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2010年6月1日火曜日

エイリアン1('79)     リドリー・スコット


<「無秩序な稜線伸ばし」を相対化し切ったSFゴシックホラーの凄味>



1  自己増殖する異界の完全生物との、閉鎖空間での戦争の果てに



内部で生産した工業製品の販売を目的にした民間のスペース・シャトル、それが宇宙貨物船ノストロモ号だった。

ところが、その宇宙貨物船が地球に向かって帰航中に、電算機(マザー・コンピューター)が発信者不明の電波信号を受信したことで、7名の乗組員は、「知的生物からと思われる信号は調査すること」という命令を受けた。

ダラス船長はケイン一等航海士、ランバート操縦士を随伴し、武器を携帯して信号発信地へ向かうが、苦労の末に発見した宇宙船には、破裂して骨が曲がり、既に死に絶えた化石化した宇宙人(スペースジョッキー)だけが捨てられていた。

探査を続ける3人は、まもなく巨大な卵状の物体を発見し、それに近づいたケインは、突如飛び出して来た生物に顔面を塞がれてしまった。

ノストロモ号にケインを運んで、彼の救出のため、ダラスはケインに張り付く生物を突き刺したとき、その切り口から強い酸性の液状のラインが流れ、宇宙貨物船の床が溶ける始末。

「ひでえ所に来ちまった。早く修理して帰ろうぜ」とパーカー技師。

事態は、そんな流暢な次元を一気に越えていく。


ケインに取り付いていた生物は束の間姿を消したが、それを捕獲したリプリー二等航海士らの反対を押し切って、アッシュは科学者の立場から保存の必要性を説くことで、修理を終えた宇宙貨物船は、異界の生物を乗せて再出発するに至った。

まもなく、健康を回復したケインの第一声。

「急に息が詰まった。悪夢のようだよ。何か食わせてくれ」

いつもの穏やかな食事が開かれた。

突然、ケインが悶絶し始めたと思ったら、彼の胸部から謎の宇宙生物(エイリアン)の幼体が飛び出して来た。

ケインの体内で、エイリアンは成長し続けていたのだ。

ケインの体内に寄生した生物は、まさに宿主であるケインの体内で幼体に成長した後、その宿主を食い千切って孵化したのである。

更に、その幼体は脱皮を繰り返して巨大な成体(エイリアン)と化し、今度は、このエイリアンが他の宿主となり得る生物の捕獲を遂行することで、自己増殖していくのだ。

この異常事態の中で、宿主として利用され尽くしたケインは絶命した。

結局、ノストロモ号が受信した電波信号は、宇宙人の警告であることが判明するに至った。

ケイン亡きノストロモ号の6名の乗組員は、火炎放射器を用いてエイリアンをエアロック(気圧調整室)に導くことで、宇宙への放出を狙ったが、エイリアンの逆襲に遭って、一人ずつ命を落としていく。

まず、ブレット機関長が犠牲になった。

ダラス船長は、メインであるマザーコンピューターに助けを求めたが、その答えは彼を愕然とさせるものだった。

「異星人対策 現行方式の評価は?:データ不足 解析不能」

「他の手段はあるか?:データ不足 解析不能」

「生き残るチャンスは?:計算不能」

まもなく、ダラス船長もエイリアンの犠牲になった。

リプリー
仲間を3人喪った後、今度はリプリーがマザーコンピューターに向き合った。

「異星人対策が進まぬ理由は?:解答不能」

「推理せよ:必要なし 特別指令937 科学部長専用」

「緊急質問 特別指令937とは何か?:・・・」

「航路変更 異星生物を調査せよ 標本を採集せよ」

「乗船員は場合により、放棄して良し」

信じ難き応答の中で、事情を説明しようとするアッシュを、リプリーは責め立てる。

アッシュがリプリーに襲いかかって来たのは、この直後だった。

逃げ惑うリプリーを、パーカー技師とランバート操縦士が救い、アッシュを斃したが、彼の頸が捥(も)げたことで、アッシュがロボットである事実が判明したのである。

「異星人を連れ帰らせるために、本社が乗せたんだわ」

このリプリーの一言で、マザーコンピューターの不可解な応答の謎が解けたのである。

アッシュは本社の命を受け、異界の生物を地球に運ぶ任務を負っていたのである。

捥(も)げた頸のアッシュが、パーカーの質問に答える。

「俺たちの命はどうなるんだ!」
「勿論、二の次だ」

「あの生物はどうやったら殺せるの?」とリプリー。
「無理だ。あれが何か分らんのか?完全生物だ。構造も攻撃本能も見事なものだ。素晴らしい純粋さだ。生存のため、良心や後悔などに影響されることのない完全生物だ。君たちも生き残れない。同情するよ」

思わず、アッシュの頸を蹴飛ばしたリプリーは、パーカーに命じた。

「船を爆破して、シャトルに移りましょう」

シャトルに移る準備の中で、パーカーとランバートがエイリアンに襲われ、命を落とすに至った。

アッシュの予言通りになっていくが、ノストロモ号の生存者はリプリー一人になった。

船の自爆装置の解除操作に失敗したリプリーは、地球から連れて来た唯一の動物である猫を連れてシャトルに乗り込み、ノストロモ号から分離させた状態で、地球に向かったのである。

