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2008年11月29日土曜日

ケス('69)       ケン・ローチ


 <炸裂と埋葬 ―― 思春期彷徨の果てに>



1  「英国病」と階級社会



「英国病」という言葉がある。

サッチャー改革によってその言葉が死語になったという者もいるし、NHS(国民保健サービス)制度改革の問題に集約される、「低医療費政策による医療の質の低下」によって、今もその「病気」が治っていないと言う者もいる。

少なくとも、労働党のブレア政権下の、10年間に及ぶ「第三の道」(脱労働的な市場原理を導入した政策)の路線によって、安定した経済成長を具現した実績は否定し難いであろう。

しかしこの国に、「英国病」という言葉によってしか説明できない時代が存在したことは歴史的事実である。

―― 以下、「英国病」と呼ばれた時代に脈絡する問題について言及してみたい。(と言っても、多くは、それについて書かれた簡潔な文章を引用させてもらうのだが)


「英国病」を一言で言えば、1960年代後半に典型的に顕在化した長期的な経済的停滞の状態ということだろうか。しかし、それを揶揄(やゆ)を込めて、「労働意欲がなく、向上心に乏しい根深い国民性」という文化的意味合いで説明する向きもある。

果たしてどうなのか。

「ウィキペディア」の説明は、以下の通りである。

「18世紀の産業革命以降、近代において世界経済をリードする工業国で、造船や航空機製造などの重工業から金融業やエンターテイメント産業に至るまで、様々な産業が盛んである。しかしながら、19世紀後半からはアメリカ合衆国、ドイツの工業化により世界的優位は失われた。

第二次世界大戦によって国内が荒廃すると国力は衰え始め、各地の植民地をほとんど独立させた1960年代後半には経済力はいっそう衰退した。一方で政権を握った左派の労働党は『ゆりかごから墓場まで』と呼ばれる公共福祉の改善に力を入れ、国家予算を大胆に福祉に投入したため、1970年代には世界有数の福祉国家になった。

しかし、景気回復になんら実用的な手立てを打たなかったために、継続的な不況に陥り、企業の倒産やストが相次いだ。その様は『英国病』とまで呼ばれる始末であった」(ウィキペディア・「イギリスの歴史」より)

この辞典による説明は、あまりに簡潔すぎる。

労働党創設者のケア・ハーディ(ウイキ)
それでも、「英国病」というものが多くの人の視野に入ってきたのは、第二次世界大戦後のこの国の経済社会史的事情と関係するらしいことだけは把握できる。「英国病」が、この国の経済政策の不安定に起因するという指摘の多くは、この国の政治が、保守党と労働党という二大政党間の、その産業国有化政策の基本的矛盾に求めている。

それについて言及した一文がある。

「世界中の人が羨ましがった福祉の先進国イギリスが老大国になり下がった原因の一つは産業の国有化にあります。つまり、戦後の労働党政権の政策によって主な産業が国営企業の独占にされたために、競争が十分行われず、設備の近代化が遅れました。その結果、イギリスは国際競争力を失って、貿易収支は大幅赤字になり、ポンドは切り下がり、国民一人当りの所得は主要先進国の中で年々順位を下げて、ドンジリになってしまったわけです。

産業国有化政策について説明します。この政策を推進した労働党は社会主義政党でしたから、重要産業の国有化はかねてから主張していた政策で、労働党が政権を取った1945年から1951年の間に行われた電力、ガス、鉄道、道路輸送の国有化は、いわば当然の政策として、さしたる抵抗なしに実施されました。

しかし、1951年の鉄鋼業国有化は激しい対立を引き起こしました。鉄鋼業は利益を上げており、競争力もあったからです。このため、鉄鋼企業107社が国有化されたものの、所有権が国に移っただけで、実質的な経営は民営時代のままでした。

そして1951年10月の選挙で保守党が政権を奪い返すと、国有化が解除されることになり、1953年に民営へ戻されました。しかし、1964年に労働党が政権を取ると、1967年から再び国有化されました。また、自動車産業も1975年の労働党政権下で国有化されました。

1951年から1964年、1970年から1974年の期間は保守党が政権を担当しました。保守党は福祉政策に関しては労働党の政策を踏襲しましたが、国有化政策には基本的に反対で、鉄鋼など一部の産業は民営化されました。しかし、この頃までの保守党は労働組合との対決を恐れて、抜本的な改革を行いませんでした。

ビジネス、文化、政治の中心・ロンドン(ウイキ)
イギリス産業の多くは1950年代から70年代の間に国際競争力を失いました。国有化産業は赤字になれば国が税金で補填しますから、経営改善努力が不十分になります。

製品は値段が高く品質が悪くても、他の国有化産業が買ってくれますから、設備を近代化して海外市場へ打って出ようという気持ちは失われます。ちょうどソ連の産業が資本主義国と競争しない間に大幅に遅れてしまったのと同じ現象が、イギリスの国有化産業にも起こりました」(生き生きフォーラムHP・「戦後イギリスの経済政策」より/筆者段落構成)

労働党政権下の福祉政策に関係する指摘も重要なので、同じ文献から引用させていただく。

「戦後の福祉政策の基礎になったものは1942年に発表された『ベヴァレッジ報告』です。ベヴァレッジ報告の要点は国民全員に最低限の生活水準(National Minimum)を保障することと、その財源を労働者と使用者の負担する保険料によって賄うことです。国民は保険料を負担するかわりに、収入の中断―疾病、失業、退職―が生じたときには期間の制限なく均一の手当てが支給されます。

それまでは政府から何らかの支給を受けるには収入と資産の証明(means test)が必要でしたが、ベヴァレッジ報告はたとえ金持ちであっても無条件に手当てを受給できることにしました。つまり、ミーンズ・テスト(所得と財産保有の状況等の調査のことで、生活保護給付の際に行われる)という恥辱(stigma)を通過する必要がありませんので、イギリス国民はこの報告を大歓迎し、ベヴァレッジ卿は当時の首相であるチャーチルに次いで人気のある人物になりました。

現在、主な先進国はどこも退職年金や失業手当てなどの支給にあたってミーンズ・テストを実施しませんが、その考え方はベヴァレッジ報告から来ています。ベヴァレッジ報告にはその他に税負担による家族手当(児童手当)も含まれていました。

ただ、当時イギリスは戦争中でしたから、ベヴァレッジ・プランの全項目実施には時間がかかりました。チャーチルが福祉の拡大に消極的だったこともあります。

クレメント・アトリー(ウイキ)

しかし、1945年の総選挙でチャーチルの保守党が敗れて労働党のアトリーが政権を取ってから、ベヴァレッジ・プランの内容が次々と実施されました。

1948年7月5日に、国民全員が無料で医療を受けられる国民保健サービス(National Health Service)が実施され、同じ日に退職年金と失業保険を運営する国民保険法と貧困者を対象とする国民扶助法が施行されましたが、その前夜、アトリー首相はラジオを通じて、翌日から『福祉国家』が正式にスタートすることを国民に告げました。ここに『揺りかごから墓場まで』といわれる社会福祉体制が完成したわけです」(同上)

因みに、「揺りかごから墓場まで」というあまりに有名な言葉とは裏腹に、その福祉政策の過剰な悪例の代表的なものは、この国の医療政策であると言われる。

冒頭に触れたように、NHSがそれに当る。

これは1948年から実施されている、医療費原則無料の国営医療保険制度のこと。

しかしその実態は、GPと呼ばれる一般開業医にまず予約を入れて、数日かかって簡単な問診を受けた後、今度は専門医に見てもらうまでの間に数ヶ月間要するケースも、間々あると言われる。

NHSを利用できる歯科医が見つからないため、「自宅歯科」と呼ばれて、自らペンチを使って自分の歯を抜く人や、全く歯科にかかってないという人が存在する現実もある。だからイギリスの金持ちなどは、高額負担を覚悟で特定の専門医に診療を受けているということ。

