序 プリミティブでシンプルな共感的理解
望月優子と三国連太郎の演技の冴えが絶妙にクロスして、この無名の庶民史の一篇を恐らく不朽の名作にした、「社会派の巨匠」、山本薩夫の最高傑作。
高予算をかけて低級なハリウッド的娯楽映画を作り続ける昨今、日本映画史に埋もれつつある、このように地味だが、しかし力強いモノクロの映画と出会うとき、人々はそこに何を感じ、そこから何を手に入れるのだろうか。或いは、この種の映画に何も感じないほど、人々を運ぶ時代の船は、もう後戻りができないところまで移ろってしまったのだろうか。
市井を賑わした出来事が忘れ去られるのに、今や十年の歳月も必要としない。文化の継承などという幻想も、大抵は底が浅いのだ。
この「荷車の歌」という名作が、近未来の映画好きの人々の中で、果たして、その文化的価値が保持されているかどうか微妙なところである。なぜならそれは、「貧しい者が絶対的に苦労する時代を背景に描いた、ごく普通の一人の女の一代記」だからである。
そんな物語に特段の思い入れを持ち得ない人々にとって、この種の映像はあまりに異文化の体臭を含みすぎているように思われるのだ。どだい、「アンチエイジング」の意識に捉われて、「美肌一族」(美容液入りのシートマスク)を手放せないような「ミリオネ―ぜ」(ポピュリッチ=「新富裕層」)の人たちにとって、この種の映画など、丸っ切り関心外のポップカルチャーであるに違いないのだろう。
「わしは肩から毎日化粧して暮らす気はないが、荒れ止めだけでも、つければのう」(本篇の主人公の言葉)
本篇の主人公であるセキをして、化粧を諦めさせる台詞を吐かせる時代の貧しさについて、どこまでもテレビドラマの予定調和劇の範疇でしか理解が及ばない飽食文明下において、本篇への実感的理解を求めるのは困難だが、骨太の人間ドラマを愛好する些かマイナーなタイプの人たちにとって、この類の映像を受容する感性のハードルは決して高いものでないと思われるのだ。
演出中の山本薩夫監督
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1 セキと茂一
―― 詳細に物語を追っていく。
「この映画は、三百二十万農村婦人の手でできあがりました。人間が人間として認め合うこの大切な喜びを、皆のものにしたい!この喜びが多くの女の心に生きつがれ、多くの若い人たちが母を受け継ぐとき、明日を今日の繰り返しでなく、新しい出発としてほしい。こうした願いをこめてつくられたものです」
これが、映画「荷車の歌」の、アピール過剰で、そこに多少のプロパガンダ性を含むかのような、些かきな臭い但し書きの導入部である。
映像に入っていく者は、画面を支配するこの余分なメッセージを蹴飛ばすことで、クレジット・タイトルが表示された後、すぐに開かれていく本篇と付き合っていく鑑賞態度を持った方が無難だろう。
少なくとも、私の場合はそうだった。
閑話休題。
原作は山代巴(やましろともえ)。
「山代巴獄中手記書簡集」(平凡社刊)、「囚われの女たち」(径書房刊)等の著作でも有名な、知る人ぞ知る、戦前に夫(獄死)と共に治安維持法で逮捕され、獄中体験を経た「女性革命家」である。広島で生まれた彼女にとって、「荷車の歌」は入魂の一作であると言っていい。
この地味な原作を「異母兄弟」の依田義賢(よだよしかた)が脚色して、「真空地帯」の山本薩夫が監督した。
「社会派の巨匠」によって演出された本篇は、幸いなことに、ケチな社会派の左翼的宣伝映画の枠を遥かに超えて、一級の人間ドラマに仕上がっていた。
欧米の肝の座った映像作家たちの幾つかの作品がそうであるように、しばしば覚悟を括った社会派の作品から秀逸な人間ドラマが作られていく事実だけは、シネ・フィル(映画マニア)ならずとも認知せざるを得ないところである。
山代巴 |
時代は、明治二十七年。
地主の屋敷に女中奉公する一人の女を、郵便配達夫の茂市(もいち)が見初め、求婚した。彼に好意を持つ女は、家族の反対を押し切って結婚する。茂市は郵便配達夫で稼げなくなってきて、女に荷車引きになることを促し、執拗に説得した。
女の名はセキ。
以来、セキと茂市の苦労多き人生が始まったのである。
「茂一さんのために、親を捨てたんじゃ」
あらゆる苦労も、茂市を一途に思うセキの、女としての強さが未来を拓いていく。
セキは茂市の母に嫌われて、その食事も自分だけが粟飯(あわめし)の弁当を持たされる仕打ちを受けるが、彼女にはめげる様子がない。
セキは明治女の強さを一身に持った、極めてバイタリティ溢れる働き者だった。
セキは自らも荷車引きとなって、夫と共に五里の山道を往復する苛酷な労働に明け暮れる。
彼女の表情からは、常に笑顔が絶えないのである。
茂市は車問屋になる日を夢見て、セキと共に艱難(かんなん)な山道を越え、そして戻って来る。
「何ぼ辛(つろ)うても、茂市さんと一日一緒におれるから、ええ・・・・」
セキは荷車引きの休憩の場で、夫と共に昼飯の弁当を食べるのが何よりの楽しみだった。
「日露戦争が起こりまして、大勝利に終りやしたが、その間も夢中で荷車を引いて暮らしておる内に、オト代が生まれやした。おなごの子じゃ、楽しみがなぁでのう、と茂一さんは言うし、姑も不機嫌でろくろく世話もしてくれず、オト代が一年と六ヶ月の頃のことでがんす」
セキによる、映像の中でのモノローグ。この作品は、セキの回想による映画なのである。モノローグは続く。
「夜中の12時に起きて布野(ふの・注1)の町まで夜の間に行き、そこで荷を積んで、三次(みよし・注2)の町は朝の11時過ぎに入りやす。往復十里の道のりを行くのが仕事でがんす・・・・三次から布野の町まで、雑貨などの帰り荷を運び、布野の町から上りになるんで、疲れてもおりますけん、空車を引く方が、ずっと辛うがんした」
