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2010年5月1日土曜日

小島の春('40)    豊田四郎


<情熱、慈悲の深さ、そして偽善 ―― 物語の心的風景として>



1  「過去の出来事の無慈悲な断罪」への倫理的視座 その①



私たちは今、本作を鑑賞するとき、様々に「問題性」を持つこの作品が、有効な化学療法剤としてのプロミンも開発されることなく、或いは、ハンセン病の感染力の弱さや、遺伝性と無縁な疾病であるという現実への広汎な認知、そして何より、「人権感覚」において遥かに隔たっていた時代に作られた映画であることを明瞭に認知せねばならない。

その点に関して、文化人類学者の学術論文があるので、本人のブログから一文を引用させて頂く。

「(略)これらの私の判断は、現時点での価値観にもとづく過去の出来事の無慈悲な断罪である。この判断が許されるのは、罪の有限性を確認し、処罰と赦しを含めた認識と実践を未来の生活に反映することを約束する者のみである」(『小島の春』断章 池田光穂)

全く異議のない論理的思考である。

彼は、こうも書いている。

「小川正子の生きた時代。それは〈健康〉の社会化が最も叫ばれた時代だ。それは自分へのケアのみならず、他人へのケアも見事に社会防衛との関連性を意識させた時代である。社会の大義を実践し、自分が救うべき存在であると錯認し、自己が救われるべき存在であったことを忘却し、そしてそれを追想の中でしか経験できなくなった時、小川の自己の病気からの救済の道は閉ざされてしまった。小川だけでなく我々もまた、同じ道を廻り巡っているような気がする」

ここで言う小川正子とは、言うまでもなく、後に、「小島の春現象」(軍国日本の銃後のモデルとしての、正子の偶像化)という造語が生まれるに至った、ベストセラー手記である「小島の春」の作者のこと。

当然、映画の主人公の「心優しき女医」の小山先生のモデルでもある。

また、「自己が救われるべき存在であったこと」とは、出版当時に、彼女が罹患していた肺結核のこと。

現在の長島愛生園
彼女が勤務した、「国立療養所長島愛生園」(岡山県)での医官としての疲労も重なったのか、35歳で肺結核を発病し、まもなく、郷里(山梨県春日居村)にて静養生活に入ることで医官を退職(1941年)し、1943年4月に死去するに至った。

享年41歳であった。

絶賛の嵐に包まれた(1940年度キネ旬1位)映画化から3年後であり、手記の文学的価値の高い評価も手伝って、「小島の春現象」の被浴を受けていた只中での病死であった。

ここで、前掲のブログから、彼女についての詳細な言及の部分を、三度引用させて頂くことにする。

些か長文だが、以下の通り。

「明治35(1902)年の生まれの小川の人生は当時の医師としては極めて特異的だった。しかし、別の意味では、当時の人たちが抱く典型的な人間主義的理想像を生きた人でもあった(もちろん小説から垣間見える彼女は聖人君子よりもむしろ仕事に真摯に打ち込む『誠実な人』である)。

小川は山梨の甲府高等女学校を卒業した後、結婚をしたが三年後に離婚し、東京女子医学専門学校に入学し昭和4(1929)年卒業している。『癩救済事業』には在学中から関心をもっていた。岡山にある長島愛生園は彼女の卒業の翌年に設立され、1931年には光田健輔が園長に就任した。

(略)医専卒業後も小川の救癩の情熱は冷めやらずハンセン病療養施設であった東京の全生病院への赴任を希望するが、光田の面接を受け、実地医学の一般研修を先に受けるように諭された。彼女は3年間、細菌学、内科、小児科の臨床経験を積んだ。

しかしながら全体主義的傾向が強かった内務省管轄の施設では、救癩の施設であるにもかかわらず女性医師の任官のチャンスは少なかった。小川は、全生病院(のちの全生園)で働いていた女医の西原蕾や五十嵐正のアドバイスに従い、岡山県の長島愛生園に『直接談判』に赴き、ようやく光田によって受け入れられた。昭和7(1932)年6月のことである。

現在も変わらぬ近代医療の最先端の現場、とくに国立の機関は男性中心主義に独占されており、未だ女性が活躍できる場はすくなかった。他方民間の救癩事業の現場では女性が多くが活躍してきた。癩病というスティグマ(社会的、身体的なハンディを持つ者への烙印・筆者注)を貼られた病者に対する慈愛の精神を体現するのは、洋の東西を問わず聖女たる女性であり、その中で治療と慈愛が女性の性役割に関連づけられていたと考えられる。

ハンセン病対策が、民間による慈善事業から国家による統治手段として位置づけられるようになった時、女性の領域と位置づけられてきた慈愛の精神と実践もまた、国家制度に組み込まれてゆくことになる。

赴任した彼女の仕事は、長島愛生園での収容者の診療の他に、その3年前に改定された癩予防法のプロトコルに従い、『祖国浄化』――収容政策は関係者の間ではこのように表現されていた――の理想に燃えて、中国四国地方の村々を定期的に巡回検診――より多く病者を発見――することであった」(『小島の春』断章 池田光穂/筆者段落構成)

池田光穂教授
この説明によって、私たちは映画の原作者の時代背景と、彼女自身の人となりや、その個人的事情の難しさが把握できるだろう。

ここで出て来る、「光田健輔」、「全生園」という重要な固有名詞については、ハンセン病に関心を持つ人で知らない人はいないと思われる。

2では、光田健輔と強制隔離政策について、簡単に触れたい。



2  「過去の出来事の無慈悲な断罪」への倫理的視座 その②



光田健輔は、ハンセン病治療の第一人者であり、彼の影響下で、ハンセン病者に対する強制隔離政策が推進されたのは紛れもない事実。

1915年に、光田健輔が内務省に提出した「癩予防ニ関スル意見」によると、「絶海ノ孤島」へに隔離を主張していた事実が分っている。

そこで、彼が書いた一文には、「絶海ノ孤島ニ送リテ逃走ノ念ヲ絶ツニ如クハナシ」とある。

そして何より、由々しき問題は、ハンセン病特効薬であるプロミン開発(1943年にアメリカで合成された新薬だが、戦時下のため、日本では1947年に治験)後も、戦前からの患者隔離政策をを継続させた、「らい予防法」(1953年制定)に深く関与していた事実である。

たとえそこに、「差別からの保護」などという理由付けが行われようと、この行為は、先に引用した、「この判断が許されるのは、罪の有限性を確認し、処罰と赦しを含めた認識と実践を未来の生活に反映することを約束する者のみである」という倫理的枠組みから解放されている印象を受けるが、私から見れば、拠って立つ「体系的論理」の基盤の崩壊への、防衛的自我の堅持以外の何ものでもないように思えるのだ。。

国立療養所「長島愛生園」歴史館
そんな男の疑似科学的な「優生思想」の影響下にあって、国策としての強制隔離政策を推進した小川正子が果たした役割は、「典型的な人間主義的理想像を生きた人」である当人のヒューマニズムとは無縁に、「時代の制約」という縛りを突き抜ける倫理的枠組みの問題から完全に自由であったと言えるか否か、その「歴史のジャッジ」において確かに難しいところであるが、彼女の以下の手記を読む限り、「罪の有限性」を確認せずとも、「断種」(注1)という名の優生手術(1940年の国民優生法によって定着)による、妊娠中絶の強制的実施に対する倫理的責任については、依然として議論の余地を残すであろう。

以下、彼女の手記を引用する。

「癩が伝染でなかったら――この儘にしておいてもこの不幸がいつか世の中から自然と絶えるものであるならば――私は何もいわないでもよかった、よいのだけれども――可哀想だけれども、済まないけれども、もっともっと大きな目的の為に、もっともっと正しい広い人類全体の幸福のためには私は病気の父親から妻から、子から、その愛着から奪って連れて行かねばならなかった。そうして次の時代にはもう二度と、こうして泣く人達の無い国を善い世界を皆が持つ事のできる為に、この辛い仕事をして歩くのが私の小さい使命であったのだ・・・・・・」(「小島の春―ある女医の手記」小川正子著 長崎出版)

「文学的価値の高い評価」が疑われるようなこの一文によって、彼女が「典型的な人間主義的理想像を生きた人」である事実が了解されるものの、「小島の春現象」を必要とした時代的背景もまた、そこに垣間見えるに違いない。

最後に、「全生園」とは、東京都東村山市にある「国立療養所多磨全生園」のこと。

光田健輔
ここは、1909年に、光田健輔が全生病院医長として就任したハンセン病の施設として著名だが、後述するが、「いのちの初夜」の北条民雄の入所地でもあった事実を言い添えておこう。


(注1)1915年に、結婚の許可の条件として、光田健輔は、「断種」、即ち「精管切除」(生殖機能の除去)を実施したことを契機に、全国の療養所で普及するに至ったと言われる。



3  強制隔離政策を推進した時代の風景



池田光穂氏のブログによって、ハンセン病に対する当時の状況がよりリアルに把握されたが、ここにもう一つ、生々しい批評を引用する。

1941年時点での批評を寄せたその人物は、伊丹万作その人である。

ここに書かれている世界こそ、まさに、国策としての強制隔離政策を推進した時代の風景を検証するものだった。

以下、「映画と癩の問題」という一文を引用する。

「現在東京の銭湯に通っている癩患者は推定八十人もいるそうだが、政府の役人も、映画製作者も、観客もそのような現実に背を向けて夢のように美しい癩の映画を見て泣いているのである。

いったい癩はどこにあるのだ。決してそれは瀬戸内海の美しい小さい島にあるのではない。それは疑いもなく諸君の隣りにあるのだ。遠い国のできごとを見るようなつもりで映画を見て泣いてなんぞいられるわけのものではないのだ。

