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2008年12月8日月曜日

イゴールの約束('96)     ダルデンヌ兄弟


<「暗黙の約束」が削られて>



序  華やかなる観光立国的イメージとの落差感



ベルギーは小さな国である。

日本の四国より少し広い国土に、およそ1000万の人が住んでいる。

首都は、言わずと知れたブリュッセル。その大広場(グラン・プラス)が世界遺産に登録されているブリュッセルにはEUの本部が置かれていて、まさにヨーロッパの象徴のようなベルギーは、比較的豊かな国であるとされる。

確かに義務教育が18歳までであり、しかも学費は一切無料という事実は、豊かな教育立国のイメージを想起させる。しかし私たちの、そんな「光」のイメージと重ならない「影」の部分が、この国にはある。

最も知られているのが、この国を南北に分ける「言語境界線」の問題。

オランダ語の一方言であるフラマン語を話す北方のフラマン地方と、ラテン系のフランス語を話すワロン地方に言語圏が分断されていて、双方の間に人的交流が少ないという事実がある。

そして近年、重大な問題になっているのは、この両地域の間に存在する様々な経済的、教育的格差が生じているという事実である。

ワロン地方
従って、多くの移民を抱える国と化しているベルギー(アフリカからの移民も多いことは本作とも関連)の中で、ハイテク産業に象徴される先端技術工業の発達著しいフラマン地方(フランデレン地方)と、石炭産業や鉄鋼業の衰退著しいワロン地方との、失業率の落差が顕著であるのは必然的であるだろう。ベルギー国内の由々しき社会問題は、北部ベルギーの南部地域からの独立運動の機運すら生まれている現実に象徴されているように(注1)、近年益々歴史的に内包する矛盾を顕在化させているのである。

そんな状況下で、日常的にストレスフルになった若者の一部が極右化したり、犯罪に走ってしまったりというケースも多いと言う。

彼らによる外国人移民への言われなき迫害の問題も、由々しき事態になっていることも近年の尖った状況の一つでもある。その現実は、古き良きヨーロッパ王朝の郷愁を見せる、「ベルギー」という、華やかなる観光立国的イメージとの落差を感じさせて戸惑うばかりである。


(注1)因みに、2007年11月19日、産経新聞は共同通信社の配信ニュースとして、以下の記事を報道している。

「ベルギーの首都ブリュッセルで18日、『連邦存続』を訴える市民らがデモ行進し、市当局によると、参加者は約3万5000人に膨れ上がった。ベルギーでは、6月の総選挙後、北部オランダ語圏と南部フランス語圏の対立から5カ月が過ぎても政府樹立のめどが立たず、連邦解消の恐れすらささやかれている。参加者らは黒、黄、赤の国旗などを手に『ベルギー、ベルギー』と連呼し、各政党に歩み寄りを求めた。全国で連邦存続を支持する14万人の署名を集め、デモを主催した東部リエージュ市の職員マリクレール・ウアールさん(45)は『ベルギー人が(連邦解消を主張する)極右支持者や怠け者ばかりではないことを証明したかった』と話し、オランダ語、フランス語の垣根を越えて多数が参加したことを喜んだ」(産経新聞のニュースサイトより)



1   勝負の一作 



そんなベルギーの内実を、冷厳なリアリズムで映像に映し出した男たちがいる。今や、ベルギー映画の巨匠と目されるダルデンヌ兄弟である。

ベルギーでも有数の工業都市リエージュ(上記の注の項で、連邦存続を支持するデモを主催した市職員として話題になった都市であることに注目)で生まれ育った兄弟は、様々な体験の後、労働者階級の団地に住み込んで、ドキュメンタリー作品を手がけていく。

やがて二人は、表現に創作性を持たせたいというモチーフから劇映画に進出するに至ったのである。

しかし、会社側との軋轢によって納得のいく作品を残せなかった不満から、二人は妥協することのない制作環境を作り出していく。自分たちで資金を集め、一年間をかけて練ったシナリオをベースに、一篇の秀逸なる映画を創り上げたのである。