(注1)現在、広島県双三郡布野村。『ゆめランド布野』と銘打つ駅舎は、ドライバー等の休憩と情報伝達機能をもつホールとして売り出している。(HP「ゆめランド布野」参照)
現在の三次市・巴橋(ウィキ) |
2 オト代とお婆
人一倍働き者のセキには、姑に任せているオト代のことが心配でならない。姑に対する不信感というよりも、自分の娘を抱いて仕事ができない辛さを噛み締めているのだ。
娘のオト代は生来の体質の故か、非常に体が弱かったのである。
セキはそんなオト代を、四国八十八カ所(注3)巡りの旅に連れ出した。
オト代は、数えで三歳になるのに未だ歩けないのである。
セキにはそれが心配でならなかったのだ。
霊場のとある茶屋で、セキが茶屋のお婆さんにオト代のことを話しているときに、奇跡が起こった。
オト代が自らの足で立ち上がり、自力で歩き出したのである。
その歩行の奇跡は、栄養が不十分な時代に生まれた多くの赤子たちの、決して珍しくない事態の一つに過ぎないが、しかし母親の心情の中では、どこまでも弘法大師の霊力のお蔭であるという思いが強かったのであろう。
弘法大師の霊力による奇跡に、セキは感謝するばかりだった。
現在の四国八十八箇所・第一番 霊山寺(ウイキ) |
「明治天皇がお亡くなりになり、大正と世が改まり、オト代が小学校に上る頃に、トメ子が生まれやした」(モノローグ)
小学生になったオト代は元気一杯。
柿の木に登り、柿を取るような女の子に、姑のお婆はいつも文句を垂れていた。
「遊び歩かんと、ランプの火屋(ほや・注4)でも磨かんかい!このいりもせん、おなごの糞ビク(注5)が!大飯食いやがって」
「わしがおなごなら、お婆もおなごじゃ、おなごが、おなご捕まえて、糞ビク言うたら、おなごの神様にバチ当るぞ!」
「この糞ビクが!学校行かせりゃ、理屈ばっかり覚えやがって!」
口が達者で勝ち気なオト代とお婆の相性は相当悪い。
柿の木に縛られるなど、お婆の荒い仕打ちに、オト代は体を張って抵抗する。
それはまるで、数えの三歳まで歩行できずに母を心配させた長女の成長した姿とは思えない程だった。
そんなオト代を心配するセキだが、そのセキもお婆に相変わらず冷眼視されている。
そんな女房を、亭主の茂市はいつも充分に庇い切れないが、お婆には、家族揃って自分がのけ者にされているという卑屈な思いが抜け切れないのである。
(注4)石油ランプを包むガラス製の筒のこと。煤(すす)で汚れやすいため、昔は子供が火屋磨きをさせられた。
(注5)「ビク」とは、映画の内容と相違する箇所が多い山代巴の原作によると、単に「女の子」という意味で使われている。
「雪が深(ふこ)うなると、荷車の仕事はできんようになり、茂一さんは山道三里の仲仕に、私らは、炭俵を編みやす」(モノローグ)
炭俵を家族四人で編んでいる。その中心にお婆がいる。
お婆は、自分の嫁入り時分の苦労話をセキに語っている。
その苦労話の伏線には、セキが既に身ごもっている子のために、炭俵を編むのを止めて、縫い物をしたいという申し出があった。
お婆はその申し出に対して、皮肉を添えたのである。
セキはその話を聞くために、そこにいるようだった。
「わしら茂市のときには、昼間縫わしてもろうたことはなかったぞ。しょうないけん、夜中に盗んで縫うたもんじゃ。やかましい姑さんじゃったけんのう。なんぼ泣いたかも知れん」
これで、セキは何もできなくなってしまった。
餅を盗んだオト代を折檻するお婆に、許しを乞うだけの嫁。
これが七十年程前の、この国の嫁と姑との典型的な関係だった。
オト代はお婆に、いつものように外の木に縛られてしまう。
雪が降っている中、それでもオト代はお婆に反抗する。
「死ね、死ね、クソ婆、早く死ね!」
オト代の叫びがまもなく聞こえなくなって、表に出たセキは、そこに娘がいないことを確認した。
心配のあまり、母は娘を探し回る。
オト代が見つかったのは、村の外れの地蔵堂の中だった。
その夜、一人で涙ぐむセキの表情が映し出されていた。
オト代は、お婆の命で出入り禁止になっていたのである。
近所の三味線引きの叔母さんの家に泊められたオト代は、翌朝、その叔母さんの導きで帰宅を果たそうとしていた。
「家ん中に入れることはならんぞ・・・茂市、お前がこれを入れるなら、わしが出てく!」
お婆の強い意志で、オト代の帰宅は果たされなかった。
オト代が三造の家に養女として貰われて行ったのは、この出来事があってからまもなくのことだった。
養女の話が最初にあったとき、セキは自分の考えよりも、オト代の気持ちを大事にしようと考えて、オト代の元に会いに行っている。
オト代とセキ |
「のうオト代、お前をこの家にくれ、言うとるんじゃが、どう思うや?」
「わしゃ、貰われるがええ。おっかぁも食い扶持が少のうなって、それだけ気兼ねがなかろうが・・・」
「ここの子になったら、どこに連れて行かれるやら分らんし、もう戻って来られんかも知れんでの」
「それでもええ、貰われる」
我が子にここまで言われて、セキは号泣した。
母を慰める娘。娘の強さが際立っていた。
二人の話を囲炉裏端で聞いていた茂市は、「よう分ってくれたのう。堪えてくれぇよ、オト」と反応する以外に言葉を持たなかった。
かくして、長女のオト代は三造夫婦の元に養女に貰われて行くことになったのである。
娘オト代を送り出した茂市とセキの夫婦の、やるせない会話が印象的に映し出されていた。それを拾ってみる。
「あんた、わしに愛想尽かしておんなさるか?」
「何で、そんなこと言うんじゃがや」
「わしゃ、そんなに駄目になりゃあしたか?人の眼には、そう見えんじゃの。荷車引いて、毎日五里の道を行き来すりゃ、そりゃ髪は薄さばい、顔は渋皮で、肩は男のようにいかってしもうて、足はバッタの足じゃ。愛想つかされるのが当たり前やのう」
