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2011年10月31日月曜日

秋刀魚の味('62)      小津安二郎


<成瀬的残酷さに近い、マイナースケールの陰翳を映し出した遺作の深い余情>



1  「小津的映画空間」を閉じるに相応しい残像を引き摺って



死を極点にする「非日常」を包括する「日常性」を、様式美の極致とも言える極端な形式主義によって、そこもまた、根深い「相克」や、「祭り」の「喧騒」、「狂気」を内包する「騒擾」を削り取ることで、永久(とわ)に続くと信じるこの国の、「穏和」と「ユーモア」が溶融する、極めてミニマムな「映像宇宙」の中に、パーソナル・エリアを最近接した者たちと、「日常性」という「安寧の時間」を「共有」してもなお生き残される、「絶対孤独」という「無常感」の「儚さ」。

この「儚さ」を、様式化された「構図」の中に詰め込んで、それを破壊しないレベルで、そこはかとなく漂う心象風景を特定的に切り取った「映像宇宙」 ―― それが、「小津的映画空間」である。

小津安二郎監督にとって、この「映画空間」を具現するに相応しいジャンルこそ「ホームドラマ」であった。

そこで表現される「ホームドラマ」のミニマムな世界で、小津監督は、映画作家として様々な試行の果てに培って、そこで到達したと信じる一切を自己投入していったのである。

しかし、小津監督の構築した「ホームドラマ」が普遍性を獲得するには、「時代」との相応の睦みが保証されていなければならなかった。


この「時代」との睦みが保証されるには、小津監督が欲したであろう、この国の「古き、善き原風景」の生命力が決して安楽死しないと信じられる、絶対規範とも呼ぶべき何かが必要だった。(画像は小津安二郎監督)

ところが、「時代」の目まぐるしい変遷は、小津監督の欲したイメージを遥かに超えていた。

本作の中で、長男の幸一夫婦の会話が、時代を映す鏡のように描かれていたことが印象深い。

ゴルフクラブを購入したい夫と、それを贅沢と詰(なじ)る妻もまた、自分の消費欲求を口に出すシーンである。

このシーンに象徴されているように、目眩(めくるめ)く変容を遂げていく時代は、「より豊かに、より快楽に溢れた文化」を作り出してしまったのである。

それが、東京オリンピック(1964年製作)の開催を間近に控えた、この国の大衆社会の不可避な自己運動であったからだ。

「晩春」(1949年製作)と殆どテーマを同じにする、この遺作の時代背景には、「晩春」が作られた時代よりも、「三種の神器」に象徴される高度経済成長という、大衆消費文明の自己運動が遥かに剥き出しになっていて、小津監督が構築した「ホームドラマ」のイメージの理念系を置き去りにする尖りが内包されていたのである。


だから、白無垢の嫁入り衣裳のカットを挿入した、この遺作で語られる主人公の孤独の境地には、「晩春」での父娘の、インセストの如き「睦みの美学」を、呆気なく壊すに足るような「置き去り感」が張り付いていた。

この時期、図らずも、最愛の実母を喪ったトラウマが、小津監督の胸裏を必要以上に騒がせていたか否かについては不分明である。

然るに、詳細は後述するが、哀感の極みのようなラストカットの「無常感」は、「小津的映画空間」を閉じるに相応しい残像を引き摺っていたことだけは否定し難いのだ。



2  「小津ルール」の縛りを解いて、没個性のボトルネックを突き抜けていく「全身表現者」の面目躍如



3度目の遺作の鑑賞であったが、最後まで馴染めなかった「小津ルール」。

全く違和感がない「ローポジション」の問題は例外として、「相似形の構図」や「イマジナリーラインの無視」程度のルールなら我慢できるが、野田高梧との共同脚本による、執拗な「台詞の反復」と「表情を殺した演技」だけは、何度観ても、どうしても馴染めないのである。

「使ってるわよ、使ってるじゃない」、「よしちゃえ、よしちゃえ」(必ず、使用される台詞で、私は「ちゃえちゃえ語」と呼んでいる)、「煩い、煩い」、「ダメ、ダメ」、「そうかな、そうかな」、「買うわよ、本当に買っちゃうから」、「いいの、今のままでいいの」、「いいですよ。あの男ならいいですよ」、「言いました。言ったよ」、「いいの。そんならいいの」等々。

「台詞の反復」のほんの一例である。

様式美の極致とも言える、極端な形式主義によって成る「小津的映画空間」の表現技巧は、小津監督のイメージの中にのみ根を張っている映像宇宙の律動感と、それを具象化した構図こそが、俳優の演技よりも遥かに決定的な「美学」の検証であるが故に、観る者の受容感度の是非が、「評価」や「好悪」の基準を決めることになるだろう。

それでいいと確信する巨匠の、アーチストとしての拘泥は、小津組の出演俳優ばかりか、観る者の受容感度の「適正化」をも暗に求めて止まない、「自信満々居士」の臭気を放つ「厄介」なる何ものかであったのか。


かくて、軽演劇で鍛えたハイテンポで、アドリブ自在な森繁久彌の演技は、ただ一回の出演でダメ出しをされ(「小早川家の秋」)、小津組の助手を経験した今村昌平(画像)に至っては、「生きている人間の有りよう」を感受させない不満が昂じて、小津組との縁を切った。

両者共に、「譲れないもの」を持つ「表現者」だったのだ。

俳優の個性を敢えて破壊する演出によって構築したと信じる、「小津的映画空間」の信奉者か、或いは、「絶対者」としての「映画監督」との間で形成された、「権力関係」への背馳(はいち)を恐れる「従順」な「常連俳優」のみが、今や、「世界的名匠」という高みまで上り詰めたアーチストを囲繞していったようにも見える。

「常連俳優」には、「表現」が堅固に統一された世界への自己投入を躊躇(ためら)うはずがなかったのか。

相互の会話の「間」を、反復的な台詞で埋められてしまうから、いつでもそこに、力動感に欠ける「堅苦しい表情」だけが生き残されるのである。

それが、小津監督の把握の中では、「自然な演技」という範疇に収斂される「表現」だったのか。

はっきり書くが、本作で最も重要な役柄(長女の路子)を演じた岩下志麻の「眼」は、映像前半において死んでしまっているのだ。


岩下志麻の「眼」の死が、嫁入りする際の、眩い輝きを強調するための計算された演出とは思えないのは、私の中の「厄介」な疑心暗鬼の視線が反応してしまうからで、図らずも、そんな狭隘なるマインドセットが蠢(うごめ)いてしまって、そこだけは偏見居士と化した者の如く、何とも浄化し切れない違和感が反応してしまうのである。

新人女優には、どだい、「小津ルール」の縛りの中で、「生きた眼」を表現することなど無理な要求というものであるが、それを含めて、包括的に「オンリーワン」に固執する態度を一貫した作家性に脱帽する他にないとも言えるのか。

加東大介、杉村春子、東野英治郎、中村伸郎などのように、全身で演技を表現し切る「全身表現者」のみが、「小津ルール」の縛りを解いて、没個性のボトルネックを突き抜けていくのだろう。

例えば、こういう会話があった。

「軍艦マーチ」を耳にしながら、飲み屋で、主人公の周平と、周平の海軍時代の部下であった坂本との会話である。


坂本を演じる加東大介の、「全身表現者」としての面目躍如たる演技が眩く輝いていて、周平を演じた笠智衆の抑えた演技をも呑み込んでいた。

「ねえ、艦長。どうして日本負けたんすかね」と坂本。
「ううん、ねえ・・・」と周平。
「お陰で、苦労しやしたよ。帰って見ると、家は焼けているし、喰い物はねえし、それに物価はどんどん上がりやがるしね。・・・そこへいくと艦長なんか、何にもご苦労なかったでしょうけどね」
「いやいや、私も苦労しましたよ」
「でも艦長。これでもし、日本が勝っていたら、どうなったんすかね」
「さあねえ・・・」
「勝ったら艦長。今頃、あなたも私もニューヨークだよ。パチンコ屋じゃありませんよ」
「そうかね」
「そうですよ。負けたからこそね、今の若(わけ)え奴ら、向こうの真似しやがって、レコードかけて、ケツ振って踊ってますけどね、これが勝っててごらんなさい。目玉の青い奴が丸髷(まるまげ)なんか結っちゃって、チューインガム噛み噛み、三味線弾いてますよ。ざまあみろってんだ」
「けど、負けて良かったじゃないか」
「そうですかねえ。ううん、そうかも知れねえな。バカな野郎が威張らなくなっただけでもね」

