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2008年12月8日月曜日

乱れる('64)     成瀬巳喜男


 <繋げない稜線を捨て去って、振り切って、遂に拾えなかった女>



序  胸の奥の深い辺りに



いつまでも胸の奥の深い辺りに、X線でも捕捉できない繊維のような棘が刺さっていて、普段は意識の表層を目立って騒がせることもなく、その不定形の律動を伝える微塵の波動もないが、しばしば名状し難い思いが噴き上がってきて、内側をひどく泡立たせる時間に拉致されるときなどに、その繊維の棘の存在感に不思議なほど親和力が働いてしまうことがある。

何かの拍子で、内側の秩序を暗い記憶の粒子が噛みついてきて、時間を仕切る帳(とばり)を壊してしまうのだ。繊維の棘の不定形なる律動は、そこで開かれたイメージの宇宙を遊弋(ゆうよく)し、何か終わりの見えない自虐のゲームから、ズブズブの感傷を拾い上げることを止めないようなのである。

私はそんなとき、思い切ってゲームにその身を預けてしまった方がいい、と括った者のような構えで、そのほんの少し危ない世界に這い入っていく。その方が合理的でもあり、つまらない感傷を却って引き摺らないで済むのだ。

そんな微妙に泡立って止まない思いの中で出会い、その出会いに何か特別の意味を持たせる物語を被せてしまったとき、私の中で一本の残酷なる映像が、初めから予定されていたラインに寄り添っていたかのような存在感によって、そこに固まってしまったのである。

それほど、成瀬巳喜男という映像作家の凄みが私の中に侵入してきてしまったのだ。

その作品の名は、「乱れる」。

私にとってこの作品ほど、沸々と泡立った感情の中で受容したものはないかも知れない。それは今でも、私の中で「特別な何か」なのである。

その「特別な何か」と、私は四度(よたび)対面することになった。本稿を書くためである。

丁寧な対面を果たした後、正直に言えば、そこに違和感を感じる不具合な描写が含まれていたものの(それについては、稿の最後に言及する)、それでも私の中で、今までより遥かに増して噴き上がってくるような感情を抑えられないものがあった。

どうやら本作は、私にとっていつまでも、「特別な何か」なのである。

その「特別な何か」を提供してくれた一人の映画監督に、私は改めて深い感謝の念を禁じ得ないでいる。

とにかく素晴らしい。成瀬巳喜男は素晴らしい。

殆ど他に換える言葉が見つからないほど、ただ素晴らしいとしか言いようがないのだ。長く生きてきて、この映画監督の素晴らしさが、私の内側の確かな活力源になっていることを、しみじみと感じ入る今日この頃である。



1  告白



訳の分らない能書きはともあれ、「乱れる」という作品のストーリーラインを、詳細に追っていこう。


「一周年記念 大特売!」と看板を下げたトラックが、マイクで記念セールのアナウンスする社員たちを乗せて、軽快な律動感を辺り一面に振り撒いて、町を走り抜けていく。

「全て半額のお値段!全店5割引という開店以来のサービスです!」

そこに流れるメロディは、「高校三年生」。

やがてその爆発的な人気によって、後に「御三家」と称された舟木一夫のデビュー曲である、当時、大ヒットしたメロディに見事に嵌るような女子アナウンスの軽快な旋律が、清水市の目抜き通りを支配していた。

そして、その宣伝カーを恨めしそうに見遣る食料品店の店主。

すぐ近くに立つスーパーの前に、特売品を求める消費者が途切れずにラインを成していたからである。

「あんた、スーパーマーケットじゃ、卵一個5円なのよ」と店主の妻。
「5円?」と店主。振り返って、自分の店の卵の価格を確かめたら、「一個11円」と書いてあった。

市内にある、とあるバー。

そこにスーパーの従業員たちが羽振りを利かせて、バーの女たちを相手に「卵喰い競争」で遊興している。

女たちは次々に、両手に持ったゆで卵を自分の口に押し込んでいる。それを吐き出す女もいる。店内は、座興と呼ぶにはあまりに下品なゲームで盛り上がっていた。

そんな遊興に堪え難き感情が噴き上がってきたのか、一人の若者が立ち上がって、怒ったように釘を刺した。

「おい!バカな遊びは止せよ!世の中には、卵はおろか、麦飯も食えない人間がいるんだ」
「なら、どうしたってんだ」

一瞬、その場は険悪な空気に包まれて、彼らの上司らしい男が、若者に近寄って来た。

彼らはバーの女から、その若者が森田屋酒店の息子であることを知らされていた。

「おい、商売人は商売で喧嘩しよう。あの卵はウチで買うと一個5円だ・・・俺が買ってきたんだ。ドブに捨てようと豚に食わせようと、お前の指図は受けねぇよ」

金を置いて黙って帰ろうとする若者にスーパーの男が引き留めて、有無を言わさず、殴り合いの喧嘩になってしまった。最初に手を出したのは若者であった。

翌日、警察からの連絡で、森田屋酒店の礼子は若者を所轄署に引き取りに行った。

若者の名は幸司。

清水の町
最近勤めていた東京の会社を辞めて、清水の実家に戻っていたのである。

礼子は酒店の未亡人で、今や店を一人で切り盛りしていた。

その礼子は幸司の母しずに内緒で、警察に出向いたのである。

最近の息子の行状を案じる母に、これ以上の心配をかけられないという礼子の判断だった。同時にそれは、幼少時から幸司の世話を焼いてきた礼子の責任意識でもあった。

幸司と別れて、店に戻って来た礼子を待っていたのは、義妹の久子だった。

彼女は、長く一人身でいる礼子の縁談話を持ってきたのである。

しかしその話に、全く気乗りのしない礼子を、母のしずだけは柔和な態度で庇って見せた。しずは穏やかで、保守的な女性なのである。

「何だか義姉(ねえ)さん見ると、済まない気がするのよ。この家を任せっぱなしで・・・」
「だって、この家は私の家ですもの」
「でもさ。例えばよ、幸司にお嫁さんでもきたら、義姉さんやりにくくない?」

