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2010年2月5日金曜日

叫びとささやき('72)   イングマール・ベルイマン


<「感情吸収」による「和解」の文脈のリアリズム>



1  非日常と日常が交差し、そこで展開される人間模様



緩やかな晩秋の陽光が斜めに射し込んだ森の風景は、まるで一幅の絵画を思わせるような自然美を写し撮っていた。

その森の一画に、いかにもブルジョアの風格を矜持する大邸宅が建っていた。

舞台は、19世紀末のスウェーデン。


映像がその直後に写し出した大邸宅の空間は、深紅の壁と絨毯(じゅうたん)に囲繞されたけばけばしい彩りによって、人工的な物理感覚を際立たせていた。

その邸宅に長く住む一人の女性、アグネスは今、末期の子宮癌に冒されていて、召使のアンナが献身的な介護を続けていた。

そこにアグネスの姉妹(カーリンとマリーア)が見舞いに訪れていたが、激痛による叫びを上げるアグネスの病状が悪化し、遂に昇天してしまう。

物語は、その邸宅における非日常と日常が交差し、そこで展開される人間模様を描いたもの。

以下、観る者の魂を打ち抜くようなこの圧倒的な映像についての感懐を、私なりに考えてみたい。



2  人工空間の中で露わにされた裸形の人格像



特定的に切り取られたこの人工空間には、権力、暴力、権謀術数といった激しく身体的な要素が悉(ことごと)く剥ぎ取られていた。

それらは、「前線」で闘う男たちの非日常的な概念であるからだ。

この人工空間の中で扱われているのは、男たちの非日常の世界を削り取ることで露わにされた、人間の「生と死」や「聖と俗」の問題であり、更に、人間心理の様々に厄介だが、しかしその本質に関わる普遍的な問題である。

それは、人間の〈死〉の問題に身体的(アグネス)、或いは、心理的に近接した者たち、とりわけ女たち(カーリンとマリーア)の心の深層の問題であるだろう。

それらは具体的には、憎悪、軽蔑、虚栄、偽善、欺瞞、葛藤、欲情、惰性、倦怠、冷淡、孤独、不安、恐怖などの問題であり、それらが肉親の死に近接したことによってじわじわと、時には直接的に表出されてしまうのである。


夫婦の不和、姉妹の葛藤が、深紅に彩られた人工空間の中で、その爛れ切った裸形の人格像を露わにしてしまうのだ。


更に、人工空間の中で描かれたのは、アグネスと母親という親子関係に見られるように、死にいく者が逢着した、以下の幻想であるだろう。

「母は時に冷たく、よそよそしかったが、私は憎まず同情した。今では、母のことが分る。もう一度、会って言いたい。倦怠や苛立ちや、欲望や寂しさが分ると・・・」

では、深紅に彩られた印象深い映像が表現するものは、一体何だろうか。

それは恐らく、日常では見えにくい女性の心象風景の、深奥に蟠(わだかま)る感情を象徴したものと思われる。

「生と死」の問題がリアルに近接し、人間の「聖と俗」が同居する人工空間で露わにされる裸形の自我が、断崖の際(きわ)に追い詰められた者の孤独の極相や、「沈黙」の内に封印された感情が鮮血の赤となってうねりをあげていくのだ。

本作は、英題の「Cries and Whispers」の通り、「叫びとささやき」。

この言葉が、映像を閉じていくときのキャプションに使われていた。

「叫びもささやきも、かくして沈黙に帰した」

本作のこの最後のメッセージが意味するものは、「沈黙」を破って憎悪を叫びつつ、「和解」のささやきをクロスさせた姉妹の関係も、結局は非日常の人工空間と切れたとき、怠惰を極めた日常に復元するや否や、今までもそうであったような虚栄と偽善、欺瞞に満ちた「沈黙」の時間に帰していくのだろう。

因みに、怠惰を極めた日常に復元していく直前に捨てられた、カーリンとマリーアの姉妹の深紅に彩られた人工空間からの解放を示唆する、毒気に満ちた会話を紹介する。


「話があるわ」とカーリン。
「何?」とマリーア。
「あの晩、心を開いて話し合ったわよね」
「覚えてるわ」
「あのことを忘れないで」
「ええ、いいいわよ」
「私は・・・もう前とは違う」
「“仲良し”になれた」
「何を考えてるの!」

意外なことを言われて、マリーアは表情を引き攣(つ)らせた。

「あのときのこと」とマリーア。
「ウソよ」とカーリン。
「行かなきゃ。夫は待たせると怒るの。私の考えが、そんなに気になる?何が望み?」
「別に・・・」
「では、話は終りね。失礼するわ」

態度を硬化させたマリーアが、捨て台詞を残して去ろうとしたとき、カーリンは妹の腕を掴んで引き止めた後、妹にいつも注意する言葉を口にした。

「私に触れたわね。忘れたの?」
「何を言ったか、いちいち覚えていられない。お子さんたちに宜しく」


これが、アグネスの死後、映像が最後に残した姉妹の会話の全てだった。

結局、人間の変わりにくさを抉り出した映像は、このようによってしか閉じられない人間の性(さが)を拾ってしまったのである。

人間とは、本来そういう生き物なのだ。

どうしようもないが、変えられない日常世界で、せめて今、自らが生きていける分だけの熱量を保持していくしかないのである。

まさしく、映像が構築した非日常の人工空間の中で、クローズアップの多用によって、皮膚に刻んだ皺の孔まで見透かされる女たちの心の深層が容赦なく、しばしば残酷なまでに抉り出されていったのだ。