明らかに、アジア太平洋戦争への批判を込めた、とても生き生きした素晴らしい会話である。


それは同時に、「小津的映画空間」に背馳せず、そこに上手に溶融し得た「全身表現者」のみが、「小津ルール」の縛りを解いて、没個性のボトルネックを突き抜けていくという典型例でもあった。



3  小さい嗚咽を洩らす老人の後ろ姿を映し出した、ラストカットの哀感



「寂しいんじゃ、哀しいよ。結局、人生は一人ぽっちですわ。わたしゃ、失敗した。つい、便利に使(つこ)うてしもうた。娘をねえ、つい便利に使(つこ)うてしもうて、嫁の口もないじゃなかったが、なんせ、家内がおらんのでねえ。失敗しました。つい、やりそびれた」

これは、かつて「ヒョータン」と揶揄(やゆ)された、中学時代の恩師である佐久間の言葉。

クラス会での宴席で、箸置きの下にあった現金入りの紙袋の礼に、かつての生徒たちと、再び宴席を設けたときのことだ。

中学校教諭を定年退職し、今はラーメン屋を営んでいるが、妻を亡くしたため、一人娘を家政婦兼従業員代りに育ててしまったことを、佐久間は悔いているのだ。

婚期を逃し、娘を「行かず後家」にしてしまった責任を、教え子との宴席の場で吐露する中学時代の恩師の嘆きを、直截(ちょくさい)に受け止める周平。

周平もまた、佐久間が置かれた状況と変わらない心的風景をなぞっているのである。

「寂しいんじゃ、哀しいよ。結局、人生は一人ぽっちですわ」

佐久間の吐露には、それを経験した者でなければ分らない哀感が深々と滲み出ていて、そこだけは、周平の情感に喰い刺さっていったのである。

「娘の嫁入り」という、「日常性」と地続きにある人生の大きな節目を目の当たりにして、揺れ動く父親の心境もまた、回避できない宿題を突き付けられた者の、名状し難い寂寞感を晒すのだ。

それ以前のカットにおいて、一人でラーメン屋の店の片隅に佇む佐久間の姿が、ローアングルのフィックスで撮られていたが、「人生は一人ぽっち」という老境の哀感漂う名場面だった。

この構図が、娘の路子を嫁入りさせた周平の老境を、いつものように丁寧に描くラストシーンの伏線となっていて、観る者に、否が応でも感情移入させる静謐(せいひつ)な絵画的空間を作り出していくのである。

その有名なラストシーン。

「俺も寝ちゃったぞ。明日、また早いんだぞ。俺がめし炊いてやるから」


路子を嫁入りさせた父の孤独の心境を案じる次男が、一人で台所にいて、酔っている父に声をかけるのだ。


「ん、やあ、一人ぽっちか・・・」


そう言って、軍歌を歌いい始めるが、途中で止め、一人でやかんの水を汲んで、音もなく飲む周平。

小さい嗚咽を洩らす老人の後ろ姿を映し出したラストカットの括りは、実に見事な閉じ方だったという他にない。


返す返す思うに、余情を残すラストカットで閉じる本作は、老境にある者にとって、何より大切なのが、「生きがい」というよりも、「居がい」であり、「居場所」の問題であることを示唆した映画でもあった。

以上、縷々(るる)、批判的な一文をも添えたが、それもまた、「小津的映画空間」への部分的だが、私にとっては看過し難い馴染みにくさ故のものであって、その思いも含めて、「小津映画」を包括的に理解した上で受容するというスタンスだけは変えるつもりはない。

だから私は、「好みの問題」で片づけることにしているが、明らかにテーマを処理できずに失敗した「風の中の牝どり」(1948)と、高峰秀子の本来の個性を全く生かし切れなかった「宗方姉妹」(1950)に関しては、とうてい許容し得る映画ではなかったことだけは言い添えておこう。

以上の言及に沿った、「小津的映画空間」に対する、私なりの正直な感懐を添えることで、以下、本稿を閣筆(かくひつ)したい。



4  成瀬的残酷さに近いマイナースケールの陰翳を映し出した遺作の深い余情



単に、その時代に生きる「中流階層」の人々の、淡々とした「日常性」を描いただけなのに、ここまで「美しい日本の、美しい心の風景」を、「そこだけは捨ててはならない堅固な信念」のうちに、特定的に拾い上げる執着心を理解し得るとしても、「人間の、或いは、日本人の醜悪な様態」が、まるでどこにも存在しないもののように描かれること、即ち、「冷厳なリアリズム」を擯斥(ひんせき)してしまう「小津的映画空間」に、恐らく、今村昌平もそうであったと同様の文脈において、私もまた全く馴染めないのである。

それにも関わらず、本作に対する私の感懐には、それまでのような、「美しい日本の、美しい心の風景」への拘泥が希釈化されている印象を拭えないのだ。

それは、昔の教え子に対する中学時代の恩師である佐久間の、何か封印し切れない卑屈さと、その恩師に対する昔の教え子たちの態度の軽侮の念が、そこもまた、封印し切れない露骨さの中で表現され過ぎていた点に集約されるだろう。

こんな残酷な描写を、小津監督は映像化したのである。

それは断じて、小津流のユーモアの範疇で収斂されない描写だった。

まるで、私の最も愛好する成瀬映画を観るようでもあった。

成瀬的残酷さを包括する老境の孤独の様態のイメージが、そこにべったりと張り付いていたのだ。

それ故に、佐久間の人物造形の意味が際立ったのである。


佐久間
老境の孤独を、これほど感じさせるキャラクターであったからこそ、ラストシーンでの周平の老境の孤独が深い余情を醸し出したのだ。

或いは、本作こそ、「小津映画」の最高到達点ではないのかと思わせる何かが、そこに凝縮されていたのである。

思えば、周平の老境の孤独と言っても、近隣のアパートに住む長男夫婦がいて、未だ我が家には次男が同居しているのだ。

このような家族の形態は、今、「インビジブル・ファミリー」と呼称されている。

既に成人化した子供たちが近隣に住んでいて、精神面という幹の部分で支え合っている、このような家族は「擬似同居家族」とも呼ばれているそうだ。

よくよく考えてみれば、本作の主人公である周平にとって、我が家をほんの少し空洞化させしめたのは、単に、長女を嫁入りさせたに過ぎないのである。

それにも関わらず、思いの外、深い余情を残すラストカットの風景の孤独感を醸し出すのは、目眩(めくるめ)く変容を遂げていく時代に置き去りにされるイメージを張り付けているからだろう。

「女性の社会進出」に対する違和感が相対的に希釈化されていった時代状況下にあって、娘を「我が家」に拘束したことを悔いる男の悲哀が、ユーモア含みの本作の基調音を、成瀬的残酷さに近いマイナースケール(短音階)の陰翳を映し出してしまったのだ。

「晩春」より
あっさりと嫁に行き、それをあっさりと、「擬似同居家族」が認知する。

明らかに、「晩春」の、ネチネチした父娘の睦みの深さと分れているのだ。

だからこそと言うべきか、私にとって、本作は印象深い一篇となったのだろう。

そう思わせる遺作だった。

敢えて補足すれば、その「小津的映画空間」のうちに一片の「欺瞞性」を感受させないのは、そこに、確固たる「小津的映画空間」の独自の映画文法が堂々と屹立しているからであろう。

だから、決して唾棄すべき映画作家ではないということ。

それだけは紛れもない事実である。

(2011年11月)

