<「贖罪意識の累加の17年」という内実の重さ>
1 これ以上削れないという、ミニマムな描写の提示のうちに鏤刻した構築的映像
ラスト9分間で勝負する、この90分にも満たない映像の完成度の高さに舌を巻いた。
内側から込み上げてきたものが、幾筋もの液状のラインを成して、相貌を崩すほどの感動を与えた映像の決定力を支え切ったのは、限られた登場人物の心理の振幅が、これ以上削れないというミニマムな描写の提示のうちに、それ以外にない構築的映像を鏤刻(るこく)したからである。
観る者の感動を意識させた情感系の映画を最も嫌う私が、本作にによって涙腺を緩める羽目になってしまったのは、この映像が「泣かせる映画」に張り付くフラットな感動を超えていたからだ。
ラスト9分間に至るまでの主役を担う登場人物の精緻な心理の振幅と、17年間にも及ぶ刑期を生きてきた、件の娘の「突然の一時帰宅」を受ける家族の心理の振幅が捩(よじ)れて、そこで晒された不協和音が、それ以外にない軟着点に雪崩込んでいった描写のうちに、主題提起力と構成力によって成る映像構築をほぼ完璧に保証したこと。
何より、その一点において、削って削り抜かれた構成力の圧倒的な潔さを提示した本作は、純粋なインディーズ作品を世に送り出してきた作り手の、その稀有な才能の一端を垣間見せたものだった。
本作の主題は、「現代中国の近代化の中の『家族の普遍性』」という辺りにあるだろうが、私は本作から「人生論的映画評論」の視座に立って、「赦しの心理学」という問題意識に刮目(かつもく)し、その点に沿った言及をしていきたい。
理由は、本作で展開された、あまりに精緻な心理描写に感嘆したからに他ならない。
2 5元盗難事件が惹起した過失致死事件
本作で描かれた物語は、極めてシンプルなものである。
以下、簡単にフォローしていく。
それぞれに連れ子の娘を持つ男女が再婚し、人並みの家族を作っていくが、両者の価値観や能力の差異が顕著であったためか、既に16歳の高校生になっていた二人の娘の学力と性格の落差は、彼女らの親の感情傾向に微妙な影響を与えていく。
母親の連れ子である、16歳の高校生タウ・ランは、勉強嫌いでアバウトな性格。
その一方、父親の連れ子であるシャオチンは、勉強熱心で優等生タイプだが、その性格は、「大学を出て、一日でも早くこんな家を出たい」と考えるクールな思考の主。
ある日のこと。
父親がうっかり置いた5元の紙幣をシャオチンが盗み隠した一件が、小さな家族騒動となり、自分が疑われる事態を回避するために、シャオチンはタウ・ランの布団の下に5元の紙幣を忍ばせた。
当然、タウ・ランが5元の紙幣を盗み隠した犯人とされ、それでなくとも娘の不行跡に劣等感を持つ、彼女の母親の烈火の怒りを買った。
しかし、全く覚えがないタウ・ランは、登校中のシャオチンに疑義を糾すが、それを無視する義姉の態度に憤った彼女は、勢い余って手に取った棒で、シャオチンの後頭部を殴打してしまった。
打ち所が悪く、これがシャオチンへの過失致死となり、タウ・ランは警察に逮捕されるに至ったのである。
そして、タウ・ランは北京市立女子刑務所に収容される事態となった。
1981年のことである。
3 「戻るべき場所」を失った「空白の17年」
タウ・ランが女子刑務所に収容されてから、17年が経過した。
中国監獄法に基づいて、旧正月の儀式に準じて、一時帰宅を許された北京市立女子刑務所の7名の囚人たちの中で、模範囚となったタウ・ランだけには笑顔はなかった。
「戻るべき場所」がないからだ。
「犯した犯罪」の難しい性格からか、当然の如くと言うべきか、彼女の両親の出迎えはなかった。
今や30歳を過ぎたタウ・ランは、北京市立女子刑務所の女性教育主任に付き添われて、重い家路に就くのだ。
17年後の娑婆の風景は、彼女が収容されている女子刑務所の変りなさと比較して、あまりに変容著しかった。
映像の構図の中で、刑務所の塀の内外を俯瞰する風景が映し出されていたが、トラックや乗用車が頻繁に行き交う塀の外の風景は、明らかに、タウ・ランが記憶しているこの国の都市の風景と切れていた。
胡同ツアーの三輪車(イメージ画像・ウィキ)
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彼女が住んでいた場所が瓦礫の山と化していた風景の荒涼感が、何よりそれを物語っていた。
中華人民共和国という社会主義国家の風貌が、イデオロギッシュな毛沢東時代と訣別するほどに変容していたのである。
