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2010年3月31日水曜日

ブレードランナー('82)   リドリー・スコット


<人間とヒューマノイドの鑑別テストを必要とする、大いなる滑稽さ>




1  「人の心を読むロボット」開発の現実化の様相



オスカー・ピストリウスという名の、著明なアスリートがいる。(注)

人呼んで、「ブレードランナー」。

1986年生まれの、南アフリカ共和国のパラリンピック陸上選手である。

「両足切断者クラスの100M、200M、400Mの世界記録保持者。健常者の大会にも出場するなど、障害者スポーツの印象を覆す活躍で注目を集めている」(ウィキペディア)

更に、北京パラリンピック陸上・男子100M(T44クラス)決勝の際に、AFP(2008年9月9日)が伝えた短いニュースの内容は、以下の通り。

「『100メートルは実は少々不安もあったので、信じられない』というピストリウスは、トラックが濡れていてスタートで出遅れ苦心したと語った」

ところが、この注目度ナンバーワンのピストリウス選手が、北京オリンピックの400M出場を目指していたという記事を読んで、正直驚かされた。

結局、ピストリウス選手の装着するカーボン製の「義足による人工的推進力」が、競技規定に抵触するルール違反とされ、国際陸上競技連盟に却下されてしまったという、「大山鳴動して鼠一匹」の顛末だったが、この「予定調和」の事実については知る人も多いだろう。

ピストリウス選手
ともあれ、スポーツシーンにおける、この一連の騒動を見て、かつて一体誰が、「義足による人工的推進力」によって、障害を持たないアスリートを相手に、疑似性の濃度の深い「イコールフッティング」(公平な競争条件)の競争が具現される事態を想像したであろうか。

そして今、「ロボットスーツHAL」と呼ばれる「自立動作支援ロボット」の出現に、この国のメディアは鋭敏に反応した。

何と、「人の心を読むロボット」開発の出現が現実化しているのである。

京都府の関西文化学術研究都市にある、「国際電気通信基礎技術研究所(ATR)脳情報研究所」らのグループの仕事の先端性には驚かされるばかりだ。

以下、「産経ニュース」からの引用である。

「21世紀に入って二足歩行など人型ロボットの困難だった技術が確立され、人間と安全に共同作業できる可能性がみえはじめると事情は変わる。実用化に向けて経済産業省などの国家プロジェクトが組まれた。人間の能力を上回る単体のロボットは現段階ではできないため、当初、用途はエンタテインメントなどに限られるかにみえた。

しかし、携帯電話やインターネットなどと連動した形のなじみやすい情報端末は、高度な情報環境を実現するユビキタス社会に役立ち、介護など高齢社会を支えるロボットも必要と用途が開けてきた。単独で判断して行動する能力は、すでに掃除ロボットなどに生かされている。

最先端研究では、国際電気通信基礎技術研究所(ATR)のほか、筑波大学の山海嘉之教授のグループのロボットスーツ『HAL』が海外から注目されている。人体に装着するタイプで皮膚から生体の信号を検出し、意思を読み取って筋肉のサポートをする」(「産経ニュース・2007.12.12/筆者段落構成)

ロボットスーツ「HAL」
以下、ATR脳情報研究所のHPを紹介する。

「JST基礎研究事業の一環として、川人光男らは、サルの大脳皮質活動の情報をネットワークを介して伝送(米国~日本間)、リアルタイムでヒューマノイドロボット(アンドロイド=人造人間・筆者注)を歩行させることに成功しました。

人の脳がどのように行動を起こさせるかを解き明かす研究が急速に進展しています。一方、ロボティクスの分野では、人と同じように行動をするヒューマノイドロボットの開発が盛んになってきています。本研究プロジェクトでは、神経科学に基づいて人の行動の情報処理モデルを構築し、ロボットによって検証することで脳をよりよく理解する研究をしています。また、工学的応用として、人に近い柔軟な動きを持つロボットの開発を目指しています。 


本研究プロジェクトは今回、新型ヒューマノイドロボットを開発し、これを用いて米国デューク大学と共同で、米国でサルが歩行中の脳活動情報を記録して日本に伝送し、日本にあるヒューマノイドロボットをリアルタイムで歩行させる実験に世界で初めて成功しました。 


この成果は、障害のある方の運動機能再建や次世代の超々臨場感通信やヒューマノイドロボットの脳型制御などの社会貢献のため、神経科学とロボティクスの技術の融合を実現するための重要な一歩といえます」(ATR脳情報研究所HP・2008年2月/筆者段落構成)