低医療費の名で行われる医療の現実は、財政を逼迫させるのみならず、結果的に医療水準を下げているという厳しい評価がある。これもまた、一種の「英国病」の事例とも言えるものだ。

以上の指摘は、「英国病」の経済社会史的事情を裏打ちするものだが、それ以上に、この国に未だ根深く残る階級社会の矛盾を指摘する向きも多い。

次に、その階級社会の問題について触れる。

「その社会階級は『上流階級 (Upper Class)』『中産階級(Middle Class)』『労働者階級(Working Class)』の3つに大別される。

『上流階級』としては、まず、1066年のノルマン・コンクェストでイングランド王位に就いたウィリアム1世に随行してフランスから渡ってきた者たちなど、封建社会の中で領主であった中世貴族や、16世紀のヘンリー8世の時代に貴族に叙せられた新しい貴族たちの末裔たちがいる。いずれも身分は世襲制で、上院に議席権を持つ。

位階は上から、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の順である。上院に議席権は持つが世襲でなく、一代限りの貴族の称号は、その社会的功績に対して与えられる。ポールはこの例である。

また、世襲貴族に準ずる階級としては、いわゆる『ジェントリ』と呼ばれる大土地所有者がいる。また、18世紀以降、資本主義社会の発展の中で、貿易や、産業経営の中で財をなした資本家階級がいる。これらがイギリスの上流階級を形成する。

産業革命の推進に貢献したワットの改良蒸気機関(ウイキ)
それに対し、産業革命以降の経済的発展は、貴族や大地主ほどではないが、額に汗して油まみれで働く必要のない、中小企業経営者や、医者・弁護士などの上層ホワイトカラーに代表される中産階級を生んだ。この階級は上流階級とともに、政治的には主に保守党を支持し、その子弟をイートンやラグビーなどの名門パブリック・スクールから(優秀ならば)オックスフォード大学やケンブリッジ大学へ送り込むことのできる階級である。

上記の2つの階級に対し、ビートルズの4人(ジョージの家庭はかなり『中産階級的』ではあったが)は『労働者階級』の出身である。この労働者階級は、基本的に額に汗して働く以外の収入を持たず、時として(リンゴの家庭が好例であるが)スラムとも呼べるような地区に住み、劣悪な生活環境にも甘んじなければならなかった。

日本なら貧しい家庭の出身者でも、優秀でありさえすれば、一流大学へ進学し、国家官僚や医師や弁護士になる道が大きく開かれているが、イギリスでは、各階級は極めて閉鎖的であり、階級間の移動は非常に少ない。したがって、労働者階級の若者にとっては、将来は決して明るいものではなく、一旗揚げようと思えば、かつてならインドなどの植民地へ渡り自らの運を試し、1960年代以降はギターを抱えてロックをやるしかないということになるのである」(HP・「ビートルズを100倍楽しむ方法-ビートルズと英国文化」より引用/筆者段落構成)

1960年代後半は、「英国病」の「症状」が際立った時期だった。

5月革命
同時にそれは、ベトナム戦争や中国の文化大革命、更にフランスの5月革命、日本の安保闘争に代表される、世界的なステージでの若者たちの様々なレジスタンスが噴き上がった時代でもあった。

イギリスもまた例外ではなかった。

音楽シーンに風穴を開けたビートルズの出現は母国文化の枠組みを越えて、同時代の若者たちに多大な影響力を与えたことは言うまでもない。

では彼らの音楽は、母国の階級社会の風穴を開ける突破力にはなったのか。

否である。

イギリスの階級社会の壁は、イギリス人の見えない心の鎖のように継続的に根を張っていたのである。

サッチャリズムの推進者・マーガレット・サッチャー
因みに、1960年代に教育改革の目玉となったコンプリヘンシブ・スクール(総合的中等学校)化運動も、政権の交代によってその定着的確立に絶えず揺れ戻しがあったことを考えれば、その陰に潜む階級社会の見えない影響力が空気を支配していると言わざるを得ないのだ。

かくも複雑で、その総体を把握しにくいものが、イギリスという国には存在するのである。



2  粗雑なプロパガンダ性を越えた、優れた人間ドラマの一篇



「ケス」という極めて印象深い映画は、この60年代の終りに公開された。

そこで描かれている世界に近づくためには、どうしても、イギリスという国が固有に抱えた様々な問題を、その背景に於いて理解する必要がある。

なぜならそこには、私と主義主張が異なりながらも、「英国病」の断層と言えるようなものが無造作に映し出されていて、脚本にも参画した映画の原作者(バリー・ハインズ)の階級社会へのシビアな視座が、この種の映画に多い粗雑なプロパガンダ性を越えた、優れた人間ドラマの一篇として再現されていたからだ。

この映画の舞台となったのは、北部イングランドの地方都市。

そこは、労働者階級に生まれた子弟は、この都市の重要な産業である石炭業に鉱夫として従事する以外に、その生活の術がない。

少なくとも、そこに住む者は、多かれ少なかれ、選択肢の少ないそんな未来観の内に、それぞれの自我と折り合いをつけて生きている。

だから彼らはそれ以外にない人生航路の中で、それなりのストレス解消の手立てを考えていて、そこに彼らなりの、まさに「分」に見合ったような幸福を紡いでいるようにも見える。

映像では、彼らの自己完結的なその世界に微妙な破綻が生じたときの緊張が淡々と描かれていて、それだけで充分に見応えのある作品になっていた。



3  映像の背景となったこの国の石炭産業



―― この作品のプロットのアウトラインに言及する前に、映像の背景となったこの国の石炭産業について簡単に触れておく。

ブログより転載
「およそ石炭業ほど、イギリス社会の経済的発展と深くかかわりをもち、さらに社会史、政治史のうでも幾度かの震源地となった産業は、ほかになかった。本書においてもこれまで1926年のゼネスト、46年の石炭業国有化、47年の燃料危機などの事象を取り上げてきたが、その後もエネルギー資源のひとつとしての石炭の相対的比重の消長とともに、84-85年の史上最長のストライキを頂点とする炭鉱労働者の激しい闘争が、全国石炭庁(NCB)とこれを監督する政府当局を相手に繰り広げられるのである。

結局のところ、戦間期以来炭鉱労働者が苦情を抱きつづけた賃金その他労働条件上の諸問題は国有化以後にもちこされ、その抜本的解決がなされぬまま、そしてさらに大幅な人員カットをこうむりながら、石炭業は今日なおイギリスのエネルギー資源のなかで相当の部分を分担し、いわば老体を駆って産業界に貢献しつつあるのである」(「イギリス現代史」松浦高嶺著 山川出版社刊/筆者段落構成)

本書によれば、1950年代までは石炭が90%台の水準でほぼ独占的な地位を占めていたが、60年代から70年代にかけて石油が石炭に代わって首位を占めるほどの急増ぶりを示し、新旧エネルギー源の交代が生じたかに見えた。

ところが、1973年の石油危機で輸入原油価格が急騰した結果、それまでの閉山・合理化計画に代わって石炭増産計画が打ち出され、石油危機が石炭業に往時の繁栄の再現をもたらすかのように思われた。だが75年以降、北海石油の産出量が急上昇を遂げると事態は三転し、イギリスは石炭、石油、天然ガスという三大エネルギー資源による自給体制を実現していったのである。

かつて石炭産業で発展したウェールズのカーディフ

以上見てきたように、この国の石炭依存度が、日本とは比較にならないくらいに重要な位置を占めていることが分るだろう。

「ケス」という作品は、まさにこんな社会経済的背景の中で、その印象深い映像を深々と映し出したのである。



4  「薄汚い豚」、そして崖の上の「ケストレル・タカ」



長々と背景説明に言及したが、この辺で映画の内容に入っていこう。


一台のベッドに、年の離れた二人の兄弟が眠っている。目覚まし時計で起きない兄を、弟は起こそうとする。しかし兄は起きようとしない。

「目覚ましを7時に」と弟は促す。
「自分でやれ」と兄は突き放す。
「勝手にしろ」と弟も突き放す。
「生意気だぞ」と兄は、恐らく、いつものように感情を剥き出しにする。
「僕に当たるなよ」と弟は、これも恐らくいつものように、感情を半ば抑えながら反応する。
「一緒に起きることになるさ」と兄は、弟もまた自分と同じ運命にあることをシニカルに告知する。
「ならない。炭鉱で働かない」と弟は、兄との運命を共有することをきっぱりと拒む。
「どこで働く?」と兄は、弟に対してより冷笑的に投げつける。
「炭鉱以外のところだ」と弟は、兄に対してより確信的に応える。
「無理だね。読み書きが下手だし、お前を雇う物好きはいない」

