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2008年11月26日水曜日

カナリア('04)    塩田明彦


<そこのけ、そこのけ、「子供十字軍」が罷り通る>



序  愚かさを極めた脳天気な作品



この映画は駄作ではない。愚作である。

駄目なのではなく、あまりにも愚か過ぎるのだ。

「海を飛ぶ夢」を観たときも痛感したが、およそ絶望の淵に立たされたことがないと思われる者が、このような難しい題材を映像化するとき、その決定的に欠落した「絶対経験」をカバーするには、それをカバーし得るほどの天才的な想像力というものを必要とせざるを得ないだろう。

しかし、そんな天分を持つ者は稀有である。

と言うより、経験することなしに人が語り得る能力には限界がある。その限界性を弁(わきま)えないで、安直に人生や世界を語る者の脳天気さは、単に、オプチミズムという括りでは説明できない何かがある。それを私は、「愚かさ」という言葉で説明するしかないのだ。

本作は、そんな愚かさを極めた脳天気な作品である。

恐らく、私が思うところ、この作り手は絶望の淵に立たされた経験がないはずである。

死の谷の畔にあって、その喉元に、鋭利な刃を突きつけられた恐怖を経験的に知っていない人であるに違いない。

要するに、本作は、同時代性に於いて侵入してきた畏怖すべき事件を、その事件の最も奥深いところにある人の心の絶望的な揺曳を、単にお手頃な理念系で解釈し、そこで形成された感傷的気分によって快走したつもりの映像であったと言えるだろう。



1  脱走、そして出会い



―― そのことを、本作の稚拙なるストーリーを簡単に追うことで検証していきたい。


「その年、無差別テロを実行したカルト教団ニルヴァーナから数十名の子供たちが保護され、関西地区の児童相談所へ送られた。

外の世界から攻撃を受けていると教育されていた彼らは、初めのうちこそ凶暴で反抗的な態度をみせたが、時が経つにつれて俗世の生活になじみ、教義の呪縛から解き放たれた。だが、その中にただひとり、反抗的な態度を貫く少年がいた。

岩瀬光一、十二歳。

保護から二ヵ月後、児童相談所を訪れた祖父は、光一の引取りを拒否、四歳年下の妹、朝子を光一から引きはがすように連れ去った。光一は児童相談所を脱走した」

これが、映画「カナリア」の導入の背景説明となって、ドラマは展開する。

説明の主は、母を亡くし、父にも遺棄されるような家庭環境に置かれた12歳の少女、由希。

由希は援助交際などして自分の生活費を稼ぎ出す、極めつけの「非行少女」。

一方、児童相談所を脱走した光一は、ヘッドギアをかなぐり捨てて、細く曲線的に伸びている田舎の道を疾走する。

少年は途中、廃校となった小学校の教室で、一個の錆びれたドライバーと、一足のスニーカーを調達した。

少年の旅の目的は、東京に住む祖父から妹を連れ出して、現在、行方不明中の母と三人で生活をすること。そのために、少年は疾走する。その疾走に加速がついて、誰にも止められない。

しかし、その少年の疾走を、一台の乗用車が止めてしまった。

と言うより、少年の疾走によってその乗用車が止められ、握ったハンドルを旋回したことで、車は横転してしまったのである。その車の中には、援助交際の相手の男から手錠を架けられた由希が同乗していた。少女は横転した車から這い上がって来て、傍らで呆然とする少年と出会ったのである。

由希
これが、光一と由希の初めての出会いだった。



2  旅の継続に付着するお座成りなドラマ構成



全ては、ここから始まっていく。

少年は手持ちのドライバーで、由希の手錠を外した。

二人の旅はまだ重ならないが、自分の身を解放してもらった感謝の念から、由希は光一に東京までの旅費を手渡した。それは少女が、「おっちゃん」と呼ぶ老人から自分の裸を見せて受け取った金だった。しかし少女の中にも、脱出願望が強かったのである。

「ウチもあんたと東京に行きたい。ウチ、もうこんな町にいたない。家にも帰りたあない。ウチかて人の役に立ちたい。人のためになりたい・・・」

この少女の願望を少年は受け止めて、二人の旅は、少なくとも、物理的には重なったのである。

二人はバスに乗り、電車に乗り換え、そして険しい徒歩の旅にシフトする。金を使い果たして万引きを進める由希に向かって、光一は、「人の物を盗むと、盗まれた人の苦しみが、必ず自分に返ってくる」と言い放った。由希はそれに反発し、教団の事件を非難していく。

「それで何であんたら、人殺したん?罪のない人を、何十人と殺したんと違うんか?」
「殺してない。殺したとしたら、殺さなけりゃならない理由があったんだ」

光一と由希
決して理解し合えないようなこんな遣り取りがあっても、二人は旅を継続する。

その旅先で、彼らは色々な大人と出会うことになる。

最初に出会ったのは、二人の女連れのレズカップル。

唐突に映像に侵入する女たちの言動は、少なからず、物語の流れに大いなる違和感を与えて、やがて消えていく。

こんな意味のない描写を挿入した意味は、恐らく、年長の女の母子関係に問題があることを、主人公の少年にクロスさせることを狙ったのだろうが、それにしても、旅の継続に付着するお座成りなドラマ構成が気になる映画である。