我々は個人の運命としての癩をどうすることもできない。ただ、もう偉大なるその暗黒的性格に、圧倒されるばかりである。それは客観的にはいかなる意味でも救いがない。そうしてこのようにいかなる意味でも救いのないものは所詮芸術の対象として適当なものとは考えにくいのである。

しかし、社会問題としての癩は、その解決が必ずしも至難ではない。先進諸国の例に見ても、隔離政策の徹底的遂行によって、癩はほとんど絶滅あるいはそれに近い状態に達している。

したがって、現在のところ我々が癩問題に対する唯一の正しい態度は、隔離政策の徹底によって癩を社会的に解決しようとする意志に協力する立場をとる以外にはあり得ないと思う」(「映画と癩の問題 伊丹万作『映画評論』一九四一年五月号」/筆者段落構成)

これは、「数年来、映画をまったく見ていない私は、作品としての映画を批評する資格を持たない」と言いながら、「癩というものが、あのような仕方で映画にされ、あのような方法で興行されたという事実に対してはいまだに深い疑問をいだいている」とまで批評する厚顔さに驚かされるが、「偽善」を嫌う彼の精神には同感するものがあるが、肝心の「映画批評」については、4で言及する。

伊丹万作
ともあれ、「赤西蠣太」(あかにしかきた・1936年製作)という日本映画史上の傑作を放った屈指の映画監督が、「現在のところ我々が癩問題に対する唯一の正しい態度は、隔離政策の徹底によって癩を社会的に解決しようとする意志に協力する立場をとる以外にはあり得ない」とまで書いた事実にこそ、私たちは瞠目せねばならないのだ。

もう一つ、背景的説明に関わる、山根貞男の一文を引用させて頂こう。

如何に、本作の撮影が困難を極めたかについて言及されているからだ。

当然、「癩」に対する一般的日本人の差別と偏見の現実が検証されるだろう。

「『小島の春』には、瀬戸内海の美しい風景が随所に出てくる。そして、海や山や森の美しさと対比されるかのように、難病の悲痛さが際立ち、同時に、それと闘って負けない人々の心の清らかさ浮き立つ。

風景はここでは、まさにドラマの一部である。

けれども、風景だけのカットは瀬戸内海で撮影されたものの、俳優たちの出てくるドラマのくだりは、現地では撮ることができなかった。地元の人々がロケ撮影に強硬に反対したのである。

そこで、ドラマの部分は、伊豆や信州で撮影された。

このことは、当時、この映画の題材となっているハンセン病がどんなふうに思われていたか、患者の苦悩がいかなるものであったかを、象徴的にものがたっている。

そんな時代であったから、ハンセン病を扱った映画をつくること自体が、いわば一大冒険であった。はじめ、この映画の製作準備は極秘裡に進められたという」(「小島の春」東宝ビデオ解説「山根貞男のお楽しみゼミナール」より/筆者段落構成)



4  情熱、慈悲の深さ、そして偽善 ―― 物語の心的風景として



ここから、映画についての私の感懐を述べたい。

「ハンセン病治療に、生涯を捧げたある女医の手記」

これは、近年発刊された「小島の春 復刻版」(長崎出版 2009年5月)のサブタイトルの言葉。

「・・・に生涯を捧げた」などという表現と出会っただけで、もう強制終了させてしまうほど、私の最も厭悪する記号の集合の偽善性。

本篇の中で、繰り返し再現される描写。

それは、ハンセン病者探しに必死に奔走する主人公の小山先生が、周囲を優しき言葉で包み込んで、病者と思しき者を訪ね歩くシークエンス。

そう、この映画は、ハンセン病者を長島愛生園に強制隔離するために、「中国四国地方の村々を定期的に巡回検診――より多く病者を発見――すること」(前掲ブログ)を使命にする、一人の女医の物語であった。

そんな女医が、嫌がる相手に向かって語りかける、常套的な言葉がある。

「びっくりさせて、ご免なさい。私のいる病院は、あなたのような気の毒な方たちがいる病院なんですの。あなたもいらっしゃればいいと思って」

「あなたのような気の毒な方たち」という表現である。

これは、「可哀想だけれども、済まないけれども、もっともっと大きな目的の為に、もっともっと正しい広い人類全体の幸福のため」という、原作手記の一文に照応する表現であると言っていい。

この日もまた、彼女は「気の毒な方たち」の一人を「発見」しに行った。

そして彼女は、家族によって裏山の小屋に隔離されている女性の元に足を運び、優しい口調で説得していくのだ。

そしていつものように、ここでも嫌がる相手からの強硬な反発と、防衛的拒否反応が待っていた。

「帰ってけれ!ここはわしのウチじゃ。ここだけがわしのウチじゃからの」

こんなことを言われることは、小山先生にとって疾(と)うに計算済み。

だから彼女の反応は、常に冷静で、穏健なもの。

「寂しいでしょうね・・・」と小山先生。
「うちら、何も寂しいこと、ありゃせしませな」とハンセン病者と目された女性。
「でもね、こんな所に一人でいるより、大勢で楽しく暮らした方がいいでしょ」
「これでいいんじゃ。うちら、これで楽しいんじゃからな」

相手の、この常套的な防衛的拒否反応に対する女医の次の言葉も、殆ど予約されたものである。

長島愛生園のある山県瀬戸内市の俯瞰風景
「あたしが勤めている長島の病院には、あなたのような人が1200人もいて、一つの村を作って住んでるの」

なお拒絶する相手の女性は、最後にこう結ぶ。

「うちら、どうなっても仕方がありませな」

そして、相手の女性の家族は、決まったようにこんなことを言うのだ。

「わしら、人から笑われて暮らしてきたが、世間の人に迷惑かけたこととは思うとりゃせん・・・あねえな、業病に取り憑かれたもんが、不幸せなんじゃ。あの上、病院なんか行って、色んな人に恥晒すより、隠れて一人で暮らす方がマシだからのう」

こんな拒否反応を受けても、執拗に説得する女医の粘り強さを支えているのは、明らかに、前述した彼女の大いなる使命感以外の何ものでもないだろう。

前掲のブログの御仁は、彼女の内側に住む、「理念の成就に賭ける情熱という〈純粋〉さ」、「慈悲の深さという〈純粋さ〉」と、本人が自覚し得ない「偽善的な〈妖しさ〉」に注目した上で、以下のように言及していた。

「小川の巡回の様子やそこで出会うさまざまなハンセン病者との邂逅のエピソードは、今日の我々にとって共感と違和感が相半ばするだろうと書いた。それは『小島の春』が『正しい』啓蒙的知識の普及を通して癩の国家的撲滅という理念の成就に賭ける情熱という〈純粋〉さと、悲惨な人々への慈悲の深さという〈純粋さ〉と、それらが放つ偽善的な〈妖しさ〉の不気味な混成物だからである」(池田光穂)

小川正子
では、そんな彼女の献身的努力を描く本作を、一体、どのように評価すべきなのか。

5では、それに言及していく。



5  「社会派」の主題提起力をも希釈化させた、お涙頂戴の「ヒューマン映画」



当時、伊丹万作は、辛辣に本作への批評を書いている。

「いきなり癩患者(むろん初期)が出てきて抒情的な風景の中で家族と別れる場面などをやってみせれば、それだけで我々は無条件に泣かされてしまう。

なぜならばこの場合においては、癩患者が癩患者であるということだけで泣くにはすでに十分なのであって、それは癩者個々の運命とは必ずしも関係を持たない。したがってかかる場合の観客の涙はその理由を作者側の努力に帰し難い部分が多い。

しかし、映画の癩者を見て泣いた人が現実の癩者を見て泣くかどうかは非常に疑問であり、芸術の世界と現実の世界とのこのような喰い違いは、一般にはほとんど問題にならないが、この種の作品においてはかなり重要な問題であると思う。

私がかつて漂泊の癩者を何人となく見てきた経験によると、現実の癩者を見て同情の涙をもよおすような余裕は、いっさいこれを持ち得ないのが凡人としてはむしろあたりまえだともいえる。こざかしい理智が何といおうと、私の感覚はあまりにも醜い彼らを嫌悪した。そうして伝染の危険を撒きちらしながら彼らが歩きまわっているという事実を恐怖し、憎悪した」(「映画と癩の問題 伊丹万作『映画評論』一九四一年五月号」/筆者段落構成)

前述したように、作品を観ることなく映画批評するその厚顔無恥さに呆れるが、恐らく、当時、彼の知り得た情報のみで一気呵成に書き上げたのだろう。

それにしても、「映画の癩者を見て泣いた人が現実の癩者を見て泣くかどうかは非常に疑問であり、芸術の世界と現実の世界とのこのような喰い違いは、一般にはほとんど問題にならないが、この種の作品においてはかなり重要な問題であると思う」という指摘は的を射ていると言える。

実際、作品の内容をフォローしていくと、「映画の癩者を見て」泣く人が多く生まれることを殆ど予約する映画作りになっていたのは事実である。

その極めつけは、ラストシーンの別れの場面にあった。

小山先生の粘り強い説得によって、ハンセン病者である横川を長島愛生園に隔離することを承知させながらも、家族への深い未練を残す横川は、船着き場にやって来なかった。

結局、叱咤と励ましが相半ばする村長の説得に応じた横川は、後ろ髪を引かれる思いで家を出て、船に乗り込んで行ったのである。

離れ行く船。号泣する妻と娘。(トップ画像)