まもなく、カウントダウンがゼロとなって、ノストロモ号は自爆した。

しかし、シャトル内でのリプリーが安堵の溜息を漏らす間もなく、その限定空間にエイリアンが潜んでいた。

リプリー
最後の力を振り絞ったリプリーの戦争は、エイリアンをシャトルから振り落とすことで自己完結を遂げていったのである。



2  「夢のまた夢」のイメージを遂行する時代を開いたとき



私はこの映画を久しぶりに再見して、ふと、二つのことを想起した。

南極ツアーと、スペースシップツアーである。

まず、前者。

これには、例えば、「チリからの日帰り南極フライトツアー」があり、以下のような触れ込み。

「南極半島北部にある南シェトランド諸島にある、キングジョージ島に到着します。到着後チリ軍の基地にあるエストレージャ村に向かいます。この村には南極で働く人々が住んでいます。天気がよければドレーク海峡方面へ行き、アザラシコロニーを訪問します。観光後、チリ軍基地へ戻り昼食(またはスナック)を食べます」(「チリ日本ツーリスト」より)

問題の料金は、2010年4月現在、一人当たり3000ドル未満だ。

ついでに書けば、「1泊2日南極フライト」でも、一人当たり4000ドル未満の低価格である。

他にも、「定番南極クルーズ12日間」のオプションでは、「トリプル・バス・トイレ共用」の料金で5000ドル未満の安さ。

そして、後者。

スケールド・コンポジッツ社のエンジニア・ブログより
米国のスケールド・コンポジッツ社によって開発された「スペースシップワン」、「スペースシップツー」は、世界初の民間による有人宇宙飛行としてあまりに有名だ。

既に、ロシア連邦の「ソユーズ」による、10名近い宇宙旅行者を輩出していて、「スペースシップツー」による人類初の本格的民間宇宙飛行は、2011年6月に予定していると言われるのだ。

とりわけ、民間企業による「スペースシップツー」の有人宇宙飛行のイメージは、殆ど「エイリアン」と重なってしまうのである。

「エイリアン」で提起された深甚なテーマがリアリティを持ったと断じることはできないが、しかしイメージラインは限りなく近付いたと言えるかも知れない。

国家規模のレベルで言えば、2010年に予算の関係で中止が発表されたが、アメリカ航空宇宙局(NASA)による「コンステレーション計画」があった。

これは、火星探査を視野に入れた有人宇宙機計画だった。

更に、海洋の世界まで含めると、海洋研究開発機構(独法)による「しんかい6500」がある。

これは、ウイキによると、「世界でもっとも深く潜る運用」を可能にする「日本で唯一の大深度有人潜水調査船」であり、HPを読む限り、相当に意欲的な大プロジェクトだ。

以下、HPの一文。

「この有人潜水調査船は、世界の海洋では約98%、日本の経済水域では約96%の海底の調査が可能です。日本だけでなく世界中の海で“実際に深海に潜り、人間の目で確かめる”という利点を活かして活躍しています。船内の定員はパイロット2名、研究者1名の3名であり、パイロットは、訓練・経験をつみ、操船だけでなく、日常のメンテナンスや機器改善など整備作業を修得したものが認定され、調査潜航を行っています。研究者には、乗船に訓練の必要はありません」

以上、縷々(るる)述べてきたように、私たちの科学技術文明は簡単に南極ツアーを可能にし、今また、民間宇宙飛行を可能にする時代を開いてしまったのである。

JAXA(宇宙航空研究開発機構)・HPより
世界的規模で言えば、レーガン大統領による「フリーダム宇宙ステーション計画」に端を発したISS(国際宇宙ステーション)は、コストパフォーマンスが足枷になっていながらも、現在、先進11ヶ国が協力して建設を進めていて、2010年完成予定の宇宙実験・滞在施設であることは周知の事実。

思うに、地上約400キロ上空に位置するこの世界最大のプロジェクトは、私たちの遥か昔の、「夢のまた夢」のイメージの世界であったに過ぎなかった。

それが今や、船外プラットホームを備えたJAXA(宇宙航空研究開発機構)保有の「きぼう」は、宇宙で約5ヶ月半滞在した野口聡一さんのケースでも分るように、「夢のまた夢」のイメージを具現する時代を開いてしまったのだ。

そして今、中国人民解放軍が発表した報道に、度肝を抜かれる事態が発生した。

以下、「北京共同通信」(2010年6月15日付け)が発信した情報である。

「将来の宇宙軍拡競争に備え、空軍と宇宙開発を統合した『空天一体』戦略を策定し『宇宙軍』創設へ向け準備を本格化させていることが分かった。宇宙軍の兵士養成も計画している。中国空軍筋が15日、明らかにした。

中国の宇宙軍構想の概要が明らかになったのは初めて。米国は1985年に宇宙軍を設立したが、2002年に戦略軍に統合され、敵のミサイル攻撃の防御や戦略核兵器などを担当。ロシアも宇宙軍を創設している。

中国政府は有人宇宙船打ち上げなどの宇宙開発の目的を『平和利用』と説明しているが、『制天(宇宙)権』確保へ長期戦略を進めていることが明確になった。

同筋によると、中国軍は04年7月に『空天一体化』と『攻防兼備』の宇宙戦略を策定。近い将来、空軍下に『航空宇宙作戦指揮センター』を設立し、空軍を中心に、将来の宇宙軍のための兵士を養成するという」

「惑星ソラリス」より
巨大な知的存在体である、「プラズマの海」とのコミュニケ-ションの困難さを描くことで、人間の心の問題の深奥に迫った形而上的映像として名高い「惑星ソラリスの世界」は、必ずしも「夢のまた夢」のイメージの内に収斂されなくなったと言うのだろうか。



