序 私の魂のバイブルに近い何か
人間だけが想像力を持つ。
それが人間を他の動物と分ける。想像力の起点としての肥大化された脳は、人間に固有な財産である。合理的に思考し、目的的に行動し、広く外部環境に適応する総合的能力としての「知能」(アメリカの心理学者で、WISCなどの知能検査の開発で著名なウェクスラーの把握)を司り、感情を抑制する人間の自我は、その肥大化された脳の中枢であり、その機能こそが、人間が人間であるための条件を決定づけるのである。
人間とは自我なのだ。
しかし、その自我を形成的に保有してきたばかりに、人間は様々な事態や刺激に対して、その反応に程度の差こそあれ、しばしば、必要以上に苦悩するという内的宇宙を作り出してしまった。
苦悩こそが、人間という稀有な生物を説明するときの、最も相応しい概念かも知れない。外部からの不快な情報に対して苦悩という感情でそれを受けとめ、自我がその情報の処理にクタクタになるまで疲弊するその継続力、それこそ人間的なるものの内部宇宙の実相と言っていい。
私たちが「精神」と呼ぶその営みが、「時間」という観念を作り出した。
「時間」の観念をインナートリップする極めつけの能力こそが、人間の固有なる想像力である。しかし、それは時として闇を抜ける突破力であるが、自らを闇の内に封印する危うい攻撃性を内包するものでもあるのだ。
私の想像力も長く闇の中で蠢(うごめ)き、彷徨し、虚空を暴れ回っていた。
2000年5月、自らが招いたガードレールクラッシュによって、身体の自由を奪われた私の想像力はいつも澱んでいて、恐怖に満ちた未知なる時間の扉を決して開こうとしなかった。
明日を考えることは、絶望の濃度を一日分深めるだけであり、過去を思うことは悔恨の念を増幅させるだけなのだ。だから私の想像力は、その日に受ける検査のことであり、今、このときの痛みを緩和する薬を飲むことであり、固定された体が許す視界が収まる無機質な風景を嗅ぎとることだった。
私の想像力は、今日という人生の呆れるほど長い時間を、いかにやり過ごすかということに集中していたのだ。
私の自我は閉鎖系に見事なほどに完結していて、そこで生まれた想念の悉(ことごと)くが、圧倒的なペシミズムに搦(から)め捕られていた。
時間の中を平気で移動させないように想像力を凝縮し、それが余計な観念を引き摺り込むことを、私は最も恐れていたのである。大した容積を持たない想像力の勝手な振舞いを、私はかつてこれほど嫌悪したことはなかった。想像力を持つことのこの疎(うと)ましさ。
私は人間であることを呪い、存在することを呪い、「時間」を感じさせる情報が入ることを呪ったのである。もはや、安楽死だけが私の願いの全てだったのだ。
乾いた病室の、機能的なだけの電動ベッドに括られて、もし地震が襲ってきたら、閃光を発するや否や垂直落下しかねない人工燈を仰ぎ見て、私は30年も前に見た一本の映画のことを、しばしば思い起こしていた。
凝縮させた想像力の中から、遥か昔に観た映画の断片的記憶が掘り起こされたのは、私にとって、それだけは自然だった。
人は辛いとき、それよりももっと辛い人生を歩む者のことを考えることで、自分の辛さが幾分相対化される。
その映画は、私の辛さをほんの少し相対化してくれる若者について語られていた。
それが当時の私の、その映画についての朧(おぼろ)げな記憶だった。そしてその若者もまた、私と同様に、いや遥かにそれ以上に身体の自由が奪われていた。
彼が奪われていたのは、それだけではない。
思いや感情を、他者と濃密に交歓する自由も奪われていたのである。
その人格が医学的理由のみで丸ごと管理され、そこには、一切の表現の自由が存在しなかった。その若者はあくまでも創作上の人物でしかなかったが、私には、自分が入院している病院のどんな苛酷な患者よりも、映像に映し出された若者の苛酷さの方が感情移入しやすかったのだ。
なぜなら、若者が置かれた「絶対孤独」の心境が、本質的なところで、私の内的状況に通底するものがあったからである。
ジョニー |
映画タイトルでは、ジョニー。その映画の名は、「ジョニーは戦場へ行った」。
この時期に青春を送った者には、その名を知る者がいないと言っていい、あまりに有名な作品である。
物語の架空の主人公であるジョーという名の青年に支えられて、私は他者には絶対理解し得ないと信じる自分の病気(脊髄損傷)を引き受けようとした。しかし、彼もまたそうであったように、私はとうていその病気を引き受け切れなかった。その病気を引き受けるには、私の精神はあまりに脆弱すぎたのである。
中枢性疼痛と、麻痺による痺れの名状し難い苦痛は、私の自我を残酷なまでに削り取っていく。
明日もまた、この絶対的苦痛が継続することを想像してしまう不快感は、それを振り切れば振り切るほど、意識が囚われるという、人間としての業を否応なく反芻させてしまうのである。
病気が幾分回復する束の間の急進期に、若干の身体の自由を手に入れた私は、それでも決して振り切れない疼痛に悩まされながらも、感情の出し入れを自ら拒んだ病院を退院し、文明と地続きのマンションの地下生活に潜り込んでいったのだ。