脳情報研究の川人光男(かわと みつお)博士(毎日新聞)
まさに今や、「神経科学とロボティクスの技術の融合を実現するための重要な一歩」が踏み出されているのである。

閑話休題。

ところがここに、ロボット製造後、数年経てば「感情が生じる人間並みのロボット」が現出したのである。

何と、人間とロボットの判別がつかない恐怖を解決する目的で、そこで生じる混乱を防止するために専門的な鑑別官を作り出したばかりか、「感情が生じる人間並みのロボット」に一定期間の「寿命」を与えたのである。

「寿命」を与えたのは、ロボットの設計者。

そして「寿命」を与えられたのは、4年という生存期間を決定付ける安全装置を組み込まれた、「レプリカント」と呼ばれるロボットである。

「感情が生じる人間並みのロボット」という、インパクトのある表現の出典は、無論、ポスト・ゼロ年代に住む私たちの現実の社会の話ではない。

フィリップ・K・ディックによる「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(早川書房)を原作にする、サイバーパンク(退廃した未来社会を描くSF作品)の古典となった「ブレードランナー」という、今では殆ど知らない者がいないSF映画の話である。

以下、本作の世界に入っていく。


(注)2013年2月、恋人銃殺事件で逮捕され、2014年12月時点で、禁錮5年の判決が確定。




2  「廃棄処分」の後の、「睦みの世界」への投げ入れ



「21 世紀の初め、アメリカのタイレル社は人間そっくりのネクサス型ロボットを開発。それらは“レプリカント”と呼ばれた。特にネクサス6型レプリカントは、体力も敏捷さも人間に勝り、知力も、それを作った技術者に匹敵した。レプリカントは、地球外基地での奴隷労働や他の惑星の探検などに使われていたが、ある時、反乱を起こして、人間の敵に回った。地球に戻ったレプリカントを処分するために、ブレードランナー特捜班が組織された。ロサンゼルス 2019年11月」

このキャプションから開かれた映像の背景は、「強力わかもと」の大きな広告塔の看板が際立つ、夜のネオンの人工燈が照射するけばけばしい色彩感の中で、超高層ビルが林立し、其処彼処に酸性雨が降り注ぐ暗鬱なイメージの未来都市の存在であり、その異様な映像美は観る者に破滅的な臭気を放って止まないのだ。

人類の大半は宇宙に移住してしまたので、比較的良好な環境を保持する都市には、あらゆる言語を話す人々が居住することで、常に成員過多の人群れの臭気が漂っているのである。

ブレードランナーの仕事を嫌って退職したデッカードは、雑多な者たちが溢れかえる荒廃した都市の一画でうどんを食べていたが、権力機構の一翼を占有するガフを介して、彼の元の上司のブライアンに呼ばれ、スペースシャトルを奪って、乗員を皆殺しにして脱走した4名のレプリカントの廃棄処分を依頼されるに至った。

以下、ブライアンの説明。

「ネクサス6型、ロイ・バティ。戦闘用ロボットだ。首領らしい。ゾラも、殺人の訓練を受けている。美女で野獣。カワイ子ちゃんタイプのプリスは、宇宙基地の兵隊慰安用。感情以外は人間と変わらん。製造後、数年経てば感情も生じるらしい。面倒だから、安全装置を組み込んだ。4年の寿命だ」

デッカード
以上の説明を聞いた後、権力機構の恫喝もあって、デッカードはブレードランナーの仕事を引き受けた。

その直後の映像が映し出したのは、絶世の美女という印象を与えるレイチェルが、「人間」か「レプリカント」かのいずれか、という鑑別を受けるテスト。

それを担当したのは、デッカード。

デッカードは、レイチェルがレプリカントであると結論付けるが、彼女自身はその事実を薄々感知しつつも正確に認識していなかった。

レプリカントを作り出したタイレル博士が、その辺の事情をデッカードに説明した。

「我が社は人間以上のロボットを目指している。彼女はその試作品だ。感情が目覚めてきた。そのために何か苛立っている。数年分の経験しかないからな。過去を作って与えてやれば・・・感情も落ち着き、制御も楽になる」

