<大いなる空砲の幻想>
1 「全て社会が悪い」という論理的過誤
自分の問題意識にテーマを引き寄せるという些か強引な手法を、更に拡充させていく。
具体的には、本作への批評を大幅に逸脱して、ここでは人生論的な評論ではなく、状況論的な映画評論を記していきたい。
この映画をどう読み解いたらいいのか。
作り手の意図した基本構図とは何だろうか。
この映画の読解を、以下、私なりに解釈してみよう。
身勝手な母親に捨てられた子供たちの苛酷な現実と、その現実を薄々知りながら、何も知らなかったような振りをしたり、或いは、自らの良心を証明したりするために、「自分はこれだけのことをした」という自己了解性のうちに、子供たちの現実と自分との間に引いた見えないラインを越えないようにして、少なからず彼らに関わった、恐らく、平均的で善良な市民を演じ続けた大人たちの、丸ごと現代的な関係のスタンス。(後述する)
その両者の埋め難い現実へのシニカルな視座があり、その視座が把握する向うには、「誰も知らない」的状況を作り出した地域コミュニティの崩壊への認知と、更にそのような状況の発生源としての政治、社会的、且つ、制度的なるものへの告発といった、イデオロギー濃度の深い面々が相も変わらず噴き上げる、「全て社会が悪い」という「大いなる空砲」を感じさせる把握がそこにある。
言い過ぎだろうか。
子供をダメにするのは大人である。
無論、この把握は決して間違っていない。
アパートの大家 |
恐らく作り手は、この映画のモデルとなった事件の背景のうちに炙り出された、「大人たちの無関心」への怒りのような感情がライトモチーフとなって、それを描くにはどうしても避けられない背景描写という難題を突破する覚悟で、その艱難(かんなん)な表現世界に踏み込んだに違いない。
しかし、ラストシーンでの、「子供共同体」への出撃を思わせる創作的描写によって、明らかに、本作はリアリズムとの対決を回避した。
そこには、驚くべきほどの自然な演出を貫いた生活描写のリアリズムと、「ここまで追い込まれても、虐待や犯罪に走らない」という展開の非リアリズム(ハッピー・トーク)の矛盾が曝け出されて、ドキュメンタリーに創作性を加えたダルデンヌ的手法が、描写に躍動感を与えつつも、結局どこが問題なのか不分明な映像になってしまった。
なぜか。
私には、作り手の状況論、文明論と人間論の把握の脆弱さが根本要因のように思われる。
地域コミュニティの崩壊への認知には問題がないのに、そこからの展望が出てこないのは、既に、作り手がそれを「ないものねだり」として把握しているからだろう。
「ないものねだり」の認知の中からは、「荒廃した社会」と早々と縁を切らせ、「子供共同体」への出撃を期待し、それをサポートしようとする思いしか繋げないのだ。
ネグレクトされた子供たち(その1) |
或いは、政治なのか、その政治を司る立場にある「時の権力者」(行政権の最高責任者)なのか。
そこに幾分かの因果関係が垣間見られるという理由を否定できないことが、決して事態の本質を説明できない論理的常識を認知すれば、この場合もまた、「荒廃した社会」と、その社会を政治的にリードする立場にある者の責任の決定性について、声高に断罪し得る物言いは明らかにフェアではないだろう。
思えば、いつの時代にも一定の確率で出現するであろう、愚昧な大人たちが犯す違法行為や愚行の全てを、そのつど時代や社会の所為にすることによって納得し得る情報処理の手法は、極めて短絡的な把握であるが故に、しばしば、恐ろしいほどに支持されやすい感情文脈であると言っていい。
とりわけ、性急な現代人は曖昧さと共存することを忌避する傾向が強いため、常に分りやすく、誰の眼にも見えやすい飛躍的な結論に、事態の因果関係の軟着点を求める短絡性を往々にして晒していると思われる。
そこに、「単純化の時代」の危うい陥穽が潜んでいるのである。
仮説の検証の難しさを認知する合理的な知性こそが、切に求められる所以なのだ。
ネグレクトされた子供たち(その2) |
全く誤謬のない完璧なシステムを、当該社会が具備させることが困難なのは、人間が不完全な知的生命体であるからだ。
とりわけ、近代以降の歴史が直面するテーマが、いつでも「未知の領域」への開拓と果敢な突破という、厄介な事態を背負っているので、より複雑で、分業化した社会に呼吸するハイパー近代の現実の中で、人々が事態の情報処理を「単純化」させようとする心理は決してパラドックスなどではないのである。