3  「聖なる子供十字軍」の戦士のヒーロー



彼らの旅は、ようやく辿り着くべきところに着いた。東京である。

京王線の駅で降りた光一の視界に入ってきたのは、テロ事件を起して指名手配されている、「ニルヴァーナ」の犯人たちのポスター。その中に、自分の母親の顔が刷り込まれていたのである。

光一は、「ニルヴァーナ」時代のことを思い出していた。

母に会えずに、涙を流した苦い思い出があったことを。

自分が教団の法を犯し折檻を受けた際に、母は忍ぶように訪ねて来てくれた。その母と監禁場所で祈りを唱え合ったひと時が、懐かしく思い出されてきたのである。

そんな少年が、由希に児童相談所での切ない思いを語っている。

「お前の母親は、人間として失格だって。児童相談所で、爺ちゃんが俺にそう言った。だから、俺は爺ちゃんに飛びかかって、思い切り爺ちゃんの首を絞めた。首を絞めながら俺は、俺にはこの人を殺してもいい理由があるって思った」

とても、12歳の少年が言ったとは思えないような難しい台詞を、アンゲロプロス流のメタファーを被せることなく、本作の作り手は、思春期前期の主人公にかなり強引に語らせてしまう。

無理な台詞を語らせるから、主人公役の少年の表現は、ここもまた抜きん出てお粗末だった。大事な場面での大事な描写をしくじってしまうと、観る者の共感感情が削られてしまうのだ。

演出もお粗末だった。

だからそれ以降は、本作を観る者の少なからぬ人々は、冷や冷やながらこの物語に付き合っていくことになる。そんな思いをしたのは、私だけだろうか。ともあれ、それ以前から気になる、こんな描写の数々を見せつけられてうんざりしていたが、もう少し物語を追っていこう。

少年の爺ちゃんの家は殆ど廃屋化していて、そこにはもう誰も住んでいない。家の玄関の入り口や壁には、「謝罪せよ!」、「天誅!」、「親も同罪」などという悪意に満ちた落書きが書きなぐられていて、窓ガラスは割られていた。恐らく、祖父は周囲の者たちの耐え難き言語的暴力を受け続けて、光一の妹と共に何処かに引っ越したに違いない。

東京に出て来て生活費を持たない二人は、路頭に迷っていた。

しかし、万引きをするという光一を非難した由希が、ここでも、「聖なる子供十字軍」の戦士のヒーローぶりを発揮する。

少女は援助交際の相手を見つけ、いつものように男の車に同乗した。

その車を光一が追う。その手には、野球少年から奪った金属バットが握られていた。

車は走る。渋滞していない普通の幅広い道路を、普通のスピードで走り抜けていく。

その車が結構な距離を進んでも、後方にはバットを握る少年が、まるで車のスピードに合わせるかのように追い駆けていく。

そして、信号で止まった車の屋根に乗って、バットを振り回し、フロントガラスを砕いていく。少年は少女を救ったのである。

殆ど有り得ないような、こんな漫画的な描写に付き合い続ける私の根気も失せてくるが、作り手が、もう一人の十字軍の戦士の、縦横無尽なアクションを必要としたことが確認できて、ついでに、もっと愚かなる映画との付き合いをしていく覚悟を決めた次第である。



4   「聖なる人々」としてのメッセージを投げ入れられて 



まもなく、二人は路傍で元信者たちと偶然出会った。

彼らは教団を脱会して、今やお互いに助け合って共同生活をしているのである。大都会の郊外でのこんな偶然も、殆ど有り得ないような話と言ってもいいが、しかし彼らと出会わない限り、物語が進まないのだから仕方がないのだろう。なぜなら二人は、この元信者から妹の所在地を知ることになるからだ。

二人は元信者の家で共同生活して、そこに色々なエピソードが盛り込まれるが、まるで観る者に感情が伝わってこない、如何にもご都合主義の展開が続いていくのである。

例えば、この場所で由希は盲目の老婆と知り合い、折り鶴を折ってもらうことを介して、情感溢れる交歓が描かれる。由希の心の癒しを狙った、こんな類型的なエピソードをたっぷり観せられて、正直、辟易(へきえき)する。

――なぜ、近年の映画には、「薄幸な子供と、包容力ある老人たちとか障害者」、或いは、「難病絡み」の関係の設定が頻繁に描かれるのか。

このような関係設定の中に、存分に感傷的なエピソードが恥ずかしげもなく盛り込まれていて、そのあまりに短絡的で、浮薄なるストーリーラインには寒気すら覚えるほど。

ここでも「折り鶴」という、如何にも、日本人の感傷を柔和に擦過していくようなツールが利用されることで、「薄幸なる美少女」と、「盲目の老婆」の心情交叉の旋律が静かに奏でられていくのだ。