「わしものう、コムラ姉の言うように、われを日柄化粧させて暮らさせたいんじゃが、今は精一杯じゃ」
「ええのよう。わしの体磨くために、銭を捨てなんな。わしは肩から毎日化粧して暮らす気はないが、荒れ止めだけでも、つければのう」
「荒れ止めは“乙女の肌”いうのが流行りじゃ。買(こ)うたろうか」
「高(たこ)うないけ?」
本稿の冒頭で紹介した、セキの言葉を含む夫婦の会話だが、以上の会話が暗黙裡に語るものがあった。
それは、女房に女を感じられないで漂流する男の心と、それを察知する女房の寂しさが、未だ諦念に届かない辺りで、半ば自己了解を強いていく女の思いがパラレルに移動して、そこにクロスできないもどかしさを、暮らしを拓く女の強さの内に昇華する心理的文脈であった。
これは、男が女房以外の他の女を求めていかざるを得ない伏線でもある。
しかしその兆候は、まだ現われていなかった。
3 セキとお婆
時は、大正デモクラシーの渦中にあった。
大正デモクラシーのの渦中での講演会 |
読み書きのできる茂市は、彼らが撒いたビラを周りに読んで聞かせていた。
そのことが茂市の逮捕に繋がったが、元々、思想傾向の稀薄な茂市には長期拘留の理由がなく、まもなく釈放された。
女房のセキが長男の虎男を産んだのは、茂市がたまたま拘留されていたときだった。
それでも虎男の誕生は、この時代以前からそうであったように、その後継ぎの誕生に周囲から絶大に祝福されたのである。
姑の満面の笑顔が印象的だった。
「それから十年。虎男も元気に育ち、荷車の仕事も順調で、四反余りの田圃を借りて小作もするようになり、末子、三郎と生まれて育つ内に、仲間の頼母子(たのもし・注6)を落として家を建て、皆の後押しで、夢に見た荷車の問屋を開くことになりやした」(モノローグ)
(注6)金銭の融通のための組織で、「無尽」のこと。頼母子講の組合員が一定の掛け金を払うことで、金銭の融通を受ける扶助的な役割を果たした。
お婆が病に倒れた。
それを介護しようとするセキの手を払って、息子の茂市の差し伸ばされた手を弄(まさぐ)るだけだった。
セキはその不満を、セキの家庭の事情をよく知る隣人にぶつけた。
「夕べもな、甘い葛湯(くずゆ)が欲しい言うけえ、蜂蜜入れてこさえたら、まずお前がひと口、吸うてみいと言う。まるで毒でも入れたように言うて。わしゃ、あんまり情けのうて、お婆の胸を裂いてやりとうなった。わしゃ、鬼じゃろうか?わしゃのう、お婆が病気で苦しむのを、心の底でいい気味じゃ思うのよ。悪い病気じゃ思えば、思うほど・・・」
「あんたにゃ、心の虫がおるんよ」
「虫?」
「心の虫。わしにもおるんよ。自分でもたまげるほどの強い虫がの。その虫がおりゃこそ、あの陰気な家を明るい家にしてみせたんじゃけん、小姑のために、一日も欠かさんように薬風呂を焚いたんじゃ。あんた、お婆から逃げてばっかりおらんと、お婆の胸ん中飛び込んでいきんさい」
「飛び込んでのう・・・」
「脇からお婆を眺めておらんと、飛び込むことよ。お婆の心を分ろうとしんさい。お婆の心を我がものにして、そっくり変えたろう思うんじゃ」
「ありがとう。わしゃ、務め方が分らなんだんじゃ。そう言えば、お婆も若いときから苦労のしっぱなしで、誰にも慕われずに死んでいくのは嫌に違いない。わしゃ、すっかり変えてみよう。わしゃ、明日から病人に付きっ切りで子供のこと、お頼み申しやす」
この会話は、セキが嫁ぎ先で大きく変化する契機となった重要な描写である。
「それからの私は、一身に看病しやした。何でも病気というものは、熱を下げるのが一番じゃ思うて、梅干の種を抜いて額へ貼ってやり、水仙の根をすって足の裏へ貼ってやり、煎じ薬を飲ませ、床擦れのせんように、茂一さんに空気枕も買(こ)うてもらいやした」(モノローグ)
セキは人が変わったように、姑を看病する日々を送っていく。
「いい按配(あんばい)じゃ。これで痛(いと)うない」」
姑はセキに対して、素直にその心情を吐露するまでになっている。
そんなとき、養女に出したオト代が成人した姿で戻って来た。
オト代が養女に出た家に長男が生まれたので、彼女は解放されたのである。
この表現は、戦前の貧しい農家の養子制度の影の部分を言い当てている。成人したオト代は、かつて憎み合ったお婆との因縁を忘れたように、そのお婆を献身的に支えようとしていた。
「按配悪うて、いけんのう。そいでもわしが帰って来たけ、もう安心じゃ。わしが付きっ切りで看病してやるぞ」
お婆はオト代の優しさに、心の底から感謝の念を示した。
同時にその思いは、セキやオト代に対する積年に渡る謝罪の念でもあった。
「セキさ、済まなんだの・・・・こらえてつかぁさいよ」
お婆は号泣し、そこにセキとオト代の涙が加わった。
まもなくお婆が鬼籍に入った。
お婆にとってそれは、俗世に何の恨みも感情の縺(もつ)れも残さずに、自らが最も望んでいるときに訪れた仏界からの誘(いざな)いのようでもあった。
「私に姑への仕え方を教えてくれ、いつも心の支えとなってくれたナツノさは、朝露のように儚(はか)のう消えてしもうたんでがんす。その上、私どもの苦労になお鞭を加えるように、茂一さんの仲間の心棒の初造兄やが、また卒中で死んでしまいやした。私は気落ちして、病の床に就きやした。胃潰瘍じゃということでがんした」(モノローグ)
4 セキとオヒナ
現在の倉敷市・美観地区中橋と考古館(ウィキ) |
二人の娘は倉敷の紡績工場に働き出し、少しでも家計を助ける努力を怠らなかった。茂市とセキは念願の車問屋を起したが、それも束の間、鉄道が開通し、荷馬車や貨物トラックが輸送の主役になる時代の幕が開かれて、荷車の需要は急速に減ることになってしまったのである。