寧ろ、そういう厄介な時代であるが故に、常に飽和点に達しつつある人々のストレスを、違和感なく吸収し得る簡便な情報処理の方法論として、より「単純化」させようとする心理が自然裡に形成されたとしてもおかしくないのだ。
だから私たちは安直に、この陥穽に搦(から)め捕られてはならないのである。
―― 論を戻す。
ネグレクトされた子供たち(その3) |
「都市生活者の冷淡さ」については、多くの人がその現実を訳知り顔に指摘して見せるが、それもまた私たちの大いなる論理的過誤であると言わざるを得ないのだ。
考えても見よう。
都市生活者が身近な距離に住む者の不幸に鈍感でいられるのは、その者との心理的、且つ、生活的な距離感が隔たっているからである。
そして、そのことによって他人の不幸が自分の不幸に直結しないという現実 ―― これが何より重要なのだ。
同時に、このことは、私たちがより豊かな生活と私権の拡充を求めて、半ば確信的に壊してきた村落共同体の社会に於いて、その成員が他者の不幸の現実に寄り添うことができたのは、まさに他者の不幸が自分の不幸に直結してしまうからであることを示している。
だから人々は、皆優しかったのであり、過剰なまでに他人のプライバシーの中に侵入してきたのである。
この社会が今、もうこの国では殆ど絶え絶えになっているということ ―― その認知こそがここでは重要なのだ。
だから都市生活者が常に冷淡であるという把握は、事態の本質を無視する極めて乱暴な議論という外にない。(以上のテーマに沿った言及は後述する)
ここでのテーマに沿った言及に戻ろう。
本作で、4人の子供たちを苛酷な現実に追いやったもののは何か、という枢要な問題である。
考えるまでもないことだ。
馬鹿親(中央)とネグレクトされた子供たち(その4) |
地域コミュニティの崩壊を認知し、その崩壊を歴史的に不可避な現実として受容する限り、この映画で描かれた苛酷な状況は、馬鹿親の、馬鹿な判断による、とことん馬鹿な行動に起因する。
それ以外ではないのだ。
あろうことか、この馬鹿親の人格を、「本来は善良だが・・・」とか、「この親が置かれた立場は他人事ではない」などというコメントに接したとき、私はその、あまりの人の良さ(愚昧なる見識)に唖然とした.
もっと唖然としたのは、この映画のモデルとなった事件の母親が、実刑判決を受けなかったという厳然たる事実を知ったとき(社会復帰可能な、懲役3年執行猶予4年の判決)。
この国の、このような人々のズブズブの甘さこそが、この国の社会をダメ(歯止めの利かない脆弱化)にしているのだ、と私は切に思う。
因みに、この国の若者が置かれている現実の苛酷さを、大袈裟に問題視する文化人が多いのにウンザリする。
ダルデンヌ兄弟 |
言わずもがなのことだが、ダルデンヌの作品に力があるのは、ダルデンヌの国の現実の諸事情の苛酷さ(彼の住むワロン地方の失業率が20%を越えるという現実)が生み出したものなのである。
働く場所があれば何でもいいという「ロゼッタ」の世界と、自分の気に入った職業にしか向かわず、結局、「自宅警備員」(ニートの言い分けとも揶揄される)を含む「失業者」を選択できる世界に住む、この国の若者の「苛酷さ」を、単純に比較すること自体ナンセンスなのだ。
2 「幸福競争」というゲームの流れの中で
このような映画と出会ったら、いつか、言及せねばならないと思っていたことがある。
この映画は、私の評価の埒外にあるので、それを今、番外篇の批評として書いていくことにする。
以下の稿は、近代社会という巨大なスキームについての私なりの把握である。
そのキーワードは、「快楽の落差」である。
20世紀は、人間の欲望を無限に解放した世紀だった。
欲望の世紀は、同時に過剰蕩尽の世紀でもあった。
人間の欲望を開拓し、消費させ、飽きさせる。
そこにまた、鮮度の高い新たな欲望を作り出し、蕩尽させ、捨てさせる。
欲望は循環系ではなく、漏斗状的に巻き上がって突き進んでいくのだ。
その消費サイクルの速度は少しずつ速くなるから、欲望の資本主義はここに全面展開されるに至った。
かくて、資源を利用し、それを加工し、刺激溢れる製品を継続的に生み出していくことで、大量生産・大量消費・大量廃棄を不可避とする「動脈産業」が肥大化すれば、それを合理的に処理する「静脈産業」(リサイクル産業)の膨張化もまた不可避と化すだろう。
資本主義を批判しているポスター(ウイキ)
