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2011年6月2日木曜日

フルメタル・ジャケット('87)     スタンリー・キューブリック


<「戦争における『人殺し』の心理学」についての映像的検証>



  1  「狂気」に搦め捕られた「殺人マシーン」の「卵」と、「殺人マシーン」に変容し切れない若者との対比



 本作の物語構造は、とても分りやすい。

 それを要約すれば、こういう文脈で把握し得るだろう。

 「殺人マシーン」を量産する「軍隊」の、極めて合理的だが、それ故に苛酷なる短期集中の特殊な新兵訓練を通して、「殺人マシーン」の「卵」を孵化させるプロセスで、孵化する前に「狂気」に搦(から)め捕られてしまった新兵と、その「卵」を孵化する最低限の条件をクリアしながらも、既に充分過ぎるほど、「殺人マシーン」が量産されている前線に踏み入っても、「殺人マシーン」に変容し切れない若者との対比を描くことで、「殺人マシーン」を量産する「軍隊」の目的点である「戦争」の本質と、そこへの「最適適応」の困難さ、厄介さを浮き彫りにした物語構造を持った問題作 ―― それが、「フルメタル・ジャケット」である。


 「殺人マシーン」を量産する超合理的なシステムを内包する空間は、本作で言えば、南カロライナ州の合衆国海兵隊新兵訓練基地。

 そこでの、「殺人マシーン」の「卵」を孵化させるプロセスで、孵化する前に「狂気」に搦(から)め捕られてしまった新兵とは、レナード(ゴーマー・パイル)。

 “微笑みデブ”と仇名された、軟弱な新兵である。

 
アメリカ海兵隊遠征隊(イメージ画像・ウィキ)
また、「殺人マシーン」が量産されている前線に踏み入っても、「殺人マシーン」に変容し切れない若者は、ジョーカー(J.T.デイヴィス)。

 映画の前半は、このレナードへの苛酷な訓練を執拗に描き出していき、後半は、「殺人マシーン」に変容し切れない若者ジョーカーの、前線下の適応化のプロセスでの迷走を描き出していく。


 以下、本質的な部分を切り取って、物語をフォローしていこう。




 2  プライド破壊の直接性を露わにした新兵の噴火点



 まず、レナードへの苛酷な訓練について。

 全員の頭をバリカンで丸刈りするシーンから開かれた映像が、次に映し出したのは、整列した新米隊員たちへの鬼教官ハートマン軍曹による、罵詈雑言(ばりぞうごん)の連射。

鬼教官ハートマン軍曹
「貴様らメス豚が俺の訓練に生き残れたら、各人が兵器となる。戦争に祈りを捧げる死の司祭だ。その日まではウジ虫だ!地球で最下層の生命体だ。貴様らは人間ではない。両生動物のクソを集めた値打ちしかない!貴様らは、厳しい俺を嫌う。だが、憎めば、それだけ学ぶ。俺は厳しいが公平だ。人種差別は許さん。黒豚、ユダ豚、イタ豚を俺は見下さん。全て平等に価値がない。俺の使命は、役立たずを刈り取ることだ。愛する海兵隊の害虫を」

 「全て平等に価値がない」というラジカルな嘲弄には、思わず吹き出してしまった。

 まさにそれは、過激な言語暴力の洪水だった。

 海兵隊の訓練キャンプの目的は、ただ一つ。

 若き新兵たちを、酷薄な「殺人マシーン」に変容させることである。

 「殺人マシーン」に変容させていくプロセスで、テーマが内包する現実の困難さを露呈させたのが、レナードへの「教育」であった。

 微笑みの相貌を変えられないレナードは、ハートマン軍曹の手で、自の首を絞めるという行為を強いれら、いきなりの先制攻撃を受けるのだ。

 訓練キャンプに入っても、担銃の際、右肩に銃を担いで「目立ちたくて、わざと間違えたのか、アホデブ!」と罵倒され、殴られる始末。

 その直後の映像は、ズボンを脱ぎ下ろされたまま、プライド破壊の直接性を露わにする、レナードの哀れな行進。

 また、ドーナツを隠し持っていた罰で、新兵全員の連帯責任となり、腕立て伏せを強制されるのだ。

 「俺、何をやってもダメだから」

 ジョーカーに弱音を吐くレナード。

 この連帯責任の腕立て伏せへのペナルティによって、レナードは、仲間から集団リンチを受けるに至る。

 「覚えておけ。悪い夢だぞ、デブ」

 強制されて、渋々、参加するジョーカー。

 この夜以来、レナードの眼付が明らかに異様になっていく。

 やがて、銃の名手に変身するレナードだが、最悪の事件は回避できなかった。

 訓練教官室の前のトイレの中で、実弾を装填するレナード。

「フルメタル・ジャケット」と発して自壊するレナード
  その夜、当直のジョーカーが実弾であることを問うと、血走った眼のレナードが発した一言。
 
 「7.62ミリ弾。フル・メタル・ジャケット(完全被甲弾)」

 驚愕するジョーカーの反応は、トイレの前の訓練教官室への配慮のみ。

 「レナード、ハートマンに見られたら、ひでぇことになるぞ」
 「俺はもう、ひでぇクソだ」

 そう言った後、騒ぎに気付いたハートマン軍曹がトイレに入って来て、例によって、スラングの連射をするや否や、レナードの銃口が火を噴いたのだ。

 ハートマン軍曹を、1発の銃丸で射殺したのである。

 銃口を咥(くわ)えて、レナードが自殺したのは、その直後だった。

 その辺りの心理については後述する。



 3  「殺人マシーン」になるギリギリの心理状況に最近接した男



 次に、「殺人マシーン」に変容し切れない若者ジョーカーの、前線下の適応化のプロセスでの迷走について。


 戦闘報道員として、前線に踏み込んだジョーカーの視界に捕捉された状況は、ベトナム戦争の画期点でもあったテト攻勢(フエ交戦)の渦中だった。

 まさにそのとき、古都のフエがベトコンによって包囲されるに至る1968年1月のテト攻勢下で、大攻勢に打って出たベトコンとの息詰まる戦闘が開かれていた。

 「逃げる奴はベトコンだ! 逃げない奴はよく訓練されたベトコンだ!」と揶揄(やゆ)される前線下で、“BORN TO KILL(生来必殺)”と書かれたヘルメットを被り、平和のバッジを胸につける戦闘報道員のジョーカーが、それを咎める将校の前で立ち竦んでいた。

 ジョーカーはユングを持ち出して、将校に「人間の二重性」と答えるのだ。

 フエ交戦の渦中で、戦闘報道員として某小隊に随伴したジョーカーは、そこで訓練キャンプ時代の親友のカウボーイと再会し、行動を共にしていく。


 既に、爆撃により廃墟となっていた町の一角で、激しい銃撃戦が展開されるが、小隊の下士官らが次々に斃されていく状況に、苛立つアニマル・マザー。


 ジョーカーと対立したアニマル・マザーこそ、紛う方なき「殺人マシーン」だった。

 「殺人マシーン」の面目躍如と言うべきか、不気味な狙撃兵を求めて、一人突撃していくアニマル・マザー。

 カウボーイも狙撃兵の餌食になり、ジョーカーの腕の中で絶命する。


 狙撃兵が潜む、崩れた建物の中に踏み込んだジョーカーは、遂に狙撃兵を発見するが、彼の銃弾が切れていて、狙撃兵の銃丸の的になった。

 危機一髪で、仲間の銃が狙撃兵を射殺した。

ベトコン少女
ジョーカーたちが視認した狙撃兵 ―― それは、10代とも思しきベトコン少女だった。

 「狙撃兵を仕留めた!俺がジョーカーを救った!」

 ジョーカーを救った男は、歓喜の声をあげた。

 救われたジョーカーは、自分を狙い撃って来た狙撃兵が少女であることを知って、立ち竦む。

 「ぶっ殺しちゃった!すげえや!人殺しの女殺し!」

 ジョーカーを救った男は、小躍りして叫んでいる。

 倒れている少女は虫の息で、必死に何かを訴えている。

 しかしベトナム語だから、周りの兵士たちには、その意味が分らない。

 「何と言ってる?」と黒人兵士。
 「祈っている」とジョーカー。
 「助けようがねえや。死んだも同じ」と狙撃した兵士。
 「おさらばしようぜ」とアニマル・マザー。
 「彼女は?」とジョーカー。
 「知るか。勝手に腐るさ」とアニマル・マザー。
 「ここに残していけない」とジョーカー。
 「くそバカが。カウボーイもくたばったんだぜ。お前の最後のダチが。命令に従え。俺の言い分は、“ネズミに食わせろ”だ」