遠ざかる船と、その船に乗って首(こうべ)を垂れる横川。

映像より
そして、巡回検診によって「発見」された患者たち。

このとき、父を慕う一人息子の少年はひたすら走って、走って、走り抜いて、船が見える入江までやって来た。

そこで少年は、思い切り叫んだのだ。

「村長の禿げ頭!村長のバカやロー!」

映像の括りとして、これ以上ない感動的シーンであり、この場面で多くの観客が嗚咽を漏らしたであろうことが容易に想像される。

伊丹万作が憤慨するのは、抒情的な音楽に乗せた、このようなあざとい描写の連射に対してであろうが、それは、現実の癩者を見て嗚咽を漏らすことがない実体験を踏まえたリアルな視座である。

彼が非難の矛先を向けるのは、「人間の度し難き偽善性」という一点にあるだろう。

そんな伊丹のシビアな視座の稜線上で本作を考えるとき、確かに看過し難き「映画の嘘」と出会うことになるのは事実。

原作に忠実な描写を必要以上に配慮した典型例として、何より気になったのは、映画への短歌のふんだんな挿入である。

それは、単に映像的バランスへの配慮と言うより、寧ろ、優生思想を根柢にするハンセン病者の壮絶な現実を希釈化させ、人類愛の使命感に燃える女医のヒューマニズムを強調する効果に収斂されていくだろう。

意地悪く言えば、抒情的な音楽に乗せた、あざといラストシーンが齎(もたら)す決定的な効果によって、ハンセン病者の強制隔離の問題を、「千切れゆく家族愛の悲哀」という問題にすり替えてしまったのである。

その意味で、この種の作品は、「一日経てば忘れる映画」の典型的な一篇であった。

なぜなら、この種の作品による感動譚の多くが、「シーン」という映画の「点」だけで勝負する欠陥を晒しているからである。

それを観た者の自我記憶には、「シーン」という映画の「点」だけが残り、結局、「時間限定」の束の間のカタルシスで浄化されてしまうような安直な自己完結を、時間に繋げない閉鎖系の内に処理されてしまうのである。

ラストシーンのみの「感動」の押し売りに拠った作品には、一定の完成度を持つ映像的な構築性が見られないからだ。

詰まる所、「社会派」の主題提起力をも希釈化させた、数多のお涙頂戴の「ヒューマン映画」の範疇から全く逸脱できていないのである。

これは、「時代の制約」の問題に収斂される限定性とは無縁である。

豊田四郎
本作は、暑苦しい「文芸派」の豊田四郎にしては、それなりに抑性を効かせたた作品になっているが、映像総体を見る限り、ラストシーンの過剰な情感描写や、短歌のふんだんな挿入に見られるように、やはり豊田特有の「あれもこれも、ごった煮で包括させたがる癖」は、戦後の一連の文芸作品同様に暑苦しかった。

科学的裏付けの希薄な原作(有吉佐和子)を映画化した、「恍惚の人」(1973年製作)の無茶苦茶な描写の暴走(痴呆症の症例の典型化されたかの如き、「痴呆ぶり」の過剰な強調)を見ても判然とするように、この作り手には、「社会派系」の映画を描くのは荷が重そうである。

やはり彼は、「夫婦善哉」(1955年製作)という作品のように、この国の男の「依存性人格」を特徴づける、しごく身近な男の駄目さ加減を描くのに最も相応しい監督であるということだろうか。



6  差別の助長に陥るリスクを冒してまで映像化する、新たな表現の切り開きの有効性。



本作のヒューマニズムを辛辣に批判してきたが、ここで、「過去の出来事の無慈悲な断罪」の問題を省察してみよう。

確かに、本作を全否定するのは簡単だが、では何が可能か。

当時、何が可能だったのか。

「映画の癩者を見て泣いた人が現実の癩者を見て泣くかどうかは非常に疑問である」

前述したように、伊丹もまた辛辣に批判するが、彼のケースは当時の状況下での批判であった。

しかし、伊丹が指摘した対象人格は、まさに「普通の感覚」を持つ、「普通の人間」の範疇であることを認知せねばならないだろう。

「『とにかく、癩病に成りきることが何より大切だと思います』と言った。

不敵な面魂が、その短い言葉に覗かれた。

『まだ入院されたばかりのあなたに大変無慈悲な言葉かもしれません。今の言葉。でも同情するよりは、同情のある慰めよりは、あなたにとっても良いと思うのです。実際、同情ほど愛情から遠いものはありませんからね。それに、こんな潰れかけた同病者の僕がいったいどう慰めたら良いのです。慰めのすぐそこから嘘がばれて行くに定まっているじゃありませんか』」

これは、後掲するが、北條民雄の「いのちの初夜」の一節。

多磨全生園
多磨全生園に入院初日の、主人公の尾田(北條民雄)に対して、いつ果てるとも知れない恐怖の日常を生きるハンセン病者の佐柄木(さえき)が語った言葉である。

まさに佐柄木が喝破したように、「同情ほど愛情から遠いもの」はないのである。

ハンセン病者の視点による、ハンセン病の壮絶な日常の風景の壮絶さは、とうてい「普通の感覚」を持つ、「普通の人間」の範疇で了解し、感涙に咽ぶ感情文脈によって受容し切れる何かではないのだ。

それでも映像作家が、この壮絶な現実から逃避せずに映像表現するとしたら、相当な覚悟なしに済まないだろう。

然るに、差別の助長に陥るリスクを冒してまで映像化する、新たな表現の切り開きが果たして有効か。

ハンセン病の映像化には、常にこんなアポリアが内包されているのだ。

それは、お涙頂戴の偽善性を突き抜けて、ハンセン病の闇の奥に肉薄し、且つ、差別の助長を生むことなく、完成度の高い映像構築のアポリアである。

だからこそ、相当な覚悟が求められるのだ。

繰り返すが、その冷厳な現実を考えるとき、当時、何が可能だったのか。

当時、「小島の春」のような感傷的ヒューマニズムではなく、「いのちの初夜」のような名作短編の映像化が可能だったか。

「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」

私が最も好きな言葉だ。

明石海人
本作でも小山先生が触れた、沼津出身のハンセン病詩人として有名な明石海人(あかしかいじん)の、この言葉のようなハンセン病患者たちの文学世界を、ダイレクトに映像化することが、果たして、当時において可能だったのか。

残念ながら、不可能であるか、或いは、相当に困難な行為であったに違いない。

先の伊丹万作の例を挙げるまでもなく、ハンセン病の実態について殆ど無知であり、且つ、国策的な強制隔離を断行された時代下にあって、認識基準が顕著に非科学的で低レベルだった社会の中では、「いのちの初夜」の映画化は、差別の助長に陥るリスクを高める逆効果になったであろう。

だから仕方なかったとまで言わないが、それでも、豊田四郎の果たした仕事を全否定することなどできようがないのだ。

然るに、なおハンセン病差別(注2)が終わらない現代にあっては様子が違うだろう。

寧ろ、相当な覚悟を持って、患者の内側から疾病の現実とそれに怯える不安、葛藤、恐怖、生と死の振れ具合という視座で描き切ることが可能であり、それを具現すべきであるとも思えるのである。

単に、他者の苦難に対する一定の「共感的感情」であるだろう、「同情」のレベルでは済まない包括的感情が内側から生まれたとき、そこに病気それ自身の破壊的攻撃力に震撼し、交通事故に遭っていない者が、まるで「スケアードストレート」(注3)にも似た心理的効果を惹起することが可能となるだろう。

そのときこそ、お涙頂戴の感傷的ヒューマニズムとは少しでも距離を置く、理知的で真に人間学的な了解点が生まれるだろう。

そのような作品を創り抜ける相当の覚悟なしに、映像構築の成功はない。

そう思うのだ。

「砂の器」より
例えば、野村芳太郎監督の「砂の器」(1974年製作)では、ハンセン病をサスペンスに利用することで、物語としての「人間ドラマ」の奥行きを表現する技巧のツールの内に、「ヒューマニズム」の衣裳を被せただけの作品として処理されてしまったことを想起するとき、その本質は、お涙頂戴の感傷的濃度を深めた効果以外になく、却って、「ハンセン病の不気味さ」を強調する「名作」に堕してしまったと言わざるを得ないのである。

これは、「死の谷」に隔離された家族の不幸を主人公のエピソードの一つに包摂した、ウィリアム・ワイラー監督の「ベン・ハー」(1959年製作)もまた同じ。

また、熊井啓監督による「愛する」(1997年製作)という作品は、ハンセン病と誤診された「純粋無垢」の女性を主人公にして、北アルプス山麓のハンセン病療養所での罹患者体験を描いた、直球勝負に最近接した作品に仕上がっていたが、ここでもまた熊井啓監督の宿痾(しゅくあ)の如き、「純粋無垢」の主人公の不安な自我を癒す、「善なるハンセン病者」vs「悪徳性に充ちたハンセン病専門医」という構図が無前提に作られていて、且つ、「純粋無垢」の主人公の交通事故死という「殉教」の定型の内に収斂されることで、結局、殆ど「純愛ドラマ」の感傷的濃度を深めた凡作に終始してしまったと言える。

「愛する」より
以上の例を見ても判然とするように、ハンセン病についての映画化のハードルの高さが窺えるだろう。

とりわけ、我が国には、「清潔の美学」というような薄気味悪い文化が横臥(おうが)していると思えるので、余計厄介な印象を拭えないのだ。

「清潔の美学」の本質は、「異物への拒否感」である。

それは、フリークス(異形)への生理的拒否反応が強いということである。

外観的に全く見分けが付かない「特殊部落民」と異なって、末梢神経系が冒され、皮膚症状、脱毛、顔面変形の症状を現出しやすい、かつてのハンセン病罹患者の存在は、自宅牢に閉じこもる女性を描いた本作のように、丸ごと「清潔の美学」から弾かれたフリークスそのものだったと言えるだろう。