そこで私は、映画三昧の日々を送ったのである。
そして、どうしても観たかったその映画に、待ちに待った挙句ようやく辿り着いた。それを録画テープにとって、繰り返し鑑賞したのである。
疼痛の中、今もそれを観て、何かを吐き出すような思いでこれを書いている。
それは、呼吸を繋ぐ限り途絶えることのない私のリハビリ人生の、このような形での実践であるからだ。
「ジョニーは戦場へ行った」という映画は、誇張ではなくして、まさに私のための映画であり、私の魂のバイブルに近い何かなのである。
1 虚構のラインの堅固なバリアを呆気なく突き抜けて
ジョーという若者の物語は、あまりに悲痛である。
その悲痛な物語の作者は、ドルトン・トランボ。
あまりに著名な「ハリウッド・テン」(「真実の瞬間」の項参照)の中で、筋金入りのコミュニストであった彼の脚本、監督を兼ねた入魂の一作こそが、「ジョニーは戦場に行った」という、ニューシネマの傑作であると同時に、アメリカ映画史に固有の輝きを放つ秀作であったという訳である。
因みに、コミュニズムとは無縁な私を常に引き付けて止まない人間ドラマの傑作を、しばしば世に送り出してくれる映像作家の渾身の表現への評価の高さは、「コミュニストのプロパガンダ映画」という愚にもつかぬラベリングに流れない把握を含めて、そこではもうイデオロギーとは完全に切れているが故に、映像の内実の質の高さのみが私の関心事でしかなくなっているのだ。
私はただひたすら映像の内実、就中(なかんずく)、そこで表現された秀逸な人間ドラマが放つ奥深い感銘と出会うためにのみ、数多の映像作品の鑑賞を我慢強く繋いでていく。
確かに本作には、私の過分な感情が投げ入れられているが、基本的には以上の文脈を逸脱するアプローチはしていないと断言できる。「絶対孤独」の闇に呑まれつつある、一個の自我の究極の呻吟がそこに刻まれ、その呻吟の身震いするほどのリアリティが、私の心を決定的に把握してしまったのである。
ジョーという若者の物語があまりに悲痛であり過ぎていて、その悲痛さが虚構のラインの堅固なバリアを呆気なく突き抜けて、深々と私の内側に喰い刺さってきてしまうのだ。それは、私の過分な思い入れの範疇に収まりきれない何かであった。
―― 余計なことを書き過ぎた。この辺りで、映像の世界に入っていこう。
2 破壊され切っていなかったが故の悲劇
舞台は、第一次世界大戦下のヨーロッパ西部戦線。
そこにアメリカ・コロラド州出身のジョーが出征し、そこで被弾した。
映像の冒頭には、既に負傷兵となったジョーの肉体が軍医長の診断によって、医学の実験材料として利用させる件(くだり)が紹介されていく。
映像の現在は、モノクロトーンのリアルな描写で流されていくが、そこで展開される世界は、医学のモルモットとなったジョーの苛酷さだけを映し出していくのである。
軍医長を中心とする、医療スタッフの会話。
「身元は?」
「不明です」
「我々が引き取ろう。治療が済むまで、私が責任を持つ・・・こんな研究材料のためなら、時間など惜しくない」
「意識がない」
「脳の中で延髄(注1)だけが唯一損傷を逃れた。・・・だから心臓や呼吸中枢は機能し続けている。つまり生きていける訳だ・・・小脳の機能により、身体的運動が見られるが、この動きに意味はない。これは筋肉の反射運動にすぎず、動きが激しく継続的ならば、鎮静剤を投与すること。大脳は甚大な損傷を受けている。そのために彼を生かしておくのだ。他の患者を救う研究材料として、彼を生かすことが正当化される。
彼を意識ある人間と見なし、やさしく看護すること。優秀な看護婦は、患者に感情移入してはならない。そうなることを避けるために、脳を損傷した人間は、痛みも喜びも記憶も夢も思考もないと、肝に銘じること。つまり、この青年は死が訪れる日まで、死者と同じように感覚も感情もないのだ」
(注1)脳の最下部で、「盆の窪」に当る部分。呼吸、循環器の中枢である。因みに、小脳は運動機能の調整に大きな役割を果たす。
しかし、ジョーの脳は破壊されていなかった。破壊され切っていなかったのだ。
それが、この映画の悲劇の全てである。
彼は感じることもできるし、思索することもできた。つまり殆ど喪われた彼の肉体で、最も重要な脳が損傷を受けないことによって、若者には苦悩するという感情が生き残されてしまったのだ。
その生き残された脳で、ジョーは必死に思い出そうとする。自分がなぜここにいるのか、彼はその理由を懸命に探るが、未だ不分明なのである。
しかし、彼には記憶があった。
出征の前日、恋人カリーンと共に、最後の夜を彼女の部屋のベッドで送ったことを。
そして翌日、カリーンが、「行かないで」とジョーの出征を断念させるために哀願するが、ジョーは「兵役忌避できない」と恋人に伝えて、軍歌のマーチが流れる風景の中で列車に飛び乗った。
ハリウッド映画にはあまり見られない、沈黙する恋人同士の静かな別れが、そこにあった。
3 「誰かが君を救える振りをする方が残酷だ」