兄は、今まで何度も繰り返されてきたに違いない、自分の弟をバカにする態度をこの日も露わにして、慌てるように部屋を去った。炭鉱夫としての退屈な仕事を遂行するために、自宅を後にしたのである。

兄の名はジャド、弟の名はビリー。このビリーこそ、この映画の主人公である。

以上の痴話喧嘩のような兄弟の確執は、実は、この会話の中に映像の重大なテーマが既に内包されていて、やがてその重量感が観る者に把握されるに至る伏線になっていく。

これが映画のファーストシーンである。

兄に自転車を乗っていかれた弟は、ひたすら町を走る。走って走り抜いて着いた先は学校ではなく、少年がアルバイトに精を出す新聞配達所だった。

「休むかと思った」と店主。
「時間通りだよ」と少年ビリーは、さり気なく応える。

しかし、店主の反応は辛辣だった。

「・・・・新聞配達のなり手は大勢いるぞ。いい子たちばかりな」

この映画で初めて出てきた大人は、既にビリーのような下層の家庭に育った少年に対して、充分な偏見を持っていた。

「心配しないで」とビリー。
「・・・・雇うとき、言われたよ。あの付近の子は油断ならないから注意しろって」

店主の偏見的態度は、多分に、この町の大人の平均的な観念を代表しているかのような描写である。

「僕は大丈夫でしょ?」とビリー。

少年には既に大人の視線を計算し、それに合わせる術を心得ているのだ。

「眼を光らせているからだ」

店主の一言も、少年の計算を見透かしているかのような態度で括っていく。

ファーストシーンから繋がるこの描写に於いて、充分に映像のテーマが映し出されている。観る者はこの映画が相当に厳しいものであることを、この辺りで感じ取るだろう。

少年ビリーは新聞配達中、平気で牛乳配達の車からミルクを盗むような悪癖を身につけてしまっていて、この日もその日常に変化はなかった。

少年は、母と兄の三人暮らし。

父は妻子を捨てて、とうの昔に出奔している。

そんな関係からか、ビリーは自分の小遣い銭をアルバイトで稼ぎ出しているのである。

兄ジャドは炭鉱夫だが、恐らく、多くのこの年代の若者の意識と同じように、その仕事に満足していない。だから、ギャンブルで稼いだ泡銭(あぶくぜに)で炭鉱の仕事を何日休めるかなどと計算して、あまり希望のないフラットな日常生活を送っている。

そんな兄ジャドが、土曜日の夜、いつものように悪酔いして帰宅して来て、弟に自分のズボンを脱がせることを強要する。兄は弟のことを、愚図な使い走りのようにしか考えていないようだ。

弟は渋々、兄の命令に従うのみ。

この兄弟の関係には、既に権力的なものが形成されている。そんな兄とベッドを共にする弟に唯一の憂さ晴らしがあるとしたら、眠りに入った兄に向かって悪態をつくことである。

この日もビリーは、思い切り感情を込めて吐き出した。

「下品で薄汚い豚め、ロクデナシ野郎」

このような形でしか、体の小さい弟は反抗できないのだ。

そこには体格の違いの落差の大きさ以上に、感情関係の屈折も窺える。ビリーの非行は、明らかに、このような家庭環境が生み出したものだろう。

学校でも特定の親友がいないビリーは、その感情の空洞を埋めるような出会いを経験する。

修道院の敷地内で、崖の高みに鷹の巣があることを目撃し、ある日、その崖を上って、巣の中の雛を盗み出したのである。

「ケス」

これが、ビリーが鷹の雛に名づけた固有名詞である。

「ケストレル・タカ」。

チョウゲンボウのオス(ウイキ)
その和名は、私たちに馴染み深いチョウゲンボウのこと。

ここではこのケスのことを、翻訳の題名に忠実に従って鷹と称することにする。(因みに、映画の原作の翻訳名は、「鷹と少年」)

鷹の雛を盗み出したビリーは、それを育てていくことに情熱を傾けていく。

まず、調教法を学ぶために少年は図書館に行くが、保証人がいないという理由で本の借用を拒絶されてしまった。

思い余った少年は、鷹の調教を説明してある本を町の本屋で見つけて、それを万引きする。

この程度の非行は、少年にとって日常的であったに違いない。

眼の前に欲しいものがあり、それを買う金を持たなければ、或いは、その金を持っていたにしても、少年は日常的に万引きを重ねてきたのだろう。

そんな少年ビリーがその分厚い本を読み込んで、必死に学習する。そして、その本のマニュアル通りに少年は雛を調教し、育て上げていく。

「2週間、1日回エサをやった。手袋をはめた手に肉を挟み、鷹に差し出すと、首を曲げ、くちばしで引っ張って食べる・・・・屋内でヒモに慣らしたら、外に出して訓練してみる。屋内では手にすぐ飛んで来ても、新しい世界に驚き、警戒して、肉にも手にも反応しないかも知れない・・・・次に、長い皮ヒモを使い、長距離の訓練に移る。訓練するうちに逃げようとしなくなる」

ビリーと「ケストレル・タカ」①
少年のモノローグで語られる描写を通して、少年と鷹の奇妙だが、緊張感溢れる関係が、そこだけは特別な世界だと言わんばかりの瑞々しい筆致で語りかけてきて、観る者の心を捉えて止まない映像を予感させていた。



5  浮遊する学校空間、そして「独演会」



少年の自我が住む、それ以外の狭隘で限定的な世界では、少年の表情に精彩がなく、その瞳に子供らしい無邪気な輝きが見えない。

特に学校という、規範に対する無前提な従順を強いられる空間では、少年の自我が開放系に向かう隙間を探せずに浮遊している状態である。

少年は空間としての学校に馴染めないというよりも、そこを拠点とする学習的体系に無関心なのである。それは、教育の形で為される体育の授業に於いても変わらなかった。

ある体育の授業での、サッカーのゲームでのこと。

未だに体操着を持っていないビリーは、サッカーをプレーするに際して、体育の教師からいつものように叱責を受け、結局、その日はペナルティの意味合いもあって、ダブダブのズボンを着せられる。凍えんばかりの寒さの中で、ビリーは最も動作を要求されないゴールキーパーを任された挙句、決定的なゴールを決められてしまったのだ。

自らがゲームに参加して、その試合に負けた悔しさを表情に露わにする体育の教師は、殆ど憂さ晴らしのような形で、ゴールキーパーのビリーに水のシャワーを浴びせ続けた。ペナルティである。

こんな露骨で、過剰な教師がゴロゴロいるとは思えないが、これがイデオロギーの濃度の深い作り手の、厭味たっぷりの挑発的な描写であることは疑いようがない。

同様の文脈において、こんな描写もあった。

今度の相手は校長である。

相手が悪かった。実際、こんな教師が本当に居るのかと疑いたくなるようなそんな男が、この学校の校長だった。

朝礼で他の生徒が咳をして、いつも眼を付けられている別の生徒が一方的に叱責を受け、校長室に呼ばれることに端を発して、その場で居眠りをしていたビリーもまた、その理由だけで校長室行き。