このようなケースでは、大抵、障害者や老人は、「聖なる人々」としてのメッセージを投げ入れてくれる役割を担っているから、そんな気の利いた言葉を、観る者は拾っていくことになる。

この老婆の場合は、積極的な性格の由希に頼まれて、「翼を開閉する折り鶴」を丁寧に折って見せるという具象的な情報によって、観る者に「羽ばたく青春」のイメージを仮託させていた。



5   宗教問答、その抜け殻のような表現力 



もう一つ、この共同生活中に、これまでの物語の流れから突き抜けてしまったようなエピソードがある。

これは、光一と由希が身を寄せる元信者が、指名手配中の信者と会話するシーン。

そこでは宗教問答のような会話が為されるが、この映画のモデルとなった事件について無知な鑑賞者には、到底理解できないような会話になっていて、作り手の理念系の暴走が止まらないのである。なぜなら、この映画では、その事件の全容について全く説明されてないからだ。

冒頭の「無差別テロを起した、教団ニルヴァーナ」という文言の内に、無知なる未来の鑑賞者は、そこに関わった信者たちの犯罪性を理解するというその圧倒的困難さ。

そこから一体、我々は何を感じ、何を糾弾し、そして映像で表現された、彼らのどのような思いに感情を乗せたらいいのだろうか。そこが全く欠落してしまっていたのだ。

だから以下の会話は、映像から完全に浮き上がってしまったのである。同時に観る者は、洗脳された少年の戯言を最後まで聞かされることになるのだ。

とりあえず、全く内容のない宗教問答もどきを紹介してみよう。

「お前、本当にやったのか?」と元信者。
「何を?」と逃走犯。
「それを俺に言わせるのか?」
「それを聞いて何になるんですか?あなたの立場を悪くするだけですよ。本当はあなたも御存知のはずです。尊師の全ったき教えを問うたならば、自ずと答えは明らかになる。そうではありませんか?今の私には、怖いものは何一つもありませえん。警察も私を捕まえることはできない」
「尊師がお前を守って下さるからか?」

「私たちが真理の実践者だからです。俗世の倫理を越えて、絶対的な真理の実現のために、この身を捧げた存在だからです。警察も世間も、高々、人間のレベルでしかものを考えることができない。でも、私たちは違う。人間界を超えた真理の掟に殉じているんです。もし仮に、あの人たちが私たちの肉体を捕まえられたとしても、私たちの魂を捕まえることはできない。牢獄に押し込めることなどできない。それだけは絶対にできない」 

「お前はそんなこと信じちゃいない。信じていたら、そんなこと俺に向かって力説なんかしない。お前は信じているんじゃない。信じたがっているんだ。信じてないと自分自身が壊れてしまうからだ。俺にはそれがよく分る。今の俺には・・・」
「力説しているのは、あなたの方です。信じたがっているのも、あなたの方じゃないんですか?やっぱり、あなたに会いにきたのは間違いでした。無知蒙昧なこの私に、初めて道を示してくれたあなたを尊敬していたのですが、残念です」

道を諭そうとする元信者の、抜け殻のような表現力。

それは、この役を演じる俳優が、自ら放つ極めつけに定番的な台詞を内化できないで、まるで、与えられた国語の本を棒読みするだけの空洞感に翻弄されているようだった。



6  下手糞なシナリオによる、下手糞なコミック



妹の行き先を知った二人は、元信者たちに別れを告げた。

元信者のリーダーは、光一に餞別の言葉を述べた。

「光一、お前にとって、ニルヴァーナとは何だったんだ?・・・俺にとって、ニルヴァーナは夢だった。未来だった。俺はニルヴァーナで修行することで、自分を完膚なきまでに作り変えて、いつか世界そのものを変えることができると信じていた。

だけど、それは大きな間違いだった。ニルヴァーナもまた、一つの現実。この現実そっくりの、もう一つの現実に過ぎなかった・・・・

光一、お前は神の子じゃない。ニルヴァーナの子でもない。光一、お前はお前だ、お前自身だ。それ以外の何者でもない。だから、お前は、お前自身が何者であるのか、お前自身で決めなくちゃならない。それはもしかしたら、とても辛いことかも知れない。自分が自分でしかないことに耐えられなくなるかも知れない。

だが光一、その重荷に潰されるな。俺が俺でしかないように、お前がお前でしかないことに、絶対に負けるな」

この台詞が、勝ち誇ったように登場したときは、正直、驚愕した。あまりに直接的な表現によって飛び出てきたので驚いたのである。

普通、映像でメッセージを伝えるとき、何らかのメタファーによって表現されるから、そこに芸術的完成度が検証されるのである。それが、恐らく、作り手が最も言いたいと想像されるメッセージを、そこに何の修飾的な技巧を介することなく、ダイレクトに立ち上げてきたのである。

