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2010年3月1日月曜日

道('54)    フェデリコ・フェリーニ


 <「闇夜」、「浜辺」、そして、「神から遠き者」の嗚咽>



 1  「相互の共存性」を求める者の心情世界に近づいて



 「『道』は非常に根深い対立、不幸、郷愁、時の流れ去る予感などを語った映画で、一つ一つが社会問題や政治的責務に還元できるわけではなかった。だからネオリアリズムの熱狂に支配されていた時代に、退廃的で、反動的な否定すべき映画とされてしまった」(「フェリーニ、映画を語る」フェデリコ・フェリーニ、ジョヴァンニ・グラッツィーニ著 竹内博英訳 筑摩書房)

 このフェリーニの言葉に端的に表れているように、この「La Strada」(道)という原題を持つあまりに著名な映画は、イタリアに起こったネオリアリズムの巨大な支配力と明らかに切れている。

 なぜならフェリーニは、そこに、「神に近き者」(以下、「近き者」、または「女」)と「神から遠き者」(以下、「遠き者」、または「男」)という人格イメージを造形しているからだ。

 「近き者」の名をジェルソミーナ、「遠き者」の名をザンパノと呼称し、この命名の内にも、彼らの人格イメージに即した象徴性を被しているが、本稿では固有名詞は捨てる。


 本来、出会うべきはずもない両者が、それぞれに抱えた事情(「パン」と「大道芸のサポーター」のトレード)によってクロスし、どこまでも続く「細々とした白い道」をアメリカ製の幌付きオート三輪に乗って、大道芸人の旅を続けるのだ。

 知的障害を持つ「近き者」である女は、涙を見せる母親から、「パン」の問題の故に、「大道芸のサポーター」の問題を抱える「遠き者」に対して「人身御供」(ひとみごくう)に出されるが、芸も食事も相手に満足させ得ない女は、「遠き者」のビジネスの強力なサポーターにはなり得ず、その度に、折檻される日常性が繰り返されていく。

 「遠き者」は確かに、たまたま宿泊した修道院から盗みを図る小悪党だが、それ以上に、自分の思いを相手に丁寧に伝えられない不器用な男だった。

 「私が何を言っても感じない」

 そんな男(「遠き者」)の粗暴さと勝手さに耐え切れず、「もう、私帰る」と言い放って縁を切った女(「近き者」)は、偶(たま)さか出会った「神の意を伝えるメッセンジャーとしての道化師」(以下、「道化師」)の二つの重要な助言によって、再び、「遠き者」との大道芸人の世界に戻っていく。

 危険な綱渡り芸人であるが故に、自分の近未来の死を予言していた「道化師」が、女に語ったこと。

 それは、二つの決定力のある言葉。

 その一つ。

 「多分、彼は君が好きなんだ。彼は犬と同じさ。話したくても、吠えるしか能がない。哀れな男さ。でも、奴には君がついている」

 もう一つ。

 「どんなものでも何か役に立っている。この石でも、何かの役に立っているんだ。神様だけが知っている。人がいつ生まれ、いつ死ぬか。この石もきっと、何かの役に立っている。無用のものなどない。君だってそうだ。そんな頭でも・・・」

「近き者」は、この言葉によって、「遠き者」は、単に自分の思いを相手に丁寧に伝えられない不器用な男であると信じたかったのである。

 映像は、感情表現する際にも、「話したくても、吠えるしか能がない」男の不器用さを、そこに特段の嫌みも被すことなく記録していく。


 「遠き者」は、何の役にも立たない「近き者」に対して、単に下半身の処理の相手としてではなく、「安らぎ」の感情をも抱懐していたが、そんな感情の認知も覚束ないような男は、当然、それを女に伝えることができないだけなのだ。


 「あんたといる場所が、私の家だわ」

 これは、旅先でトマトを植えようとするほどの状況認識力を持つ女が、「吠えるしか能がない」男に放った言葉。


 「遠き者」の荒々しい情感世界の、その本質的理解を得たと信じたいと願うばかりの、「近き者」の情感系もまた、「相互の共存性」を求める者の心情世界に近づいていったのである。



 2  「近き者」、「遠き者」、そして「道化師」の死



 物語の流れの上で殆ど必然的なその事件は、遂に出来してしまった。


 昔からの因縁もあって、「遠き者」は「道化師」を勢い余って、殺害してしまったのだ。

 事件を目の当たりにした「近き者」は「神の意を伝えるメッセンジャー」を象徴させる「道化師」を喪って、深い底なしの沼に沈潜していった。

 ショックのあまり、女は狂気の世界に最近接したかの如く情緒不安定となり、泣き過ごす日々を過ごすばかり。

 「近き者」は、事件によって「遠き者」との距離を決定的に開いたばかりか、「神」との距離をも相対的に開いてしまったように見える。

 そのことは、事件が出来する前に、より「相互の共存性」を増幅させる幻想をも踏み躙(にじ)ることによって、「安らぎ」の対象として求められていたはずの人格像の、そのイメージの根源をも砕いてしまったのである。