3  内的宇宙の映像的読み替え ―― 或いは、闘争心と利己心溢れるフロンティアスピリット



人間が「夢」を持ち、それを科学技術の圧倒的推進力によって「可能性」に変えたとき、俄然、眼の色が変わる。

それは、飽くなき好奇心を決して手放すことをしない人間の痼疾(こしつ)であると言っていい。

私たちホモ・サピエンスは、抑制系の進化より解発系の進化の方を常に先行させてきたということ。

これは、解発系の進化の推進力である好奇心が、人間の基幹能力の一つであることを検証するだろう。

その基幹能力こそが、既に痼疾なのだ。

人間の本能行動の不備を埋めるが自我であり、その自我が未知のゾーンに踏み込むときの起動力は好奇心であると言い替えてもいい。

生存・適応戦略の羅針盤である自我が完成形でないという本質的な悲哀の様態に、人間の「脆弱性」という名の痼疾が深々と棲みついてしまっているのである。


そして、悲哀の痼疾としての好奇心の発現の一つの到達点が、前述したように、「スペースシップツー」(画像)に代表される宇宙旅行の大ロマンであった。

限りなく伸びる人間の「夢」の稜線が、ほんの少しの努力によって手の届くところまで来たと信じたとき、俄然、眼の色が変わった一群の人間は、もうその「可能性」を、自分が生きている時代に具現しなければ気が済まないという類の、何か異次元のスポットに搦め捕られたような不思議な感覚に捉われるのか。

その不思議な感覚は、本来「知恵のある人」を意味する、私たちホモ・サピエンスが未知のゾーンに踏みこんでいくときの、「プロセスの快楽」では殆ど収まりがつかない、実感的な肌触りを伝え得るような、確かな「達成の快楽」を愉悦する情感体系であると言えるかも知れない。

文明の利器を使って、文明の破壊を企図しているかのようにも見えるウサマ・ビンラディンを例に出すまでもなく、その不思議な感覚を、「傲慢・倨傲・不遜・尊大」などという感情と一方的に決め付けて、遥か秀峰の高みに立てるほど、人間相互の欲求濃度の濃淡感や、その倫理的落差は決定的ではないのだ。

遂に人間は、自らが開発してきた科学技術文明の大いなる歴史の稜線上に立って、なお未知のゾーンへの非武装なる侵入に自らを駆り立てていくのである。

飽くなき好奇心を決して手放すことをせず、文明の圧倒的進軍を常に既成事実化する、私たちホモ・サピエンスの本来的な痼疾(こしつ)。

この痼疾をセルフメディケーション(自己治療)する能力と併存し得ない、その驚くべき非武装さだけは、一貫して延長されてしまうのだ。

それこそ、私たちホモ・サピエンスが本質的に抱え込んだ、「脆弱性」という名の痼疾の本質であった。

それ故、偉そうな言辞を吐く資格など誰にもないのだろう。

私たちはもう、そのような生物体であるとしか言えないのだ。


ところで、「エイリアン」のこと。

この映画で描かれた世界の根源に横臥(おうが)する精神こそ、このような人間の不思議な感覚のマキシマムな推進力の有りようであり、その無秩序な展開のあられもない様態である。

未知のゾーンへの侵入に伴う緊張感、不安感、そして、そこに張り付くほんの僅かな恐怖感の実感的振幅。

恰も、人間はそれらを愉悦しているかのようなのだ。

それらの情感を代償にして手に入れるものの価値の希少性を、震える者の如く実感したいからである。

希少的価値の愉悦と、負の感情との共存にすっかり馴致した内面史の巨壁は、もうフィードバックし得ない辺りにまで逢着してしまったようである。

そしていつしか、それらの情感が常に内側でローリングさせて、危ういゲームの継続力を保証してしまったのだ。

或いは、このような心が騒ぎつつ、震える感情を繰り返し体験し、それを殆ど無自覚に拡大再生産していく歴史の内に、人間の科学技術文明の呆れるほどの好奇心がリンクすることで形成された共同戦線の突破力は、しばしば度外れな誤謬を犯しつつも、未知のゾーンの闇の奥を無造作に突き抜けていくコア・エネルギーを分娩してしまうのである。

「エイリアン」という、既に固有名詞で語れるほど著名なこの映画は、ゴシックホラー(恐怖・残酷・閉鎖系・怪奇性)のSF版の構造を持つが、単なるスプラッタムービーではない。

7人の乗組員が籠った宇宙船は、私たちの科学技術文明がコンパクトに凝集された、まさに内的宇宙であり、そして、そこに出現したエイリアンという異界の生物の存在は、未知のゾーンを呆れるほどの腕力で切り開いていくときに、必ず遭遇するアポリアの集合体であった。

私たちの闘争心と利己心溢れるフロンティアスピリットは、常にエイリアンとの遭遇を必然化する軌跡を作ってしまうのだ。

だからこの映画は、私たちの内的宇宙の映像的読み替えであり、そこで出来する小さな恐怖感が肥大してカオスの森に捕捉されたときの、人間のほぼ必然的な運命を集約させた物語ではなかったのか。



4  「無秩序な稜線伸ばし」を相対化し切ったSFゴシックホラーの凄味



「宇宙ではあなたの悲鳴は誰にも聞こえない」

「完全な宇宙生命体」であるエイリアンとの最も危険な遭遇を、閉鎖系の限定空間をステージにして描く、ホラー性の濃度の深い映像を言い当てた、この有名なキャッチコピーが、本作の恐怖のSFワールドの全てを語っていると言っていい。

悲鳴がどこにも届かない宇宙空間には、人間の飽くなき好奇心を嘲笑うような恐怖に満ち満ちているのだ。

「ALIEN」の5つのアルファベットが、徐々に完成されていく導入のインパクトは、まさに人間の飽くなき好奇心を嘲笑うような恐怖の予約でもあった。

ところで、性器をモチーフとしていると言われる、エイリアンの造形で名高いスイス人デザイナー、ハンス・ルドルフ・ギーガーはシュルレアリスムの画家でもある。

そのシュルレアリスムの極致が、このエイリアンの造形であると言っていい。

このエイリアンの造形に象徴される「完全な宇宙生命体」との遭遇こそ、人間の飽くなき好奇心の果てに逢着した最大のアポリアであった。

最大のアポリアに翻弄されるリスクを覚悟せずに、工業製品の販売を目的にした民間のスペース・シャトルの振舞いが被る悲劇は、良かれ悪しかれ、まるで「資本の論理」によって、宇宙にまで欲望の稜線を縦横に伸ばす過剰さを指弾しているようでもあった。