例えば、人が人を恋するとき、その恋する思いを表現する際に、恋することの辛さと重さをずっしりと経験してきた時間の分量だけ、その愛の表現は、その愛の語り手の最も吐き出したい思いを、寡黙な表現を補って余りある表情の切実なる変化の内に、感情を乗せて相手に届ける、などという裏技を表出して見せたりするであろう。

その辺りの繊細な時間の流れの中で表現されたものが映像化されるから、観る者はそこに共感し、しばしば深い感銘を覚えたりするのである。表現の完成度は、したたかな技巧に支えられることによって、より輝きを増すのだ。

そのような表現的技巧を削り取ってしまったら、「お前はお前だ、お前自身だ」ということのみを伝えたい一篇の映画の中に、一体何が残るのか。

そこだけが空回りし、児戯的な弁舌のそのあまりの軽量感だけが、ナルシズムの世界で踊っているばかりとなる。反応の意思を打ち砕いてしまうような、このお粗末さに言葉を失う。

これはもう、映像作品ではない。三流のテレビドラマの次元を越えられることのない、観る者が赤面するような下手糞なシナリオによる、下手糞なコミックでしかない。この描写で、もう私は完全に気力が萎えてしまった。



7  「聖なる十字軍」の勇ましい進軍



めげずに、物語を追っていこう。

光一と由希は、餞別でもらった金で、郊外の食堂で外食をしていた。

二人の表情には、満足げな感情が自然に零れていた。しかし、食堂のテレビのニュースが、二人の表情から、一瞬にして笑顔を奪い取ってしまったのである。

そこで伝えられた情報の中身は、あまりに衝撃的過ぎた。ニルヴァーナの逃亡犯の集団自殺の報が伝えられている中に、光一の母、道子の写真が含まれていたからだ。

光一は理性を失って、食堂のテレビを破壊した後、当てもなく雨中の街路を疾走する。

それを追う由希。少年は号泣している。ドライバーを手に、自殺を図ろうとしているのだ。その少年に、同年齢の少女は言い放った。

「お母さん、死んだくらいで何や。あんたが死んだら、あんたの妹はどうなる。あんたを待ってる妹はどうなる」

少女は、ここでは慈母観音になっていた。

「ウチがあんたの妹、連れてきたる。連れて来られへんかったら、ウチがあんたと一緒に死んだるわ」

少女は、少年からドライバーをもぎ取って、一人激しい雨の中を進軍する。

この進軍を、叙情的な旋律が追い駆けていく。「銀色の道」である。


遠い遠い はるかな道は
冬の嵐が 吹いてるが
谷間の春は 花が咲いてる
ひとりひとり 今日もひとり
銀色の はるかな道

ひとりひとり はるかな道は
つらいだろうが 頑張ろう
苦しい坂も 止まればさがる
続く続く 明日(あした)も続く
銀色の はるかな道

(塚田茂作詞・宮川泰作曲)


「聖なる十字軍」の勇ましい進軍
由希の「聖なる十字軍」の勇ましい進軍が始まった。

全身を濡らした12歳のジャンヌ・ダルクは、右手にドライバーを握って、まるでそれは、かつてのヤクザ映画のヒーローだった高倉健や鶴田浩二の殴り込みを髣髴(ほうふつ)させる、凛とした表情を画面一杯に広げていて、そこだけは開けた林の中の道を颯爽と進んでいく。

BGMは、由希の母が入浴中に歌っていたダーク・ダックスの懐メロソング。

討ち入りのシーンにはこの歌も悪くないな、と思わせる大音響の内に、このドラマの「十字軍性」が、過剰な情感に乗せられて駆け抜けていくのだ。草むらに泣き伏す少年だけが、まだこの十字軍に加われないでいた。

この描写にまで映像が進んできたとき、私は初めて了解できた。

敢えて独断的に言ってしまえば、作り手は、この討ち入りのシーンをこそ描きたかったのであるということを。

そのために、「銀色の道」を映像の基幹メロディにしたということを。

そして、このシーンによって、観る者はカタストロフィを手に入れて、遍(あまね)く感動するという計算に入れたであろうことを。恐らく、多くの観客は、このシーン一つで、「カナリア」に感動した思いをずっと持ち続けていくであろうことを。

フラットに言えば、映画的感動とはそういうものなのだ。

何か忘れ難いような刺激的なワンシーンのみで、一時(いっとき)、人の心を掴んで放さない魔性の力学と呼べるような何かを持ち得るのが、良くも悪くも、「総合芸術としての映画」であることを、私は経験的に嫌というほど知り尽くしているつもりだ。