そしてまた映像は、死という「沈黙」に帰っていったアグネスの叫びを全人格で受け止め、形見として自らが求めたアグネスの日記を読んだアンナだけが、「沈黙」という名のフラットな日常性に戻ることなく、屋敷を追われた後の新しい人生に旅立っていくという余韻の内に、本作は閉じられていった。

そこでも彼女は、「聖母マリア」の人格像に、また一歩近づいていくに違いないだろうが、しかしそれは、作り手が本作で描いた者たちの、ドロドロの人生模様を相対化させるための記号でしかないとも思えるのだ。

以下、その辺りのテーマについても言及してみたい。



3  女たちによって展開された「叫び」と「ささやき」の自己運動



ところで、原題で言う、「叫び」(Cries)と「ささやき」(Whispers)とは、何を意味しているのだろうか。

結論から言えば、「叫び」とは「感情表出」、「感情噴出」であり、「ささやき」とは「感情吸収」であると思われる。

前者は「破壊性」、「攻撃性」を持ち、後者は、「和解性」、「受容性」を持つだろう。


描写の事例で言えば、前者の場合、身体的苦痛を訴えるアグネスの叫び、自傷行為に走るほど全く折り合えない夫婦生活の中で、「死にたい!」と叫ぶカーリンの孤独、更に、カーリンとマリーアの確執の中で捨てられた激しい感情などが挙げられるだろう。

また、後者の事例には、「安らぎ」を象徴する白の彩色の中で、断末魔の如きアグネスの叫びを受容するアンナの「感情吸収」であり、バッハの「無伴奏チェロ組曲第五番ハ短調よりサラバンド」のBGMによって吸収されていく、カーリンとマリーアの最近接の会話が開いた「和解性」の描写などであるだろう。

要するに、深紅で彩られた人工空間の中で、「叫び」と「ささやき」という情感言語が、固有の律動感を保持できずに自己運動していったのである。

従って、女たちによって展開された「叫び」と「ささやき」の無秩序な自己運動は、「叫びもささやきも、かくして沈黙に帰した」というキャプションの内に閉じていったのだ。

結局、女たちは「叫び」と「ささやき」が自己運動した、極めて特定的に切り取られた人工空間の特殊な空気の中でダッチロールするが、最後は、本来そこに存在する日常の現実が包含する、〈生〉の実感的鮮度が完全に脱色された、無限なる「沈黙」の世界の中に還元していったということなのである。



4  「感情吸収」による「和解」の文脈のリアリズム



映像の中で、最も重要なシーンの中の一つに、死去したはずのアグネスが葬儀を前にして蘇生するという描写があった。

この描写は、紛れもなく、「イエスの復活」をなぞったものだ。

「私は死んだわ。なのに眠れない。皆が心配で。くたびれた。誰か、助けて」

アグネスの「復活」に震撼する姉妹が、「死者」に呼び出されたのだ。

そのとき、長女のカーリンの自己防衛的反応は、過剰なまでに攻撃的だった。

「頼みは聞けない。あなたの死に関わりたくない。愛していれば別だけど、私は愛していないから。このまま大人しく死んでいてちょうだい」

次に呼ばれたのは、三女のマリーア。

姉のように毅然と拒絶できない彼女は、例によって偽善のポーズを崩さなかった。

「見捨てておけない。小さい頃、夕暮れによく遊んだわね。急に闇が怖くなって、しっかり抱き合ったわ。今もあの時と同じ」

しかし、「死者」のアグネスに「近づいて」と言われて、抱き締められたマリーアは、恐怖のあまり絶叫するや、部屋を飛び出て行ったのである。

聖書では、磔刑に処せられたイエスを裏切った弟子たちが、「復活」によって初めて真の信仰を得るという有名な挿話があるが、しかし映像では、「復活」したアグネスに呼び出された姉妹共に、肉親である彼女を拒絶してしまうのだ。

壮絶な疼痛による「叫び」を残して昇天したアグネスは、姉妹の本音を知って嗚咽するばかり。

「あたしに任せてください・・・一緒にいるわ」


ここでも、アグネスを受容したのはアンナだった。

詰まるところ、私たちにはアンナの如き聖女性を求める幻想が根強いだろうが、しかし人間のエゴイズムや恐怖感情の突沸の様態が晒される状況下での、姉妹のとった反応の中にこそ人間の根源的な有りようが存在することを認知し、窮屈なモラルの視座に呪縛されないその現実を、きっちりと受容しなければならないという把握もまた簡単に捨てられないのだ。