その最初の結実が、長編劇映画の3作目に当る「イゴールの約束」であった。

ダルデンヌ兄弟
それは、ダルデンヌ兄弟の勝負の一作だった。

そして彼らは、その勝負に勝った。忽ちのうちに彼らは常勝の映画作家となり、出品の度にカンヌでの絶賛が約束された巨匠になっていく。彼らのカンヌキラーの本領を発揮した「ロゼッタ」、「息子のまなざし」、「ある子供」へと続く全ての作品において、最も注目されるベルギー監督の名声を不動のものにしたのである。

兄弟の勝負の分岐点となった「イゴールの約束」―― それは、親子の絆は絶対であるという「暗黙の約束」よりも、血縁のない命の約束を選択した魂の、その自立への苦闘を描いた一級の人間ドラマである。

そこに映し出されたのは、明らかにベルギーの現在と、そこに呼吸する人々の真実の生活であり、その生きざまだった。それは、私たち日本人の多くが知らない「もう一つのベルギー」であり、「もう一つのヨーロッパ」、或いは「真実のヨーロッパ」と言えるかも知れない。

兄弟の映像は、恐らく左翼的視点から、「もう一つの世界」に漂流する屈折した思いや、脚力をもう少し加速すれば届きそうな欲望、更にその限定された空間で様々な観念が蠢(うごめ)くさまや不安を、自由な手持ちカメラの揺動する効果によって、硬質のフィルムに記録したという印象が際立っている。そこに、ドキュメンタリーのような鮮烈な映像だけが残されたのである。



2  瀕死のメッセージへの反応



―― そのシビアなストーリーを、簡単に追っていこう。


不法移民の斡旋と売買によって生計を立てているロジェは、彼らを襤褸(ぼろ)アパートに住まわせて不当に高い家賃を取り立てて、悪銭を稼ぐ日々に明け暮れている。

あろうことか、息子イゴールにその仕事を手伝わせているから、自動車修理工場で職業技術を身に付けようとする息子の思いは、解雇という形で呆気なく閉ざされてしまったのである。

老婦の財布を平気で盗むイゴールにとって、父の存在は絶対的だった。

母を持たない一人息子のイゴールは、違法な世渡りに馴染み過ぎて、良心が鈍磨している父親の存在だけが、多感な思春期の只中にある自我の格好のモデルになってしまったのだ。

彼には、父に同化する自我を形成する以外に、その生存戦略が実を結ばなかったのである。

ルーマニア移民を騙して捜査当局に引き渡した後、父は息子に自分と揃いの指輪を送った。いつか自分たちの家を持つという夢のうちに、ロジェの自我の拠って立つ場所があり、その夢に息子の自我が架橋していく思いの象徴として、父子の指輪は存在価値を持ったのである。それは父子が、「運命共同体」として確認する「暗黙の約束」だった。

そんな二人の相対的に安定していた関係が、一つの由々しき出来事によって、突然緊張含みの関係に暗転する。

ロジェのアパートに移民局の係官が抜き打ち査察にやって来て、イゴールは移民たちを避難させようと懸命に走り回った。ところが、建設現場の足場にいたアフリカ移民のアミドゥが、誤って転落してしまったのである。落下音に驚いたイゴールが階段を下りた先に、血を流して倒れているアミドゥの動かない体があった。

少年はその体に寄り添って、必死に助けようとする。

「死ぬなよ。おい、アミドゥ」
「女房と息子を・・・二人を頼む。頼んだぞ」

それが、呻きの中から漏れたたアミドゥの最後の言葉だった。

「約束するよ・・・」

少年はアフリカ移民の、瀕死の際のメッセージに咄嗟に反応したのである。

少年は一時(いっとき)、アミドゥを査察官から隠して、自分のベルトでアミドゥの出血した足を縛った。そして、事なきを得た父に事情を話して、病院の手配を強く求めたのである。

「足場から落ちた。病院へ運ばなくちゃ」
「何て言う?」と父。
「車に轢かれたとか・・・きつく縛ってよ」

少年は必死で動いている。父をも動かそうとした。
しかし事情を察した父は、イゴールが繋いだ命のベルトを素早く取り外し、査察の安全を確認するまで、虫の息のアミドゥを塀際に隠したのである。