2011年4月14日木曜日

東京物語('53)      小津安二郎


熱海での周吉、とみ
<「非日常」(両親の上京)⇒「日常」(両親の帰郷)⇒「非日常の極点」(母親の死)⇒「日常」(上京し、帰宅)というサイクルの自己完結性>



1  「分化された家族」の風景をリアルに描き切った物語



この映画を評価するに当って、私たちは、この国の家族の変遷について纏(まつ)わる認識を改める必要があると思われる。

それは、この国の一般家庭の家族制度の中核は、一貫して「核家族」であったという歴史的事実である。

既に、「核家族」は江戸時代から一般的な家族形態であって、近代社会に入っても変わることなく、大正時代には疾(と)うに過半数を超えていた。

高度成長期にピークアウトに達し、一過的に「核家族」は加速化したものの、1970年代後半になると関数的な低下傾向を描いているのである。

その意味で、この映画は、家族の変遷の時代の空気を見事に写し取っていると言える。

それ故、本作のテーマが、「家族の崩壊」であったにしても、それは単に、「核家族化の一過的な加速化」を起因にする、この国の家族様態の変遷の問題に過ぎないということだ。

従って、本作で描かれた、尾道を起点にする一家族の物語は、この国が近代化し、急速な都市化の変遷のとば口にあって、当時としては、普通の規模の地方家族の様態が、子供たちの自立と結婚によって生まれた新しい家族の分化を必然化することで、「二世代の分裂」を鮮やかに写し取った一篇以外ではないのである。

だから、「分化された家族」が経済的に独立し、身過ぎ世過ぎを維持していくのは至極当然の事態なのだ。

この映画で描かれた、「分化された家族」の有りようもまた、倫理的に問われるほど、特段に無慈悲で冷淡な核家族ではないと言っていい。

寧ろ、あのような家族の有りようこそが、当時の一般的な風景であったと認知すべきなのである。

ところが、厄介なことに、この映画の「分化された家族」の物語を、「家族制度の崩壊」などと決め付ける大袈裟な批評の把握が、本作を囲繞する現実がある。

一体、尾道を起点にして、「故郷から離れた都市に住む子供たち」の「分化された家族」の有りようを、人権感覚だけを研ぎ澄ました現代の視座で難詰(なんきつ)することができるだろうか。


確かに、物語の中で、「親に対する冷淡な対応」がエピソードとして随所に拾われていたが、それはどこまでも、映像が提示した仮構の物語の範疇を越えるものではないのだ。

大体、私たちは誤解していないだろうか。

尾道市街地と尾道水道(ウィキ)
都市社会に生きる者の「心の冷淡さ・荒廃」や、「関係の形式化」の日常性が、豊かさを求める高度成長の産物であり、そのことによって、「自己中心的な生き方」が跋扈(ばっこ)しているなどと一方的に決め付けていないか。

この類の把握は、本質的に誤っていると言わざるを得ない。

都市社会の快楽装置の只中に囲繞されている者が、他者の不幸に無関心になりやすいのは、隣人の不幸が我が家の不幸になりやすかった共同体社会の構造性と無縁でいられるからであって、恐らく、それ以外の何ものでもないであろう。

従って、それは、都市社会に生きる者たちの心の荒廃感の本質を説明するものではないのだ。

そして、「故郷から離れた都市に住む子供たち」の「分化された家族」という視座のうちに、「遠く離れた故郷に住む肉親=他者」という把握が鷲掴みにされる訳ではないが、少なくとも、「分化された家族」の血縁関係の保護を優先することを以て、「遠く離れた故郷に住む肉親」に対して、意識的に冷淡にする振舞いを身体化することを意味しないだろう。

仮に、「故郷から離れた都市に住む子供たち」の「分化された家族」の有りようが、「自己中心的な生き方」であるように見えても、それが、都市社会に生きる者の「心の冷淡さ・荒廃」と同義ではないことだけは確かである。

要するに本作は、「日常」→「非日常」(両親の上京)→「日常」(両親の帰郷)→「非日常の極点」(母親の死)→「日常」(上京し、帰宅)というサイクルで変容していった、「分化された家族」の風景をリアルに描き切ったのである。

そういう物語として、私は把握している。



2  都市社会に生きる者たちの生活の律動感



ここに、興味深い会話がある。

本作の物語の中で、尾道に帰郷した老いた両親の何気ない会話である。

「でも、子供も大きうなると変るもんじゃのう。志げも子供の時分は、もっと優しい子だったじゃにゃぁか」と周吉。
「そうでしたなぁ」 ととみ。
「おなごの子ぁ、嫁にやったらおしまいじゃ」
「幸一も変りやんしたよ。あの子も、もっと優しい子でしたがのう」
「なかなか親の思うようにぁ、いかんもんじゃ・・・」
「欲を言や、切りぁにゃぁが、まぁええ方じゃよ」
「ええ方ですとも。よっぽど、ええ方でさ。私らぁ幸せでさあ」
「そうじゃのう・・・まぁ、幸せな方じゃのう」
「そうでさ。幸せな方でさ・・・」

この会話の中の、志げとは長女、幸一とは長男のこと。

この会話が重要なのは、遥々上京した両親(周吉、とみ)が、長男長女の「分化された家族」の家に厄介になっても、両家族の多忙の故に厚遇されなかった不満を、彼らなりに相対化して、「私らぁ幸せでさあ」という、それ以外にない軟着点に辿り着く心境を、感情交歓し合っていることである。

左端が長男、右から二人目が長女(上京中の東京で)
感情的には割り切れないが、それでも厚遇されなかった不満の原因を、既に別の独立した家族を持つ、長男長女の多忙性のうちに相対化し得るだけの把握力を持っていたこと ―― その辺りの老いた二人の軟着点こそ、本作の物語それ自身の軟着点であったのだ。

それにも拘らず、本作の物語では、都市社会に生きる者の「心の冷淡さ・荒廃」や、「関係の形式化」の日常性と、地方に残る「共同体の相互扶助の関係」の日常性を、敢えて強調し、些か対立的に描いていなかっただろうか。

その辺りのエピソードが、葬儀後に用意されていた。

「でも、何だわねえ。そう言っちゃ悪いけど、どっちかって言えば、お父さん先の方が良かったわねえ」

この志げの本音の指摘に、長男の幸一は「うむ」 と反応した。

「これで京子でも、お嫁に行ったら、お父さん一人じゃ厄介よ」
「うーむ、まぁねえ」 と幸一。
「お母さんだったら東京へ来てもらったって、どうにだってなるけど 、ねえ京子、お母さんの夏帯あったわね?ネズミのさ-、露芝の・・・」
「ええ」と京子。

因みに、京子とは末娘のことで、尾道に住みながら小学校の教諭をしている。

「あれ、あたし形見に欲しいの。いい?兄さん」 と志げ。
「ああ、いいだろ」と幸一。

結局、長男長女の短い会話で、形見分けの段取りをつけてしまったのである。

形見分けの段取りをつけた長男長女は、その日のうちに、そそくさと、故郷であるはずの尾道を後にしたのだった。

それは、まるで都市社会に生きる者たちの生活の律動感の速度に合わせるかのような、何とも心地悪いエピソードだった。

少なくとも、「分化された家族」の血縁関係に馴染めない尾道の末娘である京子にとって、長男長女の義理的な滞在への反発は強かった。

「兄さん姉さんも、もう少しおってくれても良かったと思うわ」

義姉の紀子(左)と京子(右)
この京子の物言いに対して、亡き次男の未亡人である義姉の紀子は、「分化された家族」の事情を知る者の、大人の対応で受け止めるのだ。

「でも、皆さん、お忙しいのよ」
「でも、随分勝手よ。言いたいことだけ言うて、さっさと帰ってしまうんですもの」
「そりゃ仕様がないのよ。お仕事があるんだから」
「だったら、お姉さんでもあるじゃありませんか。自分勝手なんよ」
「でもねえ、京子さん」
「ううん。お母さんが亡くなると、すぐお形見欲しいなんて。あたし、お母さんの気持ち考えたら、とても悲しうなったわ。他人同士でももっと温かいわ。親子ってそんなもんじゃないと思う」
「だけどねえ京子さん。あたしも、あなたぐらいの時にはそう思ってたのよ 。でも、子供って大きくなると、段々、親から離れていくもんじゃないかしら。お姉さまぐらいになると、もう、お父さま、お母さまとは別の、お姉さまだけの生活ってものがあるのよ。お姉さまだって、決して悪気であんなことなすったんじゃないと思うの。誰だって、皆、自分の生活がいちばん大事になってくるのよ」
「そうかしら。でも、あたしそんな風になりたくない。それじゃあ親子なんて、随分つまらない」



