<「肝心な局面で状況逃避できない自己像」が溶け切れない男>
序 本作の歴史的背景
本作の歴史的背景を、簡単に書いておく。
16世紀のイングランド王国。
テューダー朝のヘンリー8世の時代。
ヘンリー8世は兄嫁であったキャサリンと離婚し、愛人のアン・ブリーンとの再婚を望むが、当時のローマ・カトリック教会はこれに反対したことで、有無を言わせず、彼は英国教会を独立させるに至った。
この再婚に最後まで反対し続けたのが、大法官の地位にまで上り詰めた厳格な旧教徒のトマス・モア。
世に名高い、「ユートピア」の人文主義の作家である。
彼はヘンリー8世を英国国教会の長とする「首長令」にも異議を唱えた嫌疑によって、査問委員会にかけられ、ロンドン塔に閉じこめられた挙句、反逆の罪で斬首されるに至ったのである。
それだけの歴史ドラマだが、どこまでも、トマス・モアという実在の人物の内面の微妙な振幅を描いたサブスタンスは重厚で、ジンネマン作品に共通する骨太の映像は、ここでも健在だった。
1 「四季を通じて変わらぬ男」の物語
本作は、スーパーマン映画のように見えるが、「真昼の決闘」がそうであったように、窮地に陥った状況弱者を救済するための闘いではなく、自らの人格の内に固められた自己像を守るための闘いを自己完結させた男の物語である。
従って本作が、英国国教会の成立の経緯等への詳細な描写をフォローしなかったのは、重厚な歴史劇としての、その「歴史性」の重量感を強調するところに狙いがなく、どこまでも、トマス・モアの生き方それ自身に焦点を当てた作品としての映像化を意図した故である。
では本作の主人公は、どのような自己像を自らの人格の内に固めていたのだろうか。
「君は面倒な男だな。つまらぬ道徳心など捨てて現実を見据えていれば、政治家として大成するものを」
これは、ヘンリー8世の離婚の許可を得るために、ローマ法王に取り次ぐ役割を求めた枢機卿が、彼に洩らした言葉。
また、トマス・モアという史上に名高い件の男が、ウエストミン・ホールの裁判の前に、家族と獄中で面会した際に、娘のマーガレットに語った言葉がある。
マーガレット |
父の生命を守るために放った、些か挑発的な娘の言辞に、モアはきっぱりと言い切った。
「美徳を尊ぶ国なら、我々は聖人になっただろう。だが、この国は欲望や怒りや愚行に満ち、慈愛や謙遜や正義とは程遠いところにある。それ故、殉教をする覚悟で信念を貫くべきだ」
そこだけは本来の敵がいない小さなスポットで放った、確信犯的なこの物言いに端的に表現されているように、彼は邪悪な欲望、怒り、愚行を憎み、正義の行われない国家の悪徳を否定し、正しい神の「法」を遂行する者として、それ以外にない明瞭な自己像を結んだのである。
その自己像が、彼の中で一つの統合された信念=信仰に昇華されたとき、彼は、本作の原題である、「a Man for All Seasons」という英語に表現されているように、「四季を通じて変わらぬ男」として、自らの「不変なる者の全人格的自己」を立ち上げたのだ。
私が思うに、信念とは、人生の要所要所で優先順位を付けられるに足る、何某かの主張を持った人間が、その主張に拠って立つほどの状況下で、その筆頭順位を特定的に選択できる精神的内実、またはその傾向のことである。
本作の主人公であるトマス・モアは、自らが積極的に動いて一連の反逆行為を先導した訳でなく、外部権力によって自分の主張の変更を迫られたとき、その主張が一貫した信念体系によって、その行為を特定的に選択できる精神的内実を身体表現化しただけなのだ。
「法」を熟知した彼は、「沈黙」という合理的戦術が、有効な闘争手段であることを検証したようにも見えた。
ヘンリー8世とアン・ブリーン |
2 「私は王の僕というより、神の僕として死ぬ」
トマス・モアという名の男は、それでも査問委員会での尋問や裁判を通して、最前線のギリギリの際(きわ)で、自己の生命を守ろうと努力していた事実は特筆すべき行為であった。
それが、「沈黙だけが私の安全を守るのだ」と妻に語った言葉に表れているように、「沈黙」という合理的戦術を駆使しての闘いだった。
その実例を、映像から拾ってみる。
枢密院に任命された第7査問委員会。そこに、トマス・モアは召喚された。
「宣誓しろ」とクロムウェル。
「断る」とトマス・モア。
「アン王妃の子を王位継承者として認めるか?」とノーフォーク。