ジョーカー(左)とアニマル・マザー(右)
アニマル・マザーの言い分には、「敵は殺すのみ」という絶対的ルールが張り付いている。

 「指揮する気はないが、このまま残していはいけないと言ってるんだ」

 そう言うジョーカーの表情には、自分を狙い撃ちしたベトコン少女を、楽に死なせてあげたいという人間的感情が露わになっている。

 ここで、ベトコン少女は、「ショット・ミー」という英語を絞り出した。

 「撃って欲しい」と懇願しているのだ。

 「始末したけりゃ、さっさと始末しろ」とアニマル・マザー。

 彼には、ジョーカーの意思が読めていた。

 だから、彼に早く女を殺せと促したのだ。

 それを受けて、ジョーカーは少女の息の根を止めたのである。

 「ジョーカー。これで勲章もらえるぜ!悪虐非道勲章を」
 
 狙撃した兵士の言葉だ。

 笑いながら、ジョーカーに言葉をかけた。

 ジョーカーの複雑な表情が、アップで映し出された。

 ラストシーン。

 ミッキーマウスの歌を歌いながら行進するラストシーン
ミッキーマウスの歌を歌いながら、ジョーカーのモノローグが結ばれていく。

 「五体満足の幸福感に浸り、除隊ももうすぐ。私はクソ地獄にいる・・・が、こうして生きている。私は恐れはしない」

 しかし正確に言えば、それは、「殺人マシーン」になるギリギリの心理状況に最近接した男の吐露が、そこに捨てられたことを意味するだろう。

 私はそう思う。

 その辺りの心理についても後述する。



 4  戦争における「人殺し」の心理学




 「戦争における『人殺し』の心理学」で有名なデーヴ・グロスマンによると、アメリカの軍隊ほど新兵に「殺人マシーン」化教育を徹底している国はないと言う。

 視界に敵が現われたとき、直ちに発砲していく確率を高める非人間化教育によって、米兵の発砲率はベトナム戦争において90%にまで上昇したらしい。かつて、ロシア帝国下で、ツアーの兵士が処刑に立ち会う際に、良心の在り処を担保するために、必ず兵士の銃の一つを空砲にしていたという話がある。

 米軍の新兵教育は、ツアー時代のロシアにおいても存在していた倫理的文脈を包含しつつも、それを凌駕する戦争における「脱良心化」の心理学を構築してしまったのである。

 「訓練技術はその後(第二次世界大戦、朝鮮戦争のこと/筆者注)さらに磨きをかけられ、、ベトナム戦争での発砲率は90パーセントに上ったと言われている。この驚くべき殺傷率の上昇をもたらしたのは、脱感作、条件づけ、否認防衛機構の三方法の組み合わせだった」(「戦争における『人殺し』の心理学」(安原和見訳 筑摩書房刊)

 ここで言う、「脱感作」とは、グロスマンによると、「考えられないことを考える」ということである。

 要するに、「敵は自分とは異質な人間なのだ、家族もいないし、それどころか人間でさえないのだ」などと考えることで、人は昔から暴力を自己正当化してきたが、その心理機制を利用して、ベトナム戦争時のアメリカ軍隊において、所謂、「暴力の観念化」が組織的に制度化されたと、グロスマンは指摘するのだ。

 次に、「条件付け」とは、「考えられないことをする」ということ。

 即ち、それは、暴力に対する自我抑制を麻痺させる訓練であると言っていい。

 「技量が上がれば大いに報酬を与えられ顕彰されるが、標的をすばやく正確に『とらえる』のに失敗すると、軽い懲罰(再教育、同僚の圧力、基礎訓練キャンプを卒業できないなど)が待っている。この環境で教えられるのは伝統的な射撃術だけではなく、反射的かつ瞬間的に撃つ能力である。つまりこれは、現代の戦場における殺人行為の正確な再現なのだ。行動学の用語を使えば、射撃場に飛び出す人型は〈条件刺激〉であり、的を即座にとらえるのは〈目標行動〉である。命中すれば的が倒れて即座にフィードバックが与えられ、〈正の強化〉が行なわれる」(前掲書より)

デーヴ・グロスマン
以上の文脈で分るように、行動主義の心理学がここに転用され、「暴力の観念化」を「脱感作」という概念の内に具現したのである。

 三つ目の「否認防衛機構」とは、「考えられないことを否認する」ことである。

 「否認と防衛の心理機制は、トラウマ的経験に対するための無意識の手段だ。(中略)基本的に、兵士は殺人のプロセスをなんどもくりかえし練習している。そのため、戦闘で人を殺しても、自分が実際に人を殺しているという事実をある程度まで否認できるのだ。つまり、殺人行為の慎重なリハーサルとリアルな再現のおかげで、たんにいつもの標的を『とらえた』だけだと思い込むことができるのである」(前掲書より)
          
 以上の心理プロセスを継続的に、且つ、組織的に内化していく中で、人はいつしか自責の念を感じないよいうになり、少しずつ、淡々とした心理状況下で、暴力の行使に対して忌避反応を起こさないようになっていく。

グロスマンの研究レポートは、少なくとも、私にとって相当の説得力があった。

 人間が、敵対する相手への特別な憎悪感情を持つことなく、一見、簡単に殺人を犯せるのは、このような心理機制が内化されていることによってのみ、より可能になるということである。

 東南アジアの遥か彼方の戦場に、「殺人マシーン」の卵たちが大量に送り込まれた結果、本物の実戦を通して孵化した卵が、戦場を途方もない地獄のカラーに染め抜いていったのだ。

 短い徴兵期間の中で、それでもべったりと自我に張り付いていた罪悪感情はあっという間に剥落し、狂気を日常化した爛れた時間の流れに身を任せたのである。

 しかも彼らの戦争には、充分に説得力のある大義がないのだ。

スタンリー・キューブリック監督
その大義なき戦争の中で、彼らがどのような身の置き方をしたか。

 逆に言えば、このような訓練を経なければならないほど、人間の自我は、確信的な目的を持たない殺人を簡単に遂行し得ないということである。

 即ち、通常下においては、人間の自我には一定の抑制的機制が機能しているこということだ。

 しかし、人間の自我は形成的なものであるが故に、その正常な確立を果たすプロセスを媒介しないと容易に洗脳され、贖罪観念の形成が未成熟のまま年齢だけを重ねてしまうということだろう。

 人間の自我は本来的に脆弱なのだ。

 だからこそ、その自覚的な強化が不可避とされるのである。

 言わずもがなのことだった。

 (以上、「地獄の黙示録」の拙稿の評論から、部分的に引用した)

 前述したように、本作の「フルメタル・ジャケット」は、ベトナム戦争を題材にした戦争映画として有名だが、作品の前半では、アメリカ海兵隊における言語を絶するほどの、約2ヶ月間に及ぶ訓練キャンプの内実が執拗に描かれていて、まさに、「戦争における『人殺し』の心理学」の典型的なモデルを検証するに相応しいリアルな描写が鮮烈だった。