リドリー・スコット(画像)は、本作においても、「ブレードランナー」(1982年製作)と同様に、決して人間社会の未来に明るい希望を安請け合いしなかったのだ。

そこが良い。

何より本作は、「未知との遭遇」(1977年製作)、「ET」(1982年製作)という、観る者に目眩ましの如き、過剰な視覚効果による情感誘導して安売りした感のあるスピルバーグの、その底の浅いオプチミズムを相対化し切ったことが良い。

無論、スピルバーグの感傷過多な児戯的世界を屠るまでには至らなかったが、それでも老若男女を囲い込むディズニーランドの心地良き稜線を無秩序に広げる、安直なファンタジーの欺瞞性を相対化し、少なからず撃ち抜いたことは確かである。

「異文化との衝突とコンフリクト(対立)」というテーマ性に拘泥しているかのように見えるリドリー・スコットの映像世界は、見方を変えれば、ヴァンゲリスによる「Conquest of Paradise」(楽園征服)というBGMに象徴されるように、作り手と、その作り手が描いたコロンブスの思惑とは無縁に、「1492」(1992年製作)で再現された世界、就中(なかんずく)、白人たちの「Conquest of Paradise」を指弾するかの如き映像によって、結果的に、フロンティアスピリットの欺瞞を衝いただけでなく、今後も延長されるであろう「無秩序な稜線伸ばし」に、弱々しいが、しかしそれでも、一つのアピールになるであろう防波堤を構築し得たとも言えなくもない。

前述したように、私はこのような人間の「無秩序な稜線伸ばし」を、私たちホモ・サピエンスが本質的に内包する「脆弱性」という痼疾(こしつ)として把握しているから、そこにどのような文化的防波堤をも無力でしかないことを認知しているつもりだ。

だから、リドリー・スコットによる件の映像もまた、「アンチ」の精神で生きる者たちには、一定の浄化剤の役割を果たすかも知れないが故に、全く不毛な表現だとは思わないのである。

その全ての表現世界とは言わないまでも、幾つかの作品で、リドリー・スコットは明瞭な主題提起力を持った構築的作家であったし、これからもあり続けるだろう。

この映画が提示した主題提起力の重量感は、決して一回的消費のSFゴシックムービーには収まり切れないのだ。

そんな読み方もあっていい、と私は思う。



5  「無秩序な稜線伸ばし」を相対化するキャラクターの造形



この映画が拾い上げた、最も印象的な事柄。

それは前述したように、人間のフロンティアスピリットの「無秩序な稜線伸ばし」を相対化させたことにあるが、そして、その決定的な画像の内に、その「稜線伸ばし」を相対化するに相応しいキャラクターを作り出したことである。


即ち、リプリーという名の二等航海士を立ち上げたことである。

「圧倒的な強さと凶暴性を持ったエイリアンに敢然と立ち向かい、その子供まで産んでしまう強き女」

これは、「マイコミジャーナル」というHPで掲載された、「英MSN Movies」における、「1万人が選ぶ 『最も怖い映画』とは」というアンケートの結果である。

まさに、「戦う女性」の面目躍如と言ったところだ。

しかし彼女は、単に「スーパーヒロイン」の誕生を意味しない。

地球という小さな惑星で、男たちが強引に切り開いて来た、「無秩序な稜線伸ばし」の過剰さを相対化させる役割として、女性のサバイバルな戦争を描き切ったこと。

そんな風にも考えられないか。

彼女は終始、アンドロイドの科学者に異議を申し立て、その姑息な戦略を自らの全人格的な闘争精神によって撃ち砕いたのである。

自己増殖するために、宿主となり得る生物の捕獲を求めるエイリアンとのサバイバル戦で、彼女だけが唯一勝利したのは偶然ではないだろう。

そう思いたい。

幾つかの「滅び」のバージョンが存在している事実を知っているが、私はリプリーのみを生還させる括りこそが、最もこの種の映像に相応しいと勝手に考えている次第である。

ともあれ、「完全な宇宙生命体」であるエイリアンが、救命艇の中でリプリーを襲わなかった原因として、繁殖の故に短期間しか 生きられない生態寿命の限界を持っていたという仮説があるとは言え、当然の如く、その事実を科学的に認知していない彼女は、一貫して、怯えるだけの心理を克服し得た「戦う女性」であり、そして何より、男たちの「無秩序な稜線伸ばし」の野望の果てに現出した、「鬼っ子」であるエイリアンと全人格的に戦い抜いたこと。

そこが凄いのだ。

このようなストーリーラインの骨格は、リドリー・スコットの主題提起の根幹に関わる何かであったと思いたいのだ。

それが、私の「エイリアン論」である。

そして、もう一つ。

この映画で特筆すべきは、ゴシックホラー(恐怖・残酷・閉鎖系・怪奇性)のSF版という舞台設定を遺憾なく発揮して、最後までその姿を見せることをしない、地球という名の小さな惑星と、そこに呼吸を繋ぐ者たちの尋常ならざる生活風景を、観る者に恐々と想像させたところにある。

元々、内部で生産した工業製品の販売を目的にした民間のスペース・シャトルが、太陽系から遥か彼方の恒星にまで「宇宙ドライブ」を敢行し、且つ、エイリアンとの遭遇によって露わになる、アンドロイドの科学者が極限状況を仕切っている風景を描き出すことで、地球と地球人の奇妙で、些かブラックなイメージが想像できるのだ。