更に、喫煙が見つかった生徒たちのみならず、ついでに校長に伝言に来ただけの下級生まで、どさくさに紛れて、校長室行きという事態になった。

都合5名の生徒が校長室に並ばされて、速射砲のような説教を厭味たっぷりに聞かされるが、何とその理由は喫煙の問題のみ。

結局、悪ガキ扱いされている生徒たちが、隠し持っていたタバコを下級生に押し付けて、そろって体罰を受けた後、その下級生への校長の悪罵で一件落着となったのである。

エピソードを続けていく。

校長室から戻って来た4人は、国語の授業に中途から参加することになった。

「反逆児の入場だ。どこに行ってた?」と国語の先生。
「校長室です」とビリー。
「ぶたれたか?」
「2回」
「痛かった?」
「それほど」と、ビリーはあっさりと応えた。
「可愛そうに。席に着け」と、先生もあっさりと反応し、授業に戻る。

この授業は、自分の体験談を生徒が先生に指名されて話すというもの。黒板には、「Fact And Fiction」と書かれていた。

ここでも、ビリーは授業に参加しない。

少年はいつもこんな風にして授業と付き合ってきたのだろう。

しかしこの国語の先生は他の先生と少し違っていた。

彼は話を聞いていないビリーを注意し、スピーチを求めたのである。

「自分の話をしなさい」と先生。
「何もない」とビリー。
「話すまで座るな・・・必ず居るな。非協力的で他人に無関心な者がね。お前もそうだ。さあ、2分で考えろ。クラス全員、補習になるぞ」

脅しのような先生の言葉に、他の生徒が、「何か話せよ」とビリーを強く促した。

「おい、話せよ。鷹の話を」と別の生徒。
「誰か、代表で言ってくれ」と先生。
「彼は鷹に夢中で、誰とも付き合わず、鷹と遊ぶ変人なんです」

それを聞いた先生はビリーを座らせて、「鷹の話を。飼ったきっかけは?」と尋ねた。

「見つけたんです」とビリー。
「どこで?」と先生。

暫くは、ビリーとの問答が続く。この先生は、ビリーに授業への主体的参加の契機を作り出したいのである。

「森の中」
「どこで飼ってる?」
「小屋で」
「エサは?」
「牛肉、ネズミ、小鳥」
「小屋じゃ、自由に飛べなくて可愛そうだ」
「毎日外に放しています」
「野性だろ。逃げないのか?」
「訓練しましたから」

この辺から、ビリーの表情が真剣みを帯びてくる。

その機を逃すまいとして、国語の先生はその巧みな教育テクニックで、ビリーを授業の中枢辺りまで導いてきた。

「どんな風に訓練した?」
「慎重に辛抱強くやりました。腹を空かしているときに、エサを与えながら訓練します。足緒を付けるんです」
「何を?」
「足緒です」
「綴りは?こっちに来て、黒板に書いてくれ。初めて聞く言葉だ。知っている者はいるか?いない、書いて」

ビリーは教壇に立って、黒板に向かってそのスペルを書いた。

「何なんだい?」と先生。
「鷹の足に付ける皮ひもです。ヒモの先に継ぎ手を付けます」

ビリーは、壇上で身振りをしながら説明していく。

「それも書いて」と先生。

他の生徒も、ビリーの話を真剣に聞き始めている。

ビリーと「ケストレル・タカ」②
「・・・最初手に乗せてエサをやり、次に手袋をはめてやった。その後エサを足元から5センチ離した。こんな風に、飛びついてエサを取ったら、次はもっと離すんだ・・・10~15センチと離していく。食べているとき、リーシュを付ける」
「インコのカゴには水槽が必要だけど、鷹にも必要なの?」と女の子。
「水浴びが好きで、朝早くやってる」とビリー。
「エサは一日何回?」と別の男の子
「最初は大きくするため3~4回だ」
「凄く楽しそうだな」と先生。

彼はビリーの表情の変化の内に、授業の成功を確信したのである。

「初めて自由に飛ばしたときが最高でした」
「聞きたいか?」と先生は皆に尋ねた。
「はい」

教室中が反応することで、ビリーの独演会が始まったのである。

「一週間くらい足を縛ったまま飛ばすんだ。本にこう書いてあった。30~40メートル飛ぶようになったら、自由にしてやっていいと。自由にさせたかったけど、勇気がなかった。逃げないか心配だったんだ。5日間くらいその状態で、“明日こそ”と自分にいい続けていた。

そんな自分に腹が立って、決心したんだ。それは金曜日の夜で、翌朝、空腹にさせるため、エサは控えた。その夜、ベッドに入っても全く眠れなかった。逃げたらどうしようと不安だったんだ。朝になり、自分に言い聞かせた。“飛び去ったときは諦めよう”と継ぎ手を外し、杭に止まらせた。足緒しか付いていない自由な状態だ。飛び去ると覚悟してたけど、止まったままだった。

ビリーと「ケストレル・タカ」③
驚いたよ。傍を離れながら鷹を見ていると、キョロキョロしていた。65メートル位離れ、野原の真ん中から叫んだ。“ケス、こっちへ来い”ダメだったので戻ることにした。戻りかけたとき、凄い勢いで飛んだんだ。地上1メートルの高さを電光の速さで、音もさせずに、手袋をはめた手に止まり、エサを獲った。嬉しくてたまらず、念のためにもう一度試すことにした。ケスを杭に止まらせ、野原の真ん中まで離れて叫んだ。同じように飛んで来て、僕の手からエサを取った。以上のように、自分で訓練しました」

「良くやったね。ビリーに拍手を!」

生徒を主役にした授業が成就した瞬間だった。それは映像の中で、ビリーという少年が最も輝いた瞬間でもあった。



6  喧嘩、そして先生



少年が他者の前で初めて見せた、至福なる独演会を映し出した映像は、その直後に、少年の至福な時間が継続力を持たないことを残酷なまでに提示していく。

この辺の作り手の技巧と、その映像のリアリズムは、群を抜くものがある。この映画が「ただもの」ではない、と観る者に感じさせるパワーは圧倒的だった。

ビリーの喧嘩のシーンが、そこに鮮烈に映し出された。

相手は体の大きい非行生徒。例の校長室で一緒に体罰を受けた悪友だった。

些細なことで、ビリーは相手から家庭の悪口を痛罵され、取っ組み合いの喧嘩になるが、先の国語の先生に止められて、これも一件落着。

しかしこの先生は、やはり他の先生と少し違っていた。良心的な教師なのだ。彼はビリーの肩を持ち、少年の切実な訴えに耳を貸すのである。

「何があった?」
「僕の家族の悪口を言って、笑い者にした」とビリー。
「落ち着け・・・・なぜ、眼を付けられる?」と先生。
「さあ」
「お前が悪いのか?」
「悪いときもありますけど、他の子はもっと悪いことをしている」
「眼を付けられる理由があるのかも」という先生の言葉に、ビリーは反応した。
「今朝もそうだ。ウトウトしただけなのに、ぶたれた。朝6時に起きて新聞を配り、ケスの世話をして登校する。疲れて当然でしょ?」
「死ぬよ」

自分に同情を寄せる先生の言葉に甘えるように、ビリーは恐らく初めて、自分が通う学校の先生に対して明瞭に主張する。 

「お仕置きなんて不当だけど、校長には言えない。伝言を持って来ただけの下級生もぶたれた。笑わないで、ショックで吐いたんだ。先生たちも生徒に無関心です。成績が悪いとバカ扱いだし、終業時間を待ってて時計ばかり見てる。生徒も無関心になります」

ビリーにこのような主張を許容する空気がそこにあり、その空気を作り出した大人が眼の前にいた。ビリーにとって、それは新鮮な感動だったに違いない。

その後、ケスを見に来た先生に、少年はケスの訓練の様子を誇らしげに見せたのである。それは、少年が学校で見せる曇った表情とは全く別の何かだった。

その少年が先生に対して、ケスとの濃密な関係を通して学んだ教訓をレクチャーするのである。

「・・・ケスはペットじゃない。こう聞く人もいる。“飼い慣らしたの?”飼い慣らすなんて無理さ。獰猛で、超然とした鳥なんだ。僕さえ気にかけない。だから凄いんだ」
「ペットを構いたがる人が多いからね」
「僕は姿を見て、空に飛ばせれば満足だ。インコとは違うんだから」
「お前の言う通りだ」
「今だって、姿を見させてもらってるんだ」