プロミンの画期的な発見がなかったら、恐らく、「人権」を主唱しつつも、「乞食谷戸」(注4)に象徴される見えない世俗の奥で、今でも劣悪な環境下に置かれる事態が予測されるのである。

これが現実であるということを認知すべきなのだ。

主題だけが暴走することなく、精緻なシナリオと、細心な配慮による演出によって、完成度の高い映像構築を具現することの困難さを感受する次第である。

プロミン
そして、ハンセン病患者の内側からの視座によって、そのリアルな現実の凄惨さを炙り出していくような映像の立ち上げこそ望まれるであろう。

「自らが燃えなければ何処にも光はない」という壮絶な世界の本質に迫ることのない、ファジーなフェイク映像を突き抜けた作品を、堂々と世に問うべきなのである。

「厄介な疾病の作品」であることによって、優れた「人間ドラマ」に昇華した映像をこそ真に求められるのだ。

今日でもなお、前掲の「いのちの初夜」のような純文学の短編が映像化される可能性は低いだろうが、それでも私は未だに、「厄介な疾病」を主題にした文学のカテゴリーの中で、この抜きん出て秀逸で、読む者の心の琴線に深く触れる作品を凌駕する表現世界と出会ったことがない。

「発病以来三ヶ年の間、一日として死を考えなかったことがあるか、絶え間なく考え、考えるたびにお前は生への愛情だけを見て来たのではなかったか、そして生命そのものの絶対のありがたさを、お前は知ったのではなかったか、お前は知っているはずだ、死ねば生きてはいないということを!

このことを心底から理解しているはずだ。死ねばもはや人間ではないのだ、この意味がお前には判らんのか。人間とは、すなわち生きているということなのだ、お前は人間に対して愛情を感じているではないか。自分自身が人間であるということ、このことをお前は何よりも尊敬し、愛し、喜びとすることができるではないか。――夜になって、床にはいるたびに私はこういうことを自問自答するのであった」(「青空文庫」より)

北條民雄
以上の一文は、北條民雄の「眼帯記」の一節である。

やがて盲目に至る恐怖を抱えながら、療養生活の限定された時間の中で必死に読書する作者の心理をテーマにした一篇であるが、「自分自身が人間であるということ」を認知するが故に〈生〉を弄(まさぐ)る青年の心情が伝わって来て、読む者の胸を痛烈に打つ。

「牢獄を背負つて歩いてゐるやうなものです。かつて親しかつた人も、病院にゐた頃に同情を示してくれた人もみな敵です。敵は自分の体内にゐるといつた兄のお言葉も正しいが、しかしまた体外にもゐるのです。内も外も、みな敵ばかりです。癩者はボロ靴のやうに療養所といふごみ箱に捨てるのが人類の正しい発展となるのでせう。自分がボロ靴であることを意識しました」(「青空文庫」より)

これも、北條民雄の「外に出た友」の一節

「外に出た友」(退院したY)が、私(北條民雄)に送って来た手紙の一文であるが、「癩者はボロ靴」と覚悟せねばならない、娑婆におけるその壮絶な差別の現実に震撼させられる。

その手紙を読む「私」もまた、「眼帯記」にあるように、いつの日か訪れるだろう盲目の恐怖の中で、「充血した眼は、読み終るとジンジンと痛んだ」と書いているのだ。

本稿の最後(7)に、そんな北條民雄が「命」を振り絞って書き上げた名作短編である「いのちの初夜」の、その突き抜けた純文学の表現世界の一部を掲載したい。


(注2)最も有名な差別事件は、1951年、「無らい県運動」の只中で起こった藤本事件(F事件)。熊本県合志市にある国立療養所菊池恵楓園への入所を拒んだ、藤本松夫が起こしたとされる爆破事件、及び、殺人事件のこと。

以下、ハンセン病への取り組みに熱心な「毎日新聞」(2007年1月23日)の社説の一部を掲載する。

「多くの関係者が猛省を迫られたハンセン病問題も、裁判所は無縁ではない。1951年に熊本県で起きた『藤本事件』と呼ぶ、ハンセン病元患者が死刑に処せられた爆破・殺人事件の裁判も尋常ではなかった。

感染の恐れはないとされたのに、裁判官はハンセン病療養所内に特別法廷を設置し、白い予防服にゴム手袋姿で、証拠書類をピンセットでつまみながら訴訟を指揮した。当然、審理は不十分だったと批判されており、冤罪(えんざい)の可能性が指摘されている。厚生労働省が設置した『ハンセン病検証会議』の報告書でも『憲法が要求する裁判ではなかった』と指弾されている。

ハンセン病の強制隔離政策については熊本地裁が違憲とする判決を下した後、政府をはじめ関係各界が検証作業を進め、反省の意を表したが、潮流を変えた司法府自体は過去に向き合おうとしていない。同様に、戦中戦後の人権侵害についても口をつぐんだままだ」

アイレディース宮殿黒川温泉ホテル
また、近年では、2003年11月に、熊本県にある「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」で起こった、「ハンセン病元患者宿泊拒否事件」は各メディアも積極的に取り上げたので知る人も多いだろう。

他にも、「多磨全生園医療過誤訴訟」では、療養所に於いて、非常に杜撰な医療行為が行われていたことを明らかにしたことで注目。(「ハンセン病ニュース」より)

ついでに書けば、中国五輪委員会が、ハンセン病患者の入国規制を発表した出来事はあまり知られていない由々しき「事件」と言えるだろう。


(注3)「交通実験再現体験」のように、恐怖と対峙し、それを直視することで効果をあげる教育方法のこと。


(注4)「こじきやと」と読む。ハンセン病患者も多く生活していたと言われる、「貧民街」に対する蔑称のこと。「寿地区」というドヤ街で有名な横浜市の南区に、かつて史上最大の貧民街としての「乞食谷戸」が存在したと言われる。



7  深海に生きる魚族のように ―― 「いのちの初夜」の根源的な世界



それは優れて、「厄介な疾病の作品」であると同時に、「自らが燃えなければ何処にも光はない」という壮絶な世界の本質に迫る一篇だった。

「いのちの初夜」(注5)の有名な会話を、以下に紹介する。

「いのちの初夜」の主人公である尾田と、佐柄木の会話の根源的な世界が、そこに開かれていた。

小説の最後の件である。

「『盲目になるのはわかりきっていても、尾田さん、やはり僕は書きますよ。盲目になればなったで、またきっと生きる道はあるはずです。あなたも新しい生活を始めてください。癩者に成りきって、さらに進む道を発見してください。僕は書けなくなるまで努力します』

その言葉には、初めて会った時の不敵な佐柄木が復っていた。

『苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでしょう。でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって。苦しみ得ないものもあるのです』

そして佐柄木は一つ大きく呼吸すると、足どりまでも一歩一歩大地を踏みしめて行く、ゆるぎのない若々しさに満ちていた。

あたりの暗がりが徐々に大地にしみ込んで行くと、やがて燦然(さんぜん)たる太陽が林のかなたに現われ、縞目を作って梢を流れて行く光線が、強靭な樹幹へもさし込み始めた。佐柄木の世界へ到達し得るかどうか、尾田にはまだ不安が色濃く残っていたが、やはり生きてみることだ、と強く思いながら、光の縞目を眺め続けた」(「青空文庫」より)

「盲目になればなったで、またきっと生きる道はあるはずです」という言葉の、何という凄味か。

「僕は書けなくなるまで努力します」という言葉の、何という覚悟の括りか。

「苦しむためには才能が要る」という言葉の、何という人生観か。

人間の根源的テーマに肉薄する、「癩」を病む二人の青年の根源的な会話。

後にも先にも、内面世界が呻吟するような、これほどに壮絶な風景を切り取った小説を読んだことはない。

「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」

作者(北條民雄)の分身である佐柄木こそ、このハンセン病詩人の言葉の体現者だったのである。

「脊損者」という人生を生き始めてから10年になる私にとって、ハンセン病詩人の体現者の言葉にどれほど救われることか。

私自身、この短編を、これまで何度となく読み返してきたが、今ほど、この小説の凄味を感じたことはないと言っていい。

大手新聞系の週刊誌もまた、この短編を、「一般の人にとっても、生きることとは何かを考えさせられる作品である」と書いていた。

少し長いが、ハンセン病の宣告を受けた一人の青年(北條民雄)の1週間の出来事をまとめた私小説、「いのちの初夜」の簡単なプロットをも説明した一文を、以下に掲載して擱筆(かくひつ)したい。

「尾田高雄はハンセン病の宣告を受け、半年後に東京郊外の病院に収容された。それまで何度も自死をはかったが、いずれも未遂に終わった。

病棟に入ると、佐柄木という青年に紹介された。尾田と同じ病室の付き添い人で、五年前に入院した。

夜になっても、佐柄木は忙しく室内を行ったり来たりして立ち働いた。手足の不自由な病人には包帯を巻いてやり便を取ってやり、食事の世話をしたりした。

病人たちの耐え難い苦しみを目の当たりにして、尾田は恐怖のどん底に陥り、病棟から抜け出し、再び自殺しようとした。しかし、今回も死にきれず、むしろ生命の強靱さに驚かされた。