そして本作では、エイリアンを駆逐したと信じるリプリーが、最後まで可愛がっていた、固有名詞を持つ  「猫」(ジョーンズ)の存在を象徴的に描いていた。

一見、気の遠くなるような「未来の世紀」における地球上では、引き続き、「ペット化された動物との共存」を延長させていたのである。


しかし同時に、アンドロイドの科学者との畏怖すべき共存をも、「未来の世紀」における地球上で普通に具現化していたというイメージは、「ブレードランナー」(画像)の世紀末的風景ほどではないが、充分にブラック・アイロニーであったと言えるだろう。

彼女が、「現代の地球に呼吸する普通の生物」の象徴としての「猫」を守り、それを連れて地球に向けて帰還する飛行こそ、人間の「無秩序な稜線伸ばし」を相対化する映像であったという把握も可能だろう。

それ故、エイリアンが「猫」に卵を産み落としていたなどという仮説は、私には邪道でしかないのである。

(2010年6月)

2010年3月31日水曜日

ブレードランナー('82)   リドリー・スコット


<人間とヒューマノイドの鑑別テストを必要とする、大いなる滑稽さ>




1  「人の心を読むロボット」開発の現実化の様相



オスカー・ピストリウスという名の、著明なアスリートがいる。(注)

人呼んで、「ブレードランナー」。

1986年生まれの、南アフリカ共和国のパラリンピック陸上選手である。

「両足切断者クラスの100M、200M、400Mの世界記録保持者。健常者の大会にも出場するなど、障害者スポーツの印象を覆す活躍で注目を集めている」(ウィキペディア)

更に、北京パラリンピック陸上・男子100M(T44クラス)決勝の際に、AFP(2008年9月9日)が伝えた短いニュースの内容は、以下の通り。

「『100メートルは実は少々不安もあったので、信じられない』というピストリウスは、トラックが濡れていてスタートで出遅れ苦心したと語った」

ところが、この注目度ナンバーワンのピストリウス選手が、北京オリンピックの400M出場を目指していたという記事を読んで、正直驚かされた。

結局、ピストリウス選手の装着するカーボン製の「義足による人工的推進力」が、競技規定に抵触するルール違反とされ、国際陸上競技連盟に却下されてしまったという、「大山鳴動して鼠一匹」の顛末だったが、この「予定調和」の事実については知る人も多いだろう。

ピストリウス選手
ともあれ、スポーツシーンにおける、この一連の騒動を見て、かつて一体誰が、「義足による人工的推進力」によって、障害を持たないアスリートを相手に、疑似性の濃度の深い「イコールフッティング」(公平な競争条件)の競争が具現される事態を想像したであろうか。

そして今、「ロボットスーツHAL」と呼ばれる「自立動作支援ロボット」の出現に、この国のメディアは鋭敏に反応した。

何と、「人の心を読むロボット」開発の出現が現実化しているのである。

京都府の関西文化学術研究都市にある、「国際電気通信基礎技術研究所(ATR)脳情報研究所」らのグループの仕事の先端性には驚かされるばかりだ。

以下、「産経ニュース」からの引用である。

「21世紀に入って二足歩行など人型ロボットの困難だった技術が確立され、人間と安全に共同作業できる可能性がみえはじめると事情は変わる。実用化に向けて経済産業省などの国家プロジェクトが組まれた。人間の能力を上回る単体のロボットは現段階ではできないため、当初、用途はエンタテインメントなどに限られるかにみえた。

しかし、携帯電話やインターネットなどと連動した形のなじみやすい情報端末は、高度な情報環境を実現するユビキタス社会に役立ち、介護など高齢社会を支えるロボットも必要と用途が開けてきた。単独で判断して行動する能力は、すでに掃除ロボットなどに生かされている。

最先端研究では、国際電気通信基礎技術研究所(ATR)のほか、筑波大学の山海嘉之教授のグループのロボットスーツ『HAL』が海外から注目されている。人体に装着するタイプで皮膚から生体の信号を検出し、意思を読み取って筋肉のサポートをする」(「産経ニュース・2007.12.12/筆者段落構成)

ロボットスーツ「HAL」
以下、ATR脳情報研究所のHPを紹介する。

「JST基礎研究事業の一環として、川人光男らは、サルの大脳皮質活動の情報をネットワークを介して伝送(米国~日本間)、リアルタイムでヒューマノイドロボット(アンドロイド=人造人間・筆者注)を歩行させることに成功しました。

人の脳がどのように行動を起こさせるかを解き明かす研究が急速に進展しています。一方、ロボティクスの分野では、人と同じように行動をするヒューマノイドロボットの開発が盛んになってきています。本研究プロジェクトでは、神経科学に基づいて人の行動の情報処理モデルを構築し、ロボットによって検証することで脳をよりよく理解する研究をしています。また、工学的応用として、人に近い柔軟な動きを持つロボットの開発を目指しています。 


本研究プロジェクトは今回、新型ヒューマノイドロボットを開発し、これを用いて米国デューク大学と共同で、米国でサルが歩行中の脳活動情報を記録して日本に伝送し、日本にあるヒューマノイドロボットをリアルタイムで歩行させる実験に世界で初めて成功しました。 


この成果は、障害のある方の運動機能再建や次世代の超々臨場感通信やヒューマノイドロボットの脳型制御などの社会貢献のため、神経科学とロボティクスの技術の融合を実現するための重要な一歩といえます」(ATR脳情報研究所HP・2008年2月/筆者段落構成)

脳情報研究の川人光男(かわと みつお)博士(毎日新聞)
まさに今や、「神経科学とロボティクスの技術の融合を実現するための重要な一歩」が踏み出されているのである。

閑話休題。

ところがここに、ロボット製造後、数年経てば「感情が生じる人間並みのロボット」が現出したのである。

何と、人間とロボットの判別がつかない恐怖を解決する目的で、そこで生じる混乱を防止するために専門的な鑑別官を作り出したばかりか、「感情が生じる人間並みのロボット」に一定期間の「寿命」を与えたのである。