何も反応しない礼子に、しずは優しくフォローする。

「別に急ぐことはないけど、礼子さんも、一度は考えてみたら」
「はい・・・」と礼子。自分の置かれた状況の変化を察知しつつあるのだ。

その夜遅く、麻雀をしていた幸司はようやく帰宅した。礼子だけが心配して、茶の間で待っていた。

「悪いと分ってて、どうしてそんなことするの?」 
「義姉さん怒らせるの、趣味なんだな、俺」

礼子は幸司の将来を案じて、幸司に酒店を継いでもらいたいと洩らした。しかし幸司は義姉こそ、この店を継ぐべきだと主張したのだ。

二人はその後、昔話に花を咲かせた。

礼子が死んだ夫の元に嫁いだのは、幸司がまだ7歳の児童のときで、それから月日は早や18年経っている。

幸司は今、25歳の青春期の盛りだ。礼子が嫁いだのは19歳だから、彼女は今、37歳の女盛りということになる。

しかし、そんな意識の稀薄なる義姉に、幸司は辛辣に言い放った。

礼子(左)と幸司(右)
「でも考えてみると、義姉さん、この家(うち)の犠牲になったんだな、18年間」
「犠牲?」
「そうだよ」
「そんなこと・・・幸司さん、覚えてないでしょうけど、あの人の戦死の公報が入ったその晩に、この家が空襲で焼けたのよ」
「皆が疎開したのに、義姉さん一人ここに残って、この店を再建したんだ。義姉さんみたいな人は珍品だな。骨董品だよ」
「何でもいいけど、折角、お店がここまでになったんだから、後は幸司さんに継いでもらいたいのよ・・・」
「俺はやだね・・・」

二人の会話は、いつもどこかで擦れ違う。

しかしその擦れ違いの会話を、明らかに幸司は愉しんでいるように見える。

店を継ぐのを拒んだ幸司は、翌日、店の仕事を手伝っていた。

そこに母が戻って来て、食料品店主が首吊り自殺したことを聞かされた。

昨晩遅くまで、共に麻雀の卓を囲んでいた幸司は衝撃を受けた。

「スーパーがこの人、殺したんですよ!夕べ遅く家に帰って来て、もう一軒スーパーができるそうだって、もう家はおしまいだなぁって・・・一人で先に死んじゃうなんて・・・」

食料品店主の妻は、幸司の前で激しく泣き崩れた。


その幸司は、久子の夫の提案を聞くことになった。

その提案とは、酒店をスーパーマーケットに替えるというもの。そのため幸司には、中心になって会社経営を担って欲しいと督促された。

幸司は提案自体に不満はなかったが、傾きかけた酒店を、ここまで繁盛させた最大の功労者である礼子を無視する相手の思惑には、とうてい首肯できなかった。

久子夫婦の再建プランには、礼子を早く再婚させ、酒店から縁を切って欲しいという本音が潜んでいたのだ。

しかし母のしずには、娘たちのやり方にどうしても納得し切れない思いがある。

戦災の苦労が身に沁みているばかりか、旧来の倫理観から簡単に解き放たれることのないしずには、時代の急速な変化の速さについていけない感情があったのだ。

久子の実家の茶の間でで開いた小さな家族会議での、しずと久子の会話。

「幸司が承知するかねぇ・・・」としず。
「だから、承知させるのよ」と娘の久子。
「お母さんには無理だよ。お前、幸司に会って話してみてくれないかね」
「幸司って、大人しそうに見えて、変に強情なんだから・・・いつだったか、ちょっと小言言ったら、“俺がのらくらしてるのには訳があるんだ”って見栄切るのよ・・・」

この久子の話の中に出てきた幸司の「見栄」の正体が、まもなく映像の中で明らかにされる。幸司が町で付き合う女の一件で、礼子が本当の姉のような気持ちで心配し、その思いを彼女が幸司に直接ぶつけるけることで露呈されたのだ。

「幸司さん、卑怯よ」
「卑怯?」
「そうよ。結婚もしないで、ダラダラあんな女の人と付き合ってるなんて、男らしくないわ」
「義姉さん、じゃあ言おうか。俺がなぜあんな女と遊んでいるか、なぜ会社を辞めたか」
「あなたは世の中に甘えているのよ。生活というものがどんなに大変なものか、あなた知らないのよ。もし知ってたら、転勤くらいで会社辞めてくるもんですか」
「義姉さん。俺はここにいたかったんだ。義姉さんの傍にね」