切ない別れの回想が切れて、今は壊れた肉体を乗せるベッドの上。
モノクロのシーンの中の、ジョーのモノローグ。
「なぜ明かりをつけない?ここは暗い。暗くて静かだ。血管を血が流れているのを感じる。脈拍が聞こえない。耳が聞こえないんだ。・・・そうじゃない。多分、夢を見てるんだ。痛い!汗が流れているのを感じる。熱くて湿った肌。体中が包帯で巻かれている。頭もだ。直撃を喰らったに違いない。嫌だ・・・」
そこに、担当の軍医が部屋に入って来た。
彼は患者の呼吸が平常であることを確認した後、陸軍病院の一番目立たない倉庫に、ジョーを搬送していったのである。
ジョーはまもなく、自分の腕も足も切り取られていることを知って愕然とする。彼は頭を懸命に揺さぶりながら、叫んでいた。
しかし、その声は誰にも届かない。彼が頭を揺すっても、看護婦は軍医長に言われたように、それを反射運動としか考えないのだ。
「目も口も歯も舌も鼻もない。抉(えぐ)れているだけだ!これが僕だ。そして生きている!これは僕じゃない!こんな姿で生きていけない!嫌だ、誰か助けてくれ!母さん、どこなの?悪夢から覚めないよ。母さんが起してくれないと、何年も、何年も。僕のために祈って・・・」
回想が祈りに及んだとき、映像は教会での祈りの描写を挿入した。
「恒久の平和を願うこの聖なる戦いに於いて、若き命を散らした全ての兵士たちへ、彼らが犯した、あらゆる罪は許された。父と子と精霊の名に於いて、アーメン」
祈りの描写によって、この映画が反戦をアピールする作品であることを明瞭に示している。
「こんな場所では考え続けるしかない・・・」
ジョーは精神を集中しようとするが、額に何かが触れて、彼は自らの肉体が鼠に齧られているという恐怖感を訴える。しかしその訴えに誰も耳を貸さない。
ジョーは、キリストに救いを求めた。
「鼠がいても、僕には追い払う腕がない。何もない。生きる肉の塊です」
ジョーの訴えに対して、キリストは救世主のような反応を避けたのだ。
「君の現実が悪夢以上のものなら、誰かが君を救える振りをする方が残酷だ」
このキリストの極めつけのような言葉は、映像を貫流するメッセージであるとも言える。しかし、そのメッセージはあまりに残酷すぎた。
このとき、生きる肉塊を認知するジョーが、自らが肉塊になったあの残酷な一瞬を、遂に思い出したのだ。
有刺鉄線にドイツ兵の死体が引っかかっていて、ジョーを含む数名の兵士が、上官からの命令で、夜間それを取り除く任務を受け、その作業中に彼は被弾したのだった。
彼は今初めて、自分がこのベッドに肉塊となって横たわっている理由を知ったのである。
4 「時間」の観念を手に入れたとき
やがてジョーは、少年時代に見たサーカスの見せ物のことを思い出していた。
「こんな僕を見たら、どうするだろう。僕は管で食事してるんだ」
現在の自分の境遇と、かつてのサーカス見物の思い出が、ジョーの意識の中で重なっていた。そこでは、今は亡き父親がサーカス団長になっていて、息子の自分を見せ物として宣伝していたのである。
「この男は管で呼吸している。管から入ったものは、管からでていく。彼には腕もなく脚もない。まさに20世紀の奇跡だ。しかも人並みに生きている。・・・彼女(母)の尿瓶に15セント入れる。そしたらどうなるか。この箱のフタを開けて中をお見せしよう。世界を捨てて生きる、世界でたった一人の男だ」
映像の中に挿入されたこの毒々しい描写が、ジョーの希望的イメージをなぞったものである訳がない。彼の父親は釣竿だけを誇りとする平凡な働き者だったが、子供を思う優しい心は、いつまでもジョーの記憶の内に刻まれている。
父が元気だった頃、皆でキャンプに行って、父から借りた大事な釣竿をジョーは紛失したあの日のこと。息子は父に深々と謝った。責任を感じで意気消沈する息子を抱きながら、父は、「たかが釣竿じゃないか。最後の旅を愉しもう」と言ってくれたのだ。
闇の中でジョーが回想するのは、家族と恋人カリーンのことばかり。
若者にとって、故郷の思い出は温もりに満ちていたのである。
故郷の温もりが今の自分には無縁だと絶望しかけていたとき、小さな奇跡が起こった。
自分の裸の胸に、何か温かいものが触れてきたのである。
それが、人の指先で文字を伝えるものであることを知ったとき、ジョーは受傷以来、初めての感動を覚えた。
その指が新しく自分の担当になった、若くて美しい看護婦のものであると想像して、彼は震えたのである。
そのしなやかな指を通じて伝わってきたメッセージは、「メリー・クリスマス」。
彼はこのとき、相手のやさしい心遣いと、今日という日付けが意味する「時間」の観念を手に入れたのだった。
「メリー・クリスマス!神様、遂に日付を手に入れました!クリスマスから数えれば、春がきて、夏がきて、そして、秋には落ち葉を燃やす匂い。メリー・クリスマス、看護婦さん!」
まもなく、彼はもっと大きな奇跡を手に入れることになる。
夢の中の父にモールス信号での意志伝達の方法を示唆され、彼は我が意を得たと言わんばかりに、それを早速応用したのである。それを目撃した看護婦は、担当医にそのことを伝えたが、彼はジョーの動きを単なる反射運動と判断し、鎮静剤を打って部屋を後にした。