そんな中、茂市は妾を自宅に連れて来た。
オヒナと名乗るその女は、どうやら茂市の年来の愛人であったらしく、胃潰瘍の床に横たわるセキには、何もかも寝耳に水の事態だったのである。
車問屋の仕事をしくじった茂一は、一家を支えるに足る新しい仕事を見つけて、極めてご機嫌だった。その仕事は、鉄道の枕木を調達し、それを運搬する林業関係の仕事だった。
このとき茂市は、病床のセキに向かって、「我が世の春よ」と誇らしげに語ったのである。
「我が世の春。本当に来るじゃろうかと、すぐには信じられんでしたが、茂市さんの目論見は成功して、私の病気も皮を剥ぐように、日一日と良くなり、我が家に本当に春がまいりやした」(モノローグ)
その「我が世の春」は、子供たちの成長の内に表現されていた。
長男の虎男は鉄道の機関士、三男の三郎は電車の運転手、スエ子は広島に出て看護婦になった。それぞれ学校を出て自分の好きな道に進んだのである。
昭和八年のお盆。
紡績工場の様子・ブログより |
オト代の用件は、工場の炊事係をしている青年との結婚の報告であった。
何から何まで自分の意志で生きてきたオト代の強さが際立つが、しかし一言の相談も受けずに、その報告を聞くセキの気持ちは複雑だった。
彼女は、養女時代以来、長女に何もしてやれない歯痒さが残念でならなかったのである。
それでもセキは楽天的で、しっかり者のオト代の身の振り方に全く心配していない。せめて長女の結婚式を、できるだけ心を込めて祝いたいという気持ちで一杯だったのである。
子供たちの幸福な表情が映像に映し出されたまさにその頃、父茂市の女性問題が発覚した。
茂市が以前自宅に連れてきたオヒナとの関係が目立ってきて、セキの心を深く傷つけることになった。
夫の前で号泣するセキは、子供たちの強力な援護もあって、茂市の身勝手さを責め立てた。
妾のオヒナを自宅に同居させることに反対するセキの心は、夫を信頼する気持ちを失って、どこかで諦めの感情を澱ませていたのである。
「それからの毎日は、茂一さんとは同じ屋根の下に暮らす、全くの他人でがんした。私は何事にも目を瞑り、昼はなるたけ、野良仕事に出かけるようにしやした。夜は三郎の送ってくれたラジオで気を紛らわしておりやした」(モノローグ)
一つの狭い家の中で、茂市とオヒナが同居している。その奥の座敷に、セキが一人縫い物をしている。異様な光景だった。
そんなとき、三男の三郎に召集令状が届いた。
三郎は兵役の前に、両親に自分の結婚の意志を伝え、その許可を求めたのである。
翌日、三郎は壮行歌と幟に送られて入営の途に就くに至った。
ところが、入営したはずの三郎が戻って来た。
兵役検査で脱腸を疑われて、その夜、自宅に戻されたのである。
「恥をも知らんと、よう帰って来たな、われ。餞別までもらって、よう、おめおめ帰られたな」
父、茂市の怒りが爆発した。しかし、母のセキだけは息子を庇った。
「家(うち)へ上ることならんぞ!人並みの御奉公できん奴は、家の息子じゃなぁわ。出てけ、出てけ!」
「三郎はわしの子じゃ、ここの家の子じゃ!」
母は、息子を自宅に上げて、優しく言い添えた。
「こういうこともあろうかと思うて、わしゃ、妾と一緒に住んでも、この家、出ていけなんだんよ」
息子は一人で号泣していた。
左から三郎、オヒナ、茂市、セキ |
「わしゃもう、死ぬほど恥ずかしいわ」と茂市。
「ホンマに格好悪いな。脱腸で返されるやなんて。隣近所に、よう顔合わされへん」とオヒナ。
このオヒナの言葉に、奥の部屋に蹲(うずくま)るように小さくなっていた三郎の心が炸裂した。部屋から飛び出て来て、オヒナの前に立ちはだかったのだ。
「わりゃ、出て行け!出ていけ!」
彼は今まで心の中で溜め込んでいた澱んだ感情を、父の愛人にストレートにぶつけたのである。
一度噴き上がった感情は粗暴な身体表現に流れていって、一見、平和的な囲炉裏端の空間を異様な緊張感で包み込んでしまったのである。
三郎は咄嗟にオヒナに向かっていくが、鉄拳を振り上げる父からそれを奪い、その父に激しく感情をぶつけていく。そこに怒号だけが響き渡った。
息子を憐れむセキは、その状況に合わせる言葉を持てないでいた。彼女は泣くことによってしか、息子に寄り添えなかったのである。
その息子は父に向かって、きっぱりと言い切った。
「お父さん、わしの病気は手術すりゃ治るけえの!治ったら志願してでも戦地に行く!」
セキの涙は止まらない。それに合わせるかのように、三郎は今度は父に頭を下げて懇願した。
「わしが安心して、戦地に行けるようにしてつかぁさい」
三郎は、同じ屋根の下に母と愛人が同居する現実を認める訳にはいかなかった。
それは母を思う息子の素直な感情の表出だった。
息子の言葉に父は反応できず、奥の部屋に引っ込んだのである。それは、オヒナに対する父の絶縁のシグナルのようにも見えた。少なくとも、オヒナはそう受け取った。
「わしが出て行きゃ、いいんじゃろ。出てったるわい!どこへも行くとこあらへん、橋の下で乞食だって、何だってしたるわい!」
出て行こうとするオヒナを、セキは必死に止めようとした。情に弱いセキの咄嗟の行動だった。
しかし息子は、そんな母の行動を止めるのだ。
「お母さん、止めときんさい!乞食になろうと、どがいになろうと、知ったことかい!」
オヒナはそのまま、夜の闇に消えて行った。茂市はオヒナを放出したのである。
「三郎は脱腸を手術して、そのまま故郷へは帰らずに、志願して戦地に行きやしたが、沖縄で戦死し、広島にピカドンが落ち、茂一さんはスエ子の行方へを探しに行きやしたが、とうとう知れませなんだ」(モノローグ)
5 セキと子供たち
時代は移った。
広島県・呉軍港空襲(ウイキ)