父子が再びアミドゥを確認したとき、彼は既に死体になっていた。

深夜、父は死体の遺棄をセメント詰めにする作業を息子に手伝わせた。少なくとも、このとき父は、彼の履歴にもう一つの許し難き犯罪を加えてしまったのである。そこに、父の犯罪への加担に嫌悪感情を見せた息子が、空しく置き去りにされたのだ。

その夜、激しく動揺する息子のベッドに父は寄り添って、諭すようにうそぶいた。

「俺たちのせいじゃない。事故だ。落ちたのが悪いんだ…おやすみ」

黙って頷くイゴールの心中で、名状し難い感情が出口を見つけられずに騒いでいた。

それはイゴールの内側で、何かが少しずつ、しかし確実に変わっていく事態の始まりを告げる騒がしさであった。少年の父だけが、それを知らない。



3  未知なる約束の旅へ



西アフリカのブルキナファソから、夫と暮らすためにアパートに着いたばかりのアミドゥの妻アシタは、夫の行方を求めて奔走する。

そのアシタのもとに、夫のギャンブルの借金の返済を迫って、男がやって来た。

アシタに同情するイゴールは、親しくしていたアミドゥの借金を彼女に内緒で肩代わりした。少年はアミドゥとの約束を、まず一つ遂行したのである。

それは少年にとって、自らの力で可能な範囲の行動であった。

しかしアミドゥとの約束の遂行は、一日でも早くアシタを追い出そうと考えている、父ロジェとの「暗黙の約束」を確実に削り取っていった。

イゴールがアミドゥの借金を立て替えた一件を知ったロジェは激昂し、逃げ回る息子を繰り返し殴打した。

「もう行くな!俺が片をつける」

うずくまる息子にそう言い放った後、父は一喝した。

「それと二度と騙すな、分ったな?」

父には、「約束」を強要する事しかできないのだ。

今までにない息子の「裏切り」に対して、父はこんな形でしか反応できないのである。

息子の自我に、何か新しいものが芽吹きつつある現実を正確に受け止められない父は、それまでの二人の関係の修復がそうであったような方法、即ち、「大したことじゃない。泣くな…」という子供をあやすような抱擁のうちに、事態を情緒絡みで処理しようとした。

父から見れば、アシタに同情する息子の行動は、思春期の一過的な衝動の類にしか見えなかったのである。

「今まで女とは?…寝たことは?」
「ない」
「もういい年だ。やりたいか?」
「時にはね」

息子の笑顔を見て父は納得し、その息子の腕に自分と同じようなタトゥーを彫った。

父にとってタトゥーの儀式は、二人の関係の絶対性を確認する「暗黙の約束」なのである。父はその後、息子を行きつけのバーに連れて行き、思い切りデュエットで歌い合って商売女に触れさせた。

父子がまるで恋人のように歌う描写は、この映画で最も印象的なシーンの一つだった。

わだかまった二人の心はそこで溶け合って、一日でも早く忘れたい過去の記憶を丸ごとに流しさっていったかのようだった。

しかしそれは、関係の亀裂をより深めていく展開の始まりでしかなかったのである。

父ロジェの、アシタを追い出そうとする思惑が、次々に実行された。まず知り合いの男に金を出して、アシタを襲わせたのだ。

襲わせた後、ロジェはアシタに言い放つ。

「一人でいるのは危ない。赤ん坊もいる。アミドゥが蒸発して、もう一瞬間だ。故郷(くに)に帰るのが一番だ」
「追い出す気?」とアシタ。
「違う。でも、それが一番だよ。今も俺がいなかったら・・・」
「主人は戻るわ。借金を返したと知れば、戻って来る」
「いつ返したんだ?」
「3日前」
「戻るかもな。だが、戻らなかったら?宿を貸して5年になるが、故郷(くに)を離れておかしくなる奴もいる。この上にガーナ人が住んでいた。奴は滞在証が取れた日に、酔っ払って女房と二人の子を殺した」
「止めて!ひどい人ね・・・戻るわよ」
「戻らなかったら?」 
「捜して駄目なら、警察へ行く」