 南カロライナ州の海兵隊新兵訓練基地を舞台にした、「非人間化過程」のシビアな訓練の内実は、そこに集合する様々な自我に張り付く人並みの人間性の形成的な被膜を、計算された手法としての言語的、身体的な暴力によって剥ぎ取って、それを単に、一個の殺人マシーンに改変させていく怖さ(訓練教官による苛酷なPT=シゴキや、仲間からのリンチに自我を半壊され、精神異常の状態を露わにした一人の新兵が、遂に絶望的な殺人と自殺に至るというエピソードに象徴される)を充分に鏤刻(るこく)するものになっていたのである。



 5  「平和のバッジ」を胸に付けた男のミッキーマウスの行進



 ここから、本作の中で最も重要なシーンの一つについて言及する。

 「貴様らの女房は、鉄と木でできた銃だ」

 このハートマン軍曹の命令一下、新兵たちは自分のベッドにライフル銃を抱いて、同じフレーズの文句を唱和されるのだ。

 「“これぞ、我が銃。銃は数あれど、我がものは一つ。これぞ、我が最良の友。我が命。我が銃を制すなり。我が命を制す如く。我なくて、銃は役立たず。銃なくて、我は役立たず。我的確に銃を撃つなり。我を殺さんとする敵よりも、勇猛に撃つなり。撃たれる前に必ず撃つなり。神かけて、我、これを誓う。我と我が銃は、祖国を守護なる者なり。我らは敵には征服者。我が命には救世主。敵が滅び、平和が来るその日までかくあるべし。アーメン”」

南カロライナ州の合衆国海兵隊新兵訓練基地
まさに、このシーンこそ、「戦争における『人殺し』の心理学」を裏付けるに足る、新兵への「殺人マシーン」化教育の典型的例証であると言っていい。

 このシーンの挿入は、極めて重要である。

 なぜなら、苛酷なブートキャンプを描いた、前半のラストシーンの伏線になっているからである。

 思うに、何をやらせてもドジなレナードが、唯一クリアできたもの ―― それは、銃による発砲技術の向上であった。

 ハートマン軍曹によるPTと、仲間たちと信じる者たちからのリンチによって、明らかにレナードの自我は壊されかかっていた。

 その目付きは異様になり、今や、彼にとって唯一の味方は銃以外ではなくなっていく。

 その銃に同化していく彼だけが、ブートキャンプを「前線」に変えてしまったのである。

 これは、半壊した自我によって分娩された狂気が、その攻撃目標を発見し、それを抹殺するという行為に打って出る事態を予約させるものだった。

 まさに、彼こそがブートキャンプで真っ先に「過剰適応」した人間だったのだ。

 ブートキャンプを「前線」に変えた男にとって、そこで抹殺すべき対象はただ一人。

レナードとハートマン軍曹

 ハートマン軍曹である。

 感情を持ち得ない「フルメタル・ジャケット」に象徴される「殺人マシーン」に変容した彼は、憎悪の対象人格を抹殺した後、既に敵のいなくなった「前線」の渦中で自己を抹殺するに至る。

 レナードの過剰適応が極点に達した瞬間であった。

 レナードが最後に見せた、獲物を捜すあの異様な目付きとは無縁に、本作のラストシーンで、もう一人の主人公であるジョーカーもまた、何とも言えない複雑な感情を、「ベトコン少女」を屠る前に、その視線のうちに映し出していた。

 しかし、彼の眼はレナードのそれと違って、「殺人マシーン」に成り切れない男の情感をも露わにするものだった。

 一時(いっとき)も早く楽になりたいと願う少女を腐らせることなく、或いは、彼らが所属する本隊にその遺体を運ぶまでもなく、彼の中になお捨てられないでいる「情感」によって、ベトコン少女を屠ったのである。


 彼が、その胸に「平和のバッジ」をつけていたことは、なおこの男が、この時点においても「殺人マシーン」に成り切れていないことの証左でもあった。

 その直後のミッキーマウスの行進は、「非日常の日常」下にある戦場をディズニーランドに変えたことの象徴的構図であると言っていい。

 一見、昂揚し切ったその空気の中で、共に行進を繋ぐジョーカーもまた、このとき、「殺人マシーン」に変容したことの括りとして把握するのが普通の解釈であるだろう。

 また同時に、そこにスタンリー・キューブリック監督のメッセージが仮託されていると読むべきだろうが、私はそうは思わない。

 「五体満足の幸福感に浸り、除隊ももうすぐ。私はクソ地獄にいる・・・が、こうして生きている。私は恐れはしない」

 これが、彼の本作で吐露した最後のモノローグ。

 ここで重要なのは、「私は恐れはしない」と吐露していながらも、彼は既に銃後の世界に思いを馳せているのである。

 明らかに、ジョーカーの自我は壊れていないのだ。

 それは、殺人それ自身を自己目的化したような振舞いを捨てない、アニマルマザーと比較すれば瞭然とするだろう。

 それは、ミッキーマウスの行進の渦中においても、ジョーカーが「平和のバッジ」を外していなかった事実でも検証されるのだ。

 「平和のバッジ」を胸に付けた彼は、「殺人マシーン」に成り切れなかったのである。


 恐らく、彼のようなタイプの人間が、帰国後、ベトナム反戦運動を立ち上げていくような、所謂、「ベトナム帰還兵」の一人になっていくのだ。

 そのような映画として把握するとき、この「フルメタル・ジャケット」という作品が放つインパクトは、感傷的なラストシーンで、観る者にカタルシスを保証させて閉じていった、オリヴァー・ストーン監督の「プラトーン」(1986年製作)と比較すれば判然とするに違いない。

 ついでに書けば、「殺人マシーン」に成り切った人間の、その心の闇を描き切ったた映画でもあった、「地獄の黙示録」の主人公ウイラードこそ、戻るべき日常性を持たない「殺人マシーン」であったと言えるだろう。

 このウイラード中尉とジョーカー軍曹との間に横臥(おうが)する、人間的感情の落差感に注目すれば、ジョーカーの自我の崩れ方の小ささが了解できるのである。

 自我を半壊することによって手に入れる、「フルメタル・ジャケット」という象徴的記号のうちに、「戦争における『人殺し』の心理学」についての映像的検証を見ることができるのだ。

(2011年6月)

2010年6月4日金曜日

博士の異常な愛情('63)   スタンリー・キューブリック


<「風刺」、或いは、「薄気味悪さ」や「恐怖」という、ブラックコメディの均衡性>



1  「R作戦」、「皆殺し装置」の発動、そして「優生思想」の突沸



何とも緩やかななメロディに乗って、空中給油シーンから開かれた長閑(のどか)な映像は、一転してハードな場面にシフトする。

米国の戦略空軍基地司令官であるリッパー将軍が、突然発狂し、あろうことか、ソ連への水爆攻撃を命令するのだ。

「R作戦」である。

この「R作戦」の始動による水爆搭載機の飛行シーンでは、アイルランド出身の作曲家が作った米国のマーチ曲として有名な、「ジョニーが凱旋するとき」のメロディが流されていく。

一方、ペンタゴンの最高作戦室では、大統領にタージッドソン将軍が「R作戦」の規定を説明している。

「ひとたび、攻撃命令を受けたら、爆撃機の一般通信回路はCRMという特殊暗号装置に接続されます。敵の謀略電波に惑わされないために、CRMは通信を全く受け付けません」

ペンタゴンの最高作戦室で、こんな重大な報告をするタージッドソン将軍に、彼の愛人である秘書から電話がかかってきて、将軍は小声で答える愚かさを露呈する始末。

「頼むから寝ててくれ。飛んで帰るからな」

こんな電話の直後、リッパー将軍が籠る戦略空軍基地への強行突破を考える大統領に向かって、タージッドソン将軍は「死傷者を出すだけです」と言った後、「爆撃機を戻すのが無理なので、今の内にソ連の基地を叩いておくべきです」などと得意げに演説して見せるのだ。

