもあるだろう。
本稿の最後に、そのウディ・アレンの映画空間を理解するには、打って付けの「お宝本」の中の興味深い言葉を引用して、擱筆(かくひつ)したい。
その近刊書の表題は、「ウディ・アレンの映画術」(注5)。
「これまでの映画で何か狙いどおりにできたことってありますか。
WA●―ときにはあるよ。これはほんとたまたま気づいたんだけど、『マンハッタン』を作ったあとで僕は、ニューヨークをすっごく魅力的に見せたいっていう強い思いが自分になくなっているのに気づいたんだ。いまだってニューヨークを撮るときは魅力的に撮るよ。でも、あくまでもストーリーのほうが優先なんだ。昔の僕にはニューヨークを夢の国のように撮りたいっていう強い願望があったんだけど、その思いは『マンハッタン』で完全に満たされたんだよ」(「ウディ・アレンの映画術」エリック・ラックス 清流出版 井上一馬訳)
ここでウディ・アレンは、「ニューョークを夢の国のように撮りたいっていう強い願望」が、「『マンハッタン』で完全に満たされたんだよ」と語っているのだ。
この著書の中で、ウディ・アレン自身は、想定外の評価を受け、映画監督としての地位を決定付けた「アニー・ホール」(1977年製作)や「マンハッタン」等の初期の作品よりも、「カメレオンマン」(1983年製作)、「カイロの紫のバラ」(1985年製作)、「夫たち、妻たち」(1992年製作)、「マンハッタン殺人ミステリー」(1993年製作)、「ブロードウェイと銃弾」(1994年製作)、そして近年の、「マッチポイント」(2005年製作)などの中期以降の作品の方が気に入っていると語っているが、私も含めて大方の観客に絶賛された、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」の導入によって開かれる、「マンハッタン」というモノクロ画面(カラーを脱色させた表現技巧)に漂う、そこはかとない人生の哀感に共感したのは、紛う方ない事実であるだろう。
まさに、本作は「夢の国」という「おとぎ噺の世界」と、恋に生き、恋に敗れる中年男の人生のリアリティの溶融のうちに、そこはかとない人生の哀感を的確に表現し切った傑作である。
少なくとも私にとって、小品ながら、そのような解釈で納得し得る、何とも滋味深い作品だった。
(注1)アメリカの代表的コメディアンであるマルクス兄弟の三男で、「我輩はカモである」のイカレた宰相役を演じた。
(注2)サンフランシスコ・ジャイアンツ(MLB)のスラッガーで、660本のホームランを量産した。
(注3)モーツァルトの最後の交響曲で、第2楽章はアンダンテの回顧的な楽想。
(注4)中華料理のレストラン。
(注5)以下、たいそう厚味がある、「ウディ・アレンの映画術」についての清流出版の説明文案を紹介する。
「著者は、実に36年間の長きにわたり、折々にウディ・アレンのインタビューを行ない、ウディ・アレン映画のアイデアから脚本、監督業、キャスティング、撮影、音楽、そして映画人生まで、すべてを忌憚なく明らかにしている。いわばウディ・アレンの人生の半分以上が納められたアルバムのようなものである。新米監督時代から世界有数の映画監督へと変貌していく彼の人生と、その途上で彼が学んだ事柄が、あたかも低速度撮影された写真のように、鮮やかに描き出されている。映画ファン待望の必読書である」
(2011年12月)
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