しかし、度重なるジョーのシグナルを知った病院関係者の連絡によって、まもなく軍医長を中心とするスタッフが一人の通信員を伴って、ジョーの部屋に入って来た。そして、ジョーのシグナルが紛れもなくモールス信号であることを、彼らに理解されるに至ったのである。
「SOS、助けてくれ」
それが、メッセージの内容だった。
「“君の”“望みは”“何か?”」
モールス信号でジョーの額を指で叩いて、通信員はゆっくりと言葉のシグナルを送っていく。それに対して、ジョーは「僕が・・・何を・・・望むか?」と反芻し、心の中で答えていく。モノローグである。
「・・・新鮮な空気を浴びたい。人々に囲まれたい。ダメだ・・・僕を外に出すと、費用がかかりすぎる。だが一つだけ、僕が自分で稼げる道がある。本当の方法があるんだ!僕を見せ物にすれば、皆が見に来る。窓のある箱に入れ、金を払った客に見せる。・・・あなたや僕や隣人が、入念な計画と莫大な費用で宣伝しろ。頭で話をする肉の塊だと。それでダメなら、軍隊が人を創ると信じた最後の男だと旗の下に集まれ。何の旗でもいい。旗には兵士が必要で、軍は人間を創る!」
ジョーの心中まで理解できない通信員は、彼の信号をただ事務的に解読していく。
「“僕は”“外に”“出たい”“皆が”“見られるように”“僕が何であるかを”“僕を出してくれ”“カーニバルの・・・見せ物に”“皆が僕を”“見られるように”“外に出してくれ”」
この一連のジョーの心の訴えは、この鮮烈な映像の中で最も印象深く、衝撃的なものである。彼はサーカスの見世物になっても、この管理された空間を脱出したいと叫んでいるのだ。
そんな彼の叫びに、スタッフは、「今は外には出せない」と伝えるのみ。ジョーは、最後に残された叫びを上げる。
「“もし”“あなた方が”“僕を”“皆に”“見せたくないなら”“いっそ・・・殺してくれ”」
これが、一切の自由を奪われた男の、それ以外にない最後の選択だった。
彼は尊厳死をこそ望んだのだ。
この最後の叫びによって、映像の作り手が伝えようとした反戦のメッセージを相対化してしまったのである。
5 絶対孤独の闇に呑まれて
この映画を観る者は、作り手の意志を超えて、「絶対孤独」に閉じ込められた一人の若者の苛酷なまでの内面世界に触れて、身震いするだけになるだろう。
観る者の想像力が及ばないほどの苛烈な現実が、未だこの世にあることに対して、私たちはこの作品が、単に、反戦を訴える映像では収まり切れない何かを内包するものであることを、痛烈に実感させられるのだ。
ここで、先のキリストの言葉が想起される。
「君の現実が悪夢以上のものなら、誰かが君を救える振りをする方が残酷だ」
尊厳死以外の選択肢が存在しないとき、その意志を持つ者に関わる全ての者は、そこでの関係的存在の根拠が一気に崩れ去る。
人間は残酷なのだ。
時には、その残酷を受け入れねばならない存在性を晒してしまう。それもまた人間なのだ。人間は、他者の死をそのような形でしか受容できない存在体でもあるということだ。
「何か伝えることは?牧師様、神を信じろとだけでも」
担当医たちは、ジョーのメッセージを無視する以外になかった。傍らにいる牧師に祈りを求めることしかできないのである。彼らは、他者の死を自らの利益の次元でしか把握できないのだ。そんな病院関係者に対して、牧師はきっぱりと答えた。
「一生、彼のために祈るが、あなた方の愚行に対し、神の信仰を試す気はない・・・あなた方の職業が彼を生んだ・・・」
これで、全てが終焉した。
彼らの患者であるジョーに大脳が生きていて、その大脳によって意志を伝達する能力を持つことを知っても、病院関係者は、彼を単なる生命体としか扱わないことを、既に決断したのである。
その中の一人、ジョーを一個の人格として認知し、それ故に、「殺してくれ」という彼の叫びに対して、管を切ることで応えようとした看護婦は、その行為を上司によって阻止されたことによって、その密室で僅かに展開されていた人間的行為の可能性が完全に断たれてしまったのである。
まもなく、その密室から看護婦は去っていった。
そこに残されたのは、看護婦が切ったその管を再び繋いだ一人の男、ジョーを一個の生命体としてしか見ない者たちの一人の男だった。全てを奪われたジョーは、その声を聞く者のない空間で絶望的な独白を重ねていく。
「彼女は去った。さよなら、看護婦さん。君は行ってしまった。僕は秘密のままだ。止せ、もう嫌だ。彼らは喜ぶと思ったのに。彼らと話す方法を見つけたから。
だが違った。たった一つ、僕が役立つことを、彼らはさせない。また僕を暗闇に押し戻そうとしている。二度と僕を見たくないんだ。彼も行ってしまった。これで分った。僕を出さないんだ。いつか僕が年老いるまで、ここで秘密にしておくんだ。やがて密やかに死ぬ。
だが苦しみ続ける。心の中で僕は喚き、叫び声を上げ、罠にかかった獣のように吠える。だが誰も関心を持たない。腕があれば自殺できる。脚があれば逃げられる。声があれば話をして慰められる。助けを叫んでも、誰も助けてくれない。神さえも・・・ここに神はいない。こんな所にいるはずがない。