思いも寄らない義弟の告白に、礼子は狼狽(うろた)え、言葉を失った。幸司はそんな礼子に畳み掛けていく。

「卑怯者だと言われたくないから俺は言うよ。俺は義姉さんが好きだったんだ」
「何を言うの、幸司さん。バカなことを言うもんじゃないわ!あなたはこの間の晩、私がこの家で18年間も犠牲になったって言ったわね」
「言ったよ」
「でも私は、一度だってそんなこと考えたこともなかったわ。夫は戦争で死んだけど、私は夫の意志を受け継いで今日まで生きてきたのよ。焼け跡のバラックがこんなお店になったのよ。その間に、お父さんはお亡くなりになったけど、久子さんはお嫁に行き、孝子さんも結婚して、皆立派におなりになったじゃない。私の1
8年間が犠牲でなかったことは、皆が知っているはずじゃない!」
「皆のためにね。それは事実だ。しかし18年間のうち、何日が義姉さんのためにあった?」
「18年間の全部がそうよ!」
「嘘だい。そんなはず、あるもんか。義姉さんはこの家にとっては、赤の他人だよ。久子姉さんだって、貴子姉さんだって、母さんだって、いつかは義姉さんがこの家から出て行くことを望んでるんだ。義姉さんには、もう用はないんだ」
「そんなこと、ありません!」
「俺はそういう義姉さんに同情して、義姉さんが好きだなんて言ってるんじゃないんだ。俺はずっと昔から義姉さんが好きだったんだ」
「止めて!」
「年は11も違う。おまけに死んだ兄貴の嫁さんだった人に、俺はそんな破廉恥なことを言う男じゃない。だから苦しいんだよ。死んでもこのことは言うまいと思って、女遊びもした。麻雀、パチンコ、愚連隊と一緒になってバカな遊びもやったよ。卑怯者でもぐうたらでも、何でもいいんだ。ただ黙って義姉さんの傍にいたかったんだ」
「止めて!止めてちょうだい!止めなければ私、この家を出て行きます」
「俺が出て行くよ」

幸司はその一言を残して、家を後にした。

残された礼子は、たった今起った出来事に翻弄されるばかり。何かが音を立てて、崩れ去っていくような思いが、そこにあったのだろうか。

少なくとも、その瞬間に今まで経験したことがないような新しい感情の息吹が、抑制してきた自我のバリアが穿たれようにして、そこに突き上げてきたとはとうてい考えられなかった。

彼女の表情は、「女」を意識する者のそれではなく、他家から嫁いで遂に子供を残すことなく、商家で18年間も過ごしてきた者が、まさに「他者」を意識する者のそれを映し出していた。

そんな激しく当惑する者の感情の中に、母しずの口から、ダイレクトに店の改造話が飛び込んできて、より彼女の孤立感を深めていくことになったのである。

その直後、礼子に一本の電話があった。

電話の主は幸司である。彼はかなり酩酊していて、先ほど自分が「18年間を無駄にした」と言ったことを素直に謝罪し、電話を切った。

その電話を受け取って、一方的に切られた礼子は、未だ一人でそこに取り残されていた。



2  道行き



翌日から、幸司は人が変わったように酒店の仕事を手伝うようになった。従業員が突然辞めたからであるが、幸司にとってそのことは好都合なことでもあった。


しかし、懸命に働く義弟を見つめる義姉の視線は、明らかに、以前のそれの延長線上に合わせていける類のものではない。

たとえ、それが唐突なる侵入であったにしても、義弟の告白をどこかで予見していたようにも思えるし、それ故にこそ、その振舞いを遮断するパーソナルスペースの構築において、義姉が張り巡らした自我の防衛ラインの堅固さが検証されてきたとも言えようか。

当然過ぎる心理的文脈をなぞるように、義弟との見えないボーダーに穿たれた小さな孔は、礼子の心のラインを少しずつ騒がせていくことになった。

彼女は、酒店での自分の居場所を見つけるのが難しくなってきたのである。

礼子は幸司にメモを渡して、寺の境内で待ち合わせをした。

「義姉さん、話って何だい?」
「話っていうのはね、お願いなのよ。毎日が、息苦しくてたまらないの。このままでいたら、いつか人の口にも上るわ」
「人から何と言われても、僕は平気だ」
「困るのよ、それが」
「僕は義姉さんが好きだ。なぜそれがいけないんだ」
「なぜって、なぜでもいけないのよ」
「そんなバカな」
「幸司さんは、眼が見えないの?若くて綺麗な娘さんが、一杯いるじゃないの」
「そんなことは理由にならないよ」
「常識っていうものがあるわ。世間には」
「義姉さんこそ、なぜもっと大きく眼を開けないんだ!世間だの、人の噂だの、そんなものに拘って!」
「あなたには分らないわ。あたしと幸司さんとでは、生きた時代が違うのよ。嫌よ。-理屈を言えば負けるに決まってるんだから。あたしのお願いだけは聞いてちょうだい。あたしね、ある決心をしたの」
「決心?」
「その決心を、絶対に止めないで欲しいの。もし幸司さんがこの間の晩のようなことを口走ったら、あたし、本当に死んでしまうわ。いいわね」
「決心って何です?」
「明日、言います」

その一言を捨てて、礼子は一人で寺の境内から離れていった。

翌日、礼子は家族全員を集めた。

そこには、義母のしず、幸司、久子(長女)、孝子(次女)が居並んでいる。彼らの前で礼子が語ったのは、店と自分の将来についてであった。

「誰が考えてもいいという計画がなかなか実行に移されないのは、それを邪魔している者があるからです。それは私です。この家にお嫁に来てから、今日まで、私は私なりに一生懸命やってきました。でも、よく考えてみますと、半年足らずの結婚生活であと18年間を犠牲にしたようにも思われるのです。私にはまだ、私の人生が残っているはずだ、この頃そう考えるようになったんです。私は長い間、自分で自分を縛って生きてきました。どんなに世の中が変わっても、それでいいんだと、私は思ってました。でもこの頃、もういいんじゃないかと、そう思ったんです・・・」