「国王が議会で宣言されたのであれば・・・」とトマス・モア。
「宣誓するか?では法令にも宣誓しろ」とノーフォーク
究極的なこの問いに、トマスは一貫して沈黙を守った。その理由は、「前王妃との婚姻を無効」とする序文が気に入らなかったからである。
「君は国王と枢密院を侮辱しているのか?」とノーフォーク。
「まさか。ただ私は宣誓もしないし、理由も言わぬ」とトマス・モア。
「では、叛逆になるぞ」とノーフォーク。
何とかモアの生命を守ろうとする、旧知の間柄にある友人の、この恫喝めいた言葉に、男はここでも、「法」に熟知した者の防衛戦略を開陳したのである。
「断定するな・・・法が求めるのは推測ではなく真実だ・・・推測は勝手だが、宣誓しない理由で、私を裁くことはできん。私が反対しているという推測で、それを叛逆と看做(みな)すなら、法律は私を斬首にできるだろう」
そして映像のラストシーンに繋がる、ウエストミン・ホールでの裁判のシーン。
その最前線にトマス・モアは召喚され、生命を賭けた言論を開いたのである。
「沈黙には二種類ある。一つは死者の沈黙。もう一つの沈黙は、場合によっては雄弁になる沈黙。国民に宣誓が義務付けられ、国中で王の肩書を認めた。その中で被告は拒絶した。彼の沈黙は拒絶の沈黙だ。雄弁な否定なのだ」
これは、モアの「沈黙」の本質を「雄弁な否定である」と言い切って、彼を糾弾しようと策謀を巡らすクロムウェルの、映像の中でも圧巻の弁舌。
この弁舌に対して、モアが振るった弁舌はもっと見事なものだった。
「違う。“沈黙は承諾なり”という格言がある。従って、私の沈黙の意味は否定ではなく、承認と取るべきだろう」
詭弁とも取れるモアの論理は、自分の本音を格言の内に隠そうとする魂胆が見え見えだが、このとき、彼にはそれ以外の自己防衛戦略を持ち得なかったであろう。
しかし、彼の考え抜かれた自己防衛戦略は、かつて自分を慕った男の裏切りによって呆気なく頓挫したのである。
既に、ウェールズの法務長官になっていたリッチは、モアが自分に、「首長令を認めないのは、議会にその権限はない」と語ったとする決定的な偽証によって、事態は一気にモアを窮地に追い遣った。
結局、その場での即決裁判で、モアは反逆罪で死刑判決を受けるに至ったのである。
ヘンリー8世とトマス・モア |
「私は、王と王国のために祈っている。悪意はない。それでも生きられぬのなら、これ以上、生きようとは思わん。だが、諸君が私を処刑するのは首長令のためではなく、私が国王の結婚を認めないからだ」
同時にそれは、自己像を守るための闘いを自己完結させた男が映像に残した、最後の主張の吐露であった。
「私は王の僕(しもべ)というより、神の僕として死ぬ」
これは、処刑寸前に男が残した、信念を結晶させた最も短いが、しかし最も本質的な言葉だった。
決して「殉教」を自ら望んだ訳ではないが、果敢とも思えるその運命は、「殉教」する者の流れに中で自己完結を遂げていくことになった。
しかし男の闘いは、どこまでも自己像を守るための時間を延長させていった結果、その固有の人生を自己完結させたに過ぎないと言えるだろう。
3 「肝心な局面で、状況逃避できない自己像」が溶け切れない男
トマス・モア(ハンス・ホルバイン画・ウイキ) |
「モアは社会的な要請に従って自己の内面を形成せざるを得なかったと同時に、彼はそのような役割形成によって確立した自己像のもたらす矛盾を常に感じていてそれを否定したい欲求を常に抱いていたということです。ここにあるのは、ライオンに食われようが何しようが全く動じない清廉潔白且つ二心のない聖人の姿などではなく、まっ二つに分裂した近代的な自我感情を持ちながら、周囲の誰もそれを理解できずに孤立する人間的なあまりにも人間的な一人の人物の姿であるといえるのではないでしょうか」(「入間洋のホームページ・わが命つきるとも」から)
「まっ二つに分裂した近代的な自我感情を持ちながら、周囲の誰もそれを理解できずに孤立する人間的なあまりにも人間的な一人の人物の姿」という表現は極めて独創的であるが、ある意味で相当程度説得力を持つ人物観であるだろう。
ただ、本作で描かれた男の生き方が、ここで言う、「ライオンに食われようが何しようが全く動じない清廉潔白且つ二心のない聖人の姿」というイメージで把握する一般的見方は、あまりに読解不足の誹りを免れないと思われる。