そして・・・それでも、僕は何かしなければならない。なぜなら、このままの状態ではいられないからだ。もうこれ以上。S・・・O・・・S・・・助けてくれ。S・・・O・・・S・・・助けてくれ。S・・・O・・・S・・・」
“それでも僕は何かしなければならない。なぜなら、このままの状態ではいられないからだ”という独白の、そのあまりの凄惨さ。
私が観てきたあらゆる映画の中で、これほどまでに悲痛な言葉があっただろうか。
ジョーはこのような状況に置かれてもなお、私たちが「人生」と呼んでいる時間を繋ごうとしている。しかし、その時間を繋げなくて、彼は“SOS”を発信する。いつまでも発信するのだ。
まもなく、その独白に力がなくなってきて、一貫して自我が全く壊れることのなかった一人の若者は、「絶対孤独」の闇の中に入っていくのである。
* * * *
6 マッカーシズムが狂奔する中で
以上が、「ジョニーは戦場へ行った」という鮮烈な映像の粗筋である。
この挑発的で、刺激的な作品は当然の如く、作り手自身の表現次元に於ける鋭角的な軌跡もさることながら、作品内容の時代との齟齬(そご)も加わって、原作自身が被ったたリスクは半端ではなかったと言われている。
この映画の作り手であるドルトン・トランボが、自らその原作を上梓したこの作品の映画化にあたってどれほど苦労したか、その辺について「ウィキペディア」から引用してみる。
「トランボは反戦運動家としても著名であり、第二次世界大戦勃発の1939年に、負傷兵をテーマとした小説『ジョニーは銃を取った』を上梓する。
本作のタイトルは第一次世界大戦の志願兵募集キャッチフレーズ『ジョニーよ銃を取れ』に対する皮肉と言われ、反戦文学の代表となった。
大戦中のアメリカでは反政府文学とされ発禁処分の憂き目にあい、戦後になってから復刊された。さらに朝鮮戦争時に再度絶版となり休戦後復刊された。
戦争のたびに絶版、復刊を繰り返すこの作品を、トランボはベトナム戦争最中の1971年、65歳にして自身唯一の監督作品として、原作・脚本を兼ね『ジョニーは戦場へ行った』として制作した。
『ジョニーは戦場に行った』は、その年のカンヌ国際映画祭で、審査員特別グランプリ、国際映画評論家連盟賞、国際エヴァンジェリ映画委員会賞を受賞する」(ウィキペディア「ダルトン・トランボ」より/筆者段落構成)
ドルトン・トランボ・非米活動委員会の聴聞会にて(ウィキペディア)
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赤狩りによって映画界を追放されたトランボが、どれほどの辛酸を舐めてきたか、いま彼についての詳しい伝記本(注2)を読む機会がないので、私にとって想像の限りでしかないが、映画の主人公が置かれた状況は、当時の彼の心象風景を映し出しているように思えるのだ。
ジョーの「絶対孤独」は、SOSを発信しても、それを確信的に受信する者が少なかったであろうトランボの、その苛酷な状況それ自身であり、そこで鬱屈したマグマのような思いが、泥沼のベトナム戦争によって噴出し口を見つけたとき、彼は発禁の憂き目に遭っていた自著の映画化に踏み切ったのではないか。
だからこの映画は、赤狩りという「戦争」と、その「戦争」によって表現の機会を著しく狭められた「弧絶性」と、それでも人間の誇りを捨てられない「尊厳」の問題を、彼が置かれた密室の闇の中での呻吟の内に描き出したのである。
少なくとも、私はそんな勝手読みの把握をしている。
そんな思いが、作品を通じて私の胸にひしひしと伝わってきたのだった。
(注2)彼について、私が知り得る限りの印象的なエピソードについて言及する。その一つは、彼が「ハリウッド・テン」の一人として、1947年10月23日の第一次喚問を受けたときのこと。
「ローソンが議会侮辱罪に問われて、証言席から引きずりおろされたあと、続いて立ったドルトン・トランボも、やはりステートメントを読み上げるのを許されないため、彼は『私のステートメントのどこに、当委員会がアメリカ国民をまえにして読まれて恐れるところがあるのか、知りたいものだ』と講義する。
トランボはさらに、自分の書いた20本ほどのシナリオを委員会にもちこんで、テーブルに積みあげ、そのなかのどの一行に共産主義陰謀の文字があるのか、委員会は証明してみせる責任がある、とも迫った・・・・
しかし、トランボは結局、64ドル質問(当時ラジオ番組で流行ったクイズの賞金額の最高額が64ドルだったので、とどのつまりの質問=共産党員か否か、の質問ということ)までいかないうちに、スクリーン作家ギルドの会員かどうかまできたところで、侮辱罪に問われ、かれは『これはアメリカ強制収容所の・・・・はじまりだ!』と叫びながら強制退去させられる(ただし、この言葉も公式議事録にはあらわれない)」(「ハリウッドとマッカーシズム」陸井三郎著 現代教養文庫より/筆者段落構成)
次に1970年に、当時を回顧したときのトランボの言葉を含む記述を引用する。