8  リトル・ブッダを登場させる能天気さ



この愚かなる物語を、もう少しフォローしていこう。

12歳のジャンヌ・ダルクは、光一の祖父の家を訪ねた。

「誰だね?」と祖父。
「朝子ちゃん、光一の所に連れて行く。さもないとウチ、光一と一緒に死ななあかん」
「そうか、光一はまだ無事なんだな。名前は?」
「由希」
「年は?」
「12」
「道子は12歳で泳げるようになった。婆さんと海に連れて行って、怖がりだったから随分と叱った。でも泳げるようになった」
「光一の母(かあ)のことか?」
「今朝、道子から電話があった。あいつは、光一を出して、そこにいるんでしょ、と言う。俺は、光一の引き取りは拒否したと言った。あいつは暫く黙りこくってから、小さな声で言った。私はお父さんの魂を救うことはできなかった。それだけ言って、あいつは死にやがった。光一に朝子は渡せない!」
「何でや?」
「俺は、朝子と一緒にやり直す。俺は朝子では失敗しない、二度と同じ失敗はしない」
「何言うとんねん。光一と朝子ちゃんを別れ別れにして、今更、何言うとんねん。それだけでも大失敗やないか!」
「光一と道子は同類だ。それじゃあ、上手くいかないいんだ」
「何よそれ・・・・そんなん、理由になるかい!何でそうなん。子供はな、子供は親を選べへんのや!親は子供を選べるんか!・・・ウチ、今はっきりと分った。あんた、ウチのお父(と)んと同じや。人間の屑や!」

感情を極限まで昂らせた由希は、右手に握っていたドライバーを振り上げた。

そのとき、後方からもう一つの右手が入り込んで来て、少女の右手を強く握り上げた。少女が振り返ると、そこには白髪(金髪?)化した光一が、まるで悟り切った菩薩のような表情で聳(そび)え立っていたのだ。

少年は、少女から奪ったドライバーを床に突き刺して、少年を見て驚く祖父に、一言言い放った。

「我はすべてを許す者なり」

リトル・ブッダと化した少年は、階段に立っていた、妹朝子を抱きしめた。そして、呆然と立ち竦む観音菩薩のような少女を招いて、その手を握ったのである。

三人の子供は新しい十字軍を結成して、雄々しく未来に羽ばたいていったというわけだ。

「どうするん?これから」と観音菩薩。
「生きてく」とリトル・ブッダ。

これが、圧倒的に偽善的で、お子様教の映像の継承者が作った丸ごと漫画的な、100パーセントの情緒で溢れ返った映像の括りとなった。

正直言って、リトル・ブッダが登場し、かの未来の「大人物」が放った一言に、思わず吹き出してしまった。

人生の本当の苦労を知らない12歳の少年に、「我はすべてを赦す者なり」と言われる老人も哀れだが、それ以上に、このような馬鹿馬鹿しい台詞でドラマを括る作り手の能天気さに呆れるばかりだった。

「黄泉がえり」より
これほどズブズブのナルシズムで鈍走した「映像表現者」の、その「表現性」のお粗末さに虫酸が走るほどの厭悪(えんお)感を覚えたのは、「黄泉がえり」以来だった。

そう言えば、この「黄泉がえり」も塩田何某の作品だったことを、苦々しく思い出す。これらは、私から言わせれば、16ページ程の読切りコミック以外の何ものでもなかったのである。


*        *        *        *



9  映像的表現力の圧倒的な欠落感



子供が、大人または大人社会によって、自分の意思とは無縁な辺りで遺棄されるような苛烈な環境に置かれていて、その子供の現在的なキャパシティを遥かに越える適応を、彼らを囲繞する環境から強いられたとき、その子供が自分を理不尽な状況下に置かれた現実を、邪悪、且つ否定的な感覚で、その幼い自我の内に把握することによって、その子供が、これまでの負性の関係史を反転攻勢させる意志に繋げる薄明の文脈を身体化するということ。

それは、幼い自我の明瞭な大人、または大人社会への異議申し立てであり、しばしば、激越な行動を随伴することで、一見、「子供VS.大人・大人社会」という短絡的な関係構図の内に、「聖なる子供十字軍」の進軍が発動されて、画面一杯に、その高らかな雄叫びや浮薄なアジテーションが、多分に感傷含みで刻まれていくであろう。

私は大枠に於いて、件の溢れ返るような映像表現の類の作品を、「聖なる子供十字軍」の殆ど遊戯的なコミック映像群と呼んでいる。例を挙げれば限りがないから省略するが、近年、この類の映像群が巷に氾濫していることに深く嘆息している。

そんな映像群の一つである本作を最後まで我慢して観て、どうしても幾つかの点について言及せずにはいられなかった。その辺を書いていく。

まず、このようなテーマを持つ作品を世に放つとき、無視し難い視座があることを指摘したい。

即ち、苛酷な環境下に置かれた子供が、その負性なる環境の縛りを突き破り、その邪悪なる世界と何某かの対決を身体化するとき、そこで表現された身体的、理念的ラインの内には不可避なる制約があるということだ。

その映像をファンタジーや、重厚な形而上学、純粋コミックの世界に流そうとせず、少なくとも、作品の骨格からリアリズムを意図的に削ろうとしないならば、どうしても、その作品には不可避なる制約が付きまとってしまうのである。

