<「深い親愛感情」をベースにした、「対象依存的な友情関係」の見えない重さ>
1 構築力が高く、人間の生きざまを真摯に見詰める映像
本作は、構築力の高い秀逸な映像である。
プロット展開には殆ど無駄がなく、説明的にもなっていない。
アラバマ物語(1962年製作)で有名な、ホートン・フートの脚本もいい。
彷徨する農業労働者を演じた、ゲイリー・シニーズとジョン・マルコビッチの表現力も抜きん出ていた。
何より、最後までリアリズムに徹していて、感傷に流されることがなく、殆ど予約されたかのような、衝撃のラストシーンに流れゆくエピソード挿入には、全て伏線的な意味を内包していて、そこに生まれる緊張感が、人間の生きざまを真摯に見詰める映像に、相当程度の完成度を保証した作品になっていた。
以下、感銘深いスタインベック原作の物語を、数行でまとめてみる。
1930年代、世界恐慌の震源地であるアメリカのカリフォルニアが舞台。
ジョージ(左)とレニー |
大不況の農村地帯を渡り歩く、二人の労働者。
聡明なジョージと、知的障害のレニーである。
二人の夢は、いつの日か、自室を持ち、ウサギを多く飼える農場主になるというもの。
しかし、二人を待ち受ける現実は厳しく、怪力・巨漢のレニーの不始末によって逃げ込んだ農場で、同様の事件を起こし、遂に悲惨な最期を迎えるのだ。
この感銘深い映像の評価は想像以上に高く、ジョージとレニーの濃密な友情と、その破綻の悲劇を抑制的に演出したゲイリー・シニーズ監督(画像)の手腕が冴えていて、一度観たら忘れられぬ一篇になったのだろう。
2 友情が成立する基本要件
さて、この秀逸な映像から、私自身が「人生論的映画評論」の視座で捉えた本稿のテーマを要約すれば、「二人の登場人物の関係の本質」にある。
この問題意識でテーマ言及を進めていきたい。
「二人の登場人物の関係の本質」を「友情」と呼ぶのは間違っていないが、その「友情」の本質を考えるとき、正直、複雑な思いを抱くことを禁じ得ないのだ。
「真夜中のカーボーイ」より |
まず私が思うに、友情が成立する基本要件というものがある。
それぞれを列記すると、「親愛」、「信頼」、「礼節」、「援助」、「依存」、「共有」という心理的な因子である。
それぞれに誤差があり、全てが必要要件であるとは言えないものの、友情を他の関係、例えば、打算的なビジネス上の関係や、職務における上下関係、近隣の表面的な関係などと分れるものとして認知することは当然である。
当然の如く、それは血縁幻想を中枢にした家族の関係とも分れるであろう。
何より、「親愛感」なしに「依存」の感情は生まれないし、ましてや、信頼感や共有意識の広がりも展開していかないであろう。
その意味で、これらの要件は、いずれも重厚に脈楽しあって形成された心理的文脈なので、その理想形が、これら全ての要件を高度に均衡しあって形成された関係様態ということになるであろう。
恐らく、それこそが友情の最高の理想形であると言えるが、しかし、個々の様態は様々にその個性的様態を見せていて、客観的にその友情のレベル値を評価するのは困難であるに違いない。
例えば「共有」とは、情報や価値観の共有でもあり、更にはそこには、より形而上学的な意識の触れ合いも包含されるだろう。
また、依存感情は甘えの感情に繋がるし、相手の甘えの許容度が、相手に対する自分の依存性を決定づけるとも言える。
更に「礼節」は、相手の尊厳感情を認知する倫理的態度であると言えるが、それは関係の固有なる様態の中でしか実感し得ないものであろう。
以下、友情に関わる以上の把握をベースに、本作における「二人の登場人物の関係の本質」を考えてみたい。
3 「友情」という名の「二人の登場人物の関係の本質」
「二十日鼠と人間」における、「二人の登場人物の関係の本質」を考えるとき、その関係の偏頗(へんぱ)性を無視できないだろう。
聡明なジョージと、知的障害のあるレニーの関係の偏頗性である。
この二人の関係は「対等」ではなく、明らかに対象依存的な性格を持っているのだ。
そして最も由々しきことは、友情が成立する不可避な要件とも言える、「共有」という心理的な因子が、二人の関係には決定的に不足しているのである。
「共有」という心理的な因子の中で、最も重要なのは「情報の共有」である。
これは「記憶の共有」に集約されるが、とりわけ、「秘密の共有」という因子は、友情の深化を決定づけると言っていい。
果たして、二人の関係のうちに、この「記憶の共有」乃至、「秘密の共有」が存在したのか。