「純粋無垢」の京子と、「聖女」ではあるが、大人の世界を知る紀子との、人生経験の落差が鮮明に表現された、味わい深い会話であった。

紀子

この会話をみる限り、都市社会に生きる者の「心の冷淡さ・荒廃」や、「関係の形式化」の日常性を相対化し得る紀子による「エビデンス」の挿入によって、都市と地方との対立的構図が希釈化されたのは否定し難いだろう。



3  「共同体の相互扶助の関係」の日常性のまったりとした生活の律動感



一方、「共同体の相互扶助の関係」の日常性のまったりとした生活の律動感が、映像の円環的な構成の中で自然裡に拾われていた。

今度は、その日常的な交叉について再現してみる。

以下、隣家の主婦と、上京前の両親(周吉、とみ)との会話である。

「お早うござんす」と主婦。
「ああ、お早よ」ととみ。
「今日、お発ちですか?」
「へえ、昼過ぎの汽車で」
「そうですか」
「まぁ、今のうちに子供たちにも会(お)うとこう思いましてなぁ」と周吉。
「お楽しみですなぁ。東京じゃ、皆さんお待ちかねでしょうて」
「いやぁ、暫く留守にしますんで、よろしくどうぞ」と周吉。
「ええ、ええ、ごゆっくりと。立派な息子さんや娘さんがいなさって、結構ですなぁ。本当にお幸せでさぁ」
「いやぁ、どんなもんですか」
「ええ塩梅に、お天気も良うて・・・」
「ホントにお蔭さんで」ととみ。
「まあ、お気をつけて行っておいでなしゃぁ」

それは、「日常」→「非日常」(両親の上京)にシフトしていく老人夫婦と、「日常」を淡々と繋いでいる隣家の主婦との、これまでもそうであり、これからもそうであると深く印象付ける、まったりとした生活の律動感を変えない「日常」を基盤にした、全き「日常性」の、ごく普通のスケッチの断片であった。

周吉と長男長女
そして、「非日常」(両親の上京)→「日常」(両親の帰郷)→「非日常の極点」(母親の死)→「日常」(上京し、帰宅)というサイクルで変容していった果ての、隣家の主婦と周吉との会話が、ラストシーンで拾われていたが、それは物語の円環的な構成の括りとなるものだった。

当然、そこには、「非日常」(両親の上京)の準備に忙しなかった、とみという名の「慈母」は非在である。

以下、その日常的な交叉について再現してみよう。

「皆さんの帰りんなって、お寂しうなりましたなぁ」
「いやぁ・・・」
「本当に急なこってしたなぁ・・・」
「いやァ・・・気の利かん奴でしたが、こんなことなら生きとるうちに、もっと優しうしといてやりゃあ良かったと思いますよ・・・」
「なあ」
「一人になると、急に日がなごうなりますわい・・・」
「全くなぁ・・・お寂しいこってすなぁ」

これは、隣の主婦が、周吉にお辞儀をして去って行く際の言葉。

「いやぁ・・・」

お辞儀する周吉。

「あああ・・・」

周吉の溜息のうちに、作り手の無常観が、それ以外にない極め付けの構図によって表現されたのである。



4  「非日常」(両親の上京)→「日常」(両親の帰郷)→「非日常の極点」(母親の死)→「日常」(上京し、帰宅)というサイクルの自己完結性



本作は、都市社会に生きる者(幸一、志げ)の「心の冷淡さ・荒廃」を強調するために、「聖女」(紀子)、「慈父」(周吉)、「慈母」(とみ)の存在を仮構したようにも思われるのだ。

しかし、よくよく鑑賞していけば、原節子演じる「聖女」の優しさの供給源は、「グリーフワーク」のプロセスに搦め捕らていた者の悲哀が漸く浄化され、「精神的・社会的自立」への軟着点が視界に入りつつあった心的過程と無縁であったとは考えられないのである。

ラストシークエンスにおける、「慈父」と「聖女」の会話の意味は、なお〈死〉が日常性と最近接していた時代の中で、愛する者を喪った者の「グリーフワーク」の心的過程が、当時にあっても、普遍的に求められるテーマであることには変わりがない現実を検証するものだった。

その辺りに関する重要な会話がある。

周吉と紀子の会話である。

周吉と紀子
以下、再現する。

「お母さんも心配しとったけえど、あんたのこれからのことなんじゃがなぁ・・・やっぱりこのままじゃいけんよ。何にも気兼ねはないけえ。ええとこがあったら、いつでもお嫁にいっておくれ 。もう昌二のこたぁ、忘れてもろうてええんじゃ。いつまでも、あんたにそのままでおられると、却って、こっちが心苦しうなる。困るんじゃ」
「いいえ。そんなことありません」
「いやぁ、そうじゃよ。あんたみたいな、ええ人ぁない言うて、お母さんも褒めとったよ」
「お母さま、私を買い被ってらしったんですわ」
「買い被っとりゃぁしぇんよ」
「いいえ。私、そんな仰(おっしゃ)るほどの良い人間じゃありません。お父さまにまで、そんな風に思っていただいてたら、私の方こそ却って心苦しくって・・・」
「いやぁ、そんなこたぁない」
「いいえ、そうなんです。私、狡いんです。お父さまやお母さまが思ってらっしゃるほど、そう、いつもいつも、昌二さんのことばかり考えてる訳じゃありません」
「ええんじゃよ。忘れてくれて」
「でも、この頃、思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです。私、いつまでもこのままじゃいられないような気もするんです。このまま、こうして一人でいたら、一体どうなるんだろうなんて、夜中にふと考えたりすることがあるんです。一日一日が何事もなく過ぎてゆくのがとっても寂しいんです。どこか、心の隅で何かを待ってるんです。狡いんです」
「いやぁ、狡うはない」
「いいえ、狡いんです。そういうこと、お母さまには申し上げられなかったんです」
「ええんじゃよ、それで。やっぱり、あんたはええ人じゃよ、正直で・・・」
「とんでもない」

ここで、周吉は立ち上がって、懐中時計を持って来る。

「こりゃぁ、お母さんの時計じゃけえどなぁ、今じゃ、こんなものもはやるまいが、お母さんがちょうど、あんたぐらいの時から持っとったんじゃ。形見にもろうてやっておくれ・・・妙なもんじゃ、自分が育てた子供より、言わば、他人のあんたのほうが、よっぽどわしらにようしてくれた。いやぁ、ありがと」

恐らく、この周吉と紀子の会話は、本作の中で最も重要なシーンである。

時期のズレがあれども、二人の対象喪失者にあって、「悲哀の仕事」の完成形のステージに逢着し得た者(紀子)と、諦念のうちに、それを否が応でも引き受けざるを得ないと括っている者(周吉)が、関係の形式性の見えない縛りをほんの少し突き抜けた際(きわ)で、心の奥深くに澱む、小さく騒ぐ感情の発露を交叉させているのだ。

自我の防衛機制を緩めて、それを束の間、解放系に放つことで浄化される安寧を得た心が最近接したとき、それ以外にない絶妙のタイミングの中で、澱み、隠し込んでいた思いを、それを受容すると信じる相手への甘えに乗じて、濃密に絡み合わせていたのである。

小津安二郎監督
それは、「グリーフワーク」を必要とする者が抱えるだろう、心理状態の同質性なしに惹起し得ない絡み合いであった。

同時にそれは、本作の物語構造の中にあって、「非日常」(両親の上京)→「日常」(両親の帰郷)→「非日常の極点」(母親の死)→「日常」(上京し、帰宅)というサイクルが、一定の自己完結性を果たしていくプロセスの最終到達点であったに違いない。

懐中時計の授与によって、世代の継承と、「思い遣る情感」への賛歌が、そこだけは特段の情感投入したかのような作り手の、溢れ出る感傷を露わにした決定的な構図が、そこに読み取れるのだ。