ロジェは、彼女の心を変える事ができなかった。

アシタの心から警戒心を少しずつ解いていったのは、ロジェの息子のイゴールだった。

彼女はイゴールを部屋に入れて、鶏を殺し、その内臓を取り出した後、占いを始めたのである。

「夫はこの近くにいるわ。内臓で分るの。この近くにいる」

アシタはアフリカの郷里で日常的な占いの儀式を、近代都市の雑踏の風景の中に違和感なく溶け込むかのような、不法移民宿泊施設の一角で敢行したのである。

アシタとイゴール
自堕落な夫を思いやる彼女の優しさと、その信仰厚き心(注2)が少しずつ、喧騒な都市に住む少年の前で顕在化されていく。イゴールの自我に、アシタの内部世界と触れ合った驚きが印象的に刻印されていくのである。

まもなく、アミドゥからの電報が届いた。

ドイツのケルンで待っているから、アシタに会いに来いという内容。これもロジェの策略だった。彼はアシタを、娼婦として売り飛ばすつもりなのである。イゴールだけがそれを知っていた。


(注2)2001年を機に、ブルキナファソは隣国コートジボワールの政情不安な状況下で、何十万にも及ぶブルキナ移民が難民となって祖国に戻って来るという問題や、砂漠化による農業生産のハンディを抱えているが、アフリカでは珍しく、国内的には民族間の対立や宗教間の緊張もなく、その宗教も現地固有の土俗的な信仰が保持されている。本作でのアシタの宗教心の歴史的背景がそこに窺われるだろう。(「地図で読む世界情勢」/草思社刊 参照)


翌朝、ロジェがアシタを車で目的地まで連れて行こうとした矢先、イゴールは意を決して、アシタを乗せた車を単身走らせたのである。

それは、少年が父と決別する最初の、しかし決定的な行動だった。それをしなければ、少年はアミドゥとの約束を履行できなくなってしまうのだ。

「ケルンじゃない」とイゴール。
「じゃあ、どこ?」とアシタ。
「知らない」
「止めて!止めてよ!」

そう言って、アシタはイゴールに剃刀を突きつけた。

「分った」

車を止めた少年に、アシタは詰問する。

「主人はどこ?」
「ケルンじゃない。ロジェは、娼婦として売る気だ」
「何だって?」
「娼婦だよ」
「白状する?電報は?」
「ロジェが打った」

その言葉を聞いて、アシタは「警察へ行って」と少年を促した。

「ダメだ。親を密告する気はない」
「主人を探すだけ。早く警察へ」
「不法滞在者なのに?」
「行って」

暫く車の中で迷っていた少年は、結局、アシタと共に警察へ行くことになった。捜索願を出しに行ったのだ。

署内で、アシタを後ろから見守るイゴールの表情は複雑だった。肝心なことを話せない苛立ちが、少年を少しずつ変えていくのである。

しかしこの国で、苛立ちを隠せない他の若者たちは、橋の上から、子守をするアシタに向かって放尿し、彼女の持ち物をオートバイで蹴散らしてしまうのだ。

「悪党が多い国ね」

そう呟くアシタの保護に向かって強く動いていくイゴールは、もう放尿する悪質な若者の心と切れていた。

本作のファーストシーンで、裕福そうな老婦から財布を盗んだ少年の非行性は、少なくとも、ここでは殆んど見られない。イゴールの新しい、未知なる約束の旅が始まったのである。



4  無機質な音声の乾いた繋がり



少年はアシタを、隠れ家に連れて行った。

そこは、以前に働いていた修理工場の留守部屋だった。部屋で赤ん坊の発熱を気にするアシタ。苛立つ彼女はイゴールに、「出て行って」と突き放す。

「このままじゃ、親父に殴られ損だ!勝手にしろ」
「出てって!」

唯一、縋ろうとする者に突き放された少年は、アシタに抱きついていく。

「何するの、放して!」

しかし少年は、アシタの体から離れられない。泣いているのだ。

少年の涙は、我が子を必死に守ろうとするアシタの母性に縋りつくことで、苛酷な旅の不安から解き放たれたいという心の表れだったのか。

部屋を出て孤独になったイゴールは、公衆電話から自宅に電話をかけた。その電話に父が出ても、息子は何も喋れない。

苛立つ父は、次々に強い口調で言葉を繋いでいく。

「お前だな?どこにいる?お前なんだろ?彼女にバラしたか?答えろ。答えろったら!戻って来い。殴らないから。居場所を教えろ」
「車はコックリル通り。キーはバンパーに」