彼女はこの強い決断による意思表明で、そこにできた緊張した空気を支配し切ったのだ。

彼女はここで、「自分には好きな人がいる」などと嘘を言って、幸司以外の他の家族の同意を導いたのである。


その日の午後、礼子はしずに送られて、18年間暮らした清水の町を去って行った。山形の実家に戻るべく、東京行きの列車に乗ったのである。

満員の乗客の中に自分の座席を確保し、複雑な思いを巡らせているであろう彼女の視界に、義弟の幸司の長身が捉えられた。

「送って行くよ」
「幸司さん・・・」

殆ど、そこには会話がなかった。

東京に近づく列車の中で、自分の座席に近づいて来る幸司の体躯が次第に大きくなっていく。

礼子の表情から小さな笑顔が覗いた。幸司の笑顔の大きさが、それを作ったのである。

やがて列車は東京に着き、電車を乗り換え、上野発の北帰行の列車の旅にその身を預けたのである。そこには、清水から随伴して来た幸司もいた。

二人は座席を向かい合わせて、まるで道行きの旅に向う男女の距離を思わせるかのような空気を共有しつつあった。

疲労で眠る若者の顔を見つめる女の瞳が潤んできて、やがて、それとはっきり分る表情を作り出していった。

それに目敏く気づいた若者は、女の座席の隣に移り、静かに問いかけていく。

「どうしたの?何、泣いてるの?ねぇ、義姉さん、どうしたの?」
「幸司さん、降りましょう。次の駅で」

女は涙の理由を告げず、次の駅で下車した。

銀山温泉(ウィキ)
駅の名は、奥羽本線「大石田駅」。有名な銀山温泉への起点となる駅である。

女はこのとき、確信的に温泉宿に宿泊することを決めたかのようだった。

この時点では、女の意図は不分明である。幸司の表情から、先ほどまでの明るさが消えている。どこか不安含みなのである。

女の表情が、些か睦みの空気とは無縁な深刻味を映し出していたからだ。

「幸司さん、あたしだって女よ。幸司さんに好きだって言われたときは、正直に言えば、とっても嬉しかったわ」

温泉までの「道行き」で、女が語ったのは、それだけだった。

二人はバスに乗り、座席を隣り合わせた。

幸司の表情から、自ら不安を払拭させるかのような小さな笑みが零れたが、その笑みに女は反応しなかった。女の表情は最後まで固かったのである。


(注)スイカ栽培で有名な尾花沢市にある、大正ロマン漂う温泉宿を誇る著名な温泉。「おしん」(NHK朝の「連続テレビ小説」)の放送で、一躍脚光を浴びた。現在、山形新幹線大石田駅が起点になる。



3  放心



温泉宿の一室。

現在の夜の銀山温泉
幸司は部屋のガラス窓から、灯りの点在する、情趣に富む夜の温泉街の風景を見ていた。

炬燵(こたつ)の中で紙を縒(よ)っていた礼子は、幸司に呼びかけた。

「ちょっと、手を出してごらんなさい。右手・・・」
「右手?何?」
「出してごらんなさい。覚えてる?昔、幸司さんよくこうやって、私の指に捲きつけたのよ。取っちゃいけない、取っちゃいけないって言って。これは明日の朝まで、取っちゃだめよ。幸司さんは明日の朝一番のバスで、お母さんのところに帰るのよ」

礼子は幸司の右手の指に紙で縒った紐を捲き、思いがけないことを言い放った。

幸司は義姉のその言葉に直接反応せず、彼女が列車を途中下車したその意図に拘った。

「義姉さん、義姉さんは急にどうしてあの駅で降りたんだ?」
「あなたの眠っている顔を見ていたら、とっても可哀想になったの・・・」
「可哀想?じゃ、義姉さんは僕に同情して・・・」
「違うわ。さっき言ったじゃない。女ですもの、私だって・・・あの日からまるで私は人が変わったわ。あなたの姿が見えないと、あなたを探すようになったわ。そのくせ、あなたが傍にいると不安で、不安で狂いそうだったわ。自分で自分が分らなくなったの」
「義姉さん、僕はもう帰らないよ。店も捨てた。母さんも捨てて来たんだ」
「何を言うの?あなた若いのよ。あなたには大きな未来があるのよ」
「僕はそれも要らない。義姉さんと一緒に居られるんだったら・・・」
「駄目よ!駄目。あなたは清水に帰るのよ!」
「義姉さん・・・」
「幸司さん・・・」

幸司は、部屋の隅に移動した礼子に近づいて、思いの丈を吐露した。

「僕はこの温泉宿の下足番をしたっていいんだ・・・義姉さん、好きだ。僕は義姉さんが好きなんだ・・・」

幸司は自分の覚悟を括っていた。彼は礼子を抱きしめた。

礼子もまた、その流れに身を預けたかのようだった。しかし女を求める男の強い感情を察知して、女は退き、男から咄嗟に離れていった。

「堪忍して・・・堪忍してちょうだい・・・」

女はこのとき、一人の義姉に戻っていた。

しかし、男は義弟に戻れないでいた。戻れる訳がないのである。畳に蹲(うずくま)って嗚咽する女を見て、男は何もかも察知してしまったのである。


男は自分の上着を取って、愉悦が待っていたはずの部屋を足早に去って、そのまま温泉宿の外に出てしまった。

男は場末の飲み屋で、老婦を相手に手酌で酒を飲んでいた。

「あんた、東京から来たっすか?」
「東京じゃないけどね。お婆さん、東京に行ったことがあるかい?」
「おらぁ、60年、この村からどっこも出たことねぇっす。山の木立(こだち)みたいなもんだ」
「昔、銀が取れたんだってね。だから銀山て言うんだって?」
「おらの生まれるめぇのことだ。あんた、いくつになるね?」
「25。お婆さん、子供は?」
「あんたの年に死んだ。フィリピンの先の、ミッドウェイっとかって所でな」」 
「戦死か・・・」