病棟に戻ると佐柄木は話しかけてきた。

すべてを見抜いたように、彼は自らの体験を明かし、『人間』が死んで、『いのちそのもの』になったことの重みについて尾田と語り合った。

『苦しむためには才能が要る』という佐柄木の言葉を聞いて、尾田は生きていく決意を新たにした。

作家の実生活を題材にする私小説は苦手だが、この作品は例外だ。

その迫力はやはり実際の体験がないと、書けないであろう。ハンセン病患者にとどまらず、一般の人にとっても、生きることとは何かを考えさせられる作品である。

内容の重量感もさることながら、物語の構成や描写は作家の才能をよく示している。主人公の絶望と希望、重症患者を見たときの衝撃、自殺の衝動に駆られたときの心情は五感の激しい共振として表現され、強烈な印象を与えている。

佐柄木も尾田も作者の分身であろう。

ハンセン病の恐怖に打ちのめされた尾田が罹患直後の作家ならば、病に蝕まれながらも、力強く生きようとする佐柄木は作者の理想像であり、自らに課した手本であろう」(「サンデー毎日 2009年10月18日号」より/筆者段落構成)


(注5)この純文学の名作が「改造」に発表されたのは、「小島の春」の映画化の4年前に当たる1936年のこと。


(2010年5月)

2008年12月19日金曜日

雁('53)    豊田四郎


<約束されない物語の、約束された着地点> 



1  特定的に選択された女性



「これは、東京の空にまだ雁が渡っていたときの物語です」

これが本作の冒頭の説明。言わずと知れた、森鴎外の著名な原作の映画化である。


―― ともあれ、そのストーリーラインをなぞっていく。


ここに一人の男がいる。その名は末造。

その稼業は高利貸。そしてこの種の職業を商う負のイメージに違うことなく、この男もまた悪辣である。というより容赦しないのだ。

こんな男が妾を持とうと発想するのは、不思議ではないだろう。

男には夫より遥かに心が冷淡でないお常という妻がいた。

そんな妻に飽きたとき、男は自分に妾を紹介する中年女の話に傾いたのである。

その女の名は、おさん。

彼女は高利貸からの取立ての形に、何とか妾の紹介で相殺しようとしていたのだ。

このおさんの口入によって、特定的に選択された女性の名は、お玉。

現在の入谷鬼子母神(ウィキ)

彼女は下町入谷で、子供相手に飴を作って売っている。

だからその生活は常に厳しい。彼女の父である善吉は、そんな娘に同情的だが、自分の甲斐性のなさに娘を頼る以外にない男。

心根は優しいが、生活力がないのだ。

そんな彼女に、おさんからの妾の口入の話がもたらされた。

相手は呉服商を営む大店(おおだな)の旦那で、独り身であると言う。

お玉はその夜、父にその一件を説明した。

「それなら会うだけ会ってみるか。で、何かい?先様には奥さんはないんだね」
「ええ」
「そう贅沢ばかりも言ってられないが・・・ひびの入った体か・・・全くあのことじゃ、本当にお前に済まないと思ってるよ。嫌な男があったもんだ。本当のお婿さんだとばかり思っていたのに、奥さんが子供まで連れて、怒鳴り込んで来たときには、お父つぁんもう、びっくりするやら、悔しいやら・・・お前が井戸に飛び込もうとしたときは、お父つぁんもいっそ、死んじゃおうかと思ったよ」
「もういいわ、その話・・・いくら考えてみても、なるようにしか、ならないんですもの」

この会話で分るように、この父娘には複雑で、辛い過去があったことが了解されるのである。


お玉と末造の最初の出会いは、おさんの仲介により、旧制大学近くの旅館の一室で実現した。

その席には、お玉の父善吉も同席していたが、映像は、そこでの会話を映し出さない。

無縁坂・湯島側からの風景(ウィキ)
作り手がその直後に映し出した映像は、既に大学近くの無縁坂に一軒家を借りた末造が、お玉に優しく振舞う描写だった。



2  一匹の蛇と籠の鳥



その妾宅には、お玉を世話する娘がいるが、当然の如く、父の善吉は同居していない。彼は女中付きで小さな家を、末造に充てがわれていたのである。

そんな父がしばしば娘に会いに行くが、末造が立ち寄っていることが多く、なかなか父娘の再会はままならなかった。

一方、妾宅に通い詰めの夫に不信を持った末造の妻のお常は、夜遅く帰って来た夫を問い詰めた。

「今まで、どこにいたんです?もう何もかも分ってます」
「どうしたんだい?何が分ったんだよ」
「よくそんな、しらばっくれて、いられろことね・・・少しばかりお金ができたからって、昔のこと忘れやしないでしょうね」
「忘れようったって、忘れられやしないやな。自分のことだもの」
「大学の小使いだって、学生さんの使い走りして、一銭二銭貯めていたときのことを・・・」
「えー?一体それがどうしたんだよ」
「そんなに苦労して貯めたお金を、狐に騙されて使うなんて・・・あなた、商用があるとか何とか言って、囲い者なんかこしらえて!」

妻の嫉妬心が、一気に爆発した瞬間だった。

だが妻の爆発は未だ、一過的なものだった。

末造はそんな妻の悋気(りんき)を上手に吸収して、その場は何とか取り成したのである。

夫に宥(なだ)められ、安堵した妻はまもなく蚊帳(かや)の中で、だらしない寝姿を晒していた。

それが、夫の浮気の原因の一つであると思わせる描写だった。

末造と妻のお常
いつの時代でも、こんな夫婦の様態は殆ど普遍的な流れ方をするものである。


一方、妾宅では、末造の人となりが、お梅という女中によって語られている。

「旦那さんは、いい人ですね」
「そうぉ?どうして?」
「だって、おかみさんの言うことなら、何でも、フンフンと聞いて下さるじゃありませんか」

こんな何気ない会話の中に、お玉に熱を上げる末造という中年男の感情が端的に説明されている。

その末造がお玉の元に、この日もやって来た。お玉はお梅に命じて、魚を買いに行かせた。ところが、未だ少女の面影が強いお梅は、魚屋で思いもかけないことを言われたのである。

「ウチには高利貸の妾に売る魚はないんだから」
「旦那は高利貸なんかじゃないですよ」とお梅。
「もう一度顔洗って、出直しておいで」

お梅は帰宅して、お玉にそのことを告げた。お玉は初めて聞く末造の素性に、殆んど確信的な疑念を抱くが、そのことを男の前で問いただすことをしなかった。


まもなくお玉は父と会って、その一件を正直に告げた。

父は末造が高利貸と知って驚くが、甲斐性のない自分には何もすることもできない。だから娘に、本音でない甘え切った思いを洩らしたりする。

「・・・お父つぁん、元の飴屋に戻ろうか」
「いいのよ・・・その代わり私、これからは決して人に騙されないつもりよ。これでも私、あの人が思うほど、赤ん坊じゃないつもりよ」


相手が何者であろうと、自分が手に入れた立場を守ろうとするお玉の気持ちの中には、生活力のない父に頼れない思いが横臥(おうが)している。

今さら飴細工売りの厳しい生活に戻りたくないという気持ちが強かったのである。

その帰路、彼女は偶然、末造の妻のお常と出会った。

お玉はお常の素性を知らないが、同じ日傘を差すその姿に予感を察知したのだろう。

お常もまた、それに気づいていた。彼女はお玉が質流れの反物で作った着物を身につけているのを見て、お玉と同様の疑念を深めたのである。

お常は偶然、その道を通ったかどうか、映像で定かではないが、悋気の強いその性格から夫の妾宅を探していたのかも知れないのである。

その妾宅にお玉が戻ったとき、隣家の裁縫のお師匠さんであるお貞の下に、高利貸の末造に苦しめられているおしげが待っていた。

「ご無理なことと、重々承知して参ったのでございますが・・・」
「あのう、何かお役に立ったら、あたし・・・」とお玉。

おしげに近づいて、優しい言葉をかけた。おしげはそんなお玉を睨みつけ、迫っていった。

「お玉さんとか言いましたね。この着物には恨みがこもっているんですよ。あんたは贅沢三昧でいいだろうけど、泣いてますよ、他の人は・・・こんなあどけない顔をして、高利貸の妾になるなんて。毎日のご飯、どんな気持ちで食べてるんです?」

胸倉を掴まれたお玉は、予想もしない女の攻撃にただ後ずさりするばかりだった。彼女は隣家の木戸を開けて、自宅にこもって、泣き伏してしまった。


そのとき、妾宅の前の無縁坂を、寮歌を高らかに歌う学生たちが通りかかった。

その学生たちの反対側から歩いて来る一人の学生がいた。お玉はやがてこの学生と知り合いになるが、今はまだすれ違いのままであった。

その学生の名は岡田。東京帝国大学の学生である。(画像は現在の東京大学)


一方、この日も遅く帰宅した末造は、妻のお常にいよいよ証拠を突き付けられて、窮地に追い込まれた。

「あたし、どうすればいいの?帰ろうにも帰る家はない・・・」

お常は泣き伏すばかり。そんな妻に対して、男は妾の存在を認めた上で、宥(なだ)めすかそうとした。

「お常、よぅく考えてみねぃ。なるほど無縁坂ってものはできたさ。だがお前の身の上はずっと楽になったはずだぜ。そのために俺が冷たくなったとか、厳しくなったとかいうことがあるかい。世間の男みたいに。それどころかもっと親切にして、大切に取り扱ってるつもりだぜ」
「あんたって人は、何てこと言うの!悔しい!」