指示的傾向の強いジョージの言葉だけは決して忘れることがないレニーだが、しかし学習性の高い情報に関しては殆ど記憶されることなく(ジョージが嘆くシーンあり)、従って、そこに「情報の共有」は形成されにくかった。
これは、知的ハンディを持つレニーの学習能力の障害の故に、それをサポートするジョージとの関係が、思いやりを基調にした支配・服従関係の性質を帯びてしまう制約でもあった。
この二人の関係に、「記憶の共有」が形成されにくかったのは必然的だったのである。
それでも彼らには、「秘密の共有」があった。
それは「農場を持つ夢」である。
これについては、二人の会話がある。
レニーの不始末によって農場から逃走した果ての、野宿での会話である。
「俺たちみたいに牧場で働く連中は、世界一孤独なんだ。家族もなく、住む家だってない。希望もなく・・・」
これは、ジョージの言葉。
「でも、俺たちは違うだろう?」とレニー。
「そう。俺たちには未来がある。お互い語りあう友を持っているんだ。他の連中は不幸に遭えば最後さ」
「でも、おいらにはあんたがついているし、あんたにはおいらだ」
「いつか、俺たちは小さな家と数エ―カーの土地を持つんだ。そして、牛や豚や鶏を飼う」
「立派に自立して、そこでウサギも飼う」
何とも微笑ましい会話だったが、しかし殆ど実現可能性のない二人の夢が、右手首が不自由な老人キャンディーとの関係を介して、俄(にわか)に現実味を帯びる状況が形成されたが、その大計画も学習性の高い情報を内化し得ない、レニーの障害に起因する不始末によって、呆気なく頓挫したばかりか、最も悲惨な結末に流れるに至ったのだ。
これは結局、「情報の共有」の中で最も重要な、「危機意識の共有」が欠落していたためである。
ジョージとの関係において、「危機意識の共有」を全く持ち得ないレニーの学習能力の障害こそが、レニーの生命を奪い、この関係を自壊させた本質的な原因であった。
「親愛」だけでは、深い友情関係を構築できないのだ。
しかし、夢への実現が困難である現実を想起するとき、一方的な「援助」、「依存」の偏頗性を考えれば、本質的に二人の関係の様態は、「いつの日か自壊する危うさ」を常態化させていたのである。
それでも、差別されている脊柱側湾症(せむし)の黒人と違って、ジョージなしに生きられないレニーが、「差別」という不必要な負荷を運命づけられた、その人生の血路を切り開く営為の困難さは自明であった。
それが充分に把握できていたからこそ、ジョージはレニーをサポートし続けたとも言える。
まして、この大恐慌時代下にあって、厳しい生活を強いられた社会的弱者が、「差別」という不必要な負荷を、限りなく軽量なものにする人生を保証・継続するには、ジョージのような人格の存在なしに不可能だったに違いない。
時代の厳しさを無視して、この特殊な関係の立ち上げと、その破綻の悲劇を語れないのだ。
4 「あの犬は、自分が撃つべきだった。他人に任せたのが間違いだった」
因みに、本作の中で、衝撃のラストシーンに流れゆく一つのエピソード挿入が、重要な伏線を内包していたシーンに触れておこう。
右手首が不自由な老人のキャンディーと、彼が愛玩していた老犬の屠殺処分のシークエンスである。
「犬の最期を見たろ?わしも仕事がなくなって処分される」
キャンディー(左)とジョージ、レニー |
ジョージとの「共同牧場計画」の話が現実化した際に吐露した、キャンディーの言葉だ。
「絶対にやろうぜ!住み心地も良くする」
これは、キャンディーの多額の出費への意志が本気であると知ったときの、ジョージの興奮気味の反応である。
愛玩していた老犬の屠殺処分以来、生きる意欲を喪失していたキャンディーが、農場内で禁句になっていた件の「事件」について、自ら重い口を開いたのはそのときだった。
「あの犬は、自分が撃つべきだった。他人に任せたのが間違いだった」
この言葉が、ラストシークエンスに繋がる苛酷な物語への伏線を張ったものであることは自明だった。
5 「深い親愛感情」をベースにした、「対象依存的な友情関係」の見えない重さ
苛酷な状況下に置かれた二人の男の、その関係の本質に関わる本稿のテーマをまとめよう。
要するに本作は、「深い親愛感情」をベースにした、「対象依存的な友情関係」であると言っていい。
左端がジョージ |
それは、対象依存される者(ジョージ)の覚悟と忍耐力を必然化したであろう。
従って、そこに深い親愛感情が媒介されようとも、対象依存される者の覚悟と忍耐力が飽和点に達したとき、アウト・オブ・コントロールの事態を惹起させざるを得ない脆弱性を、本質的に内包していたのである。