この何気ない会話の最後に、戦死した自分の兄貴のこと思い出させる皮肉が捨てられていた。

まもなく幸司は、その飲み屋から温泉宿に電話をかけた。心配する礼子の上ずった声に、悪酔い気分の幸司の意外に明るい声が絡んでいく。

「ああ、義姉さん」
「どこ行ったの?どこにいるの?」
「バーだ。女の子がたくさんいるバー。こんな山の中にも、けっこう洒落たバーがあるんだね」
「お酒飲んでるのね、そこで」
「僕は今晩、ここの女の子とどっか別の旅館に泊まるよ。もう女の子と契約したんだ。義姉さんは、明日の朝一番のバスで先に帰ってよね。顔を合わすの、辛いから。いや、いんだよ。僕は嬉しかったよ。僕は義姉さんが好きだった」
「ごめんなさい。あんなことになるなんて。あたしも分らなかったのよ。何だか分らないけど、何だか分らないけど・・・」

礼子は電話の向こうで、嗚咽していた。

「いやぁ、いいんだ。もういいよ。お休みなさい。義姉さん、さようなら・・・」

電話を切った幸司は、その後暗い夜道を、より暗い方向に向って歩いて行った。


翌朝、帰り支度をする礼子の耳に、外から異変を伝える人の声が届いた。

慌てて窓から顔を出す礼子の視界に、地元の者たちに担架で運ばれる大きな体が捉えられた。

ゴザをかけられて特定できないその体から、紙紐で結ばれた右手の指がだらりと下がっていて、礼子だけはその者を特定できたのだ。

「ああぁ!」

思わず声を上げた礼子は、急いで外に出た。

「お連れさんらしい方が、崖から落ちて・・・」

温泉宿の番頭にそう言われるや否や、礼子はその担架の元に走り寄って行く。走って、走って、走り抜いて行く女の前から、担架はどんどん離れて行く。


女はやがて動きを止めて、放心状態となった視線をも動かせなくなってしまった。

女の全体が、そこに固まってしまったのである。


*       *       *       *



4  繋げない稜線を捨て去って、振り切って、遂に拾えなかった女



これは、18年間もの間、自らが拠って立つ物語の稜線が繋げなくなった危機に立ち竦んだとき、それを自らの意志で括るように捨て去って、そこに生じた空洞感を埋めるべく魔境の誘(いざな)いをも振り切って、なおそこに絡みつく思いを、遂に拾えなかった女の悲劇を描いた痛烈なる一篇だった。

もっと簡潔に言えば、「繋げない稜線を捨て去って、振り切って、遂に拾えなかった女」の哀切極まる物語である、と言えようか。

女の哀切を決定づけたのは、女に絡み付いて離れられない、男の哀切がそこにべったりと張り付いていたからである。

二人の哀切が極まったのは、一つの意思に噴き上がっていくような感情のうねりが、そこに身体化されなかったことと関係するだろう。

なぜなのか。

それは、女がそこに身を預けて築いた固有の物語の継続力が、遂に自壊しなかったからである。

確かに女は、その物語を自ら捨て去った。

しかしそれは、女を包む状況下で物語の継続力が拒まれて、それを繋ぐ稜線が切れてしまったとき、女自身が認知せざるを得なかった故であって、決して女の内的状況の変化が生みだしたものではないのだ。

できれば女は、物語の稜線をもっと伸ばして、そこに一定の自己完結を果たしたかったであろう。

それが叶わずに、女はやむなく物語の終焉を告げたのである。

物語の稜線がこれ以上伸びることのない現実の認知が、女をして、「自己犠牲の物語」という虚構を、家族の前で堂々と宣言させるに至ったのだ。

しかしそれは、誰も傷つけることなく物語を終焉させたいという女のギリギリの括りであって、まさにそれ以外にないマニフェストに結実したということである。

それでもなお、女の中で物語は死滅していなかった。

女は18年間かけて守り続けた物語を形式的に捨てたが、内面的には決してそれを捨てていなかったのである。

これが女の悲劇を招き、そこに男の悲劇に繋がった。

では、あのとき女はどうすれば良かったのか。何ができたのか。男を受け入れることが、女に果たして可能だったのか。

そのことを考えるには、まず女の物語の内実について、私たちは把握しなければならないであろう。

女の物語。

それは、一体何だったのか。

私はそれを、このように把握している。

「僅か半年間の共同生活を経たのみで夫を失って以降、そこに残された、未だ思春期に届かぬ子供でしかない義弟を立派に育て上げ、一人前に成長するまで庇護し続けることと、勤労奉仕で知り合ったしずに息子の嫁として見初められ、そこで婚姻を結んで入籍した当家である森田屋商店への義理から、当店を酒屋として再興していくということ」