 「遠き者」は「安らぎ」の対象を希釈化させた時間の憂鬱の中で、明らかに「近き者」の本来的価値の実感を崩されて、遂に遺棄するに至った。

 女が転寝(うたたね)する間に、男は女を置き去りにしてしまったのだ。

 それでも、「近き者」に対する情愛にも似た感情の欠片が、「遠き者」に一つの小さな行為を選択させた。

 「遠き者」は、戸外で眠る「近き者」の傍らにラッパを添えたのである。

 数年後、海浜でのサーカス興業の中に男はいた。

 その日、己の分厚い胸に巻いた鎖を断ち切るというパワー芸のみで生きてきた、「遠き者」のシンプルな大道芸には殆ど生気がなかった。

 「遠き者」は、「近き者」の客死の事実を知ったからだ。

 「遠き者」は、「近き者」が神の言葉を受容する「聖なる場所」=「浜辺」で、「道化師」の死を嘆き続けながら、まもなく客死していった哀しい顛末を知ったのである。

 その夜、自らの体をアルコール漬けにした挙句、店の客たちと喧嘩をした「遠き者」は、「近き者」がラッパを吹いていた浜辺にその身を運び、言葉にならない動物の如き叫びを刻んだのだ。


 肉食動物のような男が天を仰いだとき、酩酊をすっかり溶かし切った野獣の号泣は、「聖なる場所」に身を横たえていた女の嘆きを捕捉しつつ、神の声を弄(まさぐ)る者のヌミノース(聖なるものとクロスする非合理的体験)を突き上げていたのか。(写真は、夜の浜辺のイメージ画像)

 それは、骨の髄まで孤独な男が、自我を裂くほどの孤独を極めた瞬間だった。

 孤独を極めた「遠き者」に叫びを刻ませたものは、恐らく、「近き者」の嘆きを体の芯で受け止める、「聖なる場所」の地鳴りが自らを貫いてきたからだろう。

 これは、孤独を極めた男の体の芯に、マキシマムに達した神との距離を最近接させる奇跡を描いた、殆ど寓話的な映像だった。

 或いはそれは、こんな男の中枢にも、神の声が届き得ることを信じる映像作家の祈念であったのか。

 しかし、孤独を極めた男に、浜辺で自我を裂かせるまでの時間に届くまで、二人の人間の生命を犠牲にしたという現実の重量感は、決して等閑(なおざり)にできようはずがない。

 そこだけは冷厳なリアリズムに預けたかの如き寓話的な映像は、なお男の未来を変容させていく全き可能性を保証しないのだ。

 私たちがどれほど祈念しようと、神の声が万民に届き得るという幻想について、マジックを操ると言われる作り手がどれほど肯定的であるか、私には分らない。


 しかし、「遠き者」と「近き者」との距離がどれほど開いていようとも、私たちはこの相対距離の自由の幅の中で、己が人生を構築しなければならないことを教示しているようだった。



 3  「闇夜」、「浜辺」、そして、「神から遠き者」の嗚咽



 幾度観ても、神経の中枢にまで食い入ってくるような、この映像の完成度の高さに驚かされる。

 何よりも、女の死を描かなかったことが一番良い。

 それを映し出してしまったら、観る者の主観が「聖なる『近き者』」への心象世界に引っ張られ過ぎて、勝負を賭けたラストシーンの決定的な絵柄が緩いものになってしまったはずだ。

 海岸線状に広がる「白い道」の一画に住む土地の者から、女の死の哀しい顛末を知らされるという巧妙な挿入によって、映像の客観性が担保されたのである。

 乱闘後、「一人で沢山だ」と叫んで、「浜辺」に踏みこんだ男の嗚咽を捕捉するカメラが引いていく。

 束の間、女が身を横たえていた浜辺で、神の声を弄(まさぐ)る者のヌミノースを突き上げたかも知れない男の情感が暴れ出すことで、多分に感傷の濃度の深い作品が、「神から遠き者」の魂の孤独を記録した映像であることが鮮明になったのである。

 「闇夜」、「浜辺」、そして、「神から遠き者」の嗚咽。

 この3つの要素が、映像の主題性を表現していたのだ。

 それは、ネオリアリズムから確信的に切れた映像の、それ以上ない鮮烈な立ち上げを意味するだろう。

(2010年3月)

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