「・・・1970年には映画作家ギルド最高の賞であるローレル賞を受けたドルトン・トランボは、その受賞演説で、『あの長い悪夢の時代に罪なしに生きぬいたものは― 右派、左派、中間派を問わず―われわれの間に一人もいない』とし、みんな時代の犠牲者だったのだから『ゆるしあおう』と発言して場内に物議をかもし・・・・」(前出「ハリウッドとマッカーシズム」より)
トランボについての真実に迫るエピソードが、もう一つある。
これは、1975年のこと。新聞のインタビューに答えたときの、トランボの言葉が紹介されたものである。
「ダルトン・トランボは『ハリウッド・テン』の中の最も有名人といわれているが、当時を回想して1975年、『ニューヨーク・タイムズ』の記者にこう語っている。
『われわれは勝つだろうと思っていたわけですよ。1950年の夏、マフィーとラトリッジという二人の最高裁裁判官が亡くなりましたが、惜しいときに惜しい人を亡くしたもので、かれらが死ななければ、われわれは勝訴していたに違いないのです。
もしわれわれが、ああいう立場をとったのでは、15年、20年と職を奪われ流人とされることを前もって知っていたら、もしかしたら違った行動をとっていたかもしれませんよ。本当の意味での英雄は、1951年の第二次喚問で証言を拒否した人たちです。なぜならかれらは、職を失うことになると、はっきり知っていたからです』」(「眠れない時代」リリアン・ヘルマン著 小池美佐子訳 ちくま文庫「訳者あとがき」より/筆者段落構成)
リリアン・ヘルマン |
私たちが無視できないのは、「ハリウッド・テン」が英雄扱いされた第一次喚問の時代の背景と、朝鮮戦争を経て、赤狩りがリベラリストにまで及んだ第二次喚問の時代の背景との決定的な違いである。筋金入りの信念居士であったドルトン・トランボですら、第二次喚問の嵐の中を突破できたかどうか自信がないという、正直な告白をしていることの重みは、まさに時代そのものの重みであったということだ。
そういう時代のそういう空気が、「自由の国」アメリカの心臓部で噴き上がっていて、今も、ハリウッド映画人のタブーとなっているほどに、その根深くも苛酷な「歴史」の重さに驚かされる。(「真実の瞬間」の項参照)
(注3)1950年代初頭、共和党のマッカーシー上院議員が中心になって展開された反共活動のこと。「赤狩り」の名に於いて、多くの著名人、映画人や団体が国家的規模で弾圧された。
7 得体の知れない何かが心の澱となって
―― 次に、この作品について、私の読解の及ぶところを書いていく。
多くの人は、この映画を綿密な脚本によって練られた本格的な反戦映画と観るだろう。
作り手もまた、反戦の痛烈なメッセージをこの作品に込めたに違いない。
しかし当時の私がそうであり、現在の私がもっとそうであるように、この映画を公開当時劇場で観た多くの人々は、劇場を後にするとき、「この映画は良かったよ」とか、「面白かったね」などという会話が簡単に出てこないような、そこにある種の、名状し難い重苦しさを感じたのではないだろうか。
その「重苦しさ」の意味するものは何か。
それは、全ての自由を奪われた一人の若者が闇の中で閉縛されている状態に対する、息苦しいような暗鬱な感情ではないだろうか。
必ずしも戦争によって、そのような状態に置かれた若者が、その苛酷な存在性を晒すとは限らないのである。
苛酷さのレベルは違っても、それは、私の場合のように交通事故によっても起こるし、また転落事故や未曾有の自然災害によっても起こり得るし、或いは、ALS(筋萎縮性側索硬化症・注4)のように、青年期に入って全身の筋肉が進行的に劣化し、随意運動が完全に停止しながらも脳だけが機能することで、映画の主人公のように意志伝達を困難にするというケースなど、その発現率は決して低くないのである。
(注4)筋肉の著しい劣化と萎縮を出来させる神経変性疾患。原因は不明故に治療は困難で、人工呼吸器を装着したり、必要な症状に対して薬物投与をする場合もある。
私たちはこの映画を観て、単に「戦争は悪い」という安直な結論によって納得できない、得体の知れない何かが心の澱となって、そこに淀む風景を、合理的にフェイドアウトし切れない思いに立ち竦んでしまうのではないだろうか。
私たちがそこで観たものは、苛酷な状況に置かれてもなお、人はなぜ生かされねばならないのか、或いは、なぜ生きていかねばならないのか、という人間存在の根源的テーマであり、そのようなテーマが迫り来るときの恐怖感ではなかったか。
即ち、そのような状態に置かれたとき、私たちが「人生」と呼ぶものが果たして存在するのか、という普段は考えることのない存在論的問題に囚われてしまうのではないか。少なくとも、私の場合はそうだった。
だからこの映画は、私にとって、人間の尊厳のあり方と、それを問いかける状況に晒された者の、その「絶対孤独」の恐怖感を描いた作品以外の何ものでもなかったのである。
8 「人生」を成立させる四つの要件