結局、大統領はソ連大使に事態を説明し、撃墜を要請した後、ソ連の首相にホットラインで、自国で出来した内部事情を細大漏らさず話し、危機の共有を求めようとしても、ソ連首相はすっかり酩酊していて、全く話しにならない始末。

「平和こそ我らが職務」という大看板のある、戦略空軍基地に立て籠るリッパー将軍に向かって攻撃が開かれたが、将軍は人質のような存在となった英軍のマンドレーク大佐に訳の分らない講釈をするばかり。

ペンタゴンの最高作戦室
まもなく、ペンタゴンの最高作戦室では、「米国に帰化したとき、ドイツ名の『異常愛』を訳した名」を持つ、兵器開発局長官であるストレンジラブ博士の長広舌が始まった。

それは、ソ連大使が洩らした「皆殺し装置」の事実の検証のためだが、ドイツ出身のストレンジラブ博士(トップ画像)によると、「装置」の具現が可能であるということ。

戦略空軍基地が降伏したことで、リッパー将軍はトイレで拳銃自殺を遂げるが、あとに残されたマンドレーク大佐は、水爆搭載機の呼び戻しの暗号を突き止めた。

呼び戻しの結果、ソ連のミサイル攻撃を受けたため3機が撃墜された以外は、全て戻って来たが、一機の搭載機のみが飛行を継続している事実が確認された。

その一機は燃料漏れのため目的地に辿り着くことなく、投下基地を決めて水爆を落とそうとするが、水爆投下口の扉が開かず、コング少佐が修理に向かい奮闘するものの、投下点で水爆に乗って共に落下していくという有名なオチがついた。

ペンタゴンの最高作戦室。

ストレンジラブ博士
ここで、大統領顧問であるストレンジラブ博士の再登場となり、有名なナチズム譲りのスピーチとなる。

「大統領、人類がほんの一握りだけ生き残るチャンスはあります。この国には深い炭鉱がある。そこに避難するのだ。数週間で、居住空間の開拓は容易に遂げることができよう」
「いつまで地底に?」と大統領。
「そうですな、ざっと百年は掛ります」
「百年も地底に暮らせるものだろうか」
「原子力がエネルギーを供給する。植物は温室で栽培が効くし、動物を育てれば肉がとれる!数十万程度の人間でしたら、楽に収容できるでしょう」
「誰が死に、誰が生き残るかを私は決めたくない」と大統領。

こんな状況下でも、必死に職務(盗撮)に励むソ連大使が、ペンタゴンの隅で、こそこそ動いていた。

さて、大統領へのストレンジラブ博士の返答は、あまりにラジカルなものだった。

「悩む必要はありません。コンピューターで簡単にはじき出せます。若さ、健康、生殖能力、知能、重要な技術の有無などを、データとして与えれば良い。もちろん、政府の高官や軍人は優先的に収容される権利がある。指導者は必要です。当然、人口は急速に増える。何しろ退屈でしょうからな。適当な生殖統制の下、男性1に対して、女性10を交配させれば、現在の国民総生産に、おそらく20年くらいで追いつける」

アメリカ大統領
さすがの大統領も、狼狽を隠せない。

「だが、こうも考えられまいかね。生存者は悲嘆のあまり死者を羨み、生きる意欲を失わないだろうか」
「いいえ。人々は依然として地上に郷愁を感じ、そして未来の冒険を夢見つつ、逞しく生きてゆくのだ・・・総統、歩けます!」

露骨な「優生思想」をぶち上げて、最後に「総統!」と叫ぶ博士のナチズムが展開された直後の映像は、「皆殺し」装置の発動による人類滅亡のメッセージが張り付いていた。

そして、戦慄すべきラストシーン。

“また会いましょう
どこかも知らず
いつかも分らないけれど 
きっと また会えるでしょう
いつか 晴れた日に
だから 笑いを忘れずに
いつも絶えない その微笑みを
青い空の輝きが
黒い雲を払うまで

そして お願い
私の友や隣人に あなたが もし出会ったら
じきに行くわと 皆に伝えて
別れの際に私が
力の限り この歌を
唄っていたと どうか伝えて

また会いましょう
どこかも知らず
いつかも分らないけれど
きっと また会えるでしょう
いつか 晴れた日に “


ヴェラ・リン
ヴェラ・リン(英国出身の歌手)が唄う「また会いましょう」の爽やかなメロディに乗って、核攻撃を受けると自動的に作動するというソ連の「皆殺し装置」が、最後の場面で発動したのである。



2  「風刺」、或いは、「薄気味悪さ」や「恐怖」という、ブラックコメディの均衡性



一貫してネガティブなファクターを内包した政治風刺劇であるが、21世紀状況において継続的、或いは、キューバ危機の恐怖以上にリアリティを持ち過ぎてしまったが故に、最早、ブラックコメディのカテゴリーを逸脱してしまった映画。

「それが本作である」という目一杯の評価をしたいが、私には、本作は些か稚拙過ぎた嫌いがあるように思えた。

タージッドソン将軍に代表されるように、演技があまりにわざとらしいのだ。

コメディの面白さは、俳優が普通に演じるから却って味が出るとも言えるし、そこにブラックという形容が付けば、もう、その映画の本質は、ある種の「薄気味悪さ」を隠し込んでいなければならないだろう。

本作に、その種の「薄気味悪さ」が不足し過ぎていると思えるほど、俳優の演技がわざとらしく、且つ、稚拙過ぎる印象を拭えないのだ。

ストレンジラブ博士
それは偏(ひとえ)に、ソ連首相の酩酊、タージッドソン将軍やストレンジラブ博士のオーバーな演技など、遊び過ぎる演出の過剰であると言わざるを得ない。

事情を知らない基地攻撃隊員が自販機にコインを入れたら、コーラの顔面シャワーを浴びるシーンなど、枚挙に遑(いとま)はないが、結局、この映画は嘲笑的なユーモアとしての「風刺」に力点を置くか、「薄気味悪さ」や「恐怖」に力点を置くかによって、観る者の印象が異なってしまうのである。

両者ともに共存し得るテーマでありながらも、いずれかに力点を置けば、もう一方のテーマは希釈化されるという関係になっていると言えるだろう。

「恐怖の水爆」と「長閑なメロディ」の組み合わせによる対位法の効果が奏功した感のある、本作の作り手であるキューブリックの狙いは、そのいずれにもあったと思われるが、そこに適度な均衡性を確保してしまったため、却って後者の部分、即ち、「薄気味悪さ」や「恐怖」が、前者の「風刺」によって希釈化されてしまう印象を受けてしまうのだ。

そこがSF映画の勝負どころであると思うが故に、主題提起力を存分に感受させるような映像作りの難しさだけが印象付けられてしまうのである。

コング少佐
だから観終わった感想としては、水爆投下におけるコング少佐の抱き合わせシーンに見られるように、ブラックコメディの中のコメディ性の印象だけが強調されてしまったのである。

それこそがキューブリックの狙いであった、と言われればそれまでだが、私には、この種の映画の表現の難しさが露呈された映像にしか思えなかったのだ。

ともあれ、人間の愚かさを揶揄した作り手の意図が過剰なまでに伝わってきたのは否定しないが、私から言わせれば、本作の根源に横臥(おうが)する真の恐怖は、たとえジキル博士の如きマッドサイエンティストが作ったものであったとしても、最強利器を一度手に入れてしまったら、それを使わずにはいられないのが人間の「脆弱性」の証明である、という由々しき現実だった。



3  薄気味悪い地平にまで逢着してしまった新しい世紀のアポリア



この映画を観て、誰でも思い浮かべる国が少なくとも4つある。

「将軍様」の国と、印・パ、そしてイランである。

とりわけ、「将軍様」の国の動向が、私たち日本人には一番気になるだろう。

黄長燁
AFP通信の記事によると、主体思想(チュチェ思想)を理論的に構築した側近でありながらも、「将軍様」の国を亡命した黄長燁(ファン・ジャンヨプ)のインタビュー記事が鮮烈な印象を残している。