それは、例えば12歳の子供なら、その子供の自我の様態の現在性という絶対的制約がある。

つまり、その子供の自我が抱える情報、経験、感性の総体の内側からのみ、その子供の表現の全てが吐き出されてくる限り、そこで吐き出された表現には、経験的に社会化された重量感が当然ながら欠落することになる。

本作の少年が、ラストシーンに於いて、「我は全てを許す者なり」と、恰も、状況を俯瞰した者の視座で言い放つとき、果たしてそこに、この少年のメッセージに仮託された作り手の思いがどれほど具象化されているのだろうか。

もし作り手が、この少年のメッセージに存分な思いを仮託したとすれば、そのメッセージの重量感の欠落が、映像表現の重量感の欠落を検証するものにはならないのか。

或いは、少年のメッセージが、なお洗脳された内的状況下の表現の範疇で捉えるならば、母の死によって金髪化したコミック的エピソードの流れの内に、「ニルヴァーナの子」としての思春期を、なお快走し続けねばならないことになる。

だとすれば、これは一篇の読み切りコミックと全く変わらない、言わば、映像上の遊戯であったと見られても仕方ない究極の愚作になるだろう。

考えても見よう。

真の意味での人生の絶望と、辛酸を通過してきた中で形成した社会的自我とは無縁に、単に、「歪んだ自我」を洗脳によって形成されてきたに過ぎない偏頗(へんぱ)な自我が、唐突に、トラウマになるような異常な経験をしたことによって、達観した者のような人生訓を垂れるときの、その重量感の欠落をどう評価すべきなのか。

或いは、「子供の自我の社会化の未成熟」を無視して、例えば、テオ・アンゲロプロスの「霧の中の風景」のように、そこに形而上学的なメッセージを仮託するムービーならそれもいい。私も嫌いではない。

思うに、本作がそのようなムービー・カテゴリーの内側で勝負を挑んだ作品であることを仮定しても、残念ながら、表現それ自身が内包する、固有の力感を決定的に欠如してしまっていたことは否めないのだ。

作品に全く力がないからだ。それは、映像的表現力の圧倒的な欠落感であると言ってもいいだろう。

一応そこに、物語のモデルとなった陰惨な事件があり、この事件に絡んだ者たちの後日談の一環として、児童相談所を脱走して、妹を奪回する少年少女の物語性としての骨格が中枢に座っていて、そこから基本的に逸脱しないラインで、物語をまとめ上げていくというオーソドックスな手法の中に、余分なものが不必要なまでに侵入してしまったり、または、その表現にあまりに稚拙なものが流れ込んでしまったりして、それが表現作品の完成度を著しく貶めてしまっていたのである。



10  「感動」を意識した映画の無残さ



その余分なるものの最悪のファクターは、溢れんばかりの過剰な感傷である。

その例は限りないが、最も暑苦しい描写の典型と言えるものは、ラスト近くの由希の「進軍」のシーンだった。

そこに美少女がいて、その右手には、十字軍の剣を意味するドライバーが握られている。

そして外は雨。それも雷雨である。

その雷雨に全身を打たれてもなお、ジャンヌ・ダルクはその進軍を止めないでいる。

その聖少女の凛とした表情が画面一杯に映し出されて、そこに「銀色の道」という人生讃歌の叙情的旋律が被さっていく。

そして後方には、雷雨に打たれた小さな体を草むらに埋める、もう一人の聖なる戦士が号泣していた。

その戦士が、最後の「勝負を賭けた場面」で、映像に加わってくる時間の全てを聖少女は仕切っていて、老人相手に、人生の何たるかをアジテートしてくれるのである。

それはもう、殆ど作り手のナルシズムの、抑制の効かないズブズブの表出としか言いようがなかったのである。

なぜいつも、過剰なる映画作家は、「豪雨の中の悲嘆や進軍」という紋切り型の描写に流れ込んでいってしまうのか。

私は成瀬巳喜男の「秋立ちぬ」のような「子供残酷物語」を基準にして、常に、この類の作品を比較してしまうことがある。

成瀬の子供は、そのあまりに辛い青春前期の時間を、秋立つ風をその身に受けながら、都会のデパートの屋上で、ひたすら濁り切った東京湾の風景を眺めているだけだった。それだけだった。

少年の辛さに寄り添うような豪雨など、この作品には全く無用であった。

それでも、観る者は深々と少年の内側に侵入できて、少なからぬ共感感情を覚えたのである。

秋立ちぬ」より
成瀬はピーカン(直射日光差し込んでくる快晴状態)の炎天下で、そこに表現的装飾のサポートを全く受けることなく、一級の子供映画を作り上げたのである。

ところが、近年の映画作家たちの表現的装飾のその過剰さは、殆ど留まることを知らない。

その狙いは明瞭だ。

「泣かせる映画」が、今や儲かる映画の定番だからである。だから、ナルシズムの抜け切れない多くの映画作家たちは、以上のビジネスラインに自分たちのメンタリティが丸ごと搦め捕られてしまって、明らかに、「感動」を意識した映画を作ることを止められないのである。