そもそも、「人生」が成立するのは、「人生」を成立させる、少なくとも、四つの要件が前提になると私は思う。
それらは第一に、「人生」を営む主体としての人格であり、第二に、その人格が展開する表現空間、第三に、そこで展開された表現を記憶に繋いでいく時間であり、そして第四に、その人格が、別の人格との間で何某かの関係を繋いでいく社会性である。
即ち、「人生」とは、固有の人格が固有の時間の内に、社会的繋がりを視界に入れて、特定の空間で展開される固有の表現的営為であると言えようか。
思うに、映像で描かれた若者には「人生」が成立したと言えるのだろうか。
モールス信号による意志伝達が遮断され、管によって生命を保障されただけのその後の闇の時間にも、果たして、彼には「人生」と呼べる価値のある何かが成立したと言えるのか。彼の存在はそもそも、人生の主体としての人格であると言えるか。
確かに、「人間とは自我である」という私の把握を前提にすれば、彼は紛れもなく一個の人格である。では、その人格は固有の時間を持ち、それによって表現される何ものかが、そこに存在したのか。
更に、管を再び繋がれた後も、その人生は存在していくか。そして何よりも、そこに置き去りにされた彼の自我が、別の人格ともうクロスすることはないという厳然たる事実を、一体誰が否定し得るのか。
モノクロの陰陰滅滅たる映像に、その剥ぎ取られた肉体を晒した冒頭の描写から、既に彼の自我は「絶対孤独」の状況に搦め捕られているのだ。
「絶対孤独」とは、私の把握によれば、自我が空間的にも時間的にも弧絶された状況に置かれていて、それが自らの意志によって変えられない内的状態のことである。
従って、人は「絶対孤独」の闇で呼吸を繋ぐことはできても、その闇の深奥で、「人生」と呼べるものを築くのは甚だ困難であると言う以外にないのだ。
私たちは安直に、「孤独」という言葉を世俗的言辞の感覚で多用するが、それはせいぜい、自分を囲繞する関係世界との折り合いを付けられない不具合さの主観的認知の内に、その関係世界に対して、自らの積極的ストロークを半ば確信的に放棄した結果、殆ど予約されたかのような心境や気分に陥った相対状況に過ぎない類の何かである。
それはどこまでも相対的孤独であって、決して映像の若者が置かれている苛酷な心的状況を意味しないのである。
最後に辿り着いたモールス信号という、最大級の知恵すら決定的に砕かれて、もはや青年には、「殺してくれ」と叫ぶ以外に残されていなかった、その表現の一方通行性の苛烈さ、それこそ「絶対孤独」なのだ。若者の最大の悲劇は、そこにこそあった。
以上が、「ジョニーは戦場に行った」という映画に対する私なりの読み方である。従って、この映画は私にとって、「極上の反戦映画の傑作」という範疇では括れない作品だった。
それは脊髄損傷という病を、その生命の灯りが消えるまで背負って生きていかねばならない私のための映画であり、少なくとも、それに触れることによって、ほんの少し何某かの活力源になると信じられる映画なのだ。
私にはまだ、「人生」と呼べる何かが生きている。そのことを痛感させる作品こそ、「ジョニーは戦場へ行った」という極めて思い入れの深い映画だった。
9 崩されゆく明日
最後に、映画と直接的な脈絡性を持たない文章を引用することで、本稿を擱筆(かくひつ)したいと思う。
その文章には、度々本稿に記した中枢的テーマである、「絶対孤独」についての経験的な感懐が綴られている。
その未発表の小説のタイトルは、「崩されゆく明日」。
たかだか、400枚にも満たない原稿用紙に綴られた拙稿の内実は、2000年5月に交通事故に遭った私が、脊髄損傷という疾病によって肉体的にも精神的にも苛まれた日々を、そこに一定の創作性を加えながら回顧した記録である。
事故後5年目にしてようやく起筆したその小説は、それまで回避してきた自分の現実と初めて向き合った心境の中で、その脆弱なる魂の肉声を刻んだものと言っていい。それは私にとって、いつか必ず言語化しなければならな陰陰滅滅たる内面世界のストレートな表出でもあった。
その前に、それを引用するに至るモチーフについて、私の中で拘泥する感情を留め置く目的をもって、些か長くなるが、その輪郭を記録するに足る分量だけ言及してみたい。
本音を言えば、自己表現を刻む作業の効用など高が知れているのだが、それでも、期待薄の効用に我が身を預けざるを得ない切迫感や焦燥感の暴れ方に、私は特段の助走を必要としてしまったのだ。
脊髄損傷患者に特有な中枢性疼痛と、間断なく続く痺れ感の不快が、日々に劣化する筋力の崩れの感覚によって、私の自我をじわじわと削り取っていくとき、もう私の精神には、「時間」の観念が絶え絶えになっていくような恐怖感を、充分に抑え切る自信の欠片も存在していないかのようだった。
マンションの一室の狭隘な空間。
その闇の塹壕の、くすんだ天井の広がりの中で、私はどうしても「時間」の観念を奪い返さねばならなかった。そうしなければ、私の存在性の拠って立つ何ものをも感受することなく、私は削られた果てに、殆ど予約された寿命をカウントダウンしていく以外の選択肢を持ち得ないのである。それは極めて厄介な恫喝となって、私の日常性を大いに蝕んでしまうのだ。