繰り返すが、大恐慌下の時代状況の無慈悲なまでの苛酷さの渦中にあって、レニーのような知的障害者をサポートする十全な体制が具備されていなかったことを思えば、ジョージのような人格の存在なしに、知的障害者の自立性は保証されようがなかった。
「お前みたいな切れる奴が、どうしてあんな奴と一緒にいるんだ?」
これは、レニーとの関係の形成の発端について、タイラー牧場のボスがジョージに問いかけたときの言葉。
「昔から一緒でね」
これが、ジョージの答えであった。
更に、農場の労働者のリーダー格であるスリムが、レニーとの関係について問いかけたときの、ジョージの詳細な説明がある。
「奴はひどいバカだった。よくからかったよ。あるとき、サクラメント河で、大勢が見ている前で、彼に“飛び込め”と命じた。飛び込んだよ。金槌(かなづち)なのに。溺れる前に助けた。命令されたことも忘れて、とても感謝された。でもバカ過ぎて、ご難続きだ。ウィード(注)でも大騒ぎだ。あいつは、赤いドレスの女を見たんだ。あのバカ野郎。とにかく、欲しいものに触れたがる。その赤いドレスにもな。それで、女の悲鳴で大騒ぎになってね。あいつ、服を掴んだまま放そうとしない。女は悲鳴を上げて逃げたんだ。それで俺たちも逃げた。すぐに、大勢が犬を連れて追って来た。だから、溝に隠れて難を逃れたんだ」
スリムに語ったこの話から推測できるジョージの、レニーに対するサポートの根柢には、「サクラメント河での事件」に淵源する、一種の贖罪の意識が存在することが読み取れるだろう。
それが二人の継続的な関係を通して、そこに「深い親愛感情」が生まれたのであろう。
ジョージはレニーの中に、「純粋無垢」の裸形の人間性を感受したに違いない。
しかし、その「純粋無垢」の裸形の人間性の本質は、詰まる所、「快・不快の原理」で行動する幼児的な自我の範疇を全く超えていないという現実に尽きる。
それが、ジョージとレニーの「対象依存的な友情関係」を現象化させたが、このような友情の振れ具合は、必然的に、特定の対象や事象に過剰に反応する、一人の知的障害者との関係性の制約に起因する、それ以外にない存在様態であるだろう。
知的障害者をサポートするという行為は、生半可なものではないのである。
その行為をジョージが遂行するとき、彼の自我に厖大なストレスが貯留したに違いない。
しかし彼は、それを殆ど全人格的に引き受けたのである。
ジョージの「全人格的受容」なしに成立しなかった、二人の関係の親和性の強さは、その親和性と共存する、「絶対依存性」のネガティブな展開を目の当たりにしたジョージの内側で、当然、我慢し難い感情が生まれたはずである。
「お前がいなかったらどんなに良かったか、何度も考える」
二人で野宿した夜、ジョージが吐露した言葉である。
恐らく、本音である。
更に、二人の「対象依存的な友情関係」を、典型的に検証し得るシークエンスがあった。
ボスの息子で、ボクシングの元ライト級準優勝者のカーリーから暴行されたとき、手向うことをしないレニーに、ジョージは「殴れ!」と命令したのである。
その「シグナル」を「受信」したレニーが、カーリーの右腕を徹底的に痛めつけた事件の持つ意味の大きさは、「対象依存的な友情関係」に張り付く、「支配・服従」の関係濃度の深さをも検証したと言えるだろう。
一方的に依存される者が負った辛さは、一方的に依存する者の生命を守り続ける行為を「使命」とする、とてつもなく重いリスクを累加される事態のうちに収斂されていくのだ。
「深い親愛感情」をベースにした、「対象依存的な友情関係」を継続させていくには、一方的に依存される者の内側に封印する、複雑な自我の葛藤を無視する訳にはいかないのである。
この認知なしに、ラスト・シークエンスの苛酷な結末が垣間見せた、深い映像の含みを理解することができないだろう。
相棒を自らの手で殺害した後、列車に乗るジョージの深刻な表情に映し出した思いのうちに、累加された精神的リスクを負う者が遂行した行為に収斂される、「果てしなき夢を語る男の物語の終焉」を全人格的に受容する哀切が滲み出ていたのだ。
ゲイリー・シニーズ監督は、本作への深い思い入れを持って、そのような見事な映像を構築したのである。
(注)タイラー牧場に来る前にいた農場で、本作のファーストシーンは、二人がこの農場から逃亡する場面から開かれていた。
(2010年11月)
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