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均しく貧しかった時代には、さして気にも留めなかった欲望のアイテムが、自らの生活圏に届くほどの距離に存在することで、人々は「自分だけが不幸であることが許せない」という意識に呪縛される。
そこに「快楽の落差」が生まれるのだ。(鄧小平の、 「豊かになれる者からなっていけ」という趣旨の「南巡講話」 が想起される)
人々の精神状態が不思議なほど落ち着かなくなるのは、以上の意識が、「選択的注意」(膨大な感覚情報の中から選択的に取り出すこと)として既に侵入してきている、脳の記憶情報の内にべっとりと張り付いているからである。
「誰も知らない」の母親が、長男に「お母さんは勝手だ」と言われて、「私が幸せになっちゃいけないの」と長男に逆ギレした意識に張り付いていたものも、「自分だけが不幸であることが許せない」という、私権優先の身勝手なメンタリティー以外ではなかった。
―― その辺りを書いていく。
それは、私たちの精神の近代の流れを簡単に俯瞰することになる。
まず工業革命によって手にした豊かさが、都市住民を中心に自由を求めるという流れが形成された。
初期資本主義の暴力性が、都市労働者を苛酷な環境のもとに追いやった事実は否めないにしても、工業革命による物質文明の展開が、消費枠を著しく拡大したことの把握は重要である。
やがて、消費者の購買力に拠った文明の再生産が軌道に乗って、そこで具現された豊かさが、自由への希求を必然化したのである。
人々がこうして手に入れた自由の実感は、人々の私権意識を確実に高めていって、それを拡大的に定着させていくという流れが、そこに生まれた。
この私権意識の定着は、「人は人、自分は自分」という相対主義の風潮を育て、加速的に強化されていったのである。
つまり、「豊かさ」→「自由」→「私権意識」→「相対主義」へと繋がる近代の内面史は、その速度と規模に差異を見せつつも、大筋の基調としては普遍性を持つと考えられる。
物質文明の全面的展開は、紛う方なく、私権意識の拡大的定着という風景を顕在化させるのだ。
ついでに言えば、この近代の中枢観念が、制度や権力の暴走を抑止し得る機能を結果的に果たしてしまうこと ―― そのことの認識なしに、「近代の光と影」の風景を把握することはできないであろう。
三種の神器・「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」 |
1950年代の後半、この国に、「幸福競争」と呼ぶ以外にない、そこだけは「全身真面目人間」たちの人生ゲームの流れが生まれたのである。
人々は一様に生活レベルを上げていくことで、皆が似たようなものを買い、似たようなものに憧れ、似たようなレジャーを愉しみ、似たような生活様式を営む。
そして、似たような価値観に流れていったのである。
この流れは、「質の獲得」→「質の拡大」というラインで説明できるだろう。
しかし、高度成長の終焉に随伴して、目眩(めくるめ)く蠱惑(こわく)的で、過剰でもあった時代を特徴づけた、「幸福競争」という人生ゲームが一応の安定的な収束を迎えていく辺りから、時代の基幹文脈は、他者との快楽の差に神経を尖らせる、「質の選択」というキーワードによって説明される何かに収斂されていったと思われる。
それをネガティブに要約すれば、「なぜ、自分だけが不幸を感受せねばならないのか」といった文脈に流れつくだろう。
それは、他者の快楽濃度との主観的落差に不公平感を覚えたり、また、自分のかつての快楽濃度と安易に比較したりすることで、そこに様々な感情的ギャップを作り出す。
それを私は、「快楽の落差」と呼んでいる。
ディプロマミル(学位商法)の広がりに歯止め利かず |
思えば、私たちが、否定的なニュアンス含みで使用する「学歴社会」という概念は、実の所、能力以外で人を差別する社会を克服する一つの達成点でもあった事実を無視するわけにはいかないであろう。
教育加熱現象は、そんな社会が生み出した、一種必然的な結果でもあったということだ。
皆で赤信号を、同時に渡るならいい。
しかし、自分だけがひっそりと、薄暗い病院の一室で癌死するのは耐えられない。
私より遥かに年老いている者が臓器移植の提供を受け、無事に生還しているのに、なぜ私だけが、常に移植の機会から外されているのか納得できないのである。
保護責任者遺棄致死罪(刑法第218条)によって有罪 |
周囲との近接度が増幅して豊かな平和な日常が続くと、人は隣人の幸福なる風景が気になってしまうのである。