ビリーと「ケストレル・タカ」④
この最後の言葉が、少年のケスに対する思いの全てを集約している。

ケスに対する尊厳の感情が溢れているのだ。

少年はケスを飼っているのではない。

少年は単に、ケスという尊厳ある動物にエサを与え、大空を自由に舞うその飛翔を見届けるだけで充分に満足なのである。

それは、自分もまたそのような超然とした生き方を望み、未だ薄明の未来にケスのような飛翔を貫徹したいという、一見弱々しき少年の、小さな意志の表れでもあるかのようだ。



7  走る少年、そして炸裂と埋葬



しかし、ケスに対する少年の思いの強さが、あってはならない悲劇に繋がっていく。

少年は兄から頼まれた馬券の金をケスのエサ代に使おうとして、馬券の購入を果たさなかった。

このときの少年の行動は、やがて2,3週間後に社会に出て行くであろう体の小さな少年の、殆ど大人と変わらないような知恵を駆使していて興味深い。

彼は兄から頼まれた馬券の当たる確率を信頼できる大人に聞いて、「その確率は低い」という情報を元に馬券の購入金を呑んだのである。

しかし、その馬券は当たり馬券になってしまった。

それだけは絶対避けたかったビリーの最も辛い時間が、そこに開かれてしまったのである。

事の真相を知って常軌を逸した兄ジャドが、事もあろうに、弟の学校に乗り込んで来たのである。

そこは、自分の母校でもあった。彼のことを知る先生がいる中で、ジャドは喚き散らし、弟の行方を探して暴れ回った。

この描写が物語るのは、ジャドとビリーの兄弟が既にこの学校で、或いは、彼らが住む地域で、札付きの非行少年扱いされていたという事実である。

そしてファーストシーンでも分るように、「俺の兄貴はジャドなんだぞ」と悪友に凄んで見せるビリー自身が、その兄の馬券を買いに行かされるような使い走りでしかないことが、より判然と、その関係の権力性を通して透けて見えるのである。

だから弟は、兄を恐れるばかりなのだ。

彼はひたすら逃げる。学校のトイレの中を、ロッカールームの中を、そうしなければ避けられないであろう兄の暴力からひたすら逃げるのだ。逃げるしか身を守る術がないことを、弟はとうに経験的に学習してしまっているのである。

その日は、ビリーの就職面接の日でもあった。

しかし、彼の心は上の空である。

元々、ごく近い未来の選択からもどこかで逃げていた少年には、形式的な面接の相談など末梢的な出来事でしかなかったのだ。それ以上に彼はこのとき、大いなる不安感を抱いていた。

兄のジャドが簡単に自分の行為を許すわけがないことを、嫌というほど学習してきたに違いないビリーは、ケスのことが心配でならなかったのである。

だから就職面接で、面接官から希望の職種を尋ねられても、真面目な態度で反応しなかった。しかし炭鉱の仕事を促されたときだけは、ビリーは、それだけは「絶対に嫌」だと言い放ったのである。

そんな調子で面談を終えたビリーは、家路を急いだ。

少年の頭の中は一つ。ケスのことだ。

少年は走る。走る。

如何にも寂れた古い町並みの中を走る。

チョウゲンボウの巣(イメージ画像)・ブログより

そしてケスを飼っていた小屋の中に飛び込んだ。

しかし、そこにケスはいない。

少年はケスが舞っていた空を見上げ、広々とした野原を駆け、森を覗き、そして兄を探して家の中を覗いた。

誰もいない。何も分らないのだ。

少年の心に、焦燥感だけが昂まっていく。再び外に出て、囮(おとり)を付けたヒモをぐるぐる回して、辺り一帯を駆け回わった。

「ケス、どこだい?」

少年の叫びに、ケスの反応はない。少年は必死な表情で、休むことなく駆け巡る。

原作では、この辺の描写が入念に描かれている。些かルール違反だが、原作者が参画するシナリオである事実に甘んじて、その一部を紹介しよう。

「・・・・夕闇の中で、ビリーは足を踏ん張り、原っぱの上におとりをふりながら、ケスを呼んで呼んで呼び続けていた・・・・(略)ビリーは当てもなしに、暗い中を大声に呼びかけながら、つまずきころんで四つんばいになり、疲れたけもののように首を垂れてしばし休息し、やがてまたよじ登ったり、はったりしながら進んで行った・・・・」(「鷹と少年」バリー・ハインズ著 乾信一郎訳、早川書房刊より)

学校を出てから、ケスを捜し求める少年ビリーの絶望的な迷走の描写が、原作では10ページにも及んでいる。

映像を通しても長々と語られるこの哀切な描写は、最も喪ってはならないものを、もしかしたら喪ったかも知れないという少年の不安感を炙り出していて、あまりに痛々しい。

それは、映像が勝負を賭けた最も重要な描写の一つであったに違いない。

この極めて限定的な空間に於ける、ケスを求める少年の旅は、自分自身を求める旅でもあった。

チョウゲンボウの飛翔(イメージ画像)・ブログより
そこには、自分探しの旅の一つのピークで、それが求められずに、激しいまでに喘ぐ魂の彷徨があった。

長い彷徨の末帰宅したビリーは、夕食中の兄と母を視界に捉えるや、強い口調で言い放った。

「どこにやった?」

無視するジャド。睨みつける弟に、「何を見ている」と恫喝するように答える兄。

「汚い豚さ!」

今まで眠っている兄にしか言えなかったその一言を、弟は遂に吐き出したのだ。

兄はその瞬間、食べている物を弟に投げつけた。異常を察知した母がジャドを問い詰めるが、大男の息子は、馬券を買わなかった弟を責めるのみ。

「ケスを殺したんだ!腹いせにやったんだ」

弟の悲痛な叫びが、室内に轟く。

「ジャド、ビリーの鷹を殺したの?」

母は、息子に詰め寄った。

「ああ、文句あるか?」

兄ジャドは、怒ったように応えた。

「何て酷いことを」

この母の言葉と同時に、弟ビリーはソファに泣き伏した。ビリーはその悲痛な表情を兄に向けて、封印されたこの言葉を吐き出した。

「薄汚いロクデナシ!死んじまえ!」

当然の如く、弟に殴りかかる兄ジャド。その兄の言葉から、ケスがゴミ箱に捨てられていることを知った弟ビリーは、慌てて外に出て行く。少年は必死の形相でゴミ箱を漁(あさ)ってケスの死骸を取り出した。

その死骸をビリーは母に見せ、兄を叱ってくれと迫るが、「どうやって?」と狼狽(うろた)えるだけの母。

「また、飼えばいいでしょ」

これが、ビリーを庇い続けた母の一言だった。

悪意はないが、こんな母の感性が、粗暴な長男の自我を形成させたのであろうことを想像させるに難くない。

15歳のビリーは、そんな母の表面的な同情のあまりの軽さを見透かしていて、映像の節々に、孤独な少年の寂しさが印象的に映し出されていた。

しかし今、弟にとって兄の蛮行だけは絶対に許せないものだった。

「何の価値もない鳥だ」

この兄の禁句の一言に、弟は激しく反応した。

ビリーはジャドに向かってケスの死骸を振り回し、精一杯の抵抗を試みた。明らかに、体格の違う兄の野蛮な肉体に対して、弟は、恐らく初めてであろう最大限の身体表現を結んだのである。

ビリーは再び外に出て、裏庭にケスの死骸を埋葬した。

映像のラストは、少年ビリーが埋蔵のための穴を掘るために、懸命に土を掘り起こす描写で括られていた。

少年はそこに、自分が最も愛したものを埋めたのである。

そこに埋められたのは、ケスという名の荘厳なる一羽の鷹であると同時に、その鷹によってのみ生かされてきた思春期のうねりの、そのほんの一時期の少年自身の閉ざされた情念だった。