11  作り手のナルシズムが極まったとき



次に指摘したいのは、表現の内に流れ込んだ稚拙なる描写について。

それらの例も限りないが、一番気になるところから指摘すれば、人物造型の極端な類型化である。

元信者は、如何にも元信者らしい言動を繰り返し、その表情も、それ以外にないというような、紋切り型の演技を繋いでいく者の思いを逸脱できないのだ。

とりわけ、光一との別れに、餞別として語る者の描写の稚拙さは、まるで、どこかの安物の文学作品を棒読みしたようなお粗末振り。或いは、気取った漫画の台詞を写し取ったような無垢なる直接性。これはパロディなのか、と思った程だった。

また、由希の心を癒す盲目の老婆のキャラクターは、まさに、穏やかなりし完璧な善人の典型であったし、二人が立ち向かう祖父のキャラクターは、孫を平気で選別する頑な偏見居士として描かれていて、そこに善悪二元論が綺麗に貫流しているのだ。

或いは、レズカップルの女たちは、そのレズの生態をわざわざ子供に見せることによってのみ、その関係のレズ性を描き出す。

こんな描写がなくても、微妙な台詞の交叉で、そのレズ的関係を表現できるのに、作り手は安直にも彼女たちの生態を描くことで、その関係の特殊性を身体化したのである。この直接主義は、殆ど漫画と言っていい。

そして何よりも、光一と由希のキャラクター造型。

それぞれ、リトル・ブッダとジャンヌ・ダルクに辿り着くまでの精神遍歴を典型的になぞっているように思われる。

援助交際のしくじりで手錠をかけられた少女と、ヘッドギアを投げ捨てて児童相談所を脱出し、疾走する少年。

それぞれが共有する時間の内に、醜悪な大人の醜悪な振舞いが侵入してきて、そしてこの映像の最後に、十字軍の進軍を完結させる、全く重量感のない決め台詞が待っていた。

作り手のナルシズムは、ここに極まったのである。

聖なる戦士に生まれ変わった少年と少女は、自らの意志と身体で、未来の時間を切り開く未知なる旅に打って出たのだ。

作り手の人物造型の安直な流れ方は、恐らく、作り手の内側に溢れ返っている甘美で、フラットな人生観を投影したものに他ならないと想像してしまうのである。



12  「描写のリアリズム」の剥落、そして「超人の物語」の愚昧



表現の稚拙性を検証するものとして次に指摘したい点は、「描写のリアリズム」の剥落という問題である。

無論私は、本作が厳格なリアリズムで勝負した作品であるとは思わない。

例えば、本作が信じ難い偶然や奇跡、天上なる世界との愚かなクロスやスーパー・ヒーローの超人的な完走などという、「何でもあり」の非限定のカテゴリーとは一線を画す、一種の人間ドラマとして表現されていたであろうことを認めるのは吝(やぶさ)かではない。

しかし、それにしても、「展開のリアリズム」に多少の創作的な自在性を持たせつつも、「描写のリアリズム」という点については、シリアスドラマ(例えば、アンゲロプロス監督のような、多くのメタファーを含む形而上学的映像ではない、単なるメッセージ映画のこと)を手がける者の最低限の約束事と言っていいはずだ。

因みに、「展開のリアリズム」とは、ストーリー展開上のリアリズムである。三流のホラーやホラー作品やドタバタコメディなどは、この制約から完全に自由になっているからこそ、霊界と俗界を往還可能になるストーリーを操作できるのである。

ハリウッドの多くの娯楽作品は、この「展開のリアリズム」を蹴飛ばしてしまっているが故に、そこに、「夢」や「カタルシス」の存分な保障を手に入れられると言っていい。

しかしそんなハリウッド作品も、さすがに「描写のリアリズム」については、一定の配慮を怠らない。寧ろ、この配慮があるからこそ、三流の娯楽ムービーを、それらしいメッセージ映画に仕立て上げているという狡猾さが見られるのである。

映像の主要な場面では、随所に「描写のリアリズム」で固め上げていくことで、それらしい見せかけの完成度をカモフラージュできる訳だ。

このように「描写のリアリズム」とは、場面状況での心理的、物理的リアリティの表現性のことであって、これを無視したらホラームービーの恐怖感の醸成や、「寅さん映画」のペーソスと笑いも吹っ飛んでしまうような、表現上の由々しき約束事であると言える。

この最低限の約束事すらも蹴飛ばしてしまうと、映像の完成度は、間違いなく根柢から揺らぐことになる。

即ち、作品を観る者が、そこに作り手の恣意的な悪戯や遊びを導入させる必要のない、通常の場面状況の設定下で、「こんな場面はあり得ないだろう」とか、「普通ここで、こんなことは言わないだろう」などと素朴に感じてしまったら、どうしようもなくシラケてしまうに違いない。

観る者にシラケられてしまったら、映像の生命力はその時点で断たれてしまうことになる。「描写のリアリズム」は、かくも映像の生命力を決定付ける役割を果たしているのである。