暗殺予告を受け続けていると言われる当人の談話によると、「将軍様」の配下にいる軍人はクレバーでなく、忠誠心の強いだけの単細胞の連中であると言う。

スターリン、毛沢東の例を引くまでもなく、「ナンバー・ツーを作らない」という命題は、絶対的権力を握る国家を率いる者の宿命でもあるということだ。

「将軍様」が、最もクレバーな軍人よりも、忠誠心があって、思考停止している単細胞の軍人を、軍の指導層に多く起用するという心理に内包される事態の怖さを考えるとき、慄然とするものがある。

なぜなら、この国は、我が国と未だ和平条約を締結していない関係にあるからだ。

彼らにとって、「対韓解放戦争」どころか、「対日解放戦争」も未だ終焉していないのである。

言ってみれば、38度線(板門店)で分断され、軍事休戦委員会が常置される状況下にあって、一つの民族による二つの国家の休戦状態がなお延長されているということだ。

そんな中、「将軍様」の健康に異変が起こり、「Xデー」がいつ到来するとも分らないリスクを高めつつある中で、つらつら考えてみるに、仮に「将軍様」の後継者を決定し、国家としての対面を維持したとしても、忠誠心が篤いだけの、単細胞で思考停止の軍人たちの誰かが、「核のボタン」をスイッチオンしないという保証はないのだ。

「北朝鮮が米国や韓国、日本を攻撃すると脅していることについては、全くの虚勢だ・・・この情報は決して公開してはならない。なぜならば、この北朝鮮の秘密を知っているのは私1人だからだ」(AFP通信 2010年4月1日参照)

リッパー将軍(右)
黄長燁はこう断言しているが、単に忠誠心が強いだけの高級軍人であればこそ、本作の「狂気の将軍」=リッパー将軍の出現が起こり得ないとは言えないのだ。

そして次に、印・パの国境紛争。

現時点では小康状態を保っているが、核戦争の危機の寸前にまで緊張したと言われる第一次印パ戦争(1995年)、第三次印パ戦争(1999年)をピークアウトにする、中国を含めたカシミール紛争には依然として終わりが見えないのである。

印・パ共に、米露等の5カ国以外の核兵器の保有を禁止するNPT(核拡散防止条約)に加盟せず、インドの背後でアメリカが影響力を行使することによって、インドの左派たちの激しい反米活動はなお延長されているのだ。

NPT 体制を支える中枢機能の役割を果たすはずのCTBT(包括的核実験禁止条約)が、核実験の停止すら具現し得ずに、なお未批准の国家を多く抱えているため、依然として発効していない現実があるのは周知の事実。

核兵器の原料になる高濃縮ウランとプルトニウムの生産を禁止するカットオフ条約に至っては、条約制定のための交渉の決定的前進すら見られないのである。

NPTを補完するIAEA(国際原子力機関)の事務局長に、我が国の天野之弥氏が就任したこと(2009年12月)で一頻り話題になったが、151ヶ国もの加盟国を持ちながらも、北朝鮮を巡る問題等において露呈されたように、この機関が充分な機能を果たし切っていないという現実があるのだ。

そして何より、パキスタン。

パキスタン→北朝鮮→イランというルートで遠心分離機の部品を売り、それがイランのウラン濃縮計画の発展に寄与したと言われる、所謂、「核の闇市場」(カーン研究所を拠点に核物質を密輸する国際的ネットワーク)に関わったカーン博士(「パキスタンの核開発の父」)の国であり、その政治状況の不安定さは、ラーワルピンディーでのブット暗殺(2007年12月)に見られるように、国内情勢の不安定さは、今や頂点に達しつつあると言ってもいい。

ラシュカレ・タイバの創始者・ハーフィズ・サイード
タリバンやラシュカレ・タイバ(カシミールの分離独立を主唱するイスラム過激派)を育てたとされるISI(パキスタン軍統合情報局)の影響力が依然として強く、更にその向こうには、トライバルエリア(パキスタン北西部のアフガニスタン国境)に隠れ住むであろうアルカイダ系のテロリストたちが多く潜入し、マクリスタル司令官をトップにするNATOアフガン軍のとの激しい戦争は、日を追って増幅してきているという現状だ。

私が思うに、これは文明と文明との衝突ではなく、「文明を維持しようとする者」と「文明を破壊しようとする者」たちとの、人類史上初めての根源的戦争である。

所謂、「ポストモダン・テロ」である。

震撼すべきは、ウサマ・ビン・ラビンの関与が濃厚なアルカイダが核兵器を手に入れるリスクが、日々に増してきているという専門家の指摘である。

現にビン・ラビンは、核兵器の入手を目論んでいる事実が指摘されている。

「私は、自衛のために核平気は絶対に必要であるとも考えている」(オサマ・ビン・ラビン公式伝記(抜粋)・ウサマ・ビン・ラビンからのメッセージ 日本語版に向けて より)

これは、9.11直後のビン・ラビンの言葉。

その信憑性について、陰謀論者の多くは明瞭に否定するが、少なくとも、そのような危険性を認知した上での、「対アルカイダ戦略」を考えるべきであろう。

アフマディネジャド大統領
そして、アフマディネジャドがウラン濃縮率を20%まで引き上げるように命令したと言われ、なお遠心分離機をマキシマムに作動させる国家、イランがある。

イランの核開発問題である。

既に4000基近い遠心分離機によって千キログラムの低濃縮ウランの製造を終え、核爆弾の製造を可能にしていると言われ(IAEA報告)、更に、ウラン235の濃度を高めた核燃料生産のためのウラン高濃縮の過程に入ったともされるが、真偽の程はなお不分明である。

アフマディネジャドの挑発的発言がどこまで信憑性を持つのか疑わしいが、少なくとも、これだけは言える。

現時点(2010年5月21日)でトルコの仲介で時間稼ぎをしているものの、かつて、フランスの技術協力の下で原爆開発を推進していたイラクの原子炉を爆破したように、今また、アメリカの了承を得た上で(?)、パレスチナ国家を承認しない、極右の「我が家イスラエル」の党首、リーベルマン外相を抱えるネタニヤフ政権下のイスラエルが、イランを空爆する危険性は増してきているだろう。

国連本部で開かれている核拡散防止条約(NPT)再検討会議で、東非核地帯を巡るアラブ諸国と米国双方の提案に大きな乖離があり、米とアラブの主張が平行線の現実が埋まらず、当該会議が成功するための最大の難関を突破できていないのだ。(「毎日jp 2010年5月21日付け」参照)

リクード党首ネタニヤフ(2012年6月現在・首相)
そんな中、ロシアと共に核兵器所有2大国を構成する米国は現在、カザフスタンに「核燃料バンク」を構築する構想を持っているが、「燃料の供給国と受給国の二極化につながるとして、途上国などが強く反発している」(共同通信)現状は、まさに「核保有国」vs「核非保有国」の構図を露わにするものだ。

確かに、オバマ政権下の米国が、大部分の弾道ミサイル発射実験と人工衛星の打ち上げに際し、各国に事前通告する方針を固めたと伝えたという報道を読む限り(共同通信)、第1次戦略兵器削減条約(START1)に代わる、米露の新たな核軍縮条約の早期締結に向け、交渉を加速させる努力の意志が窺われるものの(産経ニュース)、真の軍縮の具現化には双方の利害が複雑に絡んで相当に難航すると思われる。

ストックホルム国際平和研究所によると、約2万発から3万発以上と推定される世界の核兵器の存在を無化することの困難さは、結局、先のビン・ラビンのメッセージにあるように、「究極的な軍事的自立=核武装」と考える発想から解放されていないためである。