それは厳しい未来を拓いていかねばならない少年が、自らを埋葬させる儀式であったのかも知れない。

ビリーと「ケストレル・タカ」⑤
映像は、少年の未来に決して明るい希望を保障していないが、それでも未来に繋がる時間を自らの力で抉(こ)じ開けていかねばならないというメッセージを仮託して、終始、リアリズムで貫徹した物語の幕を下ろしたのである。

そこに深い余情が残された。

時間が経てば経つほど余情が膨らんでいくような、そんな不思議で、強かな腕力を感じさせる映像だった。


*       *       *       *



8  失われた一週間



この映像の作り手は、インタビューで語っている。

「・・・・映画では、ストーリーをとおして、世界が見せることのできない、また認めることのできない、生活の全面が見られる。この当時、イングランド北部では、ビリーのような少年たちは、熟練を要さない労働のために必要とされたんだ。

(略)世界はそうした任務を満たすために、彼や彼のような人々を必要としているんだ。彼がこうした才能や想像力を持っているという事実を、世界はまさに進んで引き受けようとはしない。というのも、彼の兄弟のように、彼は生涯を炭鉱内で働くことを期待されているからだ。それも、彼が幸運だったら、だ。

私たちが映画のなかであまりはっきりさせなかったものは、ビリーが兄のジャドの賭けに失敗して彼の週給に相当する金を失わせてしまったため、ジャドが怒って鳥を殺してしまうことだ。彼は一週間は仕事をせずに過ごせたはずだ。石炭の粉を肺に吸い込む地下ではなく、太陽の降り注ぐ野外での一週間。ジャドがまさに悪党のようにならなかったことは重要だった。というのも、彼には怒る権利があったからだ。しかし、私が言うように、私たちはそのことをあまりはっきりさせなかった」(「映画作家が自身を語る ケン・ローチ」グレアム・フラー著フィルムアート社刊より引用)

あまりに明快な言葉を繋ぐ作り手の思いは、観る者に伝わってくる。

ケン・ローチはこの中で、映像で描かれなかったジャドの「失われた一週間」に注目し、そこにこそ本来伝えたかったメッセージが内包されている、と語っているのである。

しかし映像を入念に観る者には、「あまりはっきりさせなかった」作り手の思いに、何某かの想像力が及ぶところである。ジャドは粗暴だが、彼が嫌がる炭鉱の仕事で特段トラブルを起している様子はなく、彼なりにストレス解消の手立てを講じている様子も、映像の随所で紹介されている。

この町のこのような家庭で育ち、この程度の能力なら、それ以外にないと思われるような仕事に就いて、やがてこの町で結婚し、家庭を作り、日常的な不満を吐き出しながらも、他の者も大抵そうであったようなシンプルな軌跡を描いていくに違いない、と予測し得る範疇の内に彼の人生もまた存在するのだろう。一昔前の日本人なら、「分」のイデオロギーによって了解できるイメージが、ジャドの生活像に垣間見えたということだ。

確かに、このイデオロギーは、昨今の日本において衰弱しているが、それでもこの国には、能力主義と平等主義の程良い均衡が保持されていて、大半の人が、「バスに乗り遅れない」程度の人並みの生活水準を強(したた)かに確保しているから、「格差社会の矛盾」がメディアを通して、どれ程大袈裟に流布されても、既に相当程度の私権の定着的確立と、努力すればそれなりに報われる社会の達成を、私たちはいつのまにか具現してしまったのである。

ところが、「ケス」で描かれた社会には、「英国病」と称される負性のイメージが全篇を通して漂っていて、わが国の現在の水準的視線で見てしまうと、どうしてもそこに馴染めない社会像が捉えられてしまうのである。

ケン・ローチの問題意識の根柢には、恐らく、イデオロギーの差異の範疇を超えた普遍的なヒューマニズムの観念が張り付いていて、左翼的発想とは無縁な私にも、「ケス」という力強い映像に大いに共感する思いが、いつまでも消えない余情となって、深いところで振れて止まないのだ。

それは、「英国病」とは無縁な国に住む者の、極めて主観的なシンパシーかも知れない。そこに住まなければ分らない何かが、きっとこの国にはあるのだろう。

ケン・ローチが精魂込めて脚本に共同参加し、「ケス」を作らざるを得なかった強い思いが、そこにはあるはずだ。

それでも映像を通して伝わってきたのは、選択肢が限定的な閉鎖的社会環境の底に澱む階級社会のブラックイメージである。

当稿の冒頭で縷々(るる)言及した「英国病」の問題は、「ケス」の理解にとって不可欠だったのである。





9  自らの階級とその平等性の象徴



―― ここに、「ケス」の原作となった「鷹と少年」の冒頭の引用文がある。

「ワシは皇帝に、大ハヤブサは王に、ハヤブサは王子に、セイカ・ハヤブサは騎士に、コチョウゲンボウは貴婦人に、オオタカは郷士に、ハイタカは僧侶に、マスケット・タカは聖水僧に、ケストレル・タカはならずものに」(1486年刊セント・オルバンズの書と、ハーレー収集文庫の稿本より)

ケストレル・タカとはチョウゲンボウのこと。ならずものは下層階級のことであり、またハヤブサ(この場合はケストレル・タカのこと)は平等主義の象徴である。

ケン・ローチは、このハヤブサを下層階級のための鳥である、と先のインタビュー本の中で明瞭に語っている。

つまり、「ケス」の主人公である少年ビリーは、自らの階級とその平等性の象徴である鷹を訓練することで、誰にも媚びない尊厳なる一羽の鳥に同化し、そこに自らの思いのたけを仮託し、思春期のデリケートな時間の中で最大限の自己実現を図ったのである。

これが、「ケス」という映画の全てであると言っていい。



10  不在の哀しみ



映像を丹念にフォローしていくと、同世代の少年たちに対してのみならず、少年ビリーは彼を取り巻く環境と、そこに住む大人たちに対しても常に等間隔の距離を保持していて、国語の先生との一過的な心の触れ合いを例外にすれば、決して、他者に自らの思いを預けていく態度を示さなかった。

それは、彼が他者に対して全く関心を抱かない生来の変人であるというよりも、他者との関係構築に何かいつも、冷めた思いを引き摺っていて、大袈裟に言えば、そこにペシミズムの萌芽的感覚に囚われているような感情ラインを想像させてしまうのである。

恐らく、ビリーのそんな感情の根っこには、家族のあまりに乾いた関係の空気感があるのだ。

原作のラストには、ビリーがもっと幼い頃、家族を捨てて家を出た実父との回想シーンが、幻想的な描写で綴られていた。

その一節を紹介する

「ビリーは暗がりの中で泣いていた。ジャドは一生けんめい耳をそばだてて聞いていた。どなり声が大きく聞こえて来る、それから足音が階段を上がって来て、前の寝室に入り、どなり声はやんだ。寝室の方で人が歩きまわっていた。階段上の踊り場に足音がした。ビリーがドアのところへとび出して行った。お父さんが、スーツケースを持って、踊り場のところに立っていた。お父さん、どこへ行くの?ビリー、ベッドへもどっていなさい。どこへ行くの、お父さん?今、出て行くんだよ。ジャドがうしろへ来ていた。お父さんはうちを出て行っちゃう。いやだ!いやだ・・・・」(同上より)

勿論、映像の中にこんな描写はない。

この映画は、ある意味で映像の描写に表われていないところにこそ、重要なメッセージ性が内包しているとも言えるのだ。

その一つは、ここで紹介した「父の家出」。

恐らく、少年ビリーの、対他関係における情感の乏しさの根柢には、思春期の自我の安寧を充分に保障し得るほどに、家族の愛情を享受してこなかったという切実な問題がある。

その家族の問題の中枢には、「父親の不在」があると言っていい。

父の家出によって、この家族は拠って立つ安定の基盤を失ってしまったのだ。

ビリーと「ケストレル・タカ」⑥
最もその愛情の被浴を必要とするときに、それを手に入れることなく寂しい児童期を送ったに違いない自我こそ、やがて、ケスという固有なる生き物に、その思いの代償を仮託せざるを得なかったビリーそれ自身だった。