息子はその言葉だけを伝えて、電話を切ったのである。

少年は、まもなく街路に出て車を止めようと叫んでいるアシタを見て、我が子を病院に連れて行こうとする事情を呑み込んだ。

「お前たちが、この子を病気にしたんだ…あんたも、あんたの親父も!白人なんて、皆同じだ!白人を呪ってやる!」

少年は拒まれても、赤ん坊を抱く母親に寄り添っていく。

「アシタ、大丈夫?」
「死んじゃうよ。病院へ行かなくちゃ」
「車を取って来るから、ここにいて」

そう言って、走り出そうとする少年を、アシタは止めた。

「待って!本当のことを教えて。主人は死んでないんでしょ?知りたいの」
「死んでない」

少年はそう答える以外になかった。

少年はアシタと赤ん坊を病院まで送っていくことだけが、今の自分にでき得る行動であると判断したのである。


病院でのこと。

少年は、アシタの治療費を払おうとするが足りない。彼はその足りない治療費を、行き掛かりの黒人の清掃婦に支払ってもらうことになった。それは、異国の地で苦労する同胞の移民への人情だった。恐らく、少年が味わったことのない世界がそこにあった。

その清掃婦の紹介で、アシタと少年は占い師のもとに案内された。

「アシタの夫はまだ生きているから、子供をイタリアにいる親戚に預けて探しなさい」

それが占い師の答えだった。

少年はここでもまた、アフリカ黒人の土着の信仰の深さに出会ったのである。

イゴールは父からもらった指輪を金に替えた。その金をリラに替えて、彼女のイタリア行きの交通費に充てたのである。それは少年の心から、指輪で結ばれた父との「暗黙の約束」が崩壊していく象徴的なシーンだった。

少年の継続的な親切に触れて、アシタの心には信頼感が生まれていた。彼女は自分の赤ちゃんを少年に預けたのである。

「感謝しているわ」

アシタの言葉には重量感があった。

その重量感を感じとることができた少年は、彼女が少年に触れさせることさえしなかった、首のとれた大切な彫像を接合しようとした。彫像の首は、例の悪質なオートバイによって轢断(れきだん)されたもの。その彫像はアシタの郷里の守り神であり、同時に夫への思いを仮託した魂でもあったに違いない。

その魂を一つに繋ぐため、少年は作業に没頭する。そこに、少年の父ロジェが突然侵入して来た。

「彼女は?」

昂揚する感情を抑えて、アシタの行方を静かに訊ねる父。その父を迎える息子の眼は、殴られることを恐れてうずくまっていた幼児性を殆んど突き抜けていた。 

「真実を話そう。一緒に来て」
「止めろ!」

感情を暴発した父は、息子に飛びかかっていく。

そのとき、ロジェの後頭部に硬いものが襲いかかってきた。アシタが放った一撃だった。

床に倒れている父の片足を、息子は必死の形相で錠に繋いだ。一瞬の判断だった。しかし自立的な判断だった。自立的な判断で苦境を抜け出す知恵を、少年はいつしか学んでいたのである。

「待ってくれ、頼むから…家のことも何でも、お前のためなんだ。俺の息子なんだからな」

意識を取り戻した父ロジェが息子に放った言葉は、今や子供騙しの哀願でしかなった。

「止めてくれ!…黙れ!」

泣きながらそう叫んだイゴールは、もう、父の言葉を激しく拒む自我を作り出してしまったのか。

「眼鏡を取ってくれ。外してくれよ。親父を放っておく気か。頼むから、外してくれ。イゴール!イゴール!」

イゴールはこのとき、実父のロジェではなく、赤子を必死で守り抜くアシタを選択したのである。ここで置き去りにされたのは息子ではなく、息子の父だったのだ。少年は今や、父を置き去りにする強さを身につけてしまったのである。