良くも悪くも、「慈父」と「聖女」を仮構することを捨てなかった、稀代の映像作家が表現し得た作品群の中で、人生の哀感を精緻に捉えた最も完成度の高い一篇 ―― それが「東京物語」だった。

小津安二郎監督の最高到達点であることは言うまでもない。

【なお、映画の台詞は、『~クラシック映画に魅せられて~』から引用・補筆させて頂きました。感謝します】

(2011年4月)

2010年2月24日水曜日

麦秋('51)   小津安二郎


<ヒロインの「笑み」が「嗚咽」に変わったとき>



1  小津的表現世界の確信的な習癖への違和感



自らの意志で結婚を決断したヒロインの能動的生き方と、それによって招来した三世代家族の離散の悲哀、そして何より、印象的な麦秋眩いラストシーン。

この鮮烈な記憶がいつまでも私の内側に張り付いていて、若き日に観た小津映画の中で最も感銘深い作品と言えるのが、本作の「麦秋」だった。

ところが、壮年期にピークに達した私の成瀬嗜癖症の結果、信じ難いほどに、私の中の小津映画は悉(ことごと)く相対化されてしまったのである。

それはまるで、異化的な距離感とも言える何かだった。

サンフランシスコ講和会議と東京タワーの完工に象徴される、この国の50年代に連射された成瀬映像の厳しいリアリズムの世界にすっかり度肝を抜かれて、映画鑑賞の自己感応のスタンスを形成させてしまったことで、小津映画に特徴的に見られる独特の様式の内実に乖離感を抱懐てしまったのである。


とりわけ、「晩春」(1949年製作)以後に開かれた、野田高梧との共同脚本による不自然な台詞回しと、様々な小津的表現世界の確信的な習癖に違和感を持ってしまったのだ。(画像は、小津安二郎監督と野田高梧)

例えば、本作において、ヒロインの親友、アヤを演じる淡島千景が、その役割を一身に担っていた。

ヒロインとの明るい会話の後、その流れを受けて矢庭に立ち上がり、二人が卓袱台(ちゃぶだい)の周りで、悪ふざけの追い駆けっこをするという描写の不自然さや、掛け合い漫才のような言葉のキャッチボールの諄(くど)さ、等々。

彼女が本作の4年後に出演した「夫婦善哉」(1955年製作)では、ダメ男を捨てられない女の情愛を見事に演じ切っていた表現力を知る者として、あまりに型に嵌めた演出に辟易してしまったのである。

更に、ヒロインの紀子役の原節子は、映像全体を通して、笑みを絶やさない表情を一貫して継続させていく演技は、映像後半での嗚咽のシーンを強調する効果としか思えない不自然さだったが、しかしその振舞いこそが、物語の骨格を支える三世代家族としての間宮家が、本来的に抱えた矛盾や裂け目を補填するに足る重要な役割を担っていたのだった。

この点については後述する。


それれでも、敢えて「笑みを絶やさぬ主張的個我」を継続的に演じる原節子は魅力的であるが、演出の人工的な仮構が鼻に付く描写の執拗性に現れているように、要するに、私は小津的表現世界が苦手なのだ。

こればかりは、「好みの問題」だから如何ともし難い。

それでも今回、3度目の邂逅となる本作を観て、相変わらず、「好みの問題」でフィットしない描写が見られるものの、この時代に生きた中流家庭の生活風景のディテールの見事な切り取りに見られるように、そこで描かれた小津映画の一頭地を抜く表現世界に深い感銘を受けたのは事実。

主要な登場人物たちの心理描写はほぼ完璧で、「主題提起力」、即ち、「世代の永劫の流れ」と「無常観」、「大家族主義の終焉と、核家族化への定着の必然性」なども充分に感受し得て、初見時の感銘は捨てられていなかった。

但し、多くの台詞を請け負った笠智衆だけが浮き上がってしまうのは、熊本弁丸出しで、とても北鎌倉の医者のイメージと重ならないからだった。

東京物語」(1953年製作)のイメージが強すぎるのか、どうもこの俳優は、円熟した晩年の役柄ならともあれ、年齢相応の役柄をこなすのは苦手のように映ってしまうのである。

少なくとも、本作の笠智衆は、完成形の演技力とは到底縁遠いフラットな役者の域を超えられていなかった。

その分、原節子との絡みにおいて、観る者の感情移入を妨げる、何とも評価しづらい表現であった。

酷評は止めておこう。

以下、前述したテーマについて書いていく。



2  「戦後」をなお延長させている、間宮家の心象風景




麦畑(イメージ画像・ブログより)
「麦秋」とは、麦の収穫期を迎えた初夏の季節のこと。

収穫の「秋」のイメージからのネーミングである。

印象深いのは、当時としては、明らかに婚期を逸していると思われる28歳の年齢でありながら、そのことに全く僻(ひが)みを見せることなく、自ら結婚相手を決めた間宮紀子役の原節子の、人生に対するポジティブな姿勢。

そんな姿勢を検証した、本作の生命線とも言える、矢部たみと間宮紀子との最も感銘深い会話を、以下に再現してみる。

因みに、矢部たみは、間宮家と戦前からの付き合いがあり、その息子の謙吉は、間宮家の当主である康一の下で病院勤務を続ける医師である。

同時に彼は、間宮家の「永遠の不在者」である省二の友人でもあり、当然、紀子とは幼馴染みの関係だった。

既に妻を病気で亡くしていて、幼い娘の養育を実母に委ね、男やもめの身を託っていた謙吉が、研究熱心な本人の希望もあり、秋田の病院へ転勤すると決まったのである。

そんな折での、謙吉が不在の矢部家への紀子の訪問。

二人が、謙吉の秋田転勤の話題に触れたときのこと。

直球勝負を賭けた矢部たみの思いが、それ以外にない決定的な言葉に結ばれたのだ。

「実はね・・・紀子さん怒らないでね、謙吉にも内緒にしといてよ」とたみ。
「なあに?」と紀子。
「いいえね。虫のいいお話なんだけど、あんたのような方に、謙吉のお嫁さんになって頂けたら、どんなに良いだろうなんて、そんなことを思ったりしてね」
「そう」
「御免なさい。このあたしが、お腹ん中だけで思った、夢みたいな話・・・怒っちゃ、ダメよ」
「ほんと?おばさん・・・」
「何が?」
「ほんとにそう思ってらした?あたしのこと」
「御免なさい。だから、怒らないでっていったのよ」
「ねえ、おばさん、あたしみたいな売れ残りでいい?」
「え?」
「あたしで良かったら・・・」
「ほんと?」
「ええ」
「ほんとよ!ほんとにするわよ!」
「ええ」


すっかり有頂天のたみは、紀子の手を掴んで、何度も「夢に終わらせない現実の至福」を確認するのだ。

「まあ、嬉しい!ほんとね?ああ、良かった、良かった!ありがとう、ありがとう・・・ものは言ってみるものねぇ。もし言わなかったら、このまんまだったかも知れなかった。やっぱり良かったのよ、あたしがお喋りで。まあ、良かった、良かった。あたしもう、すっかり安心しちゃった。紀子さん、パン食べない?アンパン」
「いいえ。あたしもう、お暇(いとま)するわ」

観る者の涙腺を緩ませる、杉村春子(たみ役)の超絶的演技力にさすがに唸ったが、それ以上に、本作の映像構築の命運を決定づけた名場面によって、緩やかに展開していた物語の風景が、「明」から「暗」に転換させていくに至った流れの重要性を確認せざるを得なかった。

この会話には、重要な伏線があった。

駿河台にあるニコライ堂(?)の近くの喫茶店で談笑する、紀子と謙吉の会話である。

「昔、学生時分、よく省二君と来たんですよ、ここへ。で、いつもここへ座ったんですよ・・・早いもんだなあ」
「そうねえ。よく喧嘩もしたけど、私は兄さんがとても好きだった」
「あ、省二君の手紙があるんです。徐州戦のときに向こうから来た軍事郵便で、中に麦の穂が入っていたんです。その時分、丁度、『麦と兵隊』を読んでいて」
「その手紙、頂けない?」
「ああ、上げますよ、上げようと思ってたんだ」
「頂戴」