「勝ち組」、「負け組」とか、「下流社会」というような造語が次々に生まれては、消えていく。
40年前なら我慢できたに違いない生活が、今や「階層化社会」の犠牲者のような扱われ方をして、世間の形式的同情を受けるが、本人の意識は、「悪いのは自分ではなく、このような社会を作った政治や制度の責任である」などと憤慨して見せるのである。
そのような連中に限って、恐らく、いつの時代でもそうであったように、「世の中はどんどん悪くなっている」などと嘲罵して、決して自分の能力や努力の不足を問題視することはないのだ。
しかし、少し考えたら分ることだが、人間の能力は絶対的に不平等であり、その認知を前提にして「機会の平等」を保障する社会を作ったのは、特定の政治家による特定の政策によってではなく、少しでも楽な生活をしたいと願う私たち自身なのである。
能力主義を否定して、「結果の平等」による理念で作られた社会主義社会の破綻を検証した、この怒涛の時代状況下で、私たちの自由と私権を確保するには、まさに、私たち自身が努力して獲得するものであることを誰も否定しないだろう。
少しでも心地良い思いをしたいという私たちの際限のない欲望が、近代社会を作り出した。
そこに、「快楽の落差」という中枢的観念が牽引力となって、均しく貧しかった時代の助け舟の役割をした地域共同体を崩してしまったのである。
イスラエル中部にあるベイト・グブリンのキブツ(ウィキ)
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文明の極上の蜜を舐めてしまったら、人はもう不便なだけの故郷には戻らなくなるのだ。
キャリアウーマンとしての能力が認められたら、件の女性は自分の認知症の母を特定施設に預けるか、最寄りのヘルパーに丸投げするだろう。
この国の成人した日本人が、街角で喫煙する中学生を注意できないのは、本当は自分の勇気の欠如が原因であるのに関わらず、「人は人、自分は自分」という価値相対主義に逃げ込める自由が確保されているからだ。
一体、誰が、この心地良い観念を捨てるというのか。
他者から干渉されない自由は、他者を干渉しない倫理観に当然繋がっている。
人の善意を安易に期待するのは自由だが、しかしそれは権利ではない。
人を愛する自由はあるが、人から愛される権利は存在しない。
人を助ける自由もあるが、人から助けられる権利はない。
自分の身は自分で守らなければならないのだ。
家庭の中では、親が子を守る。
それは義務である。
ネグレクトされた子供たち(その5) |
あまりに当然のことだ。
そういう社会を、私たちは作ったのである(注2)。
良かれ悪しかれ、それが民主主義社会である。
然るにそれは、厳然たる法的ルールによって成り立つことを認知する社会だ。
やるべきことと、やってはならないことを明文化して、それを守っていく。
それが、その社会に生きる者の絶対的義務である。
地域コミュニティを壊した代償として、私たちはこの社会に様々なルールを定め、限りなくコミュニティのエキスを補完しようとした。
それにも拘らず、コミュニティは法ではなく、道徳律に拠って成っているので、制度がそれを補完するには当然限界がある。
だから近代民主主義社会は、人が犯したあまりに多くの誤謬を検証しつつ、どこまでも進化し続ける有機物のような流動体であると言っていいのである。
私たちが、自らの手で築き上げてきた近代民主主義社会を捨てるつもりがないなら、奇麗事は言わないで、少しでも「より良くあろう」と願い、その実現に努めるだけである。
それ以外にないのである。
(注1)「キブツ」とは、元々ヘブライ語で、「集合する」という意味を表していて、シオニズムの思想を根底にした、イスラエル独自の社会主義的共同体と言える。キブツ内での生産・消費・生活は共同化され、教育や文化をも包含した一種のコミューンである。しかし現在の多くのキブツは観光としても活用されていて、規律を守ることを条件に有料のボランティア体験が可能となっていて、本来の理念との乖離を問題にする議論もある。
(注2)因みに英国では、「子育て命令法」(1997年施行)という法律すらあり、子供の不登校、遅刻当の問題行動を生活管理できない親に対して、罰金刑が科せられているほどだ。
3 大いなる空砲の幻想
ネグレクトされた子供たち(その6) |
ラストシーンに於ける、「子供共和国」への出撃という無意味な感傷を映像に貼り付けたことで、彼らをそこまで追い込んだものへの責任の追及が、明らかに中和されてしまった。