レイチェルが「人間」であることを本人に認知させるために、タイレル博士は彼女に「記憶」を与えたのである。

幼年時代の写真を何枚も持たせられたレイチェルの悲哀のルーツを知って、彼女に対する思い入れを深くするデッカードの心は漂流していた。

そんなデッカードが、反逆のレプリカントの一人であるゾーラを射殺した。

最初の「殺人」=「廃棄処分」である。

「レプリカントとは言え、女を撃つのは気分が悪い。おっと・・・また感情が出てしまった。レイチェルを思い出す」

デッカードのモノローグである。

レイチェル
デッカードが、そのレイチェルによって命を救われたのは、彼がレプリカントのレオンに殺されかかったときだった。

「死ぬのは怖いだろう」

レオンはデッカードに、そう言ったのだ。

死の恐怖のリアリティを感受したデッカードに、生の歓喜の時間が訪れたのは、その直後だった。

レイチェルと過ごす、一時(いっとき)の至福。

「もし私が逃げたら、追って来る?」とレイチェル。
「俺は追わん。借りがある」とデッカード。

感情を持つ二人の静謐な時間が、荒廃した暗鬱な都市の一画に緩やかに流れていく。

「キスしてと言え」

ピアノを弾いた後、髪を下ろすレイチェルに、デッカードは、ブレードランナーの仕事からの解放感を求める者の含みを隠すかのように、素っ気なく言った。

「言えないわ」

そう答えた後、レイチェルは求める者のように、「キスして」と反応した。

タイレル博士が説明したように、彼女もまた、目覚めてきた感情の故に何か苛立っていて、解放感を求めて止まないのか。

「抱いて。可愛がって・・・」

そんな思いが、レイチェルを一人の「女」に変えていく。

複雑な感情が絡み合って、二人は深い睦みの世界に、その身を投げ入れていった。



3  「恐怖の連続だろう。それが、奴隷の一生だ」



タイレル社の遺伝子工学技師ののセバスチャンに、ネクサス6型、ロイ・バティは、タイレル博士との接見を求めて実現の運びとなった。

ロイ・バティ(左)
タイレル博士とロイ・バティとの、根源的な会話が開かれた。

「長生きしたいんだよ、おやじ」

この率直なロイ・バティの言葉に見え隠れているのは、「父」であるタイレルへの甘えの感情である。

しかし、「父」であるタイレルからの反応は、科学者の範疇を逸脱するものではなかった。

「無理だな。有機体のシステムを変えることは命取りだ。生命コーティングは変えられない。外部から干渉を受けた細胞は、ネズミが沈没する寸前の船から逃げ出すように、パニックを起こして命を絶つ。EMS(変異誘発物質・筆者注)で突然変異を起こした細胞は、有毒なウイルスを作り出した。被験者は即死だ」

以下、根源的な会話の内に、人間の傲慢さが張り付いていく。

「細胞活動を抑えるたんぱく質は?」
「やはり、細胞再生の際に、突然変異を誘発する。変異したDNAはヴィールスを作り出すんだ。君らは完全だよ」
「寿命が短い」
「明るい火は早く燃え尽きる。君は輝かしく生きて来たんだ。君を誇りに思ってる」
「色々、悪いことをした」
「業績も挙げた」
「生物工学の神が呼んでるぞ」

この「神学論争」の虚しさを感知したロイ・バティは社長の眼を潰し、殺害するに至った。(完全版)

そして、セバスチャンの殺害があり、プリスの死が続く。

ロイ・バティとデッカード
最後に、ブレードランナーであるデッカードとロイ・バティとの死闘が延々と描かれていくのだ。

しかし、最強の攻撃ロボットであるロイ・バティは、とうていブレードランナーが敵う相手ではなかった

「恐怖の連続だろう。それが、奴隷の一生だ」

これは、超高層ビルの屋上の縁にしがみ付く、デッカードへのロイ・バティの決定力のある言葉。

その直後、ビルから落下しそうになったデッカードを、ロイ・バティは片腕で掴み上げて助けたのである。

「お前ら人間には、信じられぬものを、俺は見てきた。オリオン座の近くで燃えた宇宙船や、タンホイザー・ゲート(超高速を越えるゲート・筆者注)のオーロラ・・・そういう思い出も、やがて消える。時がくれば、涙のように。雨のように・・・その時がきた」

戦闘用レプリカントであるロイ・バティが、一瞬にして固まって死んでいく現実の恐怖を凝視しながら、デッカードは心の中で呟いた。

「なぜ俺を助けたのか。多分、命を大事にしたのだろう。それが自分の命でなくても。俺の命でも。彼は自分のことを知りたがった。“どこから来て、どこへ行くのか。何年生きるのか”人間も同じなのだ」(モノローグ)