紀子の表情の変容を垣間見せる、この場面が意味するもの。

それは、紀子の婚期の遅れの心理的背景に、兄をモデル化したことによって、彼女の「男性観」が形成されてきたという深層風景が読み取れるということである。

そんな彼女が、謙吉に「男」を意識していなかったことは明瞭だ。

「この人なら信頼できると思ったのよ」とアヤに語った彼女の言葉には、嘘がないのである。

男ずれしている、料亭「田むら」の娘アヤには理解できなかったが、謙吉と紀子は、「ときめき」より、「安らぎ」を選択するほどの大人だったということ。

それ以外ではないだろう。

「永遠の不在者」である省二は、映像に登場することがなかったが、間宮家の人たちの心に澱のように淀む意識として、しばしば映像の中で語られていった。

大陸からの旧日本兵の「引き上げ」の問題が話題になったとき、「お宅の省二さんも?」と尋ねるたみに対して、ヒロインの父である植物学者の間宮周吉が答えた言葉は、以下の一言。

「いやあ、あれはもう帰って来ませんわ」

それでも、たみは話題を繋いだ。

「でも、この頃になってまた、ポツポツ南方から・・・」

周吉はそのとき、妻である志げの思いの深さに話題を振った。

「いやあ、もう諦めてますよ・・・これはまだ、省二がどこかで生きていると思っているようですがね」と周吉。

「これ」とは、志げのこと。

「根気よく毎日、ラジオの『尋ね人』の時間なんか、聞いてますよ」

この夫の言葉に反応して、ゆっくり噛み締めながら話す、その志げの次の言葉には、生死が不分明な我が子の「モーニングワーク」を終えられない母の、その心の空洞感を直截に伝えていて、観る者の感銘を誘う静謐な描写だった。

「人間て、不思議なもんですね。今あったことをすぐ忘れるくせに、省二が元気だった時分のことは、はっきり覚えているなんて」

初老期に入った彼女には、「永遠の不在者」という観念は存在しないのだ。

明らかに、「戦後」をなお延長させている間宮家の心象風景が、そこにあった。



3  ヒロインの「笑み」が「嗚咽」に変わったとき




本作は、一貫して笑みを絶やさない紀子の明るさが、三世代家族の物語を繋ぎ止め、世代の異なる者たちが抱懐する多様な思いから生まれた、ある種の硬質感を溶かすような、相当に有効な求心力の役割を担っていたことは間違いない。

ところが、人生に対してポジティブな思考を持つ件のヒロインが、自らの意志で決断した新しい世界への侵入を切り開いたとき、そこに残された家族の関係を、より強固に繋ぎ止める何ものもなく、それぞれが置かれた世代の立場の明らかな誤差を認知することで、立場相応に見合ったサイズの生活を選択せざるを得ない状況のリアリズムを、そこだけは軟質系の文脈を切り裂いて決定的に露呈させしまったのである。

紀子によって仮構された世代間関係の適正保温を維持し得る連結力が、実はヒロインの未婚期間の延長によってのみ保証されていた内実を、その延長にピリオドを打つ紀子の一躍の決断によって検証されてしまったのである。

即ち、本来そうであったような家族の連結力の困難さの有りようが、紀子の笑みによって希釈化されていただけなのだ。

これが世代を繋ぐ人間の自然の営為であるが故に、この現実を受容する以外にない。

小津は、そう言いたいのだろうか。

紀子の笑みによって繋がれた三世代家族という幻想が、核家族にしか逢着し得ない、本来的な様態に変容していくのは必然的だった。

だから疾(と)うに予約されたはずの流れに沿って、老いた父母は大和に帰り、北鎌倉に残された長男夫婦は開業医となって、見過ぎ世過ぎを繋いでいく。

そして、連結力としての役割を終焉させた肝心の紀子は、自分が決断したパートナーと共に、相手の赴任地の秋田へと旅立って行く。

「大家族の離散」という重いテーマ性を持つ物語をユーモア含みで描きつつも、そこに人の世の「無常観」を諦念化した思いを乗せて、作り手は、戦後6年目のモノクロ映像に記録したのである。


これは、紀子の「笑み」が「嗚咽」に変わったとき、そこから否応なく開かれる新しい生活風景の現実を、賑やかな装いの幻想の内に仮構された「大家族」を構成してきた普通の人々が、抗うことなく普通に受容することこそ、連綿と繋がる世代間継承における普通の営為であることを映像化した一級の作品だったと言える。

だから、思い切り辛い映画になった。

辛い映画が抱え込んだ現実の辛さは、年輪を重ねるほどリアリティを増幅させていくだろう。

何より、変化を受容することに容易に馴致できない、周吉と志げの夫婦のケースを考えてみたらいい。

4では、その辺りに言及したい。



4  渡れない遮断機を前にして、零れた嘆息



16年間も、北鎌倉の長男の家に同居しながら、些か窮屈な家屋の間取りの狭さに対する意識が常に働いているために、娘の紀子の結婚などという、家族会議の肝心な局面になると、「お父さん、お寒くありません。お休みになったら?」、「もう寝ようか」というシグナルのような会話を残して、そそくさと2階に上がって行く父母夫婦の意識には、明らかに、居候性の濃度の深い「寄食者の観念」が働いているのだ。

父母の遠慮と、長男夫婦の気遣いが、家族会議の肝心な局面で露わにされていくのである。

「永遠の不在者」を心の拠り所に生きる志げと、2階の階段を上がるときにも、そんな「永遠の配偶者」を先に行かせる配慮を見せ、常に優しく寄り添う周吉との会話。

「暢気な子。一人で決めちゃって。自分一人で大きくなったような気になって」

娘、紀子への志げの嘆息に、周吉は「うーん」と反応するのみ。

言葉に結べずとも、二人の以心伝心の世界が、そこに生まれた空気を自然に吸収してしまうのである。


ここに、日曜日の散策に出かけた二人の会話がある。

「しかし、何だね。家も今が一番いい時かも知れないね。これで、紀子でも嫁に行けば、また寂しくなるし」と周吉。
「そうですねえ。専務さんの話、どうなんでしょう?」と志げ。
「うーん。良きゃ、いいが。もうやらなきゃいけないよ」
「ええ」
「早いもんだ。康一が嫁をもらう。孫が生まれる。紀子が嫁に行く。今が一番楽しいときかも知れないよ」
「でも、これからだって、まだ」
「いや、欲を言や、切りがないよ。ああ、今日はいい日曜だった」

終始、至福の笑みを零す、柔和な性格の二人の会話。

この会話が記録されたのは、タイプライターのOLである紀子が、上司から一回り年の離れた未婚男性の縁談を持ちかけられ、間宮家の中で好感を持って、その話を受け入れる空気が形成されていたときのこと。

このことは、「紀子の嫁入り」が、間宮家にとって重大なテーマになっていたことを示している。

しかしそれは、潤滑剤としての紀子の「非在」を意味するのだ。

潤滑剤を失った間宮家が、老父母と長男家族の関係の直接性が露わになって、却って、老父母の居候性を際立たせてしまう現実を、二人はこの時点で、リアルな実感として受容できていないようだった。

それ故にこそ、縁談を一方的に断り、自分の意志で結婚相手を見つけた紀子の主体的な行動によって、間宮家が振り回された渦中にあったとき、周吉の心象風景を伝える重要な描写が挿入されていた。

嘆息をつく周吉
それは、カナリアの餌を買いに行った周吉が、横須賀線の遮断機の前に座っていて、遮断機が開いても踏切を渡らず、「フゥーン」と嘆息をつく印象的なシーン。

ここで、周吉は大和への帰郷を決断したのである。

紀子の秋田行きによって、「大家族の離散」へと流れていくラインが固まったとき、リアリティの襲来は、それぞれが新しい生活を選択せざるを得ない状況を作り出してしまったのだ。

このシビアな現実を感受したとき、紀子は激しく嗚咽したのである。

「済みません。私のため・・・」

嗚咽する紀子に、周吉は優しく言葉を添えた。

「いやぁー、お前のせいじゃないよ。いつかはこうなるんだよ」

その後、二階に上がって、一人嗚咽する紀子が映し出されたが、その絵柄が示唆するものは、一貫して笑みを絶やさなかった彼女の、間宮家での役割の終焉を告げる由々しき現実だったのである。