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「そして大東亜戦争は終わりやした。虎男は戦死の公報はありませなんだが、まだ帰って来ませんでした」(モノローグ)
戦災の恐怖から解放されて、茂市とセキの老夫婦は、牛を牽(ひ)いて水田を耕していた。
茂市が倒れたのはその時だった。
セキは懸命に夫を担ぎ上げ、家屋に運んだ。
「二人で荷車引いたときのことを思い出して、元気出してつかぁさい」
肩に背負った夫に呼びかけるセキの気迫は、まるでこんな時のためにあるかのような凛とした態度に満ちていた。
背負われる夫と、夫を背負う老婦人の構図は、そのまま、この映像の一つのメッセージを表していた。
「お医者さんに見せると脾臓が腫れとるとだけで、病名も分らず、血を吐き続けて、駆けつけた子供や孫に看取られて死んでいきやした。今思うと、スエ子を捜しに広島に行って、原爆に取り憑かれたんじゃございますまいか」(モノローグ)
茂市が逝った。
葬式が済んで、その喪に娘たちが集まっていた。
そこに三郎の義母がやって来て、オヒナが線香をあげたい旨を伝えた。
反対するオト代たちを制止して、セキはオヒナの来訪を快諾したのである。
「今は憎うもありゃせん。あれも可愛そうな年寄りじゃけんのう」
セキはオヒナの手を握り、オヒナもセキの手を握り返した。
セキは、自分を追い出した男のために、線香を上げに来たというオヒナの義理堅さに打たれたに違いない。二人の思いが、そこに小さく繋がったのである。
孫たちが、セキを荷車に乗せて動き出した。
セキは茂市の供養のために笹餅(笹の葉で包んだ餅)を作るつもりだった。
その笹餅用の笹を、山に採りに行こうとしたのである。
しかしセキにとって、荷車は自分たちの命を繋いだ最も大切な商売道具だった。
荷車の上で、孫たちの童謡が輝くような空に踊っている。
母を乗せた荷車の向こうに、人影が見えた。それが近づいて来て、セキはその人影が長男の虎男であることを確認した。
「お母さん!」
虎男の発したその言葉に、家屋に居た姉妹や嫁が飛び出て来て、満面の笑みで迎えたのである。実母のセキは、打ち震えるような感動で言葉が出てこない。
映像は、虎男とセキが接近する姿を小さく映し出して、閉じていった。
これが、最後まで感傷に流さなかった本作の、印象深いラストシーンであった。
* * * *
6 一級の人間ドラマ、一級の家庭劇
以上の物語は、1959年に新東宝で製作された。
それからおよそ半世紀の月日が流れた。
しかし今観ても、この映画が放つ圧倒的表現力は、殆ど他の追随を許さない程だ。
現代日本映画が束になってかかって来ても、この低予算映画の底力に吹き飛ばされてしまうだろう。
確かにこの映画には、「社会派の巨匠」が作り出した作品の体臭が其処彼処(そこかしこ)に溢れているが、しかし本作は、「全ての労働者、農民に幸あれ」という、愚にもつかないアジテーションに流れ込むような三流のプロパンガンダ映画にはなっていない。
間違いなく、本作は一級の人間ドラマであり、一級の家庭劇であった。
それは、時代の激しい移ろいの中に呼吸を繋ぐ人々の愛憎劇であったが、物語の中心に座る一人の女の普通の振舞いが、時には後光のような輝きを見せることで、本作は、「普通に生き抜くこと」の大切さを、自然な物語ラインの内に刻み付けることに成就した秀作であったと言えるだろう。
7 退路を断った者の強さ
―― この秀作を、もっと簡潔にまとめてみる。
主人公のセキは、姑から冷たくされても四人の子供を育て上げ、車問屋になる日を夢見つつ、隙間のない日常性をひたすら重ねていく。
娘を養女に出し、姑の死を優しく看取り。他の誰もがそうであったように、平等に貧しかった時代が強いた日常性には終りがこない。
やがて鉄道が敷かれ、荷馬車での搬送が一般化され、手仕事だけの荷車引きの仕事は時代から取り残されていく。
それでも、日本の女は強い。
子供たちをそれぞれ自立させていく母のパワーは、恐らくこの時代に頂点を極めていた。夫が愛人を自宅に同居させても、妻の座を譲ることなく普通に遣り過ごす。
圧巻は、病気の故に兵舎から送り返された次男に対して、愛人と一緒になってその「非国民性」を面罵するシーン。
母思いの次男が遂に切れて、愛人を難詰(なんきつ)し、結果的に家から追い出してしまうのである。
時代の空気を見事に写し撮ったこの「描写のリアリズム」は、社会派監督らしい演出の冴えを際立たせていた。
やがてそこにしか逃げ道がないかのように、病気を治癒した次男は再び兵役に就き、そして戦死する。
この一連の厳しい文脈を、母はひたすら悲しむことによってしか受容できない。
その悲しみの受容は、原爆の後遺症によって畑で倒れる夫の最期の描写をもって、果たして完結したか。
その葬式の日、孫たちを荷車に乗せた老婆は最後まで力強く、彼女の全てであった労働を捨てなかったのだ。
明治から昭和の時代までを生き抜いた、名もなき女の一代記は、こうして映像的完結に至るのである。
唯、それだけの話だった。
それだけの話だが、この一生を経験的になぞっていく覚悟を持つ者が果たしてどれだけいるだろうか。
そのような時代があった。
そのような時代の制約の中で、人々は身過ぎ世過ぎを細々と繋いでいった。
しかし今、私たちには、「そのような時代」も、「細々と繋ぐ暮らし」も、貧弱なる想像力によってしか把握できないであろう。
仕方ないことである。
均しく貧しかった時代の中に、その主体的意志によって選択的に後戻りさせる覚悟を本気で持つ者が存在するとは、私には到底思えないからだ。
それでいいのだろう。
しかしそれだけで済まないものが、この映画にはあった。
そこに普遍性を感じさせる何かがあった。