非日常の恐怖に囲繞される私の日常の根底にあるものの正体は、「絶対孤独」の闇という表現でしか形容できない何かだった。それでもその何かは、ジョニーが置かれた限界状況の様態のそれとは、特段に恵まれた条件を手に入れていて、疼痛さえ堪え切れれば闇の皮膜を剥がして、そこに多少は幾分の彩りを添えることも可能であるだろう。しかし努めても堪え切れない疼痛の地獄が、私の自我から「時間」の観念を継続的に奪い、甚振って止まないのだ。
だから私は、その現実のさまを記録することによって手に入れる幻想に、その身を委ねたのである。それは「時間」の観念を分娩したと感受し得る幻想である。私の内側で、そんな何某かの幻想が踊っているという実感の獲得だけが全てだった。
その幻想の表層に張り付く分だけのイメージの質量感覚から、「今日という一日を生きられるに足るだけの時間」を切り取ることができれば、それで充分なのだ。そして、その幻想を何とか手に入れることができたのである。そのとき、受傷後5年目にして、私の中で「時間」の観念が蠢動(しゅんどう)したのだ。
私は「崩されゆく明日」という小説を書き上げた。それを書き続ける私の内側には、常にあの日の恐怖感が張り付いていて、その作業は言わば、私を内奥から突き上げてくるその感情との険阻な闘争と呼べるものだった。
常に私を恫喝して止まなない、あの日の恐怖感の記憶。
苛烈を極めた我が身体状況が、殆どその制御能力を失っていた、私の中の最も長き一日。受傷後二日目に現出したその地獄は、疼痛と痺れ、そして、完全に四肢が麻痺したという現実をとうてい受容し難い感情に制圧されていて、凍結した時間の重量感だけが暴走して止まなかったのだ。
私が唯一その心を委ねる者が、その日、私を上州の山奥の病院の一室に残して、東京の自宅に戻っていた。様々に厄介な事務的な作業を遂行する必要があったからだ。天井の一角しか視界に入らない空間の只中で、そこだけは異様な静寂に包まれ殺伐としたた空気感に呑み込まれていて、私は震え慄いていた。
僅か半日の時間の移動が、とてつもなく無限に続く受難の、その暴力的連射の苛酷な刻印のようにしか思えず、完全なる四肢麻痺の圧倒的な欠乏感のみが意識を支配し、嘗め尽くしていたのである。
世俗的思考への侵入すら封印された状況下で、それでもやつれ果てた意識が捕捉した情報の端っこに、若き日に覗き見た映像の断片が、何かそこだけは鮮明な記憶の再生を果たすかのようにして、禍々(まがまが)しいイメージをもって噴き上がってきたのだ。
そこに噴き上がってきた禍々しい情報こそ、「ジョニーは戦場へ行った」という映像の記憶の中に棲む、何とも形容し難い恐るべき画像だった。
全てを失ってもなお、失っていないものを持つ青年についての画像の記憶は、私にとって蓋(けだ)し鮮烈だった。彼はあのとき、確かに意識だけは死んでいなかったのである。しかしそれ以外の全ての機能を奪われていて、やがて強いられる者のように、禍々しい闇の奥に呑み込まれていくのだ。
まさに、今ここに存在して、その空間にのみ許容された分だけの酸素を食べるかのような「私」という自分こそ、あの画像の青年ではないか。そう思った。
意識を作り出し、それを自在に転がしたり、或いは、外部環境からの様々な圧力に対する防御ネットを築いたりするような表出様態こそ、人間の固有なる生物学的展開の、その中枢的な存在様式である。それ故、その意識を司る自我だが生き残されても、その自我によって駆動されていく物理的基盤が機能し得ない絶対状況下で、人はどう生き、いかにしてそこに、固有なる「時間」の観念を復元させていくのか。
その日、私はそのような意識の澎湃(ほうはい)する感情世界に、すっかり囚われてしまっていた。そのとき私は、「絶対孤独」という、恐らく、それを経験したものでなければ分らないであろう、一つの観念がイメージさせるものの圧倒的な重量感に甚振られ、殆ど打ちのめされていたのだ。
2000年5月12日。
その日は、私の人生の中で、「最も長い一日」になってしまったのである。
私は今、その日のことを想起するとき、しばしば、ジョニーの「絶対孤独」の闇の凄惨さについて思いを巡らす。私はまだ、ジョニーの地平まで追い詰められていない。
そう考えることで、私は自分の現存在性の有り難さを思い知らされるのである。
私の筋肉の劣化が決定的になったとき、私の内面を猛烈な恐怖感が襲いかかってくることが当然予想されるのだが、しかし私にはまだ、「時間」の観念が生き残されている。それだけが、私の現在を支え、すっかり変色してしまった日常性を支え切っていると言っていい。
私はその日常性の中で、「時間」の観念を駆動させているのだ。それを神からの贈り物であるという思いを、私は素直に受容する。私は今、僥倖(ぎょうこう)の時間を生きているのである。それ以外ではないのだ。
(2006年12月)
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