救出されるデッカード
全てが終焉した瞬間だった。

常に彼の行動を監視していたガフが出現して、デッカードに言葉を添えて、立ち去って行った。

「彼女も惜しいですな。短い命とは」

その言葉を聞いて、デッカードは直ちに行動した。レイチェルを救済しに行ったのだ。

レイチェルは蹲(うずくま)っていたが、死んではいなかった。

「一緒に行くか」とデッカード。
「ええ」とレイチェル。

「ガフは彼女を見逃してくれた。4年しか生きないと思って。だが、彼女の寿命は限られていないのだ。お互い何年生きるか、誰が知ろう」(モノローグ)

映像のラストシーン。

レイチェルを随伴して、ブレードランナーだった男が、大いなる青空の彼方に旅立って行った。



4  ディストピアの未来世界を描く映像に、ハッピーエンドの括りは似合わない



「ブレードランナー」ファンなら周知の事実について、以下、簡単に言及する。

一応、4種類存在すると言われる、本作の様々なバージョンのこと。

本稿では、「ビデオ完全版」を基に物語をフォローしたが、実はそれ以外にも、「初期劇場公開版」、「ディレクーターズ・カット版」、「ファイナルカット版」が存在する。

リドリー・スコット監督
リドリー・スコット監督の再編集による2007年版である「ファイナルカット版」には、モノローグもなければ、ラストシーンでの「青空への飛翔」という浮ついたシーンもないと言う。

未見だから、内容について批評できない。

言うまでもなく、「初期劇場公開版」、「ビデオ完全版」が存在した理由は、それを否定するつもりもないが、ビジネス・オンリーのハリウッドへの妥協の産物以外ではない。

モノローグの追加や、ハッピーエンドへの変更もまた、「映画産業」というビジネスの観点から立てば、「売れない物を作って満足するような、『芸術家』気取りするな」という一言で済む何かだろう。

そんな子供染みた議論をするつもりは毛頭ないが、「映画批評」という視座のみで言えば、以下の感懐も許容されるに違いない。

要するに、こういうことだ。

ディストピア(暗黒の未来世界)の未来世界を描く映像に、モノローグは似合わない。

説明的になり過ぎることで、映像の緊張感を削ってしまうからだ。

権力の手先である、ガフの見逃しも似合わないが、それ以上に、ハッピーエンドの括りはもっと似合わない。

後者に関しては、当然の如く、戦慄すべき原作には存在しない。

「華氏451」より
本作が、「華氏451」(1966年製作)、「時計じかけのオレンジ」(1971年製作)、「未来世紀ブラジル」(1985年製作)等の作品のように、ディストピアの未来世界を描く映像だからである。



5  人間とヒューマノイドの鑑別テストを必要とする、大いなる滑稽さ



人間が自分の知的・理性的水準の能力と違わないロボットを作るという設定は考えにくいが、しかし仮に、高度に発達した科学技術がそれを可能にしたとき、人間ならそれを遂行するだろうという危うさを否定できるだろうか。

なぜなら、それが人間だからだ。

人間は自らが作り出した技術を、実用性にリンクしない実験プロセスの内に停留させてしまうほどに、包括的、且つ抑制的な存在でないからだ。


ブレードランナーのレプリカントたちが、その高度に特化された能力の一定の継続性の保証によって、遂に感情を獲得してしまうという、驚くべき予測を視野に含み入れることのない技術の直線的進化によって、それを作り出した人間自身を常に置き去りにしてしまう滑稽さもまた、人間の歴史が証明してきたことである。

人間は、人間が自ら作り出したものを十全に支配し切れず、却って無秩序を晒すだけだ。

人間のこの本質的な脆弱性の様を、酸性雨に浸されたダーティな未来都市で、人々が雑多に蠢(うごめ)いている暗鬱な映像の中に見ることができる。

人間はこんな未来しか残せないのか、と観る者に寒気をを覚えさせるような底が抜ける映像を、セットデザインに拘泥するスタイリッシュな映像作家、リドリー・スコットは構築し切ったのだ。

人間の未来を脳天気にしか語れない愚かさに対して、人間が狂躁と昂揚の内に作り出した文明の利器を十全に管理し切れない、その能力的欠損、脆弱性への自己認知を迫るというその一点によって、私は本作を読み替えた。