今度ばかりは、お常は夫の狡猾な宥めすかしにその身を預けなかった。

開き直った夫を許せない気持ちが遂に爆発して、妻は夫の胸倉を掴み、その思いを叩きつけたのである。

大立ち回りを嫌った夫は、その足でお玉の妾宅に向った。

しかし、お玉は留守だった。

お貞
彼女は隣家のお貞のところに行って、お師匠に仕立てを習っていたのである。自活の道を考えていたのだ。

そのことを末造に指摘されて、その答えをはぐらかした。その思いを見透かした男は、女にきっぱりと言い添えた。

「お前近頃、何か俺に隠していることあるんじゃないか?隠し事は許しませんよ」
「ハハハハ、そんな改まったお顔して」

お玉はその場を笑って誤魔化した。男を焦(じ)らし、振り払い、その場は男の感情にその身を委ねたのである。


銭湯から帰ったお玉の妾宅の前に、一人の学生が立っていた。

彼は窓の外に吊る下げてあった籠の鳥を眺めていた。

お玉はそれを一瞥し、家屋の中に入って行った。

お玉が部屋の中から外を見ると、学生も家の中を覗いていた。お玉は学生に軽く会釈をしたら、学生も会釈を返してきた。

このロマンチシズムの漂う描写の直後に、ドロドロしたリアリズムの世界が待っていた。お常の悪夢にうなされて突然覚醒した末造に対して、お玉は不快感を露わに、男の嘘を初めて責め立てたのである。

思いもかけないお玉の指摘に対して、末造は必死の弁明を開いていく。

「俺の一生は、金、金、金で一杯だった・・・俺は今までこんな愉しい思いをしたことがない。お前と暮らして初めて生きがいを知った」

お玉はそれに答えず、その場を静かに離れて、窓の外をぼんやりと眺めることだった。


それから何日か経った、長閑な昼下がり。

お玉は障子の張替えをしていて、それを窓枠に取り付けようとしたとき、思わず叫び声を上げた。屋根から軒下にかけて、一匹の蛇が籠の鳥を狙って、そこにぶら下っていたのである。

「蛇だよ!蛇がいるんだよ!」

お玉の叫びにお梅が反応して、彼女は表に出て助けを求めた。

「あのう!誰か、誰か来て下さい!」

このお梅の叫び声に、一人の通行人が駆け寄って来た。彼こそ、先日の学生だった。お玉の表情から、自然に笑みが零れ出た。彼も笑みで返した。

彼の名は、岡田。先述した帝大生である。

岡田とお玉
その岡田とお玉が、初めて言葉を交わす瞬間がやってきた。

彼は梯子と文化包丁を借りて、屋根に絡み付いた蛇を切り裂いて、退治したのである。

お玉は岡田に盥(たらい)の水を用意して、彼の汚れた手を洗浄してもらった。

学生が帰りかけたとき、俄かに雨が降ってきて、お玉は慌てて学生を追った。傘を貸すためである。

「どうぞ・・・」とお玉。

傘を渡して戻ろうとするお玉を、学生は「あのう・・・」と言って呼び止めた。
振り向いたお玉に、学生が語ったのは一言だけだった。

「・・・いずれ、返しにお伺いします」

余情の残る学生の言葉に、お玉は黙って頷いた。

その後、彼女は学生を静かに追っていった。

彼が向った先は、一軒の金融業者の店。

お玉は外から中を覗くと、そこには学生の相手をする末造が、店の主人として座っていたのだ。

驚愕したお玉は、外から二人の会話を聞いている。

「ヨーロッパへ行けるかどうか瀬戸際なんだ・・・東洋の風土病を研究に来たドイツの偉い博士が助手を探しているんだ。その試験にパスすれば、往復の旅費4千マルクと月給2百マルクとが支給されて、ドイツに行けるんだ・・・」
「パスしたらでしょ、それは。だが外れたら?」

この意地悪な高利貸の言葉に、学生は何も答えられない。そんな学生の弱みに付け込んで、末造は妥協のラインを提示した。

「まあ、お望み通りって訳にはいかないが、半分くらいで我慢してもらうんですな」

末造が差し出す金に満足しない学生は、もっと貸し金を上げてもらうように粘って交渉する。結局、彼は最初の額で妥協することになった。

彼は隣の本屋に立ち寄って、大切にしている本を金に換える以外なかったのである。

それを一部始終見ていたお玉は、その本屋から学生が売った本を買い戻したのである。



3  夜空に高々と飛び立って



学生寮に戻った岡田は、お玉のことを親友の木村に打ち明けた。

木村と岡田
木村は岡田の感傷を皮肉って、明け透けに言い放った。

「君は理科の秀才で、相手は無学な囲い者に過ぎん。今の日本じゃ、まともな恋愛は成立しないさ。その女ばかりじゃない。君だって、僕だって、明治という時代の制約を受けて生きているんだからね。しかしだよ、その制約に従うか、それともそれを打ち破るかだ・・・」


それから何日か経って、お玉は父に岡田の話をした。

父は彼を家に呼んで、持て成したらどうかという提案をして、お玉も好意的に反応する。しかし妾の身分であることを認知するとき、その話がリアリティを持たない事実を確認するしかなかった。話の内容は、そこから一気にリアリズムの世界に流れ込んでいく。娘は父に、末造に妻がいることを父に告白するが、父はそれを知っていた。それを知っていて、何も話さなかった父に不満を持った娘に対する父の反応は、相変わらず生活の問題に尽きてしまうのだ。

「お前だってそうじゃないか。今の暮らしを止めて、あの地獄みたいな貧乏暮らしはできやしないよ。金のないのは、首のないのも同じだからな・・・」
「そうかしら」
「別れるとなると、この家だって返さなきゃならないだろ?」
「当たり前よ!そんなこと。あたし、こんな暮らしが嫌なの。本当に嫌!」
「なあ、お玉。お父つぁんをもう苛めないでおくれ。わたしゃもう、何の望みもないんだよ。今のままで、太平楽だ」
「変わったわね、お父つぁん」
「変わったのは、お前だよ。でも、旦那は可愛がって下さるんだろ。何事も辛抱が大事だよ。とにかく、世知辛い世の中だからな・・・」

お玉はそれに答えず、父の元を離れて行った。


お玉が妾宅に入ろうとしたそのとき、雨の中、末造の妻と思しき女が傘を差して立ち竦んでいた。

驚愕したお玉は、慌てて部屋の中に潜り込み、お梅に確認させたが女はもういなかった。

心配した隣家のお貞は、おしげの例を出して、女が一人で暮らすことの難しさを諭した。

それに対するお玉の反応は、多分に感情的だった。

「お師匠さん、私にこの暮らしを続けろとおっしゃるの?私にはこの暮らしの外には道がないとおっしゃるの?」
「お玉さん・・・」
「どうして私がこんな苦しまなきゃならないのか、私、分らなくなってしまって・・・世の中・・・」

お玉は精神的に追い詰められていた。


追い詰められた女に、一時(いっとき)の至福が訪れた。

岡田が傘を返しに来たのである。慌てるお玉。

心の準備ができないまま、お玉は化粧の時間を稼いでいた。玄関で待たされる岡田。彼の中にも、少なからぬ意識が蠢(うごめ)いている。そのロマンチシズムの芳香を、リアリズムが打ち砕いた。岡田の後ろに、末造が立っていたのである。

「じゃあ、ここに置きます」

岡田は傘を玄関に置いて、その一言を残したのみで帰って行った。

末造は何も語らず、疑心暗鬼の表情を崩さずに、化粧台の前に座るお玉を睨みつけるだけ。お玉は肌を露わにさせて、男を色情絡みで誘(いざな)った。

男は女の上体に絡みつくが、女の傍らにあった分厚い洋書に目敏く見付けたのである。

男は商用で留守にすると言って、女に必要な金を与えて、妾宅を後にした。

その際、男はそこにあった書籍を「これ、もらっていくよ」と言って、急ぎ早に出かけて行ったのである。



その後、お玉はお梅を実家に帰し、岡田を持て成す準備を始めた。

ご馳走を作り、髪結いに行き、岡田が無縁坂を通る四時頃には、すっかり身支度も整え、家の前に立って待っていた。

そして、その岡田がいつも通り姿を現した。

しかし、お玉に気づいた岡田は、軽く会釈した後、一瞬怯んだように見えた。彼はそこにしばし立止まった。

男は動かない。女は待っている。

しかし、その距離は全く縮まらない。女はひたすら、常に待つばかりの身であるからだ。

立止まっていた男が反応した。

男は後ろを振り返り、その後ろから男の友人が追って来たのである。岡田は木村を待っていたのだ。

女はそれを見て、悄然とした。二人の学生はラインを合わせて、視線を前方にもっていく。彼らの視界に女が捉えられる。

女はもう、そこに待つだけの身を耐えるのに限界を感じていた。

二人が女の方に近づいたとき、女は自らの意志でその場を離れて行った。そして路傍の片隅にその身を寄せて、後姿のみを遠慮気に差し出したのである。

二人の学生は、女の傍らを過(よ)ぎっていく。

女は一瞬、アクションを起す。ほんの少しだけ、体を二人の近くに寄せたのだ。

それに気づいた岡田が振り向いたとき、女の表情から小さな笑みが零れた。
男はそこに幾分思いを乗せながら、帽子を取って頭を下げた。しかし男はその後、恰も一連の動作であるかのように、その坂を下って行った。女の表情から笑みが消えたとき、男の姿はより小さくなっていたのである。

「凄い状況になっているじゃないか」と木村。
「何が?」と岡田。
「何がじゃないよ。あれを見ろよ」と木村。
「おい、止せよ。失礼じゃないか・・・あの人には、あの人の世界があるんだ」と岡田。
「君には、君の世界があるか」と木村。