ケスを喪って泣き伏す少年の脳裏に侵入してきた、幼き頃のあまりに苦い思い出。それが父の家出だった。

それは映像の中で、恐らく、テーマの拡散を恐れて意図的に排除された描写だったが、しかし、排除されたにも関わらず、観る者に充分に想像を喚起させる「不在の哀しみ」という問題性が、そこにある。


もう一つは、先述した「失われた一週間」である。

弟ビリーに頼んだ馬券が購入されていたら、辛いだけの炭鉱の仕事を一週間休めるというジャドの嘆きがそれである。ここに、彼の労働観の全てがある。

この「失われた一週間」のために、ジャドは弟が最も大切にしていたものを解体し、それをゴミ箱に捨てたのである。

彼の失った時間の大きさは、彼が殺(あや)めた動物の生命と等価のものだった。

しかし、その動物こそ、実はジャドの階級を象徴する尊厳なる何ものかであったのだ。

シンボリックに言えば、ジャドは自らの階級を汚したのである。そして、その動物に自己実現を図った唯一の兄弟の自我を、彼は足蹴にしたのだ。

つまり、この「失われた一週間」は、映像の中で最も残酷なストーリーの中枢を成すものなのである。

下層階級の人々の生活を描き続けたディケンズ

父の不在によって、ビリーの自我の社会化が性急に求められる状況下で、彼は寧ろ、その切実なテーマから回避する方向に流れていって、薄明の森の中で、ケス以外の存在をその視界に収めることをしなかった。

そんな中でビリーは、自分を取り巻く劣悪な環境に対して自覚的な反抗を表出することもなく、ただ漫然と日常性を遣り過ごすだけ。

とりわけ、彼の大人に対する関係のスタンスは興味深い。

例えば、新聞配達店主の厭味(いやみ)に対しても、ビリーは「僕は大丈夫でしょ?」とさりげなくかわして、その場をさっと立ち去っていく。

また、サッカーでの体育教師の水シャワー攻勢に対しても、巧みにそれをかわして素早く逃げ去るのみ。これは、学校に自分を探しに来た兄ジャドの激しい感情攻勢に対しても、学校中をネズミのように逃げ回って身を隠す行為でも同様だった。

彼は自分が身体的に、或いは、立場的に敵(かな)わないと思った大人に対しては、常にダイレクトに対峙することなく、巧妙にその厄介な状況から逃避していく術だけは心得ていて、思えば、それが体の小さい少年のギリギリの知恵であるとも言えなくもない。彼の思春期反抗は、極めて限定的だったのである。

ところが、少年ビリーにはどうしても見過ごすことがでない事態が生じた。

その一つ。

プロットでも触れたように、校長からの執拗なダメ出しレクチャーに対して、ここでもビリーは巧妙にかわしていこうとするが、その過剰なる校長からの体罰を免れることができなかった。

実は、彼は朝礼の際にウトウトしただけで、校長室に呼ばれたのである。それが、いつの間にか喫煙生徒の烙印を押されて、件(くだん)の体罰を受けたのである。

勿論、このときもビリーは校長に対して、その正当なる自己主張をしなかった。彼には、もうどこかで、大人に対する諦念のような感情が形成されているのである。

しかしビリーには、この正当性のない体罰が許せなかった。

彼は恐らく初めて、その思いを別の大人に対してぶつけたのである。それを受け止める大人が、そのときビリーの前に現れたからである。

その大人こそ、この映像の中で最も良心的に描かれている国語の先生だった。

即ちビリーは、正当な自己主張をすることからも逃げている少年ではなかったのである。聞く耳を持つ大人に対しては、彼は自分の心を僅かながらでも開くことを躊躇(ためら)わないのだ。

国語の先生に自分の思いを語ったビリーは、その相手が、今はいない父であり、或いは、最後まで真剣に自分の思いを受容してくれる母であることを願っていたに違いない。彼はこのとき、間違いなく甘えたかったのである。

二つ目は、ラストシーンでの、兄ジャドに対する激しいまでのレジストである。

自分が最も大切にしていたものを喪ったとき、少年ビリーは、それまで内側に抱えていた甘えの感情や、その場しのぎの言い逃れの対応や、累積された鬱憤を晴らすかのような軽微な非行とか言った、これまでの行動ラインと一線を画すかのような自己表出を果たしたのである。それも自分の周囲にいる大人の中で、自分が最も恐れる相手に対して真っ向勝負したのである。

ビリーの中で何かが鮮烈に弾け、何かが衝撃的に生まれた瞬間だった。

それは同時に、少年の中で液状的だったものが、未だ形状が定まらない固形物に辿り着いた瞬間でもあった。

少なくとも、少年は、このとき明瞭な意志を表示し、それを具象化したのである。

意志が身体化されたときのエネルギーの移動が、そこに垣間見られたのだ。

ケスの埋葬は、少年にとって、不透明な未来への一つの危うさを含んだ旅立ちであったと言えるだろう。


ビリーと「ケストレル・タカ」⑦
それでも少年は、自らがケスとなって、この旅を捨ててはならないのだ。

最後のケスの埋葬シーンには、作り手のそんな思いが仮託されていたのだろう。

残酷なまでにリアルで、ザラザラとした映像が放つメッセージの重量感は、蓋(けだ)し圧倒的だった。



12  「平凡」と「過剰」



―― 最後に、この映画に出てくる、4人の象徴的な大人の描かれ方について言及する。

私が選択したその4人とは、ビリーの母と、3名の学校教師たちのこと。教師たちとは、体育の教師、国語の教師、校長先生の3名である。

映像の中で、彼らは象徴的な役割を担って、それぞれの脈絡をもって主人公ビリーに関わっていた。その関わり方が興味深いのである。

この4人のビリー対する関わり方を、それぞれの立場に於けるアプローチの違いに於いて、「平凡」と「過剰」という概念によって分けてみた。

「平凡」を象徴するのは、ビリーの母と国語の教師である。

まず、ビリーの母。

映像で観る限り、彼女は決して賢明で教養豊かな女性であるとは言えないが、それでも行きつけのバーで男と語るシーンの内容に表われているように、彼女は特段破滅的な人生を送っているわけではなく、むしろ様々な誘惑に対して防衛的であり、自分のたった一つの人生を大切にしようという気持ちを捨ててはいない。

映像では紹介されなかったが、彼女は夫に捨てられて、長く幼い子供たちを自らの力で育て上げてきたのである。彼女の苦労は並大抵のものではなかったはずである。

貧しい家庭の生活を維持するために消耗したエネルギーを、ジャドの自立によって自分の細(ささ)やかな愉楽の時間に向けようとする気持ちは分らなくもないのだ。

そのレベルの自己中心的な思いが、子供たちへのアプローチを表面的なものに留まらせてしまった限界性でもあるだろう。

その辺のキャラクターが、ラストシーンでのジャドとの口論の中に露呈されていた。ビリーにとって、そんな頼りない母がどうにも遣り切れない思いで捉えられていたに違いない。

しかし、その頼りなさもまた、平凡なる母親の能力の範疇に包含されるだろう。

彼女は彼女なりの平凡さに於いて、ビリーの母親という役割を、その能力の及ぶ限り果たしてきたのである。


次は国語の先生。

この人物はとても良心的である。教師としての能力も優れている。

映像で紹介された彼の授業で、この教師だけがビリーの心を開かせた。ビリーがケスについて語るとき、信じ難いほどの輝きを放つことができたのは、この教師の授業を支配する能力の優秀さと、その人間性に因るものであった。