――「カナリア」を例にとって考えて見る。

まず、映像の中での由希の台詞を、二つだけ引用してみる。

「ウチは、あの車で略取誘拐されるとこやったんや」

これは、児童相談所から脱走したことを指摘された光一が由希を押し倒したときに、由希が弁明で放った台詞である。これが12歳の少女が、身の危険を一瞬感じたときに、相手の少年に咄嗟に放った言葉。

「略取誘拐」という専門用語が簡単に飛び出て来てしまうとき、既に少女の視線の内に、殆ど大人のそれと変わらないイメージが形成されていることを意味している。

これは明らかに、「ませた子供なら、それ位の情報は当然持っている」という了解ラインを超えている。

なぜなら、この少女は以降の展開に於いて、ふんだんに、このレベルの言動を駆使していくからである。

大人が書いた理念系の文脈を台詞化して、それを僅か12歳の子供の脆弱な自我に侵入することで、表現仮託する手法が見え透いているが、そこに一欠片(ひとかけら)の衒(てら)いをも削ることなく流れ込んでいく変種のナルシズムは、以下の例で際立つことになる。

その、もう一つの台詞の事例。

「あかん!こずえさん、ホンマどっか行ってしまう・・・ウチが連れ戻して来る」

これは、前日知り合ったばかりのレズカップルの一人が仲違いして、彼女がパートナーから離れていくときに、由希がそのパートナーに思い切り感情を込めて放った台詞。

この子はどこまで大人なのだ。

僅か12歳の少女に自我の内に、大人の関係の繊細さを機敏に察知し、それを修復しようと図る、殆ど成人的な表現力が生まれてしまうことの馬鹿馬鹿しさ。

こんなしっかりした子だったら、そのまま一人で立派に社会的な自立を果たしてしまうだろう。

要するに、この子は、「聖なる子ども十字軍」の代表的戦士なのである。

この子から説教されて、何も反応できない大人の女たちが余りに情けない。しかも、その後に残った女の肩に、光一が優しく手を添えて慰めるのだ。

そうか、この子も「聖なる子供十字軍」の、もう一方の戦士だったのだ。そんなことを言いたいのか。

呆れるばかりのシナリオの愚かしさ。こんな描写が山ほどあるから、最後までこの作品と付き合うのは、私にとって、相当根気の要る作業だった。

他にも、「描写のリアリズム」の剥落の事例がある。

母子三人が「ニルヴァーナ」に出家入信した際の、光一の相貌が脱走時のそれと殆ど全く変わらず、しかも体の小さい小学生なのに、既に声変わりを果たしている。

出家時から児童相談所を脱走するまでに数年間の時間が経過しているという現実が、完全に黙殺されているのである。

男児の思春期が、その身体変容の劇的な展開の中で、内側に向かって表出されるということ ―- それは児童保健医学の常識なのだ。それ以上、私は語り得る言葉を持たない。

更に、プロットの言及の際に先述したが、観ていて恥ずかしくなる描写の極めつけは、援助交際相手の男の車に同乗した由希を救うために、その車を追走する光一のスーパーマン振り。

この漫画のような映画を観ていて理解できたが、光一という少年はカール・ルイスのスピードで、2.3キロメートル程も走り抜ける脚力を持つ超人であったということである。

これは、超人の物語でもあったのだ。

なぜなら、光一はこの二日間殆ど何も食べていなくて、しかも、夜中じゅう町を彷徨していた様子が窺えるのだ。

もし、彼らがどこかで睡眠をとっていたら、そこにワンカット必要な描写が求められるところだが、それもなかったので、二人の行動を疲労困憊した心身の継続性に於いて把握するしかないのである。

スーパーマンでない限り、そんな状態の12歳の少年が、車と殆ど変わらないスピードで、短くない距離を走り抜けるのは不可能というより他はない。これはもう、コミック以外の何ものでもなかったということだ。

こんな事例をくどくど書き連ねても疲れるだけだから、殆ど全否定に近いこの酷評文を続けるのは止めにする。

以上の雑文によって、一応、私の中でマグマのように噴き溜まっていた感情を吐き出す作業には、もう根気が持たなくなってきた。

大抵人間は、その感情に一応の理屈を張り付けて吐瀉(としゃ)してしまえば、少しは楽になるからだ。私の吐瀉も必要性がなくなってきたらしい。だからこれで、本作についての言及は擱筆(かくひつ)することにする。

塩田明彦監督
しかし、その前に一言。

「黄泉がえり」のような愚にもつかない擬似ファンタジーを作るような男に、所詮、この類のシリアスドラマは手に負えないということである。

「黄泉がえり」については、それに言及するほどのマグマの噴き溜まりすら起させてくれなかったことを、敢えて言い添えておく。

そこには、多分に刺激的な劇薬すら含まれていなかったということに尽きる。

こんな作品を観て感涙に咽(むせ)ぶ人たちの、「感動」へのその貪欲なまでの渇望感が、切なく思えて仕方がなかったと言ったら言い過ぎか。

(2006年5月)

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