なぜなら本作が一級の人間ドラマであり、その種のドラマが内包する価値は、殆ど普遍的なメッセージに繋がる何かを持っているからである。
この映画の主人公であるセキは、殆ど等身大の、ごく普通の女であった。
映像に映し出された彼女のバイタリティは、その時代に生きた女性の生活感覚と特段に変わるものとは言えないであろう。
懸命に働かなければ生きていけない時代の中では、労働に明け暮れる日常性は特筆すべきものではない。
週休二日制の8時間労働が定着した現代に、当時の女たちの日常性の艱難な時間のみを切り取って、それを顕彰すべき価値として喧伝し、表面的に移植しようとしても何の価値もないことだ。
確かに、この映画の基幹メッセージを、「汗水流して労働することへの尊厳と、その尊厳を日常性において表現する者たちへのオマージュ」と把握することは容易である。
しかしそんなフラットな把握の内に、映像の表現的価値を収斂させてしまったら、当時流行した、「社会主義リアリズム」の映像表現の範疇で処理されてしまうのが落ちであろう。
果たしてそうなのか。
一級の人間ドラマが内包する価値は、時代の枠を突き破り、国境の狭隘なバリアを超えていくであろう。この物語もまた、そこをクリアしたからこそ、21世紀に生きる私たちの普通の感性に届き得る普遍的パワーを持ち得たのである。
繰り返すが、主人公のセキはごく普通の生活感覚で生きる、ごく普通の女性であった。
だからこそ観る者は、映像で描かれた彼女の苦労や苦悶、歓喜や感動という、ごく人並みの皮膚感覚に共感し、そこに深い思いを投げ入れることができたのである。
彼女は普通の女だったが、しかしそんな普通の女が持つある種の強靭さをも体現した女性だった。
その強靭さは特段の輝きを放つものではないが、それでも固有の存在感を充分すぎるほど体現していたのである。
セキの強靭さは、彼女が茂市と知り合い、親の反対を押し切って結婚したその意志の継続力に現われていた。これが彼女の、大地に深々と根を張った物語の端緒となったのである。
彼女は茂市との生活を共存する運命を選択したことによって、それ以降のシビアな精神的、生活的レベルの課題に取り組むことを余儀なくされた。
それは、当時の女性の多くがそうであったような選択であったかも知れない。
しかし、姑との想像を越える確執や、荷車引きの現実の厳しさは、彼女の細(ささ)やかなドリームラインを逸脱するものであったに違いない。
彼女の選択は、もう後戻りできない選択だった。
彼女はそこで荷車を引き、姑と折り合いをつける人生から逃げられない状況に、自らを投げ入れたのだ。
彼女の強さは、退路を断った者の強さだったのである。
彼女のこの「退路を断った者の強さ」の根柢には、夫となった茂市への思いの強さがある。
茂市を選択した彼女は、その選択によって必然化する生活的、精神的負荷をも選択したということに尽きる。
その負荷が想像以上だったとしても。彼女は茂市を選択し続けたのだ。
それ以外の選択がなかったと言うよりも、セキという女が、茂市という男を人生の伴侶に選び切った意志の強靭さこそ天晴れだったと言うべきか。
8 帰るべき場所を作った女
然るに、セキの強靭さは、その性格的な尖りに由来するものではない。セキは強靭であったと同時に、深い愛情の持ち主でもあった。
彼女のその愛情は、彼女が分娩した子供たちに対して集中的に注がれていく。
とりわけ、長女のオト代の不幸な幼少期に現出した姑との確執が、遂にオト代を手放すという事態を招来したときの、母セキの苦悶は、観る者の同情の範疇を遥かに超えるものがあった。
娘に対する深い後ろめたさの感情が、終生、母セキの心の澱となっていたと想像するのに難くない。
恐らくこの感情が、他の子供たちへの愛情補償の牽引力になったに違いないのである。
映像終盤で、セキが三男の三郎を頑なに庇護する行動は、そんなセキの我が子への共通した思いの深さを象徴的に炙り出していた。
愛情の継続力こそが、セキの真骨頂であったとも言えるのである。
そんな母の下で自我を育んだ子供たちの成長の軌跡は、特段に際立つものではないが、しかしいずれの子供も卑屈に流れず、素直で健全な精神に繋がっていったのは、母の愛情の過不足のない被浴に因っていると考えるのが自然である。
それは、「子供の自我を作るのは母親である」という基本命題を検証するもの以外ではないのだ。
そして、身近なものに対する彼女の包容力の深さは、姑やオヒナとの関係に於いても存分に発揮された。この時代、姑との確執は不可避であったからだ。
現在の三次市・高谷山から見た朝霧(ウィキ) |
一人の女が他家に嫁ぐとき、それは、自分が嫁いだ先の絶対規範への順応以外にあり得ない。
そこには、自分が夫と頼む一人の男がいる。
しかし、その男が長男であったとしても、その男に実母がいる以上、男に嫁いだ一人の嫁は、男の実母=姑との関係基盤を安定的なものにしなければならない大仕事があった。
その仕事は、姑がかつてそうだったように、自分が嫁いだ先の男の実母から、有無を言わさず下達されてくる。
それは、細々とした生活規範を如何に遵守し、それを次の世代に繋いでいく役割をも担うものであったと言えるだろう。
その仕事を問題なく処理していけば、姑との間で生まれた、ある種の権力関係は安定的に推移していくことになる。そのことによって、姑の立場と誇りが守られるからだ。
即ち、嫁の献身的努力における規範の内化は、姑の細(ささ)やかだが、しかし、それだけは譲れないプライドラインの保証に繋がるが故に、極めて由々しき事態であったと言えるのだ。
セキの長女のオト代の反抗は、姑にとって、オト代の母であるセキの不従順なる態度の反映にしか映らなかったに違いない。そこに問題の全てがあった。
