ロバート・ベントン監督
観る者の感動を狙っただけの映画が氾濫する情緒過多なる時代のとば口に、かくも堅実で良質なヒューマンドラマがあったことを確認させられる一篇。
主演を演じたサリー・フィールドと、ジョン・マルコヴィッチの冴えた演技が映像的感性を濃密にしていて、最後まで感傷に流されない秀作に仕立て上げた。
―― 物語を簡単に追っていこう。
時は、1930年代半ば。
大恐慌の影響を残すテキサスで平和に暮らす保安官一家に、突然の不幸が襲う。
当の保安官が酒に酔った黒人青年に誤殺され、呆然とする妻と二人の子供。
全てを切り盛りしていた夫を失った妻に残されたのは、膨大な負債のみ。
家事だけに専念していた妻には身の不遇を託(かこ)っている時間がない。
仕事探しに訪れた黒人との出会いから、慣れない綿花栽培を始めた妻は、激務の日々の中で、労働者と母の二役を熟(こな)ていく。
いつしか、彼女は保安官であった夫の役割、即ち、学校でタバコを吸った息子を折檻する仕事からも逃げられなくなっていた。母性と父性の厳しい兼務を象徴する印象的なシーンがある。
「こういうとき、お父さんだったらどうしたの?」
息子を折檻する際に、どのように尻を棒叩きし、何回叩いたらいいのかについて、当の息子に尋ねる母がそこにいる。
母はこのとき、何とか努めて自分の人格のうちに、一人の父親を作り出したのである。
負債を抱える銀行の担当者から、頑迷で盲目の甥の下宿を押し付けられ、やがて彼も新しい家族の一員となっていく。
黒人が連れて来た季節労働者による、厳しく辛い綿花栽培を主業とする生活の風景が淡々と展開される中に、痛ましいエピソードが挿入され、映像に無理のない重量感を与えていく。
テキサスを襲う竜巻によって地下壕に避難する家族は助かるが、その凄まじい被害に悲鳴を上げる町の人々。
KKK団に襲われる黒人の描写は南部映画の定番だが、その黒人を偏見に充ちた集団から守った、一人の盲人の行動が印象的だった。
盲人は庭伝いに張られた安全歩行用のロープを伝わり歩いて、黒人を激しく打擲(ちょうちゃく)するKKK団に対峙するや、護身用拳銃を試射して見せたのだ。
たじろぐ白装束の相手に本気の形相で迫る盲人が、そこにいた。
保安官殺しの黒人を平気で吊るすKKK団の者達も、一人一人は組織がなければ動けない町の住人たちに過ぎない。
黒人を人間として扱えない狭量の価値観に縋る者たちが、盲人の気迫に圧倒されて引き上げていく構図は、彼らの過剰な暴力が、単なるストレス解消の捌け口として、日常的に不可欠な何かになっていることを露呈するものだ。
しかしこの過剰な暴力によって、綿花栽培を指導してきた黒人は一家を去り、とうとう町を後にすることになった。
印象的なラストシーンは、多くの人が集っての聖餐式。
聖餐を受ける家族の面々、白装束を脱いだ男たち、そして最後に、死んだはずの保安官と犯人の黒人青年の姿が並んで映し出され、「均しく聖餐を受ける者たち」の括りによって映像は完結する。
このシーンに、ロバート・ベントン監督の基本メッセージが込められているのは間違いない。
差別する者も、差別される者も、同じ南部の人間ではないか。
キリスト教の精神に拠って立つことで、この不条理で理不尽な現実を克服できないのか。
南部の広大な土地を自ら耕し、栽培する勤労精神を体現するこの家族の不屈さこそ見習うべきである。
そこにこそ、我々祖先の開拓者精神が息づいていることを忘れるな。
厳しくも淡々と展開された映像を括るメッセージは、そんな文脈に集約されるだろう。
これは、最も大切な人を奪われた一人の女性が、その大切な人の魂を自らの人生に復元させ、成長していく軌跡を記録した、心地良いほどに、真摯な態度によって向き合った一篇であった。
(2007年4月)
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