以上、取り留めないことを縷々(るる)言及してきたが、このあまりにリアルな現実に向き合うとき、私はつくづく思う。

私たちの新しい世紀が切り開いた「ポストモダン・テロ」の恐怖を、果たして無化することが可能なのか。

スタンリー・キューブリック監督(ウィキ)
急性放射線障害を発症させる「地表爆発」や、強力な電磁波を発生させることで、電子機器を致命的に破壊する「EMP爆弾(電磁パルス破壊)」の恐怖を、果たして無化することが可能なのか。

どうやら私たちの新しい世紀は、薄気味悪い地平にまで逢着してしまったようだ。

このあまりにリアルな現実に向き合ってしまうとき、「博士の異常な愛情」を愚劣なまでのジョーク過剰な、稚拙なブラックコメディとして観てしまった私の正直な感懐である。

現代の視座によって、50年前の映画を批評することの無意味さを重々承知の上のことながら、それでも冷戦の真っただ中にあって製作された本作を、当時の視座によって批評したとしても、ほぼリアルタイムで観たときと同様に、やはり完璧主義のキューブリックらしくない、玩具仕立てのような映像の杜撰さに辛口の評価しかできない思いは変わらなかった。

(2010年6月)

2010年5月26日水曜日

時計じかけのオレンジ('71)   スタンリー・キューブリック


<「自己統制の及ばない反動のメカニズム」への痛烈な糾弾の一篇>



1  「超暴力」の限りを尽くして ―― ミルクバー、ナッドサット言語、そして「第九」の陶酔感覚



その詳細は後述するが、本作は、「ルドビコ心理療法」と呼ばれる洗脳実験の「治験前」と、「治験後」の様態を描き出す映画である。

ここでは、「治験前」を象徴する、バイオレンスと集団レイプの連射によるハードな映像を簡単にフォローしていく。

全体主義的な様相を見せつつある管理社会下にあって、近未来のロンドンの都市の秩序は乱れ切っていた。

治安状態の悪化は、ティーンエージャーのギャング集団を跋扈(ばっこ)させ、集団同士の乱闘を常態化させていた。

その中にあって、アレックスをリーダーとする4人の不良少年による、バイオレンスと集団レイプの蛮行が、執拗に描かれていく。

映像の冒頭シーン。


左目に付け睫(つけまつげ)をする異様な出で立ちによって、リーダーの座を誇示するアレックスがミルクバーで飲むミルクには、興奮作用を惹起する麻薬成分が含まれていて、ここで供給された熱源の異常な昂揚感の中で「夜のプラン」を練っている。

ナッドサット言語(英語とロシア語より成る、合成的な人工言語)によって説明される3種類の興奮剤が、アレックスたちを「超暴力」へと駆り立てていくのだ。

この夜の「超暴力」のラストショーは、反政府的作家の大邸宅への略奪的侵入。

作家本人への暴行と、その妻への身の毛も弥立(よだ)つ集団レイプ。

「超暴力」の限りを尽くして帰宅したアレックスが、自室で放った一言。

「申し分ない夜だった。完璧な仕上げは、ルドヴィヒの音楽に任せよう」

陶酔しながら「第九」を聴くアレックスが、そこにいた。

ここまでの所要時間は、約17分程度。

「治験前」の映像のエッセンスは、殆どそこに凝縮されていた。

「ヤーブル」、「デポチカ」、「ホラーショー」、「フィリー」、「マレンキー」、「ドゥーク」、「グブリ」、「ヤーブロッコ」、「ノズ」、「ブリツバ」、「トルチョック」、「スパチカ」、「ダダ」、「マム」、「スルージュ」等々。

その意味は想像可能だが、多くは読解困難なナッドサット言語を記録すると、以上の通り。


因みにこれは、字幕翻訳家として、その名を知らしめた原田眞人(「KAMIKAZE TAXI」、「金融腐蝕列島」等で著名な映画監督/画像)の仕事であった。

更に、ビリーボーイ一派(ライバルの非行少年グループ)との喧嘩の情報を知った更生委員の訪問があり、アレックスの自室で、彼の急所を鷲掴みしながら、「申し分ない家があり、頭も悪くないのに、悪魔が体を這い回るのか」などと戯(じゃ)れて恫喝する描写は、この国の権力機関の腐敗ぶりを存分に露呈させていた。

映像のその後の展開は、軟派したアレックスのセックスシーン(BGMの多用と、ノンストップの早送り)と、仲間の裏切りに遭って逮捕されるシーンに集約されるが、後者こそ「治験前」を終焉させるシーンとして、映像前半の括りとなっていく。

以降、「治験後」の映像展開をフォローしていく。



2  「時計じかけのオレンジ」 ―― 「治験後」の人格改造による「脆弱性」



本作は、一人の少年犯を洗脳することで、「悪人」を「善人」に変貌させていく一つの心理療法の、その「治験前」と「治験後」の様態を描き出すことによって、人間の「衝動性」と、その主体人格の自我の変わりにくさに肉薄した「主題性」の明瞭な挑発的映像である。

以下、簡単にその洗脳実験のプロセスと、それによる変貌の様態をフォローしていこう。


ルドビコ医療センターで実施される、「ルドビコ心理療法」と呼ばれる洗脳実験の内実は、眼球に覚醒剤を注入した状態で、バイオレンスと集団レイプの映像を被験者に集中的に見せることによって、それらに対する拒絶反応を示す人格改造の方略である。

こうして、第1号被験者であるアレックスへの、内務大臣の管轄下での洗脳実験が開かれていった。

「瞬き封じの『リドロック』。正気とは思えなかったが、好きにさせてやった。最初は、ハリウッド風のプロの『シニ―』で大満足。殊に音響が『ホラーショー』。迫真的な叫びや呻き。荒い息遣いと、『トルチョック』の効果音を存分に『スルージー』できた。しかもその上、懐かしきあの真っ赤なワイン(鮮血)が工場で大量生産されるように、流れ出した。奇麗だった。不思議なことに、現実世界の色が本物らしいのは、スクリーンの上でだけ。だが、ずっと見続けていると、それほど楽しい気分ではなくなってきた」(アレックスのナレーション)

相変わらず、ナッドサット言語満載のアレックスの洗脳実験は、鮮血溢れるバイオレンス映像の連射によって、感覚鈍磨するどころか、次第に生理的嫌悪感が生まれてくる。

次は、集団的レイプ映像のリアルな映像。

「6,7人目の『マルチック』が『スメック』笑いで襲う頃には、私は遂に吐き気を覚えた。いくら眼球を動かしても、映像から完全に逃げられない」(アレックスのナレーション)

アレックスは我慢し切れず、とうとう叫んだ。

「止めようよ。気分が悪い。吐けるように何かくれ」

それに対する博士の答えには、一応の合理性を持っていた。

「直に薬が効いて、死んだも同然の状態になる。激しい恐怖と無力感に襲われる。被験者の一人によると、それは、溺れ死ぬ感じらしい。その過程において、患者は治療の主目的たる連係を確立する。自分が置かれた苛酷な状況と、目撃している暴力との連係だ」

「吐き気は、快方に向かっている証拠よ。健全な人間は、恐怖と吐き気で嫌悪感に反応するわ。健康になりつつあるのね」

これは、女性ドクターの説明。

当然、実験は継続された。

アレックスの視界に入る対象は、ナチスの行進のフィルムの後、戦闘機からの大量爆撃の映像が続いた。

ここで遂に、アレックスは呻き声を発した。

以下、その際の会話を再現する。

「苦痛の中で漸く気がついた。ガンガンと鳴り響くその音楽は、ルドヴィヒ・バン(ベートーヴェン)作曲の第九第四楽章」
「罪悪だ!」
「罪悪?何が罪悪なんだね?」と博士。
「ルドヴィヒを使うなんて。彼には責任がないのに。作曲しただけなのに」
「BGMのことを言っているの?」と女性ドクター。
「そうだ」
「これは多分、刑罰の要素だな。気の毒だが、君のためだ。暫く付き合ってもらう」
「あんまりです!」
「君が選んだことだ」
「もう充分だと思います。先生。超暴力や殺人は、本当に間違っています。恐ろしいことです。しっかり学びました。治ったんです!」
「治っとらんな」
「反社会的なことは悪い!人は皆、幸福に生きる権利があります!」
「診断を下すのは、我々だ。2週間足らずで自由になれるよ」