「お婆、死ね!」というオト代の悪罵は、一人の老女のその姑性の全否定以外の何ものでもなかったのである。
たとえ相手が子供(孫)であっても、「姑性」を否定する悪罵は、まさにその姑にとって、そこに厳然と存在しなければならない権力関係の否定であり、ひいては、その権力の中枢に座るべきはずの長老である者の人格の否定でもあった。
姑にとって、オト代は庭の木で縛るべき「悪ガキ」であり、その束縛を断ち切って地蔵堂に篭った孫娘の反抗的態度に対しては、もはや保護すべき対象の埒外に置くべき何者かとして処遇するしかなかったのである。
当然の如く、姑の憎悪は、オト代の母のセキに向わざるを得ない。
茂市の妻であるセキには、茂市の母の冷たい仕打ちに耐えるしか術がなかったのである。セキには、異議申し立ての権利も自由もない。茂市にも殆どない。言わずもがなのことである。
一家の長老である姑の権力性が破綻したら、村落における「長幼の序」(年長者と年少者の間に存在する関係秩序)という絶対規範が壊れてしまうのだ。
それは、特定の土地に定着して生きる農耕民族のメンタリティであると言っていい。如何なる者も、それを壊す訳にはいかないのである。
茂市の母もまた、この家に嫁いだ際に、その若い自我に絶対規範を鏤刻(るこく)されてきたのだ。
「嫁ぐ女」には、このような心理的圧迫をその人格の総体で受容して、それを繋いでいく宿命から決して逃れられないのである。
村落共同体の下にあって、「嫁ぐ女」には、そんな文化的伝統が未来永劫に続くであろう堅固な規範に思われたに違いない。
それ故にこそ、茂市の母はその崩れを危惧し、恐れさえしたのであろう。
茂市の母にとって、そのような把握はあまりに自然なことだったのである。
彼女は決して「鬼婆」ではないのだ。
特段に歪んだ性格ではないし、嫁いびりでストレスを解消する性格であるとも思えない。
彼女は単に、自らが「嫁ぐ女」という役割を苦労しながらも負ってきた、そのごく普通の規範馴化の歴史の中で、自分がそうされてきたような規範の強制を新たな家族に、普通の感覚で求めたに過ぎなかったのである。
しかし茂市の母は、心ならずも病の床に臥(ふ)して、セキの看護を受けることになった。
姑と嫁の関係の内に潜んでいた権力性が一気に中和化され、そこに一人の年寄りと息子の嫁という、単純な関係の構図だけが、特別の意味を持つことなく晒されることになった。
嫁は夫の母を、義理の母としての特別なスタンスを持つことなく、一人の普通の人間としてのあるべき看護を表現しただけだった。
この表現の内に含まれていた善意を感じ取った茂市の母は、素直にその看護を受容したのである。
それは、姑と嫁の和解が決定的に固められた描写となったが、しかし、その関係が辿り着いた辺りでセキが手に入れた微睡(まどろみ)は、絶対規範なるものを柔軟な了解ラインで受容できていたならば、本来そのようにあるべき関係の着地点に、容易(たやす)く辿り着けたに違いないという学習を媒介するものであっただろう。
二人の年の隔たった女がいて、その二人の女が通過してきた共同体のルールの学習に歳月の隔たりが存在しただけで、それ以外にどのようなバリアもなかったということだ。
バリアの力学が劣化すれば、生身の身体と心が、そこに自然な感情を乗せて自在にクロスすることができるのである。
病を得て、茂市の母は初めて嫁の心を受け入れた。
その心に善意が溢れていることを感じ取ったとき、茂市の母は、自らの姑性をかなぐり捨てることができたのである。
セキもまた、その本来的な善意を身体表現するだけで、その思いを相手に届けることが可能であることを存分に学習したのである。
病に臥した茂市の母の枕元に、成人したオト代の明るい笑顔が飛び込んできた。
茂市の母は、かつて自分を悪しざまに罵った子供の成人した姿に立ち会って、そのオト代を育てたセキの愛情教育が決して歪んでいなかったであろうことを、しみじみ悟ったに違いない。
そのとき、茂市の母は、さめざめと泣き伏した。自分の仕打ちを詫び、謝罪すら乞うたのである。
この情景描写に不自然な演出が全く感じられなかったのは、そこで交叉された感情の出し入れが極めて写実的で、この起伏に富んだ物語のラインが、観る者に受容し得る充分な伏線として映像的に用意されていたからである。
もう一つ。
オヒナに対するセキの包容力が如何なく発揮されたのは、茂市の葬儀の後の描写に於いてであった。
一本のお線香を上げたいと願うオヒナを、セキだけが快く受け止めることによって、そこに年来の立場上の確執に対する和解が呆気なく成立したのである。
元来、オヒナという女は、愛人の身でありながら、本宅に乗り込んで居座ってしまうような厚顔無恥な女である。
茂市がこんな女に入れ揚げたのは、恐らく働き者で、しっかり者でもあった妻のセキに物足りないものを感じていたからに違いない。
殆どの男がそうであるように、茂市もまた懇ろな男女関係を求めて止まない男であった。その隙間に侵入してきたのが、既に年増芸者然としたオヒナだった。
彼女は男に媚びる能力に優れていて、茂市の心をしっかりと捕捉した。
経済的自立を達成できていないオヒナには、茂市に頼る以外に方法がない事情があったのだ。それが本妻との、本宅での同居生活という異様な状況を作り出した原因になったのである。
そんなオヒナに対して、激しし怒りをぶつける気力をも萎えていたセキには、「全て夫が悪い」という把握があるのみで、後は殆ど諦め気味の同居生活を継続するに至った。
状況が一変したのは、三男の三郎の兵営からの帰還という事態が出来したときだ。
脱腸で兵役を免除され、「不名誉な帰還」を果たした三郎に、父の面罵が出迎えた。