 これこそ、女の顕在的な意識裡に構築された物語であると言えようか。

女はこの物語をバックボーンに、艱難(かんなん)な時代を生き抜いてきた。

その間、女に対して義父母の視線は、一貫して柔和なものだったと推測できる。

だからこそ女は、焼け跡のバラックから我が身一つで森田屋の看板を見事に立ち上げて、その再興に成就できたのであろう。

そのことで、義父母からの感謝の思いを存分に享受して、それが女の物語の継続力を支えたものと思われる。

やがて義父が逝去し、久子、孝子という義妹が嫁ぎ、そして最後に義弟の幸司が東京での就職を固めていった。

今や森田屋には、隠居状態の義母が居るのみ。その中で女は一人、酒屋を切り盛りしていくのだ。

女の物語は、半ば自己完結を遂げる流れを決定づけたように見えた。

女の物語を支えた倫理観は、報恩の念と責任感に尽きるであろう。

この女は、古い時代に生きた、古い時代の規範と倫理を既に身に付けてしまっていて、そこには内側の秩序を破綻させていく因子が殆ど見られないのである。

しかし、女のそのような磐石だと信じた物語が、殆ど報われたかに見えたとき、女の世界の内外から、思いもかけない事態がほぼ同時期に出来したのである。

外的変化は、スーパーの進出によって商店経営が危機に晒されたこと。内的変化とは、義弟との関係スタンスの崩壊であった。

前者は、どこまでも未亡人としての立場でしかない女主人の現状継続力の根底を揺さぶって、女の恒常的安定の基盤を崩しにかかってきたのだ。

酒屋をスーパーに衣替えするという、森田家血縁内の功利主義の前で、女はその存在自体を弾かれてしまったのである。

それは、女を支えた物語の、一つの中枢的な柱が崩壊することを意味していた。女の心の内側に深々と打ち込まれたパイルが、音を立てて崩れ去ってしまったのである。

そしてもう一つ。

これは言わずもがなのことだが、義弟の幸司からの告白によって、それまで素朴に信じてきた関係幻想が壊れてしまったのである。

とりわけ、義弟に良い嫁さんを見つけてこの家から独立するか、或いは、酒店を継いでいくという、女の義弟の存在に対するイメージの崩壊は決定的だった。

物語は壊れて、女の中に空洞感が生まれた。

この空洞感は、女を存分に甚振(いたぶ)って止まない棘となった。

女の相対的に安定した日常性もまた、大きく揺さぶられていく。女は非日常の世界に捕捉されてしまったのである。

その結果、女は非日常の世界を、自らの意志で断ち切ることを決断した。それは物語の崩壊を女が認知した証左でもあると言えるが、しかし、義弟との決別を決断した行為それ自身は、女の中でなお捨て切れない物語の健在性を検証するものであったとも言えるのだ。

女は義弟との関係を、その関係の現状維持によって敢えて縛ろうとしたからこそ、森田家を離れ、同時に義弟との縁を切ることで、その固有な関係を物語の世界に閉じ込めようとしたのである。


女は捨て去って、振り切って、なお自分に縋りつく者を振り切って、そこに深い哀切の念を抱きつつも、それを振り切ることで、決定的に物語の過激な更新を選択しなかったのである。

それを拾おうとすれば、容易に拾える至近距離にありながら、女は遂にそれを拾うことを選択しなかったのだ。

女はなぜ、それを拾わなかったのか。

拾えなかったのである。

なぜか。

女の中に、義弟に対する優しい思いやりは健在だったが、しかし義弟を異性として意識し、それを義弟が求める辺りにまで、異性的感情の形成が全く届いていなかったからである。

或いは、より多くの恒常的に安定した時間を作り出すことによって、二人の「感情の落差」が縮まる可能性が全くないとは思わないが、少なくとも、彼らが置かれた状況下で、自分を思う義弟の感情ラインに、自分のそれを合わせていくのは極めて困難であったに違いないであろう。

しかし女は、義弟を無碍(むげ)に振り切れなかった。

女は、義弟の前で涙すら流したのである。

それは義弟の感情ラインに女のそれが辿り着いたからでなく、寧ろ、幼少時より庇護してきた義弟の一途な性格に対して、深い哀感を抱いたからであると思われる。

しかし義弟は、義姉の感情を明らかに読み違えてしまった。

読み違えていなかったとしたら、彼はあまりに義姉を愛しすぎたため、溢れ返る内なる感情を自ら支配し、制御することの能力を手に入れてなかったのである。

恐らく、そういうことなのだ。

ともあれ、二人の関係の悲劇の最大の内的要因を簡潔に指摘すれば、「異性感情の落差」という、にべもない結論に達するであろう。

女の中で泡立った感情の行方が全く定まらない時間の中で、男の噴き上がる感情のうねりだけが、女の内的基盤を削り取ってしまったのである。

男の感情のうねりは常に女のそれを大きく上回ってしまったので、女には、その感情に追いつく時間すら与えられず、常に危険な刃を突きつけられた不安定な状態に置かれてしまっていた。

それは殆ど、精神的拷問と言って良かったかも知れぬ。

女は絶対的に置き去りにされる運命から、遂に脱出できなかったのである。

思うに、異性間の悲劇の殆どは、「感情の落差」に起因するであろう。

一方の感情が他方の感情をいつも相対的に上回っているとき、過剰な感情の者だけが声高になってしまって、しばしば、相手の感情の不足を嘆いてしまうのである。

残念ながら、「感情の落差」を生み出さない関係の絶対的な保証は、絶対的に存在しないのである。だからそこに、声高になる者の涙が溢れ出て、自分が決して失いたくない場所から遠ざけられてしまうのだ。

もし関係に「感情の落差」が際立つほどに存在しないならば、仮にその関係が破綻したとしても、そこに極めつけの悲劇は生まれないであろう。その関係の当事者は、その破綻の原因を「性格の不一致」とか、「価値観の相違」などという、その関係の当初から了解されていたであろう事柄に求めることで、そんな体栽を隠れ蓑にして、あっさりと別離を果たすに違いない。

つまり、「感情の落差」が決定的に存在しない限り、その関係にどのような相互の意志による破綻が生じても、相互の自我が負う裂傷は、軽微なもので済んでしまう可能性が多大であるということなのである。 

繰り返すが、本作の男女が受けた裂傷はあまりに無残であり過ぎた。二人の「感情の落差」が決定的であり、しかもそのことの正確な認識に、男の自我が届いていなかったのだ。それが、予定不調和の悲劇を生むことになってしまったのである。