こんな二人の会話の内容を知ることなく、無縁坂の静寂なる路傍に、女はひとり固まっていた。

悄然とした表情を消せないまま、女は妾宅の玄関を開けた。

そこに末造が、険しい表情で立っていた。女はもう、リアリズムの世界に戻されていたのだ。

しかし男は何も語らない。女にとって、それもまたもどかしい。事態の決着を付けられないからだ。

だから女の方から、男に切り出した。

「なぜ、叱らないんですか?」
「叱ることはないさ。行っちまうんだよ、岡田さんは。さっきお金を返しに来たよ。西洋へ行くんだってさ。ヨーロッパへ・・・・皆、飛び立って行ってしまうんだよ、学生さんは。可哀想な奴だよ、お前は・・・」

男の話が終るや否や、女は慌てて表に飛び出て行った。

走って、走り抜いて、女は学生に追いついた。

振り返った学生は、木村だった。そこに岡田はいなかったのだ。

女は木村から岡田のドイツ行きを聞いて、「やっぱり・・・」と力なく反応した。女は洋書を木村に預けて、岡田に渡してもらうように頼んだのである。

洋書を受け取った木村は、女に正直に洩らした。

「よく、あなたの話が出ましたよ、岡田と。しかし岡田はもう、僕らからも離れて、遠くへ行ってしまったのです。僕らの手の届かないような所に・・・」

女の表情が、一瞬輝いた。

「岡田さんも、どんなにかお喜びで・・・」
「ええ、喜んでますね。秀才の道をまっしぐらに走り出したところですからね。こういう時にも、脇見をしないところが秀才なんだな」
「遠い所へ・・・」

お玉はそう呟いて、その場を離れて行った。

まもなく彼女の魚屋に寄って、岡田の寮に届ける鯛のお造りを注文した。魚屋は相手を特定したとき、一瞬、怪訝な態度を示した。

お玉はそのことを百も承知である。だから彼女は届け先を敢えて変更して、はっきりと言い切ったのである。

「分ってるでしょ、私のところ・・・ついそこの高利貸のお妾の家(うち)よ。分って・・・」

お玉が帰宅したとき、末造は静かな口調で問いかけた。しかしその言葉は、女の心を見透かしたような毒気に充ちていた。

「どうした、会ってきたか?」
「ええ・・・」
「喜んでいただろう、岡田さん」
「ええ・・・」
「しかし何だな。行き先がヨーロッパじゃ、ちっとやそっとや帰って来られまいからな」
「あなた、もう何もおっしゃらないで下さいな」


二人はその後、激しい言い争いになった。男には女に対する強い感情があるから、振り切れないのだ。

そんな男を前にして、自分の思いを消化でき得ない女は、畳に蹲(うずくま)って泣き伏すだけだった。

そこに、魚屋の配達が届いた。

 それが何を意味するか分っている男は、逆上し、即座に魚屋に鯛の造りを持って返させようとした。

お玉がその金を支払うことで、その場を取り成したが、男の怒りは収まらなかった。再び、激しい言い争いが開かれた。

その醜悪だが、極めて人間的なる振舞いの中で、お玉は明瞭に自分の意志を一つの叫びに替えたのである。

「放して!私もう、縛られたくないんです!・・・卑怯です、あなた!お金でばかり私を縛ろうとする!もう、沢山!イヤ!」

男を確信的に振り切るようにして、女は表に飛び出て行った。

女は走り続ける。

走り続けて止まった先に、一台の馬車が女の視界に入った。その馬車には、女がその夢想のオアシスの対象にしていた男が乗っていたのである。

こちらに簡単に振り向いても気遣いない男を、女はただ呆然と見守って、思いを内側に深々と封印した眼で、その馬車の先を追っていく。


まもなく、女は忍ばずの池の畔に立って、そこに水草を求める雁の群れに眼をやった。

群れの中の一匹の雁が夜空に高々と飛び立って、やがて見えなくなった。


*       *       *       *



4  赤裸々に炙り出されたリアリズムの様態



これは、リアリズムのドロドロした世界からその身を抜け出して、ロマンチシズムの世界の芳香が放つときめきに、束の間酩酊することで、そのかけがえのない青春の不幸なる日々に、一瞬、閃光を放った女の物語である。

少なくとも私にとって、「籠の鳥」の悲哀の物語を、そのように読み替えることによって、ヒロインの心情世界との距離感を縮め得る鑑賞が可能になったといえる一篇だった。

本稿はどこまでも、「人生論的映画評論」の枠内で言及していきたい。

そのような把握によって、女のロマンチシズムの世界の芳香を嗅いでいくとき、女のそれは悲恋ではないと言っていい。

失恋でもない。決して得恋ではないが、「この時間があったから、自分の魂の中枢に仄かな焼け跡を残すことができた」と、いつまでもその記憶に張り付かせて、固有のアイデンティティを確保し得るような、言ってみれば、「プロセスの快楽」を手に入れたか、或いは、手に入れつつあった自我のなだらかだが、しかし、一途な漂流を描いた一篇であった。

そのような読み替えの醍醐味が、果たして、そこにどこまであったか。それを、本篇における関係世界の中から探ってみようと思う。

本作で描かれた幾つかの人間関係は、全てドロドロのリアリズムに黒ずんでいるか、それともグレイな彩りに褪せていた。

ここに、その主要な三つの人間関係を俯瞰してみよう。

その第一は、お玉と末造の関係。

いつの世にも嫌われる高利貸がコツコツ日銭を貯めて、それなりの財を為す。経済的余裕ができた頃には、既に中年の年輪を重ねていて、古女房にはとうに飽きがきている。そこで妾の一人でも持って、「女」を占有したいと考えるのは、恐らく、世の男の通常の倣いと言っていいかも知れない。末造もまた、そんな男の一人だった。

そして男の前に、若い女が現われた。

男は高利貸の債務に苦労する口入の女を介して、その若くて、色気の漂う女をゲットする。あまりに通俗的な展開だが、ここで重要なのは、男に囲われた女の意識には、「後妻」としての了解ラインが存在していたということだ。

女には既に妾とされた苦汁を舐めた経験があったから、口入屋の話に簡単に乗らなかった。結果的に、「後妻」の条件で持たされた家が妾宅であること、そして、自分を囲った男の職業が高利貸であることを知って愕然とするが、女にはもう後戻りができなくなっていたのである。

その理由は、女を頼る父の存在の故である。これが、リアリズムの第二の関係である。

女は父が愛情を注いで育てた娘だけあって、父に対しては反発意識が少ないどころか、何とか父の老後の安定を保障してやりたいと考えたのである。

勿論、そこには困難なる時代状況の制約があるが、本作で描き出された父娘の関係には、情愛の結合力が決定的な関係力学を支配する何かがあったと言えようか。

娘には、「飴屋でもまたやろうか」と言う父の、甘え含みの感情の投げかけを拒めないだけの情愛感情が、なお生き残されているのだ。余程、自分の幼年期に苦労した父の記憶が、その自我に張り付いているのだろう。

彼女の父は、無論、悪人ではない。卑劣でもない。ただ少し卑屈さと、生活力の欠如が目立っているだけである。彼女はそんな父に大きな不満を持ちながらも、決定的に遺棄することなどできようがないのだ。

それが彼女の弱みであり、その弱みに付け込んで、人並みに好色な高利貸がその経済力によって堂々と侵入してきたのである。

しかしこの男には、お玉という女を金銭で占有し切る男の色気と人格的能力が決定的に足りなかった。人の心を金で買えない切なさを感じ取る能力の欠陥こそ、この男の決定的な欠陥であったのだ。

こんな男を前にして、女はただ生活のためにだけ、自分の肉体を上手に切り売りして時間を繋ぐ戦略を身につければ、それで良かったのであろう。

三つ目の関係は、末造とお常の夫婦関係である。

若き日々に苦労したであろう叩き上げの商人が、遂にその道の頂点近くにまで上りつめたという実感を抱いたとき、既にそこには、その若き日々の夫婦の苦労の記憶よりも、今そこにある心地良い生活ラインに馴染んだ自我が捕捉する情報にすっかり搦(から)め捕られてしまっていて、関係の共存の継続が空洞化し、そこにはもう共存強化に向う感情の再生産は絶望的になっている。

これもまた、人の心の無常のさまを否応なく映し出す真実であると言っていい。

共存感情の衰弱の発火点に、異性感情の劣化の現実が当然の如く横臥(おうが)するから、その関係修復は、形式的な夫婦関係の様態を辛うじて維持させる知恵に委ねる以外にないのであろう。

そこに未だ援助感情が生き残されていれば、関係の継続力はギリギリに保持されるのである。

この夫婦の場合、女房の悋気(りんき)が過剰に激発した分、感情の爛(ただ)れをより顕在化させるに至ったが、その激発も一過的な感情のうねりの内に収拾する可能性もないとは言えないのだ。

関係のリアリズムは、まさに夫婦関係のそれに於いて極まったのである。

血縁の柵(しがらみ)と、そこから伸ばされた感情のラインが一定の情愛のレベルに達することによって、その幻想に潜り込むことができる父娘の関係のリアリズムは、非血縁的な夫婦関係のそれに比べて限定的であると言えるだろう。

夫婦関係のリアリズムは、それが自壊の可能性を含むことで、却ってそこに、より人工的な修復の余地を担保するとも言えるから、まさに人間の関係様態における極めつけの知恵を検証するのである。

以上の三つの関係は、リアリズムのそれぞれの様態を赤裸々に炙り出していて、思わず引いてしまうが、しかし、これが人間の関係様態の偽らざる写実であることを否定できるものではない。