「寿命」を与えたのは、ロボットの設計者。

そして「寿命」を与えられたのは、4年という生存期間を決定付ける安全装置を組み込まれた、「レプリカント」と呼ばれるロボットである。

「感情が生じる人間並みのロボット」という、インパクトのある表現の出典は、無論、ポスト・ゼロ年代に住む私たちの現実の社会の話ではない。

フィリップ・K・ディックによる「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(早川書房)を原作にする、サイバーパンク(退廃した未来社会を描くSF作品)の古典となった「ブレードランナー」という、今では殆ど知らない者がいないSF映画の話である。

以下、本作の世界に入っていく。


(注)2013年2月、恋人銃殺事件で逮捕され、2014年12月時点で、禁錮5年の判決が確定。




2  「廃棄処分」の後の、「睦みの世界」への投げ入れ



「21 世紀の初め、アメリカのタイレル社は人間そっくりのネクサス型ロボットを開発。それらは“レプリカント”と呼ばれた。特にネクサス6型レプリカントは、体力も敏捷さも人間に勝り、知力も、それを作った技術者に匹敵した。レプリカントは、地球外基地での奴隷労働や他の惑星の探検などに使われていたが、ある時、反乱を起こして、人間の敵に回った。地球に戻ったレプリカントを処分するために、ブレードランナー特捜班が組織された。ロサンゼルス 2019年11月」

このキャプションから開かれた映像の背景は、「強力わかもと」の大きな広告塔の看板が際立つ、夜のネオンの人工燈が照射するけばけばしい色彩感の中で、超高層ビルが林立し、其処彼処に酸性雨が降り注ぐ暗鬱なイメージの未来都市の存在であり、その異様な映像美は観る者に破滅的な臭気を放って止まないのだ。

人類の大半は宇宙に移住してしまたので、比較的良好な環境を保持する都市には、あらゆる言語を話す人々が居住することで、常に成員過多の人群れの臭気が漂っているのである。

ブレードランナーの仕事を嫌って退職したデッカードは、雑多な者たちが溢れかえる荒廃した都市の一画でうどんを食べていたが、権力機構の一翼を占有するガフを介して、彼の元の上司のブライアンに呼ばれ、スペースシャトルを奪って、乗員を皆殺しにして脱走した4名のレプリカントの廃棄処分を依頼されるに至った。

以下、ブライアンの説明。

「ネクサス6型、ロイ・バティ。戦闘用ロボットだ。首領らしい。ゾラも、殺人の訓練を受けている。美女で野獣。カワイ子ちゃんタイプのプリスは、宇宙基地の兵隊慰安用。感情以外は人間と変わらん。製造後、数年経てば感情も生じるらしい。面倒だから、安全装置を組み込んだ。4年の寿命だ」

デッカード
以上の説明を聞いた後、権力機構の恫喝もあって、デッカードはブレードランナーの仕事を引き受けた。

その直後の映像が映し出したのは、絶世の美女という印象を与えるレイチェルが、「人間」か「レプリカント」かのいずれか、という鑑別を受けるテスト。

それを担当したのは、デッカード。

デッカードは、レイチェルがレプリカントであると結論付けるが、彼女自身はその事実を薄々感知しつつも正確に認識していなかった。

レプリカントを作り出したタイレル博士が、その辺の事情をデッカードに説明した。

「我が社は人間以上のロボットを目指している。彼女はその試作品だ。感情が目覚めてきた。そのために何か苛立っている。数年分の経験しかないからな。過去を作って与えてやれば・・・感情も落ち着き、制御も楽になる」

レイチェルが「人間」であることを本人に認知させるために、タイレル博士は彼女に「記憶」を与えたのである。

幼年時代の写真を何枚も持たせられたレイチェルの悲哀のルーツを知って、彼女に対する思い入れを深くするデッカードの心は漂流していた。

そんなデッカードが、反逆のレプリカントの一人であるゾーラを射殺した。

最初の「殺人」=「廃棄処分」である。

「レプリカントとは言え、女を撃つのは気分が悪い。おっと・・・また感情が出てしまった。レイチェルを思い出す」

デッカードのモノローグである。

レイチェル
デッカードが、そのレイチェルによって命を救われたのは、彼がレプリカントのレオンに殺されかかったときだった。

「死ぬのは怖いだろう」

レオンはデッカードに、そう言ったのだ。

死の恐怖のリアリティを感受したデッカードに、生の歓喜の時間が訪れたのは、その直後だった。

レイチェルと過ごす、一時(いっとき)の至福。

「もし私が逃げたら、追って来る?」とレイチェル。
「俺は追わん。借りがある」とデッカード。

感情を持つ二人の静謐な時間が、荒廃した暗鬱な都市の一画に緩やかに流れていく。

「キスしてと言え」

ピアノを弾いた後、髪を下ろすレイチェルに、デッカードは、ブレードランナーの仕事からの解放感を求める者の含みを隠すかのように、素っ気なく言った。

「言えないわ」

そう答えた後、レイチェルは求める者のように、「キスして」と反応した。

タイレル博士が説明したように、彼女もまた、目覚めてきた感情の故に何か苛立っていて、解放感を求めて止まないのか。

「抱いて。可愛がって・・・」

そんな思いが、レイチェルを一人の「女」に変えていく。

複雑な感情が絡み合って、二人は深い睦みの世界に、その身を投げ入れていった。



3  「恐怖の連続だろう。それが、奴隷の一生だ」



タイレル社の遺伝子工学技師ののセバスチャンに、ネクサス6型、ロイ・バティは、タイレル博士との接見を求めて実現の運びとなった。

ロイ・バティ(左)
タイレル博士とロイ・バティとの、根源的な会話が開かれた。

「長生きしたいんだよ、おやじ」

この率直なロイ・バティの言葉に見え隠れているのは、「父」であるタイレルへの甘えの感情である。

しかし、「父」であるタイレルからの反応は、科学者の範疇を逸脱するものではなかった。

「無理だな。有機体のシステムを変えることは命取りだ。生命コーティングは変えられない。外部から干渉を受けた細胞は、ネズミが沈没する寸前の船から逃げ出すように、パニックを起こして命を絶つ。EMS(変異誘発物質・筆者注)で突然変異を起こした細胞は、有毒なウイルスを作り出した。被験者は即死だ」