その拷問のような、長い2週間が経過した。

今度は、アレックスに対するルドビコ心理療法の「成果」を、内輪で公開実験するショーが開かれた。

その場で、アレックスは一方的に暴力を振るわれ、靴の裏まで舐めされられる始末。


更に、ヌードの女性を前に性衝動が発動せず、吐き気を催すばかり。

ショーの後、アレックスは内務大臣に尋ねた。

「成功したんですか?」

それに対する内務大臣の答えは簡潔だが、要点を押さえていた。

「成功したとも。要するに、被験者は悪への傾斜をパラドックスとして善に傾く。暴力行為への衝動が、強烈な肉体的苦痛を伴います。それと対処するために、彼は正反対の行動に走ります。質問は?」

ここで、アレックスを庇護し続けて来た、刑務所付け牧師が疑義を唱えた。

「選ぶ能力!本人に選ぶ能力がないんじゃないか。私欲と肉体的苦痛への恐怖が、彼を醜悪な自己卑下に駆り立てるんだ。そこには誠意の欠片もない。非行は防げても、道徳的選択の能力を奪われた生き物に過ぎない」

この主張こそ、作り手の主張であると言っていい。

それに対する内務大臣の答えは、良くも悪くも、為政者の典型的反応であった。

「些細なことです。動機や高級な倫理観は別問題。我々の目的は犯罪抑圧です。彼は人を苦しめるより、自らが苦しみ、ハエを殺そうと考えただけで気分が悪くなる。再生です!天地たちと歓びを分ち合おう!」

映像を通して最も重要な、この本質的問答の内に、挑発的映像である本作の「主題性」が明瞭に凝縮されていた。

以下、本作のビデオジャケットの解説が、そのエッセンスを要約しているので、ここに引用する。


「喧嘩、盗み、レイプ、殺人に明け暮れる良心のかけらもない若き人間ハンター、アレックスは、逮捕され刑務所に入れられて、『無害』な人間に改良するための様々な治療法が施される。その結果誕生したのは、『時計じかけのオレンジ』――つまり表面的には健全で完全だが、その内部は自己統制の及ばない反動のメカニズムのせいで廃人同様となった人間だった・・・・」(『時計じかけのオレンジ』ワーナー・ホーム・ビデオジャケット解説より)

本作の基本モチーフは、「表面的には健全で完全だが、その内部は自己統制の及ばない反動のメカニズムのせいで廃人同様となった人間」の、その「治験前」と「治験後」の様態を描き出す映像以外ではないだろう。

ともあれ、「治験後」の「廃人同様となった人間」を見せるショーは終焉し、14年の刑期を終えることなく、かつての殺人犯のアレックスは、人畜無害な人間に変貌したことで、釈放されるに至ったのである。



3  「自己統制の及ばない反動のメカニズム」への痛烈な糾弾の一篇



釈放の翌日、自由の身になったアレックスは、「治験前」の彼の思惑とは違って、自分の居場所を失う惨めさだけを曝け出していく。

帰宅後、自宅のソファーで寛ぐ居候の青年を殴ろうとして、吐き気を覚えるアレックスがそこにいた。

それは、ルドビコ心理療法による、「治験後」の「廃人同様となった人間」のあられもない「脆弱性」の露呈の現実であった。

以上の把握に立脚すれば、「治験後」の映像で繰り返し描かれる、アレックスの嘔吐シーンは極めて重要な描写なので、解説を加えていこう。

何より「第九」を聴いて、アレックスが吐き気を催すのは、「第九」によって駆り立てられた攻撃的、且つ性衝動が、所謂、動物の「真空行動」を例に挙げるまでもなく、言わば「本能行動」として発動していく一連のプロセスが、人格内部で構造的に妨害されている現実を示している。

ここで言う、動物の「真空行動」とは、反射を作動させる「解発」(様々な因子によって行動が誘発されること)によって惹起する「生得的解発機構」が、刺激されたままの状態で置かれると、必ず同様の行動を発現させるということ。

例えば、馬を厩舎に閉じ込めた状態で、「移動中枢」を刺激すると、その馬は必ず暴れ出してしまうということであって、私たちはこれを「本能行動」と呼んでいる。

無論、人間には「真空行動」は存在しない。

「本能的行動」は部分的に残っているが(「睡眠欲」、「食欲」など、「生存」に関わる欲望に限定)、しかしそれは、必ず同様の行動を発現させる「真空行動」とは切れている行動様態である。

即ち、本作における「アレックスの吐き気」という条件反射的な行為を考えた場合、「生得的解発機構」が刺激されたままの状態で置かれた場合での、「真空行動」的発動の如き様態を示すのは、人格内部で構造的に妨害させている、危うい人体実験により強制的に作られた、「洗脳的自我」の支配力に因っていると言えるだろう。

然るに「洗脳的自我」は、単に表層的な行動規範として作られたものなので、アレックスの人格総体を統括するほどの圧倒的支配力を持ち得ていないのだ。

人格総体を統括できない中空の状態下にあって、「洗脳的自我」によってのみアレックスの振舞いが身体化されるという構造性の中で、それでも完璧に支配し切れないで残された彼の内側の攻撃的・性的衝動が、「洗脳的自我」の支配力の内に、その発現を強引に封殺されてしまっているのである。

アレックスは、この決定的な自我分裂によって、最も安易な選択肢である自殺という手段に流れ込んでいった。

しかし、アレックスを人体実験した内務大臣の「人格復元療法」によって、彼がより凶悪な悪へと変貌していくという映画のオチには、まさに人間の行動選択の自由を完全に奪い取る、極端な加工的、且つ、人為的行為を指弾する作り手の確信的メッセージが内包されていて、そこにこそ映像の基幹的主題を明瞭に読み取ることが可能となるだろう。

この映画は、「暴力の肯定・否定の是非」という「倫理的次元」における問題提起でも何でもなく、前術した会話に象徴される政治的行為への痛烈な風刺であると読解できるのである。


但し、映像から読み解く作り手の思考の内に、「暴力」を人間の本源的問題と考える文脈が伝わって来るのも事実。

しかし有史以来、人間の「暴力」が消失した時代が存在しないという事実は、それが人間の「本能行動」であることを決して意味せず、ここでは単に、人間が「最も攻撃的で暴力的な存在体」であるという事実の認知に収斂される何かである、と読み解くべきだろう。

反射を作動させる解発によって惹起する「生得的解発機構」と呼ばれる、「本能行動」という最大の能力を持つ他の動物と異なって、著しくその能力を欠く人間の場合、恐らく、前頭前野に中枢を持つと思われる自我によって、一切の生物学的、社会的行動の代行をしているので、それが人間の生存・適応戦略の羅針盤になっているに違いない。

問題なのは、その自我が「先行する世代」の教育によってのみ、その基本形が形成されるという由々しき現実である。

従って、その自我の形成は「先行する世代」の教育によって為される基本的営為でありながらも、どこまでも「自我の確立」に関わる自己運動は、人格主体の選択的行為によって達成されるべきものであるということ、それに尽きるだろう。

それは、「選ぶ能力!」と叫んだ牧師の指摘に収斂される文脈である。

本作は、「自己統制の及ばない反動のメカニズム」への、些かコメディ風の味付けを被せた痛烈な糾弾の一篇であるということだ。

その指摘は基本的に間違っていないが、但し、私たち人間が本能の代わりに、常に未形成の鎧を纏(まと)う宿命を負う、何とも頼りない「自我」によって行動せざるを得ない本質的な「脆弱性」を持っているということ。

その認知こそ重要なのだ。



4  「暴力」は「暴力」によってしか収斂できない、人間の歴史のエンドレスな「暴力史」の宿痾



ここでは、本作の根幹に据えられた「暴力」の問題について言及する。

「暴力」の本質とは何だろうか?