なぜなら、ここで描かれた男の生き方の中枢は、前述したように、「真昼の決闘」の不器用な保安官のように、窮地に置かれた状況弱者を救済するための闘いではなく、自らの人格の内に固められた自己像を守るための闘いの継続を断念できない一徹さであって、それが「沈黙」という合理的戦術を駆使しての闘いを選択させたと考えられるからだ。
このような戦術を駆使してまで、男は自らの人格の内に固められた自己像を守りたかったのである。
その意味で、男の生き方は、本作の原題である「a Man for All Seasons」という表現に集約される、ある種不器用な人生をなぞっていくしかなかったに違いない。
少なくとも、映像で見る限り、本人は己の生き方を、融通無碍(むげ)に対応できない者の不器用さを認知し、それを受容した上で、困難な状況を開いていく覚悟だけは余すところなく描かれていたように思われるのだ。
映像の作り手は、そのような男の人生を肯定的に描き切っていたが、しかし、この男の選択した人生を、男にとって「正義」であり、「善」であると看做しつつも、結果的に、男の選択が「歴史」という大きな視座から見ても、「正義」であり、「善」であったと断じていないのである。
これは、「歴史」の決定的な転換点に立ち会った者たちの巨大な緊張感のうねりを描きながらも、その「歴史」の徹底検証という大きな視座を持って、「時代」それ自身の解析を基幹的主題にした物語ではなかった。
どこまでも、その「歴史」の決定的な転換点に立ち会った一人の男の、類稀な人生に焦点をを絞った物語であり、そこから炙り出される、自己像を守るための闘いの「普遍的価値」を確認するための物語であったと思われるのだ。
「分裂した近代的な自我」の懊悩による孤立感が、男の内側を存分に支配していたかも知れないが、そのような内的状況の有無など、ある意味で、ここで描かれたような類の人間にとって必至であったとも言えるだろう。
「震えつつも、襲いかかる恐怖を支配した男」の立ち上げが可能だったのは、やはり件の男の内側に、「肝心な局面で、状況逃避できない自己像」が溶け切れないほど絡みついていたからだ。
私はそう思う。
4 モアとの生き方の対極性を強調する登場人物
本稿の最後に、本作の主人公と対極にあることによって、極めて印象深い人格像を残した登場人物について、作り手の自伝を参考にして、簡潔に言及したい。
「裏切り、背信、不実、私は絶対に見逃さんぞ。国家を蝕む潰瘍は、取り除いてくれる」
モアとの生き方の対極性を強調する効果を考えるとき、いかにも絶対君主のイメージをダイレクトに彷彿させる、以上の言葉をモアに向かって叫ぶヘンリー8世のキャラクター造形は、相当程度成功したと思われる。
このようなキャラクター造形によって、モアとの生き方の対極性を強調する効果をより生み出したからだ。
フレッド・ジンネマン監督 |
そして、もう一人。
「君は今夜にでも、平気で誓いを破る男だ」
モアにこのように指弾され、政府への就職を拒まれたリーチの存在感も際立っていた。
「モアの熱心な崇拝者、弟子として登場した若い弁護士だが、偉大なる人に軽視されて彼に背き、最終的には彼を破滅させてしまう」
ジンネマンは、この役に当時無名のジョン・ハートを起用したことで、「爆発するような精神的エネルギー」を、映像を通して引き出せたことで満足しているというようなことを「自伝」の中で言及していた。
ヘンリー8世(ウィキ) |
ついでに書けば、大法官となったモアの地位と、その人格の不変性を強調する効果をより引き出したと思われる、執事であったマシューに関わる描写が少なかったことは、シナリオのミスの一つであるかも知れない。
この点は、ジンネマンが「自伝」(「フレッド・ジンネマン自伝」キネマ旬報社)でも書いていた。
彼は、劇作家のロバート・ボルトの脚本の中で、その「素晴らしいキャラクター」(「自伝」より)の描写が省略されていたことを残念に思っていたことで裏付けられる。
「給料が減るから、おさらばするだけだ」
これは、大法官の職を辞任させられる羽目になった際の、雇用人のマシューが妻に語った言葉。
前二者と同様の文脈で言えば、まさに彼のようなキャラクター造形によって、法と道徳の絶対守護者であるモアの生き方を強調する効果をより生み出したに違いないからだ。
(2010年2月)
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