男は女に物語の転換を求め、女は男に物語の継続を求めてしまった。

女の中で、「義弟」という関係の役割でしか捉えられなかった、年少の若者による唐突の求愛を受容するには、物語の決定的な転換を内側で劇的に遂げる必要がある。

何よりも、義弟と肉体関係を持つことによって生じる、世間や身内の厳しい視線を突き抜けるだけのパワーと、そのパワーを裏付ける内側の感情の継続力の保持が不可避であるが、女にはそれが不足していたのである。

その不足を感じつつも、女はなお自分に迫る男の感情を冷酷に切り捨てられなかった。

だから女は、男との一見、「道行き的な列車」に束の間付き合うが、当然の如く、男を自分の実家にまで連れて行くことなど思いも寄らなかった。

女は男を途中の温泉駅で下車させて、自らが導いて、一軒の宿にその身を預けるという行動を選択した。しかし、男の優しさだけは受容するが、男の身体を受容する訳にはいかなかったのである。

女はほぼ確信的に、男を清水の実家に戻すつもりだったのだ。

それも限りなく男の自我を傷つけないようにして女がそれを断行するには、経験不足であり過ぎた。

だから女は、男の身体を拒めない感情を、溢れる涙で表現してしまったのである。男は女の涙の意味を、そこで初めて認識してしまったのだ。自分の執拗な求愛が、義姉を苦しめる最大の原因になっていることを。

男はもう、何もできなくなってしまった。死ぬこと以外に。

男の死が限りなく自殺に近いそれであると、観る者は、男の煩悶の中に読み取ることができるであろう。



5  「特別な何か」に誘(いざな)われて



―― 最後に、辛辣な批評を少々加えたい。

本作の物語の中で枢要な位置づけを与えたのが、この国の高度成長の逆巻くうねりとという、時代背景の「光と影の世界」であったことは否定しようがないだろう。

本質的に、この国の多くの映像作家たちの筆致と一線を画すかのような成瀬巳喜男が、無論、本作で社会派デビューを果たしたなどという愚かな見方をする者ではないが、それにしても、映像の冒頭部分に於ける、市内のバーでの、スーパーの店員たちによる「卵食い」の描写の、下品でしかない直接主義は全く頂けない代物であった。

まるでこの描写は、「地元の善良なる小売店主」を甚振り、追い詰めることを愉悦しているかの如き、地方都市の中枢に出店したスーパーの店員たちの、その振舞いの「悪徳性」を強調することで軟着陸するだろう、ある種の感傷的ヒューマニズムが陥る善悪二元論の象徴的な構図であった。

「今、その時代に生きる、等身大の人間たち」に対する把握の杜撰さと浅薄さに、正直、私は辟易する思いである。

敢えて傲岸な物言いをすれば、こんな描写は全く必要なかったのはないか。

当時のこの国の、小売店主たちが置かれた現実の辛さを象徴する描写は、淡々と普通の日常生活者の感覚によって、どのようにも可能であったに違いないと信じるからである。

本来、成瀬はこのような直接的描写を好まない映像作家であると私は信じている。恐らく、このシナリオを書いた作家(松山善三)の過剰で偏頗(へんぱ)な思い入れが、このような描写を必至としてしまったのであろう。

「六條ゆきやま紬」より
高峰秀子の夫君でもあるこの作家は、彼の他の著名な作品(「続・名もなく貧しく美しく 父と子」、「六條ゆきやま紬」等/共に監督作品でもある)でも繰り返ししくじっていたように、しばしば、過剰な感情投入が作品自体を自壊させてしまうところがある。

明らかに成瀬は、この作家のシナリオのきな臭い箇所を削り取ってきたと思われるが、それにも拘らず、最も不必要な部分を拾い上げてしまったようだ。

言うまでもなく、最終的には作り手である成瀬の責任に因るものだが、返す返す、この描写の直接主義の手法の杜撰さが悔やまれてならないのである。

それともそれが、病を得た晩年の成瀬の、その表現的モチーフの枯渇や劣化を物語るものなのか。

「成瀬嗜癖症」を自認する私としては、その把握はとうてい認め難いが、ある意味で「メロドラマ」の域を究めた感のある、彼の遺作(「乱れ雲」)が内包した通俗性と安直なプロット性への傾斜は、「巨匠の韜晦(とうかい)」という範疇に収められるものであるとは思えないのだ。

率直に言えば、成瀬の晩年近くに創作されたこの「乱れる」(1964年)という作品に、そんな思いを少なからず抱いた事実を認めざるを得ないのである。

それは或いは、「この描写さえなければ」という感懐では済まない、何某かの表現的瑕疵を含む映像的完成度それ自身の致命性であるかも知れないだろう。

それにも拘らず、私は本作に深い感銘を受けた。涙腺が緩んだものも事実。


私にそのような感銘を惹起させた原因は、明瞭である。そこで描かれた男と女の心情ラインに、容易に自分の思いを合わせることができたからである。

ここでも成瀬は、人の心の内奥を丁寧に、且つ、深々と描き切っていたのだ。

成瀬は如何なる製作条件の制約下にあっても、そこで表現された心情世界は、成瀬的小宇宙の枠組みから決して逸脱することをしないのだ。

成瀬はどこまでも、成瀬巳喜男という、固有なる映画監督の表現世界を構築することを捨てなかったのである。

私にとって本作の存在は、他の成瀬の作品と決定的に違(たが)うほどの意味を持つものではないが、それでも、そこで描かれた男と女の狂おしくも切な過ぎるほどの物語は、観る者の胸を痛烈に打ちつけるほどの哀感を掻き立てて止まないのだ。