まず、「暴力」とは、「攻撃的エネルギーが、他者に対して身体化される行為」の総称である。

これが、「暴力」に対する私の定義である。


この把握に則って、「暴力」の本質を定義すると、「他者を物理的、或いは心理的に、自分の支配下の内に強制的に置くこと」であると言えるだろう。

従って、国家権力こそが最強の「暴力装置」となるということだ。

誤解を恐れずに言えば、「主権」(「統治権」、「独立性」、「最終的決定権」)、「領土」、「国民」から成る「国民国家」において、その「国民国家」の最適サイズと矛盾しない限り、「暴力装置」の設置は不可避であり、必要悪であるだろう。

ともあれ、その辺りの構造性について、映像から検証してみよう。

主人公のアレックスは、国家権力の人体実験によって、その人格の中枢を強制的に改造され、所謂、「洗脳的自我」を持つに至った。

その結果、彼は暴力に対する極端な拒否反応を示すが、却ってそれが、彼の社会的適応を困難にさせていったことは既に言及したとおりである。

この映画が面白いのは、そんなアレックスの人体実験を批判する者たちの反政府的言動に対して、敏感に反応した内務大臣が、無力化したアレックスを元の人格に戻すという重要且つ、決定的なエピソードを挿入したところにある。

国家権力によって無力化された若者が、再び「超暴力」を自在に駆使する人間に復元するという、ラストシーンの構図は充分にアイロニーが効いていた。

自殺未遂によって一命を取り留めたアレックスが、国家管理の特別病棟で加速的に復元していくプロセスこそ、この映像の最大の狙いであったに違いない。

手足が不自由なアレックスが、自分を無力化した人体実験の統括者である内務大臣に、ステーキを一口ごとに食べさせて、悦に入る描写はまさに本作の真骨頂だった。

セックスの妄想に耽るアレックスがそこにいて、不敵な笑いを浮かべるとき、国家権力によって無力化された男の「洗脳的自我」が解かれて、より凶暴な「超暴力」を弄(もてあそ)ぶ「悪しき犯罪者」へとシフトしていく物語ラインの、トラジェディー(悲劇)を包含したコメディータッチの展開の内に、作り手の些か声高で、鮮明な「主題提起力」が検証的に映像化されていたのである。

そこでの印象的な会話を、再現してみよう。

言うまでもなく、会話の主は、内務大臣とベッド上のアレックスである。

「我々を友人だと思ってくれ。充分な世話をする。最高の治療を約束する。この国には、とんでもない人間がいて、政治目的でね。彼らは、君が死ぬと喜ぶ。政府を非難できるしな・・・我が党は君に関心がある。退院後の心配も無用。全ての面倒を見る・・・確かに現政府は、君のためにひどく不人気になった。報道機関は、我々を非難する見解を示した。だが、世論は変わりやすいし・・・そこでアレックス。君がその方面で活躍し、世論を操作する。分るね、私が何を言いたいか?」

本音を暈(ぼか)しつつ、アレックスの「再起」を求める内務大臣の長広舌に対する、肝心の当人の反応は明快だった。

「よく分りました。夏深き青空の如き明快です。任せて下さい」

最後に、内務大臣から「第九」の大音響のプレゼントがあり、いつしか病室を囲繞するカメラマンたちに親指を立て、OKサインを送るアレックスの表情には、もう無力なる者の本質的「脆弱性」から切れ、自在に羽ばたく一羽の猛禽と化していた。

セックスの妄想によって、完全に復元したアレックスの不敵な笑みの後に、「雨に唄えば」のBGMが追い駆けていく。

ラストシーンの、この一連のシークエンスから読解できるのは、前述したような、「洗脳的自我」における 「選択できない人生の悲哀」であると同時に、それと濃厚にリンクして、「他者を自分の支配下に置く」という「暴力」の本質に関わる超ド級のアイロニーであったということだ。

他者を支配することによってしか成立しない「暴力」の連鎖には、終わりが見えないということなのだ。


「暴力」は「暴力」によってしか収斂できない、人間の歴史のエンドレスな「暴力史」の宿痾(しゅくあ)こそ、作り手であるスタンリー・キューブリック(画像)は問題にしたかったのだろう。

そういう映画だったのである。



5  本作への的外れな幾つかの批判について ―― 余稿として



本稿の最後に、本作への的外れな幾つかの批判について一言。

それは、本作を「暴力を助長する映画」と認定し、上映禁止を主唱する類の批判の無意味さが、全て根拠の希薄な「モラル」に拠って立っていること。


1971年に製作され、翌年に公開されたこの「時計じかけのオレンジ」を観て、衝撃的な影響を受けたアーサー・ブレマー(画像)という名の、21歳の若者の事件(アラバマ州知事のジョージ・ウォレス暗殺未遂)が現出した事態の一面のみを強調する指弾が、結局、「法体制」ではなく、曖昧な「モラル」をバックボーンにしている風潮は、決して「健全な社会」の証ではないと言える。

私から言わせれば、この種の犯罪者は、「時計じかけのオレンジ」のような映画を発火点として利用しただけで、実は、この種の映画なしでも犯罪を強行したに違いないと思えるのだ。

なぜなら、この映画を鑑賞した後、多くの者が「気持ち悪い」と思う感情こそ、「暴力嫌悪」の証であるからだ。

そういう人は、良くも悪くも、この映画から特段の「学習」を媒介することなしに、最初から「思考停止」の穴倉に潜ってしまうだろうし、或いは、この映画を気に入った者も、映画から受けた何某かの興奮を、直ちに、「超暴力」を弄(もてあそ)ぶ「悪しき犯罪」に直結させる行為に走る訳がなく、縦(よし)んば、件の者が「暴力肯定」の思想に流れ込んでいったにしても、それもまた、単にこの映画を発火点として利用しただけに過ぎないのである。


「超暴力」を弄ぶ「悪しき犯罪」に利用し得る対象を文化のアイテムに求めるとき、主観の枠をマキシマムに拡大すれば、殆ど全ての文化事象が当て嵌まるのだ。

それを、特定の文化のアイテムの、特定的な表現作品にのみ求めることへの根拠は、あまりに稀薄であると言わざるを得ないのである。

「超暴力」を弄ぶ「悪しき犯罪」に流れ込む者の自我の未成熟の問題を、映像表現の「性質(たち)の悪さ」に還元させる短絡性こそ、「モラリスト」のある種の怖さであると言ってもいい。

ついでに書けば、本作が資本主義の末路の様態であるという決め付けによって、殆ど予約されたかのような、安直な「批評」で括ったつもりの御仁も多々見えるが、言うまでもなく、この類の「批評」もまた、無媒介にイデオロギッシュな印象力の硬直さによって、しばしば情感暴走するだけに厄介であるだろう。

或いは、本作が全体主義への批判に収斂されるものでもないだろう。

私から言えば、「全体主義国家」(実際は、中途半端な全体主義)に設定した方が、主題を提起しやすかっただけだ。

それよりも、SF作品であるはずなのに、「電話を貸して下さい」と現れるアレックスの描写等々を見る限り、人間の様々なフィールドにおける未来を予測することが如何に困難なことであるかが分るだろう。

近未来の人間の様々なフィールドにおける未来を予測できない私たちに、分ったような「世界観」の提示が出来る訳がないのだ。

まして、「資本主義」の次に訪れるだろう、「在るべき理想社会」にバラ色の未来を約束させる「克服史観」の誤謬について、私たちはもっと謙虚に受容すべきではないのか。

そんな風にも思うのだ。

(2010年5月)