それが人間だからだ。

あまりに無防備な観念の氾濫の延長上に、「復活幻想」に流れゆく私たち人間の怖さ、自我の脆弱さへの認知も捨ててはならないのである。

「復活」を受容するそのアンナにしても、3歳で死亡した愛児の記憶に苛まれ、祈りを捧げる日々を重ねてきているのだ。

彼女のこの思いが、アグネスへの深い憐憫の感情を支え切っているとも言えるだろう。

経験の重量感が、それを内側に抱える者の信仰をより強化するのである。

ここで、アンナが読むアグネスの日記を書いておこう。

「秋の気配が漂っている。気持が良かった。カーリンとマリーアが会いに来てくれた。少女の頃に戻ったようだ。具合が良かったので、近くまで散歩に出た。ワクワクした。家から出たのは久しぶりだ。皆で笑いながら、ブランコまで走った。三人で仲良く座った。アンナが優しく揺らしてくれる。苦痛は消えた。一番大切な人たちが傍にいる。お喋りに耳を傾け、体の温もりを感じることができた。”時よ、止まれ”と願った。これが幸福なのだ。もう、望むものはない。至福の瞬間を味わうことができたのだ。多くを与えてくれた人生に感謝した。姉妹三人が昔のように集まったので、久しぶりに揃って庭を散歩する。明るい日光、明るい笑い。世界中で一番近くにいて欲しい人が、皆、私の傍にいてくれる。僅か数分間の戯れだが、私にとっては楽しかった。人生に感謝しよう。人生は私に、多くのものを与えてくれた」


しかし私たちは、アグネスのこの至福の時間を、「感情吸収」による「和解」の文脈という風に受け取ってはならない。

解放系のような初秋の季節に溶け込んだ、眩い白のラインの親和力が作り出した三姉妹の安らぎが、束の間、自己運動を開いたにしても、そこで突沸した親和力が欺瞞に満ちた全き幻想の産物ではなかったにせよ、どだい、継続力を持たない自己運動の気紛れの時間が分娩した心地良き物語への、殆ど自覚的な陶酔であるに違いない。

これが、人間の達者な技巧の成せる業でもある。

ベルイマンは甘くないのだ。

前述したように、「叫びもささやきも、かくして沈黙に帰した」というキャプションの含意は、決して「確執」の解消を意味するものではないだろう。

ベルイマンの両親の不和が、実質的に「和解」に向かえなかったように(「愛の風景」、「日曜日のピュ」参照)、本作の姉妹の関係の修復もまた困難であるか、それとも状況感性が束の間作り出す、技巧の成せる偶然性による、継続力を持たない自己運動に丸投げする以外に拾えない何かなのだ。

形成的な人格が吐き出す感情表現の昂揚感によって、関係の偶発的な微修復が不可能でないにしても、件の自我が仮構した自己像に本質的な変容がない限り、そこで既成化した関係にもまた、偶発的な微修復以上の立ち上げが見込めないというのが、私たち人間のごく普通の経験則であると言っていい。


「感情吸収」による「和解」の文脈にも、相応のデータマイニングで得たリアリズムが支配し切っているのである。



5  非日常と近接する日常の際で捨てられている人生の現実



本稿の最後に、映像で描かれた4つの関係様態から俯瞰されるものについての、私自身の感懐を要約したい。

「夫婦」、「姉妹」、「母子」、「使用人と召使」の4つの関係様態の中で、前3者が「和解」を切に求められる関係であったのに対して、唯一つ、アグネスとアンナという、深い信仰と共有感覚で結ばれた関係様態だけが、そこだけは抜きん出て目立つような「安らぎ」、「癒し」、「救済」のイメージで結ばれていた。

確かに、本作が包括するテーマ性の中に、「聖と俗」という対極的な問題意識が含まれていた事実を否定しないが、しかし前述したように、この特殊な関係様態は、全二者の関係の爛れの現実を強調するために設定された、一種の記号性を持った関係として構築されていると見た方が分りやすいだろう。

アグネスの叫びを受容するアンナのささやきに関わる描写は、紛れもなく、聖母マリアを描いた宗教画の構図であって、作り手がそこに仮託したメッセージは、一幅の名画の芳香が放つ、「聖なるもの」の内に収斂されるイメージ以上の含みはないだろう。

映像が拾い上げた内的風景の中枢で騒いでいたものは、深紅で彩られた非日常の人工空間の只中に、無防備な軽装性を露わにしたまま、自らが拒絶して止まない日常性を持ち込んだ姉妹の内面世界であった。

クローズアップで肉薄するベルイマンの映像は、彼女たちの生身の身体が吐瀉する「叫びとささやき」の、その狂おしいまでの現実を抉り出し、観る者に容赦なく晒して見せたのだ。

観る者の魂を震撼させるほどの映像が、私に与えた基幹的メッセージは、それ例外ではなかった。

アグネスの痛々しい絶叫の破壊力をも稀釈化させるほどの、姉妹の「叫びとささやき」の爛れたリアリティの圧倒的な凄味。

その辺りの描写の内に、非日常と近接する私たちの日常の際(きわ)で、ごく普通に捨てられている人生の現実が横臥(おうが)するということだ。

それが、私の本作の基本的把握である。

(2010年2月)

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