ラストシーン。

大和での老父母の会話。

「紀子、どうしているでしょう?」と志げ。
「皆、離れ離れになっちゃったけど、しかしまあ、私たちはいい方だよ」と周吉。
「ええ。色んなことがあって、長い間・・・」
「うん、欲を言えば切りがないよ」
「ええ。でも、ほんとに幸せでしたわ」
「うん・・・」

麦の穂が揺れる初夏の風景が、モノクロの画面に映し出されて、厄介な「戦争」を生き延びて来た者たちの苦労に満ちた人生訓が、重ねられた年輪の内に拾われていた。

「欲を言えば切りがないよ」という、周吉の口癖の中に仮託された作り手の思いが、「人々の日常を淡々と記録した物語」の内に溶融していくようだった。



5  小津的表現世界に「適応できた者」と、「適応できなかった者」



小津安二郎監督
本稿の最後に、本作に集約されていると思える小津映画に対する、独断と偏見に満ちた私の変わり得ぬ違和感を箇条書き的に列記していきたい。

その1

子供と大人との関係の描写がワンパターンで、とりわけ、本作での的外れの描写が気になった。

要するに、子供への養育と躾に関わる描写の脆弱さを見ても分るように、小津は大人と子供の関係の有りようを、お伽話の世界でしか語れないのだ。

具体的に言えば、自分の要求が通らずに、一斤の食パンを蹴飛ばす我が子を怒っただけで、家を出た二人の息子に対して、「躾の厳しさ」を指摘される間宮家の当主と、その子供を心配した挙句、家族総出で捜し回る親馬鹿ぶりのシーンに見られるように、小津は、「子供の躾」に関わる描写に「子供目線」の幻想を被せていて、相当程度リアリティを欠損させているのである。

その2

必ずと言っていいほど、小津映画では俳優の「成功者」と「失敗者」を作り出してしまうこと。

小津的表現世界に「適応できた者」と、「適応できなかった者」の差が顕在化してしまうのだ。

本作で言えば、前述した笠智衆や淡島千景、加えて、無理に不自然な笑いを散らす描写の犠牲となった佐野周二らが、小津ルールの縛りの演出によって「大根ぶり」を露呈させてしまっていた。


そして「最大適応者」は、ここでもまた、杉村春子(画像)だった。

この「生涯一女優」には、どの監督の、どのような演出にも耐えられる演技力の裏付けがあるので、強引なまでに、自分の描いたイメージラインの型に嵌めたがる、小津ルールによる特段の演出が強要されないからだろう。

その3

お気に入りの原節子に、自分の理想的女性像を仮託してしまう傾向が顕著なこと。

その原節子は、戦争未亡人を演じた「東京物語」の「聖女もどき」から解放されて、本作では、自分の意志で運命を切り開く近代的自我を持つ人格像の片鱗を表現していたが、それもまた、「小津好み」のカテゴリーに入る女性像の枠組みを逸脱していなかったように見える。

なぜなら、自分の決断によって離散させる家族の悲哀に直面したとき、それまで一貫して笑みを絶やさなかった28歳のOLに関わる心理描写が、一転して、存分の嗚咽の描写の内に描かれていたからだ。

やはりここでもまた、人の思いの辛さを充分に汲み取る、「かく在るべき女性像」が立ち上げられていたのである。

その結果、「めし」等の成瀬映像で「普通の主婦」を演じた事実が物語るように、原節子という大いなる可能性を秘めた女優は、吉永小百合と同様に、小さく自己完結する、「役柄限定」の女優の域を超えられなかったということだ。

それにも関わらず、文句なく、本作を引っ張り抜いたのは、抜きん出た受容力と自己主張を貫徹した役柄を表現した、原節子の個我の輝き以外ではなかったと言えるだろうか。

(2010年2月)

2009年11月29日日曜日

小早川家の秋('61)   小津安二郎

長男の嫁・秋子(左)と、小早川家の長女・文子
<映像作家としての、そこだけは変えられない表現世界の癖>



1  小津ルールも極まれり



何度観ても、相変わらず馴染めない小津ルールの洪水。

小早川家の亡き長男の嫁、秋子と、小早川家の次女、紀子との会話の不自然さに、またしても大いなる違和感。

会話なのに口だけ動いて、切り返しのショットで表情の変化を見せないばかりか、ここでも会話の執拗な反復。

その直後の映像は、送別会における、美女揃いの見本市のような4人組と、男たちの典型的な「相似形の構図」の中で、「雪よ岩よ我等が宿り 俺達ゃ町には住めないからに」という「雪山賛歌」のコーラス。

「御機嫌よう」と紀子が言った後、「元気でね」と紀子の同僚、中西多佳子が言葉を機械的に繋いだ後、「有難う、有難う」と口パクの紀子の同僚、寺本が反応する絵柄の中に、同時に男たち4人がビールを飲むシーンが、これも機械仕掛けの動きの型に嵌った構図の内に自己完結していくのだ。

そして、プラットホームのベンチに、恋模様を穏やかに奏でる風情の若い男女、紀子と寺本が座っている。

「ああ愉快やった。あの連中と会ってると、行きとうのうなくなるわ」 
「ずっと長いこと、行ってはりますの?」

次女・紀子(右)と、紀子の同僚・寺本
「どうなることやら。あんた、都合ついたら、一遍、遊びに来て下さい」
「ええ」
「ほんまですよ」
「ええ」
「ああ、愉快やった。嬉しかった。僕も時々手紙出しますけど、あんたも下さいね」
「ええ」
「ああ、愉快やった」

表情の変化を殆ど封印した状態で、「ああ、愉快やった」という言葉が3度反復され、感情交歓の乏しさだけが突出してしまっていた。

会話の執拗な反復は、ラストシーン近くに、止めを刺す場面があった。

造り酒屋で財を成した、中村鴈治郎演じる小早川万兵衛が、昔からの愛人の家で急逝した際、愛人が長女の亭主に事情を説明する場面だが、その説明に長女の亭主が、「そうですか」を4度も繰り返すシーンがそれである。

「小津ルールも極まれり」という状態で、ここまで来ると、さすがに「好みの問題」の域を越えて、大いなる不快感だけが残されるに至った。

成瀬巳喜男の「放浪記」(1962年製作)で、初々しいが、情感の起伏を表現する演技を見せた、寺本役の宝田明は、ここでは完全に、中学生の学芸会の芝居を演じさせられて、同情するに余りあった。


そして、本物のラストシーンへのシークエンスに入っていく。

「なあ、あんた、えらい今日、カラス多いことないか?」
農夫役の笠智衆
「そやな」
「また、誰ぞ、死んだやろか」
「そうかも知れんな。昨日、火葬場の煙突、煙、出とらんな」
「あ、そやな」

以上の会話は、川で農機具を洗う老いた農夫の夫婦。

その後の描写は、武満徹のシュールなBGMに乗って、遺族一同が相似形の構図の中で、焼却炉から立ち上る白煙をいつまでも凝視しているシーン。

その焼却炉の白煙を仰ぎ見て、先の夫妻の会話が繋がれる。

「なあ、あんた。やっぱり誰ぞ、死んだんやわ。煙、出とるわ」
「ああ、出とるなあ」
「爺様や婆様やったら大事ないけど、若い人やったら可愛そうやな」
「けど、死んでも、死んでも、後から後から、先繰り(順繰り・筆者注)、先繰り生まれて来るわ」
「そうやな。よう、でけとるわ」

結局、この台詞を言わせたいための映像だった。

当時の、ごく普通の日本人の、ごく普通の死生観と添い寝するように、小津もまた残り少ない仕事の中で、これだけは言っておきたいと思わせるメッセージを記録したかったのだろうか。