既に老齢化した父にとって、「脱腸で返された息子の父親」というレッテルは、何よりも恥辱この上ないことだった。
こんな父の思いは、当時のこの国の人々の平均的観念を代表するものだったと言える。
だから父のとった行動は、必ずしも理不尽極まるものではなかった。それを息子も感受している。
徴兵検査の様子(ウィキ) |
しかし父茂市の面罵に合わせるかのように、愛人でしかないオヒナの物言いに対して、それでなくとも屈辱感に打ちのめされている三郎が激しく反応したのは、蓋(けだ)し必然的だったと言えようか。
このときのオヒナの心情は、茂市の心情と重なってはいるが、しかし、敢えて茂市とテンポを合わせるその言動は、紛う方なく、茂市に対する配慮の感情に支配されていたと言えるだろう。
この一件で、オヒナは身を寄せるべき場所を失ってしまった。
このとき、茂市はオヒナをサポートしなかったのである。
息子に愛人との同居の不道徳を逆に反駁されて、父はそれでもう何も反応できなくなってしまったのだ。
このことは、茂市が愛人との同居の既成事実化に対して、心のどこかで後ろめたい感情を持っていたことを暗示している。
恐らく、近所でも悪い噂が立っていたに違いない。
だからこそ、茂市は「脱腸で返された息子の父親」というレッテルを貼られることを、ひどく恐れていたとも想像できるのである。
同時に、母セキもまた何もできなかった。
ひたすら、息子を守ることに神経を注いだのである。
母の優しさが息子の心を多分に溶かし、その溶かされた心を持って、息子は脱腸の手術を受け、まもなく前線に散る運命を自ら選び取ってしまったのである。
それでも 母は、そんな息子に悲しみを寄せることしかできなかったのだ。
セキのモノローグは淡々としているが、その言葉の奥に含まれる様々な感情の揺曳のさまは、観る者に充分に想像可能な繊細さを有していた。
オヒナが茂市の遺影に線香をあげに訪ねて来たとき、セキだけがそれを受け入れたのは、オヒナの中になお残る、茂市に対するある種の継続的な思いを感じ取ったからでもあろう。
セキという女は、人の思いを大切にする人間だった。それが、セキを主人公とするこの映画の生命線であったと考えられる。
人の思いを大切にする人間は、自分の思いの過剰な部分に気づくことのできる人間でもある。セキはあらゆる経験を通じて、自分の中の過剰な部分を削りとっていったのだ。それが彼女の包容力の秘訣だったのである。
彼女は明らかに、この映像を通してそれなりの学習的達成を果たしている。彼女は学習できる女性だったのだ。
だからといって彼女は、特別に抜きん出た能力を持つ女性という訳ではなかった。
それでも、あらゆる経験から学習できる人間は強いのだ。
オヒナに対する包容力は、姑との確執の経験の中で学び取った美徳であると言ってもいいのである。
やはりこんな人間が一番強い。それ以外の言葉を持ち得ないのである。
結局、セキという女は何者だったのか。
彼女は勤勉な女だった。そして、子供たちを愛情深く育て上げた母親だった。
更に、自分が嫁いだ家を最後まで守り抜いた女だった。
それだけの女だったが、彼女はそれだけで充分に価値のある仕事を成し遂げた女だったと言える。なぜなら、それらの美徳こそ人間としての普遍的価値を有する何かであるからだ。
成人したオト代の帰参を嬉々として迎えるセキ |
人がその土地を離れ、遂に帰るべき場所を失ったとき、人は最も寂寥なる人生を閉じることになるであろう。自分が帰るべき場所を持つか持たないか、それが人間にとって最も大切な人生の要件であると言ってもいい。
セキは、少なくとも、自分の子供たちが帰るべき場所を作り上げ、それを守り抜いたのである。
母親として、これ以上の大仕事はないと言えるかも知れないのだ。
映像で観る限り、セキの家を離れた子供たちは、必ず帰るべき場所に戻って来た。
そこに、彼らの母が呼吸を繋いでいたからである。凛として繋いでいたからである。
子供たちの帰還はお盆の帰還であったり、祝祭の帰還だったり、葬儀の帰還であったりした。彼らの帰還の理由には、彼らが他の場所で作り上げた新しい生活に絶望した故のものでは全くなかったのである。
彼らは常に堂々と帰還し、常に堂々と旅立っていった。
三郎の帰還だけは例外だったが、しかし、それは三郎の人生の敗北を意味する帰還ではなかった。不運にも三郎は戦場に散ったが、最後に長男の堂々とした帰還が描かれることで、この物語は、「愛情をかけて育て上げた子供たちの帰還」をテーマの一つとして包含されているだろうことが窺えるのである。
繰り返すが、子供たちの帰還の向こうに、セキという名の母が、堂々と両手を広げて待っていてくれるのだ。
山本薩夫監督 |
最後に、この映画の最も重要なシーンは、倒れた茂市をセキが担ぎ上げて、一歩ずつ泥濘(ぬかる)んだ水田の耕地を進み行く描写である。
このときセキは、夫を励ますように言い放つ。
「二人で荷車引いたときのことを思い出して、元気出してつかぁさい」
それは、荷車引きから身を起した老夫婦の、固い一本の絆を象徴する感銘深い描写だった。その言葉の中に、セキという女の一代記が凝縮されていて、天晴れな表現だった。
セキを演じた望月優子。そして茂市を演じた三國連太郎。
共に渾身の役者魂が炸裂していて、それもまた実に天晴れだった。
一人の「悪人」も出てこない映画の括り方もまた、天晴れだった。
この映画が、農家の主婦のカンパによって作られた独立プロの作品(製作は、「全国農村映画協会」)であることに、今更ながらに驚嘆する。
低予算でもこれほど濃密な人間ドラマを完成させる力量があることを見事に証明したのだ。遥か半世紀近く昔に。
(2007年6月)
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