少年はアシタを伴って、駅へと急いだ。

駅に繋がる長い橋の上を、アフリカの母とベルギーの少年が、言葉を交し合うことなく黙々と進んでいく。二人はやがて並立し、駅の構内を俯(うつむ)き加減に流れていく。

ホームに通じる階段を上りかけたアシタの後方から、少年の抑制的だが、しかし選び抜かれた確かな言葉が放たれた。

「死んだんだ。足場から落ちた。親父が面倒を恐れて、治療しなかったんだ。親父に従った。小屋の裏にセメントで埋めた…」

アシタの足が止まった。

体が固まってしまったような沈黙の後、静かに頭のターバンを外し、振り返った彼女の視線は、真っ直ぐに少年に向かった。

少年はその視線を、いつまでも受け止めている。

視線を外したアシタは、もと来た通路を静かに引き返して行く。

少年は慌てて彼女を追い駆けて行き、やがて横に並ぶようにして、終始無言で通路の奥に消えて行った。構内を鈍く騒がせる機械音だけが、最後までその非律動的な音声を残していた。

映像はこの無機質な音声の乾いた繋がりのうちに、静かに閉じていく。

僅か90分間に過ぎない濃密な人間ドラマの幕が、観る者に様々なイメージの喚起を委ねて下ろされたのである。


*       *       *       *



5  「暗黙の約束」が削られて



「イゴールの約束」は完璧な映画だった。

ラストシーンの決まり方が圧巻なのだ。

ダルデンヌ兄弟
ダルデンヌ兄弟は、初めからこのラストシーンの構図が決まっていた、と語っている。

90分間の映像の、随所に尖りを持った、緊張感溢れる展開の流れの果てにあったのは、そこに全ての勝負を賭けたような、漂流する魂がギリギリのところで、辿り着く場所を見つけたときの鮮烈な描写だった。

このラストシーンに収斂されていく映像のテーマ性が、イゴールという未熟な自我の危うい漂流のさまと、その危うさの中で、些か空洞になっているその自我の中枢に、決して捨ててはならない何か、即ち「良心」とか、「罪悪感情」といった倫理的価値を、いかに獲得していくかという点にあったことは、監督自身の言葉によっても明瞭である。

ダルデンヌ兄弟は明瞭に語っている。

「『イゴールの約束』の物語は、イゴールが罪悪感を獲得するまでの道程だと考えることができます。それは自分から何もできないような罪悪感ではありません。テレビなどで戦争や殺人などの映像を観たとしても、こちらは何もできないし、現実を変えることはできません。 この映画が描くのは、行為に向かって移行ができるような罪悪感、それを持ったからこそ現実が変えられるような罪悪感です」(大場正明氏HP内、日本版「Esquire」1997年7月号、ダルデンヌ兄弟インタビューより)


―― では、イゴールが罪悪感情を獲得するに至った心理的要因はどこにあったのか。それを考えてみる。


一つは、アフリカ移民であるアミドゥへの素朴な親近感と、その事故への同情、更には、事故に対する事後処置への悔いや不満である。

ここで重要なのは、老婦の財布を平気で盗むような少年の自我のうちに、このような感情が形成され得る倫理性が既に確保されていたということである。

要するに彼は、全く教育の余地のない非行少年ではなかったのだ。少年は「ボーダーライン症候群」(注3)であるかも知れないが、そのまま放置しておけば、「反社会性人格障害」に流れていくような、いわゆる、極め付きの「行為障害(注4)児」ではないと言えようか。


(注3)境界性人格障害のことで、人格の僅かな歪みによって、自我のコントロールに支障を来たす「精神的疾患」。「見捨てられ不安」を随伴し、しばしば自傷行為を伴う。

(注4)社会的規範を著しく逸脱する行為を重ねる「疾患」と言っていい。矯正されないと、「反社会性人格障害」に発展する危険性があるとされる。


二つ目は、アミドゥの妻アシタとの出会いである。

アシタとの曲線的な交流の中で少年が垣間見たもの、それは夫を思いやる愛情の強さであり、常に甲斐甲斐しく赤ん坊の世話をする彼女の母性の深さであり、そして鶏の内臓占いや彫像を大切に扱う心に見られる、アフリカの郷里の土着信仰への強い思い入れなどである。