万兵衛の葬儀を描いたラストの、渡月橋を渡る葬送シーン
木橋を渡る遺族が一列のラインを成して、喪服の黒で統一された葬送のシーンの鮮烈さ。

静謐だが、全く小津映画に馴染まない、武満徹のシュールなBGM(「葬送シンフォニー」)が、その心象をトレースしていって、日本人の最も厳かな儀式を再現して見せた。

しかし、映像を観る者は、既にこの時点で、死肉を漁るカラスというベタな描写を提示された挙句、殆ど、屋上屋を架すかの如き農夫の夫婦の会話を、2度も見せつけられているのだ。

ラストの葬送のシーンに象徴される、凝りに凝った様式美の鮮烈さと、農夫妻の会話のベタな描写の顕著な落差感は、明らかに、映像の完成度を貶めているだろう。

そう思わざるを得ない違和感だけが、印象深く置き去りにされてしまったのである。



2  映像作家としての、そこだけは変えられない表現世界の癖



以下、小津作品に言及した佐藤忠男の一文を引用したい。

弥之助(加東大介)の友人・磯村役の森繁久彌
「『小早川家の秋』で、テンポの早い動きとたたみかけるような話術を身上とする森繁久弥が出演したとき、小津は森繁が自分のテンポに合わないのにいらだって、一シーンの撮影が終わったとき、『ハイ、お上手お上手。助監督さん、小津組のシナリオを森繁君にあげて』と皮肉を言ったと伝えられている。

それぞれに動きやしゃべり方に個性のあるたくさんの俳優たちを、ぜんぶ厳格に小津好みのテンポに合わせようとすれば、一定の型をぴしっときめてそれにすべての俳優を合わせる以外にない。そして小津はそれを強行した。俳優たちは、小津から、そこで三歩あるいて立ち止まる、というふうに具体的に指示された。

(略)小津はこうして、演技の自然性を抑えてまで、自分のテンポと構図に俳優たちをはめ込んだ。しかもなお、それが自然に見えるようにリハーサルを繰り返し、最新の工夫をした。俳優たちを人形のように操り、そこからあの比類ない様式美を生み出した。

しかし、あの様式美の極致が、一面では生気のとぼしさ、と受けとめられることもやむを得ない。小津の助監督をしていた今村昌平は、小津作品では俳優からいきいきした自然な力強さが奪われていると判断して、小津の助手を辞した。

(略)こういう極端な形式性は何を目的にしていたのだろう。

佐藤忠男
簡単に割り切って言うことを許してもらうなら、それは、映画によって完璧な静物画をつくることだった、と言えるだろう。ひとつひとつの画面を、考えうるもっとも安定した図形を雰囲気につくり上げ、それを、うちに厳しい緊張をはらみながらも、外見はこのうえなくおだやかな情感でつないでいったのである」(「日本映画の巨匠たちⅠ」佐藤忠男著 学陽書房/筆者段落構成) 

ここで、佐藤忠男が言う「小津芸術」の「極端な形式性」が目的にしたものを想像するに難くないが、「完璧な静物画をつくること」という佐藤の把握が正解か否かは判断しかねるところである。

少なくとも私には、それは小津にしか理解できない、「技巧性の純度の固有性」への感覚的了解を基にした文脈に収斂される何かであると思っているので、私は、その「比類ない様式美」という名に被された定型化された技巧性への評価もまた、「映像作家としての、そこだけは変えられない表現世界の癖」であると考えている。

私にとって、「小津芸術」の「極端な形式性」に拠って立った、「比類ない様式美」の内実は、それ以上でも、それ以下でもないということだ。



3  小津映画の原節子



ここに興味深い批評がある。

「小津ごのみ」という中野翠の著書から、その一文を引用する。

原節子と紀子役の司葉子
「原節子は『ダメな男とつき合うよりは、一人でいるほうがマシ』と考える女である。少なくとも小津映画の中においては。

(略)小津映画の原節子を時代順に見て行くと、ハイミスがようやっと結婚を決意したかと思ったら、次に現れた時にはいきなり未亡人になているので、ちょっと驚く。『東京暮色』は例外として、小津映画の原節子はパートナーのいない女として描かれているわけだ。男がいない女。ハイミスじゃなかったら、未亡人――。

小津監督はよっぽど原節子のそばに男を近付けたくなかったかのようだ。いや、もっと正確に言うと恋をさせたくなかったかのようだ。結婚はさせても恋はさせない。たぶん・・・・・・恋する女はバカになるから。バカな原節子は描きたくないから」(「小津ごのみ」中野翠著 筑摩書房)

「そんな小津映画とはだいぶ違った、生活臭ぷんぷんの空間で、原節子は姪の若さと奔放さに嫉妬したり、姪や隣家の派手な女に甘い夫にいら立ったり、豊かに暮らす旧友たちの姿に動揺したりするのだ。女ゆえのネガティブな感情のさざなみを、成瀬はスッスッと掬い取って行く。抉るという大層な感じではなく、さりげなく掬い取って行くのだ」(同上)

小津と成瀬巳喜男の映像世界の比較を、原節子の描き方の決定的な落差の中で論じたものだが、原節子という様々な表現可能性に満ちた一人の女優を、深い慈愛に満ちた永遠の聖女のイメージの内に固めてしまった小津映画の支配力は尋常ではなかったのか。

「相似形の構図」の中の原節子と司葉子
本作の原節子もまた、喪服姿に身を包んで、紀子役の司葉子との「相似形の構図」の中で、義妹の行く末の相談に乗る、慈愛に満ちた永遠の聖女のイメージをなぞっていた。

思うに、「小津映画の原節子」を好む者は、夫に浮気され、義父との間に微妙な情感関係を抱懐し合うだけの「山の音」(1954年製作)なら、ぎりぎりセーフかも知れないが、「めし」(1951年製作)、「驟雨」(1956年製作)という出色の作品において、「生活臭ぷんぷんの空間」で、「女ゆえのネガティブな感情のさざなみ」をリアルに描いた成瀬巳喜男を認知しないという、「原節子オンリー」のシネマディクトぶりのその狭隘さに、正直、失笑を禁じ得ないのだ。

結果的に、山田洋次が渥美清の様々な表現可能域の広がりを封印してしまったように、小津もまた、女優としての原節子の飛翔の可能性を封じてしまったとも言えないか。



4  ルールの縛りに負けない稀有な俳優たち



長女・文子役の新珠三千代
映画サイトで、「われわれの日常をみせられているようで琴線に触れるものがある」という感想を眼にしたが、「美女揃い」という色彩感の輝きに、「日本人の日常性」を写し撮ることは不可能であるに違いない。

更に、「品行は直せても、品性は直せない」という秋子の言葉に影響を受けたのか、「映画の気品、洗練された美」という類の絶賛の評価もあったが、それはどこまでも様式美に拘泥する映像作家が仮構した「品性」であって、単に自己基準の観念の世界で酩酊し得る快楽のゲームが人為的に分娩した幻想の風景でしかないだろう。

それよりも、この映像の中で一人暴れまくっている、中村鴈治郎演じる、小早川万兵衛の家父長的な生き方の奔放さに瞠目せざるを得なかった。

その見事な身体表現が醸し出す匠の演技を確認し、本作もまた、「浮草」同様、中村鴈治郎の映画だったことが検証されたのである。

「ああ、これで終いか。これで終いか」

小早川万兵衛を演じた中村鴈治郎の独壇場
苦しんだ末に、妾の家で、この臨終の言葉を2言残して逝った男の物語は、家父長人生の自己完結として、最も印象深い括りだった。

「暢気な人だ。あれだけ散々好きなことしておいて、もうこれで終いかもないもんだわな・・・まあ、今どき、あんなに幸せな人も滅多にいないもんだ」

杉村春子演じる、万兵衛の妹のこの言葉が、映像で展開された自在気ままな一人の男の、その際立った人生の「天真爛漫な自由人の世界」を言い当てていた。

それにしても、独自のルールの厳しい小津作品の中で、アドリブが得意のコメディアン出身の森繁久彌、山茶花究のケースは例外としても、決してルールの縛りに負けない稀有な俳優たちの代表格であると思える、中村鴈治郎や杉村春子、更に、万兵衛の愛人の佐々木つねを演じた浪花千栄子のレベルにまで上り詰めると、かくも自然な演技が身体表現できるという典型例が、本作でも検証された訳である。

(2009年11月)