微妙だが、しかし決定的な感情の齟齬(そご)が際立つ現実の重量感を了解し得る感傷的な心情の中で、自らが置かれた艱難(かんなん)なる状況下に、なお必死に呼吸を繋ぐ二人の誠実なる魂への共感感情が出来するとき、液状の冷たいラインが止め処なく溢れていってしまうのである。

それ以外にない選択肢の厳しさを、存分に被浴するような不可避な流れ方によって、男と女はその固有の時間を抜けてしまったのだ。それだけのことなのだが、それが私たちの日常と危うい地続きになっている分だけ、自我の内側深くに封印したかのような共感感情が勝手に騒いでしまうのである。

やはり私にとって、本作は「特別な何か」であった。

それは必ずしも、「禁断の世界」に幾度か足を踏み入れた者だけが了解し得る物語のラインだった訳ではないが、その果実の怖さと悦楽の劇薬性を知る者なら、比較的容易に了解し得るプロットのリアリティであったと言えようか。

ともあれ、私にとって、「禁断の世界」をテーマにした映像は、どうやら「特別な何か」という把握の範疇にあるらしいのだ。

正直に書けば、決してズブズブの感傷に流れ込むことのない、リアリティ溢れる「禁断のメロドラマ」に、私自身、からっきし弱いということである。

それ故「禁断のメロドラマ」は、私にとって常に「特別な何か」なのだ。

それは、「その類の経験をした者の心情ライン」を衝き抜いてくるような花弁の内側の棘であり、必ずしも相応しくない例えだが、鮮血の痛みに耐えても求めてしまう「ヤマアラシのジレンマ」(暖を求めて近づき過ぎると、却って相手の針が刺さってしまうというフロイトの概念)の心理に似ているかも知れない。

従ってそれは、日常のほんの近くで目眩(めくるめ)く甘美な芳香を放っていればいるほど、それを手に入れたいと思う気持ちを断ち切れないに違いないのだ。

言わずもがなのことだが、その世界は明瞭に「日常性」と切れた「非日常なる魔境」であり、相当の覚悟なくして踏み入れてはならない危うい世界である。

いや、この覚悟を括り切ったつもりでも、それでも踏み入れることを捨てられない世界であればこそ、それを「魔境」と呼ぶ以外にない怖さが、そこにある。

それが私たち人間の性(さが)といってしまえば身も蓋もないが、少なくとも、私たちの脆弱なる自我は、「ほんの少し手を伸ばせば届くかも知れないと思われる、花弁の芳香沸き立つ世界」に踏み入れることを捨てられない、呆れるほどの未熟性を晒して止まない何かでしかないのだろう。

成瀬巳喜男監督
成瀬はそのようなテーマを内包する作品を幾つか創作したが、そこで彼は、私たちの等身大の日常と地続きになっている風景を淡々と描き出してきた。

そのプロット構成にしばしば安直な設定が含まれていたにしても、そこで展開される人間心理の奥行きの深さにはリアリティ溢れるものがあった。

それが、観終った後の心の襞(ひだ)に激甚な痛覚を残すものではないかも知れないが、それでも棘のような何かとして刻印させる印象力には甚大なものがある。それが、成瀬的小宇宙の魅力の源泉になっていると言っていい。

本作の「乱れる」もまた、その類の典型的な作品の一つであった。

このシンプルな物語で描出された男と女の心理劇の求心力は、成瀬の他の作品がそうであったように、私たちの等身大の日常性が、しばしばそれとのインターフェイス(境界)が見えにくい非日常に喰われていくときの、切なくも狂おしい危うさを映し出しているリアリティにあると言えるだろうか。

くどいようだが、そこで描かれた表現世界の中に幾つかの不具合な描写が張り付いていたとしても、そんな不満を払拭させるに足る固有なる映像宇宙の魅力を、成瀬の作品は存分に放って止まないのである。

それ故にこそ、私は成瀬が好きなのだ。それ以外の言葉を私は持たない。それだけのことである。



【余稿】


スーパーの進出で、地方都市の小売店の経営が圧迫されていく時代背景に濃密で繊細なメロドラマが緊張含みに展開する。

修羅の世界で悶々とする男と女の苛酷な状況では、いつでも過剰に駆け抜ける者が不幸の一番くじを引く。しかし加山雄三演じる義弟の危うさが、二番くじを引いた義姉の壮絶な不幸を作り出すとき、モノクロの映像は凍結した彼女の表情を置き去りにした。

仮に義弟の死が仮に事故であったにしても(彼の最後の「さようなら・・・」という言葉を軽視しない限り、彼の死が自殺であった可能性は極めて高い)、女の哀切は既に極まった。

その凍結した女の表情は、充分に彼女のその後の人生の絶対的不幸を予想させるが、それ故に観終わった者の心には、残酷なラストシーンを消化できない戸惑いだけが残される。この戸惑いが私の心に澱となって、いつまでも哀切すぎる残像が澱んでいる。

義姉を演じた高峰秀子のその抑制された圧倒的な演技が、ここでもまた私の心を鷲掴みにして離さなかった。


同時に「若大将シリーズ」で人気を博していた頃の加山雄三の、俳優としての力量が試された一篇でもあった。

その力量が本当に開花したのは、まさにこの成瀬の晩年に近い一作だった。

本篇での加山雄三の演技力は極めて拙いが、しかしその拙さが、ここではとても素朴に表現されていて、それが却って、忘れ難い傷心の青年のキャラクターに溶け込んでいたのだ。

彼の俳優としての代表作である、と私は勝手に思っている。

そのようなキャラクターを造型した成瀬巳喜男の演出の冴えが、ここでも光っていたからであろう。

(2006年8月)

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