それでなくとも、声高に叫ばない淡々とした映像のうちに、アパートの一室で起こった不条理で、苛酷な状況のリアリティが吸収されてしまっているので、作り手に、この映画を作らせようとした、その拠って立つ感情や思いが拡散されてしまった印象が残るのだ。
「結局、どんな状況でも子供は強く生きていく」というメッセージが有効なのは、彼らが強く生きていくだけの外的環境と内的条件が、その有効的臨界点を越えない限りに於いてである。
勿論、創作の自由の範疇で、その物語の展開を恣意的にいじることはどこまでも許容されるだろうが、しかし明らかに、そこに陰湿な事件があって、その事件によって決定的なトラウマに囚われたかも知れない被害者が存在し、しかもその事件の報道が、センセーショナルな話題を撒き散らせた影響力を持つ題材を選択するとき、相当な覚悟と責任意識を持って映像化することが道義的に求められるはずだ。
穿って言えば、そんな意識が背負うリスクを軽減するために、後半以降の、絶対にこんなことはあり得ないと思わせる、不可解なアンチ・リアリズムの展開を導入したのではないかと思われるのである。
そこに過剰な創作性を導入することで、映像としての勝負を回避したのではないかとさえ印象づけられる所以である。
長男の自立の幻想 |
恐らく作り手は、この辺りからオリジナルのシナリオを無視して、大人の理念に長男の自立を合わせていく物語に変えていったのではないか。
題材が抱え込む圧倒的な重量感が、作り手の覚悟のなさを晒さないようにして、「それでも子供は生きていく」という、無難な感傷のうちに逃げ込ませたように思えてならないのだ。
この映画のモデルとなった事件の少年が、実母を恨んでいないというような報道が当時あったが、まさか作り手は、苛酷な状況に置かれた子供たちが、一様に親を恨まないような表現をするときの、その深層に対する洞察を読み間違えたとは思えないが、それにしても、作り手の把握の脆弱さが際立ってしまうのである。
因みに、かつての私の職業的経験(事故でリタイアするまで、私は補習塾を経営し、そこで何人かの問題少年とプライベートに関わってきた)から言えば、「親に捨てられた子供の多くは、その親を恨まないところか、自分にこそ、その責任があると述懐する」(これは私が何度も通った、練馬少年鑑別所の心理技官の話)のである。
現に、私が関わった少年は、中一のときから家出を繰り返し、その度に補導されても、年少時に彼を捨てた両親の悪口を決して言わなかった。
なぜなのか。
養護施設に送られる運命を辿った実在事件の少年
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母親を否定することは、自らを否定することに繋がってしまうのである。
子供の自我は、母親、または、それに代わる大人によってしか形成されることはない。
その母親によって作られた自我を、子供はその母親と関わって作った物語をなぞっていくしかないのである。
思春期以前の子供には、自らのうちに本来的に自立した物語を作り得ないということだ。
母親を失ってもなお、自己についての物語を作り出せるのは、思春期以降の時間の中であって、この物語のモデルとなった事件のように、母親から自我形成の必要条件を充たさない環境を作られてしまったら、その子供の思春期の到来は、身体的レベルの変化はあっても、その自我が本来の確立に向かうであろう内的な運動の展開は簡単に開かれないで終わるか、或いは、著しく遅れてやって来るはずである。
出生届がないため、就学できなかった実在事件の少年
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そこにこそ、虐待の本質的問題点があるのだ。
従って、このような題材をテーマにした映画を作るとき、その辺の深い洞察と、リアルな把握に基づいた相応の表現が切に求められるだろう。
この映画の主人公の少年が、恐らく、観る者の共感的理解を深々と集めたであろう、後半以降のミニスーパーマンもどきの振舞いが、映像の中枢的メッセージとして印象的に描写されたとき、この映画は別の何ものか、端的に言えば、展開のリアリズムと明瞭に決別した作品になってしまったのである。
そこにはもう、あまりに厳しい題材を、甘い切り口で描き切ろうとしたように見えるほど、「大いなる空砲の幻想」が晒されているだけだった。
(2006年1月)
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