思えばそれらは、少年の父ロジェが息子に与えられなかったものであるか、或いは、与えてこなかったものである。

父が息子に与えてきたものは、限りなく物質的なものであり、普通の倫理感覚で言えば、決して許容されない処世術であり、それを根底で支える悪徳の価値観である。

未だ義務教育を完了していない15歳の少年が、学校に通うことなく親の不法行為を手伝わされて、そのため、自動車修理工見習いの仕事を解雇されることになる。少年は父親ロジェの精神的支配の下、父親と同じようにタバコを吸い、刺青を入れ、指輪を嵌めるのだ。

しかし、彼には何かが足りない。

恐らく少年は、その足りないものを、愛人を持つ父親に遠慮してか、心の奥に封印した。

そして、その封印したものと出会ってしまったのである。少年の視界の至近距離のうちに、我が子を限りなく慈しむ、母性溢れるアシタの振舞いが、しばしば柔和なる包容力を持って、決定的な局面でダイレクトに侵入してきてしまったのだ。

少年にとってアシタの存在は、異性であると同時に、母性でもあった。

異性の問題は思春期の流れの中で処理されていくが、「母性なるものの抱擁」を手に入れることは決して容易ではない。少年がアシタに抱きついたときの心情の切なさが、そのことを端的に物語っている。

映像はそこに、漂流する魂の一つの極限のさまを映し出して、私の心を深く揺さぶって止まなかった。

ベルギー南部ワロン地域の田舎町(ブログより)
カトリックが国民の75%を占めるこの国で、少年の自我には信仰心の形成が殆んど見られない。

彼の父親からの信仰心のリレーがないからだ。

それは、近代という名の契約社会に適応していくための精神的基盤が、いかにも脆弱であることを示している。自動車修理工場の雇い主に、「時間を守れなかったら、来なくていい」というような当たり前の説教を受けても、それに対応できない少年の未熟さは、契約社会で生きていくことの難しさを充分に予想させる何かであった。

信仰心厚いアシタとの出会いは、見えないものに畏怖する素朴な魂との出会いでもあった。

少年にとって、最も見えないもの、それは神の声であった。ラストシーン近く、少年がアシタの彫像の首を接合しようとする描写は、アシタの自分への感謝に対する率直な反応であると共に、アシタの心の根っこにあるものに、少年が一歩近づいたことの表われであると言えよう。

少年は今や、神の声を聞く心を持ったのである。

それは、イゴールという名の自我に、未だ脆弱だが、しかし、それなりの突破力を持った良心が形成さたことを象徴する描写だった。

少年にとってアシタを守ることは、自らを解き放っていく、極めて自立的な内面の運動でもあったということだ。

それ故に、その運動は、緩やかな直線的な走行を許さなかった。そこに、その運動の初めから内包した基本的な矛盾が横たわっていたからだ。なぜなら、アシタを本来的に守ることを遂行するならば、彼女の夫の死を、その夫を懸命に探そうと努めるアシタに向かって、少年は勇気を持って告白しなければならないからである。

その告白なしに、イゴールという名の自我の未来を拓く運動は、どこまでも続く険しい走行の、その最初の軟着点に落ち着くことができないのである。

少年の自我が自立的であるならば、アシタへの告白によって証明しなければならないのだ。それはもうアミドゥのためでも、アシタのためでもなく、まさに自分自身のため以外ではない。自分自身が拠って立つ場所を、少年は一日でも早く模索し、そこにイゴールという名の確かな自立の塔を構築しなければならなかったのである。

遂に少年がアシタに告白したとき、イゴールという名の自我は、未来に通じる一つの出口を自らの手によって切り拓いたのである。

それは、少年の魂の鮮烈な解放を告げる突進だった。彼はそのとき、自分の力で獲得し得る能力のギリギリの突破力を見せたのである。恐らく、それ以上のことはできないという際のところで、少年の魂は激越に炸裂したのである。

しかし、アミドゥとの命の約束の遂行は、父ロジェとの「暗黙の約束」、即ち、親子の関係は絶対的であるという不文律を壊すことであり、また「俺を騙すな」という、一方的に強いられた約束をも破棄することを意味した。