以下、根源的な会話の内に、人間の傲慢さが張り付いていく。

「細胞活動を抑えるたんぱく質は?」
「やはり、細胞再生の際に、突然変異を誘発する。変異したDNAはヴィールスを作り出すんだ。君らは完全だよ」
「寿命が短い」
「明るい火は早く燃え尽きる。君は輝かしく生きて来たんだ。君を誇りに思ってる」
「色々、悪いことをした」
「業績も挙げた」
「生物工学の神が呼んでるぞ」

この「神学論争」の虚しさを感知したロイ・バティは社長の眼を潰し、殺害するに至った。(完全版)

そして、セバスチャンの殺害があり、プリスの死が続く。

ロイ・バティとデッカード
最後に、ブレードランナーであるデッカードとロイ・バティとの死闘が延々と描かれていくのだ。

しかし、最強の攻撃ロボットであるロイ・バティは、とうていブレードランナーが敵う相手ではなかった

「恐怖の連続だろう。それが、奴隷の一生だ」

これは、超高層ビルの屋上の縁にしがみ付く、デッカードへのロイ・バティの決定力のある言葉。

その直後、ビルから落下しそうになったデッカードを、ロイ・バティは片腕で掴み上げて助けたのである。

「お前ら人間には、信じられぬものを、俺は見てきた。オリオン座の近くで燃えた宇宙船や、タンホイザー・ゲート(超高速を越えるゲート・筆者注)のオーロラ・・・そういう思い出も、やがて消える。時がくれば、涙のように。雨のように・・・その時がきた」

戦闘用レプリカントであるロイ・バティが、一瞬にして固まって死んでいく現実の恐怖を凝視しながら、デッカードは心の中で呟いた。

「なぜ俺を助けたのか。多分、命を大事にしたのだろう。それが自分の命でなくても。俺の命でも。彼は自分のことを知りたがった。“どこから来て、どこへ行くのか。何年生きるのか”人間も同じなのだ」(モノローグ)

救出されるデッカード
全てが終焉した瞬間だった。

常に彼の行動を監視していたガフが出現して、デッカードに言葉を添えて、立ち去って行った。

「彼女も惜しいですな。短い命とは」

その言葉を聞いて、デッカードは直ちに行動した。レイチェルを救済しに行ったのだ。

レイチェルは蹲(うずくま)っていたが、死んではいなかった。

「一緒に行くか」とデッカード。
「ええ」とレイチェル。

「ガフは彼女を見逃してくれた。4年しか生きないと思って。だが、彼女の寿命は限られていないのだ。お互い何年生きるか、誰が知ろう」(モノローグ)

映像のラストシーン。

レイチェルを随伴して、ブレードランナーだった男が、大いなる青空の彼方に旅立って行った。



4  ディストピアの未来世界を描く映像に、ハッピーエンドの括りは似合わない



「ブレードランナー」ファンなら周知の事実について、以下、簡単に言及する。

一応、4種類存在すると言われる、本作の様々なバージョンのこと。

本稿では、「ビデオ完全版」を基に物語をフォローしたが、実はそれ以外にも、「初期劇場公開版」、「ディレクーターズ・カット版」、「ファイナルカット版」が存在する。

リドリー・スコット監督
リドリー・スコット監督の再編集による2007年版である「ファイナルカット版」には、モノローグもなければ、ラストシーンでの「青空への飛翔」という浮ついたシーンもないと言う。

未見だから、内容について批評できない。

言うまでもなく、「初期劇場公開版」、「ビデオ完全版」が存在した理由は、それを否定するつもりもないが、ビジネス・オンリーのハリウッドへの妥協の産物以外ではない。

モノローグの追加や、ハッピーエンドへの変更もまた、「映画産業」というビジネスの観点から立てば、「売れない物を作って満足するような、『芸術家』気取りするな」という一言で済む何かだろう。

そんな子供染みた議論をするつもりは毛頭ないが、「映画批評」という視座のみで言えば、以下の感懐も許容されるに違いない。

要するに、こういうことだ。

ディストピア(暗黒の未来世界)の未来世界を描く映像に、モノローグは似合わない。

説明的になり過ぎることで、映像の緊張感を削ってしまうからだ。

権力の手先である、ガフの見逃しも似合わないが、それ以上に、ハッピーエンドの括りはもっと似合わない。

後者に関しては、当然の如く、戦慄すべき原作には存在しない。

「華氏451」より
本作が、「華氏451」(1966年製作)、「時計じかけのオレンジ」(1971年製作)、「未来世紀ブラジル」(1985年製作)等の作品のように、ディストピアの未来世界を描く映像だからである。



5  人間とヒューマノイドの鑑別テストを必要とする、大いなる滑稽さ



人間が自分の知的・理性的水準の能力と違わないロボットを作るという設定は考えにくいが、しかし仮に、高度に発達した科学技術がそれを可能にしたとき、人間ならそれを遂行するだろうという危うさを否定できるだろうか。