5  約束されない物語の、約束された着地点



然るに映像には、第四の関係というものが創作的な意図で提出されている。お玉と岡田の関係がそれである。女のロマンチシズムの世界への芳香―― それが漂流する関係世界である。

当然の如く、と言うべきか、この二人の関係にはドロドロしたリアリズムが入り込む余地がない。入り込む余地がないのは、その関係が未だ未成熟であり、そこに人格的なクロスが深々と出し入れされていないからである。

男にとって女の存在は、未知なる世界の幻想的な慕情の、漠然とした不定形の輪郭しか描けない何かであり、女にとっても男の存在は、自分の「分」の枠組みに収まらない夢想のイメージの中にある何ものかでしかない。

この関係が内包する決定的な落差感こそ、却って二人の感情を泡立たせ、その幻想のイメージラインを膨張させていくものになっているのである。

未知の世界への闖入(ちんにゅう)は、いつの時代でも私たちの心の夢想的なオアシスであり、それが蜃気楼のような存在感の稀薄さを了解するに足るだけのものであっても、人はその夢のオアシスに、その身を束の間預ける思いを捨て切れなのである。リアリズムに雁字搦めにされた女にとって、その自我を束の間心地良くさせてくれる時間への潜入は、何よりも切実だったと言えるだろう。

男もまた女の微笑に誘(いざな)われていくに足るほどの、その心を、束の間癒す安息の時間が求められていた。

彼にとって、留学試験の艱難(かんなん)な状況突破というリアリズムの冒険に拉致されている間、そこに噴き上がる不安を上手に解消させる自我の戦略が切に求められたのである。

二人はほぼ、その固有な時間を重ねるようにして邂逅し、情動系のラインの表層辺りでクロスし、弄(まさぐ)るような心情のリアリティを表出することなく、甘美なるイメージのラインで、殆んど遠慮げに限定的な時間を共有したのである。

そしてその時間が限定的であればあるほど、とりわけ、女の情動系の振幅は大きく、それは身体表現に繋がる内的必然性を孕んでいたと言えるだろう。

この緊張感が女の中で高まっていったのは、女に強いてくる関係のリアリズムの柵(しがらみ)の大きさによると考えられるのだ。

そこに、男との間で形成された幻想の文脈が破綻していく必然性があったと言えるだろう。少しずつ、関係幻想に落差感が生まれつつあったのである。

そして遂に、その幻想が自壊していく時間が訪れてしまった。男のドイツ留学が成就したとき、男の内面世界をリアリズムが一気に支配したのである。

女だけは、それを知らない。

それを知らない女は、男をひたすら待つ。

女は一貫して、待つだけの時間を繋いできた、言わば、自我を裸形状にする自在性を奪われた、文字通りの「籠の鳥」であったのだ。

そんな女が、その日も男を待っていた。その日だからこそ、男を待っていた。

女を「籠の鳥」にした男が出張で外出したその日こそ、女は念入りな化粧を施して男を待っていたのである。

しかし、籠から飛び出た女の前に現われた男は、夢想的なオアシスでプラトニックに戯れた、あの好青年ではなかった。

男は、女だけが知らない別の人格に変貌していたのである。

それもまた、「約束されない物語の、約束された着地点」だったのだ。

雁の群れ・イメージ画像
女は、雁の群れが飛び立つ池の畔に立って、そのさまを見届けたとき、全てが終焉したことを実感せざるを得なかったのである。

自由に飛翔する雁の群れの描写が意味するイメージは、あまりに自明である。

そこに本篇の原作のテーマが据えられていたのは、明治の文豪の世界の中では相応に切実感を含んでいたが、本作が製作された時代の空気との違和感を中和させ、それと上手に折り合いをつける表現を作り出すのは、決して容易ではないだろう。

戦後の自由な空気感の中に、恐らく、明治の時代下にあっても、「籠の鳥」の悲哀とは無縁であったこの国の女たちの、その本来的な強(したた)かさを感受させる描写の導入を削り取ってしまったら、それは単なる啓蒙的な「文芸映画」のカテゴリーに収斂されてしまう何かでしかないからだ。

(本作の評価は、その一点においても問われるのだが、その点に関しては私の問題意識と脈絡しないので、ここでは論評を避けたい)

閑話休題。 

女は再び、「籠の鳥」の人生に戻っていくことになるのだろうか。

映像は、女の未来を語らない。語る必要がないからなのか。

それでも女の自我は、昨日までのそれと違って、少しは絶望に搦(から)め捕られた凄惨な時間を浄化する変化を刻んだに違いない。

女はロマンチシズムの甘美な時間を、束の間占有することで、「プロセスの快楽」というものを、明日の人生に繋いでいくに足る分だけ手に入れたかも知れないのである。

このエピソードが、或いは、「籠の鳥」を脱却して、自立への原動力を分娩する可能性を内包することもまた、否定できないのである。

リアリズムに縛られた女が一時(いっとき)遊んだロマンチシズムを、新たなリアリズムによって破砕されたとしても、ロマンチシズムが作り出したエネルギーの力が、女を「籠の鳥」に閉じ込めようとする男への不満のエネルギーとリンクするとき、女は新たに自らを、自在なる渡り鳥である「雁」に象徴される飛翔体に生まれ変わるべく、決死の跳躍を果たすかも知れないのである。



6  過剰な描写、余分な描写、偶然性への依拠



最後に、本作への私個人の「好みの問題」から出来する不満の中で、どうしても無視できない点を指摘しておきたい。

その一。

この作り手は、描写が過剰なのだ。

例えば、末造の本妻であるお常が、土砂降りの雨の中に亡霊のように妾宅の前で、お玉を睨んで立っている描写と、その亡霊に怯えるお玉の恐怖心を、そこだけ異様なスポットを当てて照射する描写など、殆んど怪談映画のそれと変わらない。そして、登場人物に対する不必要なまでのクローズアップのシーンは、彼らの内面を映し出す効果を逆に減殺させてしまっている、等々。

その二。

描写がベタベタと煩わし過ぎる。余分な描写が多過ぎるということだ。

とりわけ、岡田との別離の描写は、簡単に雁が群れ飛ぶシーンの導入で充分効果的な役割を果たすと思われるのだが、しかし映像は、そこに流れるまでに、自分を嫌う魚屋との確執や、末造とのドロドロした悶着の描写を挟むばかりか、最後に岡田を乗せた馬車を見送るシーンの導入に及んで、殆んど観る方は辟易するばかりなのである。


因みに、この作り手には、本作以外でも、「雪国」(1957年)、「暗夜行路」(1959年)、「恍惚の人」(1973年)など、余分な描写のため、映像の完成度を損なう作品があまりに多いのだ。この辺が、豊田四郎(画像)という映像作家の駄目な部分であると、私は勝手に考えている。だから本作の過剰な描写のお陰で、折角の高峰秀子の突出した演技が部分的に壊されてしまっているのだ。残念な限りである。

その三。

映像展開が、偶然性に頼りすぎているということ。

これは豊田四郎に限らないが、とりわけ本作ではそれが眼についたので、些か観賞の許容範囲を越えてしまった次第である。それについては、例示すればキリがないので、言及することは止めておく。


―― 最後に、原作との比較の観点で一言。

映像は森鴎外の原作とかなりの部分で乖離を見せていて、それ自身は全く問題ないのだが、その描写で気になったラストシーンについて書いておく。

原作では、岡田が雁に石を投げて、たまたま、それに当った雁が死んでしまうという、如何にも原作者の女性観の一端(「哀れなる者――汝の名は女性なり」というイメージ)を想起させる描写があったが、それは正直言って、テーマ性に含まれる「弱者としての『籠の鳥』の中の女性」の残酷さと、テーマ性それ自体の露出が些か過剰になってしまって、私には受容しかねる思いが深かった。

然るに、女が忍ばずの池の畔で、飛び立つ雁を見つめるシーンで映像は括られたが、作り手の本来的な過剰さが、ここでは適度に抑制されていて、この描写の表現力に集約されるイメージは、私にとって充分に受容し得るものだった。

森鴎外
因みに、原作のその箇所を以下に引用しておくで、本稿を括りたい。

「石原は黙って池の方を指ざした。岡田も僕も、灰色に濁った夕の空気を透かして、指ざす方角を見た。その頃は根津に通ずる小溝から、今三人の立っている汀まで、一面に葦が茂っていた。その葦の枯れ葉が池の中心に向って次第にまばらになって、ただ枯れ蓮の襤褸(ぼろ)のような葉、海綿のような房が碁布せられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角にそびえて、景物に荒涼な趣を添えている。この bitiumue(ビチュウム) 色の茎の間を縫って、黒ずんだ上に鈍い反射を見せている水の面を、十羽ばかりの雁がゆるやかに往来している。中には停止して動かぬのもある。
『あれまで石が届くか』と、石原が岡田の顔を見ていった。
『届くことは届くが、中(あた)るか中らぬかが疑問だ』と、岡田は答えた。
「やって見たまえ」
岡田は躊躇した。『あれはもう寝るのだろう。石を投げつけるのはかわいそうだ』
石原は笑った。『そう物の哀を知り過ぎては困るなあ。君が投げんというなら、僕が投げる』
岡田は不精らしく石を拾った。『そんなら僕が逃がしてやる』つぶてはひゅうというかすかな響をさせて飛んだ。僕がその行くえをじっと見ていると、一羽の雁がもたげていたくびをぐたりとたれた。それと同時に二三羽の雁が鳴きつつ羽たたきをして、水面をすべって散った。しかし飛びたちはしなかった。くびをたれた雁は動かずにもとの所にいる」(「雁」森鴎外作 岩波文庫より)

(2006年9月)