恐らく、この教師は生徒から一目置かれ、尊敬の対象になっていたに違いない。なぜなら、この人物の支配する時間に於いて、生徒たちは均しく従順であり、その表情には授業に参加する者の前向きさが窺われたからである。

ビリーの喧嘩の仲裁に入ったときもまた、この先生の指導力は如何なく発揮されていた。だからビリーは、この先生に束の間甘えたのであり、その思いの丈を吐き下したのである。

更に、ケスの訓練に集中するビリーを見る視線には、生徒を信頼する温かさに満ちていた。

しかし、この先生についての描写は、それが全てだった。

こんな良心的な先生だったが、ビリーの最も不幸な時間に寄り添う様子がなかったのは奇異である。

恐らく、そのような描写を必要とする役割を、作り手はこの先生に求めていなかったのであろう。

そこまで描いたら嘘臭い熱血教師の英雄譚に流れてしまうことを恐れて、作り手は、敢えてこの先生の役割を、子供に対する職務の枠を越えない限りの内面的アプローチに限定したのであろうか。

この国語の先生は極めて良心的だが、しかしそれは、自分の職務に誠実な平凡さの範疇に限定されるものである。

大体、平凡な人生を常に良心的に、且つ、誠実に生ききることはとても難しいことなのだ。

そんな当然過ぎる人生を、素っ気無いほどのリアリズムで映像に映し出した、作り手の人生観の厳しさが伝わってくる。しかし、この先生の平凡さは、「到達すべき平凡さ」という観念の枠組みで語られる何かだった。

次に、「過剰」を象徴する二人の教師について。

まず体育教師。

サッカーゲームのシーンでしか登場しないこの教師は、明らかに教師という職務の枠を逸脱した過剰なる人物である。本当にこんな教師がいるのかと思わせるような過剰なキャラクターが、画面一杯にギトギトと暴れ回っていて滑稽ですらある。

サッカーのチームを二分するのに恣意的に生徒を選別したのは、あくまでも自分が中心となったチームが圧勝するためのモチーフによってであり、そこに全く教育的配慮が施されていないのは自明のことだった。

その結果、最後に残ったビリーを嫌々ながら自チームに引き取って、そのビリーにゴールキーパーのポジションを命じた挙句、それが原因で試合に負けてしまうという設定は殆ど漫画的である。

と言うより、そこだけが独立したかのような、この長々とした描写は漫画そのものであり、その漫画の主人公こそ体育教師であったというブラックユーモアの内に、作り手の精一杯の感情の含みがあったと思われる。

この教師は職務意識は疎(おろ)か、生徒たちに対する教育管理意識においても決定的に不足していて、およそ教育者の体をなしていない過剰なるキャラクターとして、リアルな映像に、唯一、コメディ的な緩衝地帯を挿入するための仕掛けだったのだろう。

ところが、ビリーが通う学校の校長先生の過剰さは、そこに多少のコメディ的な要素を含ませていたにしても、そのキャラクターは体育教師の稀薄な管理意識と明らかに分れている。

それは、権威主義の権化とも言える描かれ方に於いて徹底していて、管理意識は存分に過剰であり、そこに殆ど修正し難い偏見の感情が溢れているから、当然、この人物の教育的アプローチは、体罰という形態によって帰結せざるを得ないのである。

コンプリヘンシブ・スクールの一つ
こんな人物が、コンプリヘンシブ・スクールと呼ばれる地域の総合制中学校の校長であれば、そこに通う生徒は常に萎縮し、従順に振舞う技巧だけを身につけて、「判ってくれない大人たち」からの格付けの包囲網から如何に自由にいられるかという意識のみが発達し、彼らとの形式的関係様式の、埋め難いスタンスだけが晒される日常性が常態化されているに違いない。

この辺りの描写に於いて、作り手は存分な皮肉と、確信的な異議申し立てを鮮明に刻んでいる。

少年ビリーの心を閉ざした内面世界を更に決定づけるためには、彼を取り巻く絶対的な関係の過剰極まる描写を不可避としたのであろう。

しかし、それだけを描写で流していったとしたら、この映画は単に、いつの時代でも言われ尽くされている、「大人は判ってくれない」式の映像に堕ちてしまったはずだ。

しかし「ケス」は、その陥穽に嵌らなかった。

だから私は、通常、この手の手法を受容し切れないながらも、相当深い所で揺さぶられ、いつまでも心に残る一級の作品として、それを舐めるように鑑賞することができたのである。



13  思春期彷徨の、その自立に関わる出会いと別れ



―― 当稿を括るにあたって、この映像を要約してみた。


その一。万引きを常習とする少年が、恐らく生まれて初めてであろう、決して喪いたくない大切なものと出会ったということ。

その二。その出会いによって、少年の中に澎湃(ほうはい)していたに違いない膨大な鬱憤の感情が一定程度自浄され、それを思春期の知恵で拡散できたということ。


ビリーと「ケストレル・タカ」⑧
その三。少年が出会ったそのものは、少年によってマニュアル通りに調教されることによって、そこに少年が予想もしなかった精神的付加価値を見出したということ。その付加価値とは、少年の存在すら無視して空を勇壮に舞う「尊厳なるもの」であった。

その四。「尊厳なるもの」とは、自分の定まらない未知の時間の核になるような自己像のイメージであり、少年はそれを朧(おぼろ)げに感じ取ることができたということ。即ち、「尊厳なるもの」との出会いによって、少年は自分自身と出会い、それを絶対守るべきものとして、思春期の危うい時間の大半をそこに投入したのである。

その五。自分が最も大切にしていたものを奪い、遺棄した者に対して少年の思いは炸裂し、それを激しく身体表出したということ。その行為は、少年を力で捩(ね)じ伏せてきた者に対する初めての鮮明な意思による抵抗だった。それは思春期を彷徨う時間の森に、一つの小さな突破口らしきものを作り出した瞬間だった。

その六。しかしその突破口が、必ずしも少年の明るい未来を保障するものではないということ。それは、少年の炸裂した情念が歪んだ攻撃的自我に転移する危うさをも含んでいて、映像は予定調和のイメージで少年の時間を安堵させなかったのである。

その七。炸裂した少年は、今や死骸となった「尊厳なるもの」を、丁寧に土を掘って埋葬したということ。

炸裂と埋葬

それは、新たな突破口を見出すかも知れない少年の未知なる旅への別れの儀式であった。

以上の文脈によって、このドラマが、「判ってもらえない」環境下に置かれた少年の思春期彷徨の、その自立に関わる出会いと別れを描いた映像であることが瞭然とするのである。


ケン・ローチ監督
「ケス」は、思春期の子供を主人公にした抜きん出た人間ドラマだった。

こんな人間ドラマを生み出す状況が、その国にはあり、これを作り出さずにはいられなかった者たちの熱い思いと問題意識があり、この両者の緊張含みのクロスの果てに、この映画が誕生したのである。

とりわけ私には、前者の把握がこの映画を理解する上でとても重要に思われた。だから当稿の初めに、「ケス」を生んだ時代と背景について縷々(るる)言及した次第である。

このような把握なくして、「ケス」という作品をその根っこのところで理解し、受容するのは困難であると考えたからである。

いつの時代でも、その時代の隙間から零れてくる見えない鬱積した情念や、絶望に近い沈黙の怖さが、いつしか具象性を持ったとき、その時代で鮮烈に表現された何ものかが噴き上がっていくのだろう。

「ケス」は、私にとってそんな作品だった。

そこに優れた人間ドラマの表現力が包含されたことで、それは普遍的な表現的価値を映像史に深々と刻んだのである。


【余稿】


原作者のハインズは、1939年ハイランド・コモンという炭鉱町に一炭鉱夫の子として生まれ、成人してから炭鉱の測量技師見習い、坑内水圧支柱の修理工なども経験している。(「鷹と少年」訳者あとがきより)

このような略歴を持つ作者だからこそ、これだけの深みを持つ映像に結実と思われる。

なぜなら、その作者自身が自ら脚本を手がけたからである。

(2006年3月)

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