そこに映し出されたのは、自らの運命に怯える「レプリカントの哀しみ」というより、そのような悲劇すら計算できず、「今、このときの快楽」のモチーフだけで、未知なる時間を突き抜けようとする人間の性(さが)に張り付く、自己総括力の驚くべき不熱心さのように見えた。

人間が、手ずから作り出したものに起因する無秩序に向き合うとき、いつも事態に遅れを取ってしまうのである。

だから、事態のサブスタンスは、常に「予測し得ない事態」というオプティミスティックな把握の内に収斂されていくのだ。

「技術の進化」と、「技術を生む能力の進化」とは微妙に違う。

前者は偶然の産物である場合があるが、後者は偶然に進化したりはしない。

そこに落差ができる。

更に、「心の進化」は遥かに緩慢であり、そこに停滞的性質をも濃密に包含している。

そこにも落差ができる。

「技術の進化」と「心の進化」の乖離の稜線は、いよいよ広がるばかりなのだ。

そのことの恐怖がリアリティを内包するか否かについて、私には不分明だが、情報社会の健全な発展が「心の進化」の決定的瑕疵を補完するという朧(おぼろ)げな未来像に、単純に同意できないことは確かである。

さて、映像のこと。

この映画で何より問題なのは、人間が作り出したレプリカントの内側に形成された感情が、自我と呼べる何かに近いものであるという震撼すべき事態である。

人間にしか存在しない自我を、レプリカントが持ち得たという事例が、映像の中で端的に拾われていた。

「俺たちはコンピューターじゃない」
「人間よ。“我思う。故に我あり”」

前者は、反乱の先導者である戦闘用ロボット、ネクサス6型のロイ・バティの言葉。

そして、極め付けな言葉が後者。

「コギトエルゴスム」という、意識する自我の主体の明晰さに拠って立つデカルト哲学が登場した場面には驚いたが、それを放った主体が、宇宙基地の兵隊慰安用ロボット、プリスと知れば、レプリカントの自己運動による高機能の内面世界の達成点こそ、「人間」を相対化し得る役割性を強調する何かであったと思わせるのである。

ともあれ、デカルト哲学の「第一原理」の命題を放たれた主は、タイレル社の遺伝子工学技師のセバスチャン。

彼らは、タイレル社の社長との接見を求めて、自分たちの残りの寿命を確認したかったのだ。

「有機体のシステムを変えることは命取りだ」

彼らの「父」であるタイレルから、このように「死の宣告」を受けても、ロイ・バティは、子供のような縋りつく表情で、なお甘えて見せたのだ。

「長生きしたいんだよ、おやじ」

人間並みの感情を手に入れたレプリカントと、それを作り出した科学者との関係の本質は、「創造主」である「神」と、「神」によって創造された「有機体」としての生物=「人間」という構図が容易に読み取れるが、それがどうであれ、本稿の問題意識との大きな落差はないだろう。

「創造主」である「神」を問うことは、「“どこから来て、どこへ行くのか。何年生きるのか”人間も同じなのだ」というデッカードの問いに重なるからである。

「人間とは何か?」

結局、この根源的な問いから逃走不能になるのだ。

ともあれ、ここでの一連の会話は、「生存」の継続の保証を求めるロイ・バティの内側に、「自我」が発生している事実を検証するものである。

「自我」とは、「生存戦略」の羅針盤であるからだ。

即ち、人間の本質である「自我」がロボットにまで拡大されていくとき、人間と高機能ロボットの判別をする作業が極めて困難になるということ。

この映画は、その恐ろしさを描き切っていたからこそ、一級のサイバーパンクの代表作になり得たのである。

人間とヒューマノイド(アンドロイド=高機能ロボット)を判別するために、常に専門官による、高度で骨の折れる鑑別テストを必要としなければならない滑稽さこそ、この映画の恐ろしさの本質であり、作り手の直截なメッセージでもあるだろう。
 
多くの人々の多くの解釈、批評等の情報が氾濫し、侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論が今なお継続中の本作だが、私は、この形而上学的な由々しき一点において、本作はフィルムノワールや、サイエンスフィクションという狭隘なジャンルを突き抜けたと考えている。

前述したように、幾つかの同情すべき不具合が散見された瑕疵を無視できないながらも、それでも本作は、「底が抜ける」映像を構築し得たのだ。

ディストピアの未来世界の暗鬱なイメージを、根源的に払拭し得ない黒く濁んだリアリティを感受してしまうほど、人間であり続けることの厄介さが、何より重く、我が喉元を突き刺して来たのである。

(2010年4月)

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