なぜなら、それが人間だからだ。

人間は自らが作り出した技術を、実用性にリンクしない実験プロセスの内に停留させてしまうほどに、包括的、且つ抑制的な存在でないからだ。


ブレードランナーのレプリカントたちが、その高度に特化された能力の一定の継続性の保証によって、遂に感情を獲得してしまうという、驚くべき予測を視野に含み入れることのない技術の直線的進化によって、それを作り出した人間自身を常に置き去りにしてしまう滑稽さもまた、人間の歴史が証明してきたことである。

人間は、人間が自ら作り出したものを十全に支配し切れず、却って無秩序を晒すだけだ。

人間のこの本質的な脆弱性の様を、酸性雨に浸されたダーティな未来都市で、人々が雑多に蠢(うごめ)いている暗鬱な映像の中に見ることができる。

人間はこんな未来しか残せないのか、と観る者に寒気をを覚えさせるような底が抜ける映像を、セットデザインに拘泥するスタイリッシュな映像作家、リドリー・スコットは構築し切ったのだ。

人間の未来を脳天気にしか語れない愚かさに対して、人間が狂躁と昂揚の内に作り出した文明の利器を十全に管理し切れない、その能力的欠損、脆弱性への自己認知を迫るというその一点によって、私は本作を読み替えた。

そこに映し出されたのは、自らの運命に怯える「レプリカントの哀しみ」というより、そのような悲劇すら計算できず、「今、このときの快楽」のモチーフだけで、未知なる時間を突き抜けようとする人間の性(さが)に張り付く、自己総括力の驚くべき不熱心さのように見えた。

人間が、手ずから作り出したものに起因する無秩序に向き合うとき、いつも事態に遅れを取ってしまうのである。

だから、事態のサブスタンスは、常に「予測し得ない事態」というオプティミスティックな把握の内に収斂されていくのだ。

「技術の進化」と、「技術を生む能力の進化」とは微妙に違う。

前者は偶然の産物である場合があるが、後者は偶然に進化したりはしない。

そこに落差ができる。

更に、「心の進化」は遥かに緩慢であり、そこに停滞的性質をも濃密に包含している。

そこにも落差ができる。

「技術の進化」と「心の進化」の乖離の稜線は、いよいよ広がるばかりなのだ。

そのことの恐怖がリアリティを内包するか否かについて、私には不分明だが、情報社会の健全な発展が「心の進化」の決定的瑕疵を補完するという朧(おぼろ)げな未来像に、単純に同意できないことは確かである。

さて、映像のこと。

この映画で何より問題なのは、人間が作り出したレプリカントの内側に形成された感情が、自我と呼べる何かに近いものであるという震撼すべき事態である。

人間にしか存在しない自我を、レプリカントが持ち得たという事例が、映像の中で端的に拾われていた。

「俺たちはコンピューターじゃない」
「人間よ。“我思う。故に我あり”」

前者は、反乱の先導者である戦闘用ロボット、ネクサス6型のロイ・バティの言葉。

そして、極め付けな言葉が後者。

「コギトエルゴスム」という、意識する自我の主体の明晰さに拠って立つデカルト哲学が登場した場面には驚いたが、それを放った主体が、宇宙基地の兵隊慰安用ロボット、プリスと知れば、レプリカントの自己運動による高機能の内面世界の達成点こそ、「人間」を相対化し得る役割性を強調する何かであったと思わせるのである。

ともあれ、デカルト哲学の「第一原理」の命題を放たれた主は、タイレル社の遺伝子工学技師のセバスチャン。

彼らは、タイレル社の社長との接見を求めて、自分たちの残りの寿命を確認したかったのだ。

「有機体のシステムを変えることは命取りだ」

彼らの「父」であるタイレルから、このように「死の宣告」を受けても、ロイ・バティは、子供のような縋りつく表情で、なお甘えて見せたのだ。

「長生きしたいんだよ、おやじ」

人間並みの感情を手に入れたレプリカントと、それを作り出した科学者との関係の本質は、「創造主」である「神」と、「神」によって創造された「有機体」としての生物=「人間」という構図が容易に読み取れるが、それがどうであれ、本稿の問題意識との大きな落差はないだろう。

「創造主」である「神」を問うことは、「“どこから来て、どこへ行くのか。何年生きるのか”人間も同じなのだ」というデッカードの問いに重なるからである。

「人間とは何か?」

結局、この根源的な問いから逃走不能になるのだ。

ともあれ、ここでの一連の会話は、「生存」の継続の保証を求めるロイ・バティの内側に、「自我」が発生している事実を検証するものである。

「自我」とは、「生存戦略」の羅針盤であるからだ。

即ち、人間の本質である「自我」がロボットにまで拡大されていくとき、人間と高機能ロボットの判別をする作業が極めて困難になるということ。

この映画は、その恐ろしさを描き切っていたからこそ、一級のサイバーパンクの代表作になり得たのである。

人間とヒューマノイド(アンドロイド=高機能ロボット)を判別するために、常に専門官による、高度で骨の折れる鑑別テストを必要としなければならない滑稽さこそ、この映画の恐ろしさの本質であり、作り手の直截なメッセージでもあるだろう。
 
多くの人々の多くの解釈、批評等の情報が氾濫し、侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論が今なお継続中の本作だが、私は、この形而上学的な由々しき一点において、本作はフィルムノワールや、サイエンスフィクションという狭隘なジャンルを突き抜けたと考えている。

前述したように、幾つかの同情すべき不具合が散見された瑕疵を無視できないながらも、それでも本作は、「底が抜ける」映像を構築し得たのだ。

ディストピアの未来世界の暗鬱なイメージを、根源的に払拭し得ない黒く濁んだリアリティを感受してしまうほど、人間であり続けることの厄介さが、何より重く、我が喉元を突き刺して来たのである。

(2010年4月)