少年が父の片足を鎖で縛り、そこに錠を掛けたとき、父子を堅く繋いでいたであろう幻想の鎖は、脆くも砕け散ったのである。

何もかも幻想だったのか。

少なくとも父ロジェが、息子の心を僅かな価値しか持たない指輪で繋ぎ、殴った後の抱擁で繋ぐという子供だましの関係戦略は、そこに決定的に足りない何かを補完するための、一種歪んだ心情支配の何ものでもなかったということだ。

それは、「暗黙の約束」がいつか破綻することへの不安を暗示している。

最終的には、父ロジェは、いつでも関係幻想に逃げ込んでしまう他にないのだ。彼もまた、充分に切ない人生を送っていると言わざるを得ないのである。

それでも少年は、険しい旅に出た。

その旅で少年は傷つき、狼狽(うろた)えながらも、その艱難(かんなん)な旅を、とりあえず完結させたのだ。少年の将来に何が待っているか、映像は何も語らない。映像のテーマがそこにまで及んでいないからだ。

しかし少年の旅は、その緒に就いたばかりなのである。

その旅の成否を分けるもの、それは継続力、即ち、「罪悪感」の継続力である。「良心」という名の、「形成された確かな自我の継続力」。それに尽きるだろう。

アシタの国・ブルキナファソの首都ワガドゥグー
恐らく、アシタはアフリカに戻り、そこで再び幸福な日常を手に入れるであろう。

では、ロジェはどうなるか。

彼の人格に決定的な変化を期待するのは無理な気がする。彼は息子を失うかもしれない。或いは、成長を遂げていくイゴールとの確執の中で、彼の生活風景は微妙な変化を見せるかも知れない。

最も悪い予想は、父が再び息子を支配していく構図の再現。

しかし、イゴールという名の自我の運動に継続力が確保されれば、息子の心を支配する悪しき父のイメージを予想することの方が難しいかも知れない。

いずれにせよ、一篇の、見事に表現的な完結を見せた映像に過剰なほど言及してしまうのは、この映像が私には虚構の物語としてのそれではなく、まるで実在人物のドキュメンタリーのように思えてしまうからだ。それほどこの映画が、生々しくリアルな表現を貫いたこと、そこにとんでもない重量感を感じてしまったのである。



6  「先入観の暴走」が削られて



この映画を作ったダルデンヌ兄弟の、若者に対する眼差しは、あまりに優しすぎる。彼らは先のインタビューの中で語っている。

「あなた方の作品は、つねに若い世代にスポットをあてていますね。その理由を教えてください。

リュック・ダルデンテ監督:若者というのは、何にでも変われる世代、そして、すべてのことが可能な世代だと思うからです。同時に、私たちが生きる今日(こんにち)の社会は、若者たちに対して、恐れを感じ、排除しようとしています。変化への恐れと言い換えてもいいでしょう。ですから、私たちは、彼ら若者を批判するような作品は作りたくありません」

私はとうてい、ダルデンヌ兄弟のような若者への思い入れを持てない。また彼らのように、「若者に反逆の心を持って欲しい」(NHK・「クローズアップ現代」放送より)などという扇動的発言を、私は好まない。
恐らく、彼らと私の価値観、世界観、現代史観、そしてそれぞれに置かれた国状が違うからである。

しかし表現された作品の価値は、その完成度の高さによってのみ決まると私は考える。

当然のことだが、それが意外に劣化しているようにも思われるのだ。

「先入観の暴走」という印象を残す表現フィールドのきな臭さが、映画界になお張り付いているようにも見えるのである。

イデオロギーの濃度の深さや、特定の世界観、価値観、政治観、宗教観等によって表現作品の価値を測ってしまうほど愚かなアプローチはないであろう。

少なくとも、本作には「先入観の暴走」が削られていたという印象が強く、表現された映像作品として群を抜いて優れていたということだ。私が本作を評価する理由はそれ以外ではない。

この作品から受けた感銘も深かった。だから私は、この作品と、それを作ったダルデンヌ兄弟という傑出した才能に熱く敬意を表したいのである。

(2006年2月/2007年11月加筆)

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