既に、中国の経済発展を支えてきた、深圳(しんせん)・珠海(しゅかい)・汕頭(スワトウ)に代表される経済特区は設置されていたが、農業集団化のための組織の象徴であった人民公社は実質的に廃止され(生産責任制の導入)、農村部と都市部、沿岸部と内陸部における経済格差を拡大させるに至った改革開放政策のうねりは、BRICsと呼ばれ、「世界の工場」と化す経済大国にまで成長するに及んでいた。
それが、「世俗」の時間がブラックアウトしていた、タウ・ランの「空白の17年」の内実だった。
「17年間の過程を省略したのは、受刑者の監獄生活なんて誰でも想像できると思ったからです」(「TOKYO FILMEⅩ チャン・ユアン監督 インタビュー」)
これは、チャン・ユアン監督自身の言葉。
まさに、タウ・ランの「空白の17年」の内実を検証する言葉である。
17年間の過程を省略した映像の潔さは、却って、本作の主題を鮮明にする効果を生んだのだ。
4 「突然の一時帰宅」が抱えるものの重さが砕けるとき
変貌する都市北京①・金融街(イメージ画像・ウィキ) |
「2年半前です」
「手紙も来ないの?」
「学がないので」
「隣の家の人に頼んで、書いてもらっていたわね」
「はい」
これは、北京市立女子刑務所の女性教育主任とタウ・ランの会話。
娘を殺された義父はともかく、無学ながらも、実の母親の面会から2年半も経過している現実を直視するタウ・ランにとって、「歓迎されざる帰郷」に向かう気持ちが萎えるのは当然のことだった。
「家には帰りたくない。刑務所に帰りますから・・・」
「政府が決めることよ。行くわよ」
「誰に通知を?」
「ご両親宛てよ・・・長く中にいたんだから、会いたいでしょ」
「帰って欲しくないのよ」
「そんな訳ないでしょ。あなたは娘なのよ!」
教育主任に、タウ・ランの気持ちが理解できない訳がない。
それでも、模範囚となったタウ・ランの「更生」した「現在」の姿を、彼女の両親に見てもらいたいという気持ちがあるのだろう。
タウ・ラン(左)と教育主任 |
教育主任は一貫して強い意志を崩さず、タウ・ランの両親の住居を求めて、消息捜しを継続した結果、ようやく新興住宅街のアパートを探し当てた。
タウ・ランの両親が住む新居である。
既に夜が更けていた。
鉄格子で閉ざされた両親の新居の外側から、教育主任は堅固なドアを叩いた。
すっかり年老いたタウ・ランの義父がゆっくり出て来て、教育主任の訪問理由を聞くや否や、教育主任の背後に立つタウ・ランを視認した。
一瞬、タウ・ランの義父の表情はフリーズし、全く反応できない。
義父の後方に、タウ・ランの実母が寄り添って来ていた。
しかし、誰も反応できないのだ。
そこに、「間」ができた。
重い空気が滞留しているのだ。
「開けてくれますか?」
教育主任の言葉に反応して、ドアを開ける義父。
その間、「入りなさい。どうぞ」という言葉が、沈んだトーンで捨てられた。
二人を部屋に招いて座っても、虚ろな表情の義父。
タバコに火を点ける手が震えている。
だから、事情の詳細を説明する教育主任の話に対しても、殆ど無言のままだった。
それは、「突然の一時帰宅」に対する反発心ではない。
タウ・ランの「突然の一時帰宅」に、義父は娘を迎える心の準備ができていなかったのだ。
教育主任の口添えで、シャワーを浴びるタウ・ラン。
その際、シャワーの浴び方を、丁寧に指示する母。
肯く娘。
教育主任と義父だけが部屋にいる。
義父に対して、タウ・ランへの援助を求める教育主任。
しかし、若い女性主任の話を遮るように、義父は暗い自室に引きこもってしまった。
母親もどうしていいのか分らず、自分の娘に声を掛けてやることさえできないのだ。
アパートの一室に澱む、暗鬱な空気。
変貌する都市北京②中国のシリコンバレー・中関村(イメージ画像・ウィキ) |
5 封印していた思いを言葉に変える父と母、そして娘
一人で暗い自室にこもる夫に、白髪交じりの妻が、封印していた思いを言葉に変えていく。
「刑務所からの通知、数日前に届いたの。でも、どうしたていいか分らなくて。怖かった。あの子が帰って来るのが。いっそ・・・一生、刑務所にいてくれたらって。だけど、やっぱり・・・自分の娘だもの。心の中では、いつだって忘れたことはなかった。早く帰って来て欲しかった」
妻の言葉には、嗚咽が混じっていた。
まもなく、暗い自室から出て来た義父は、3人を前にして、ゆっくりと言葉を繋いでいく。
「なぜ、前もって言ってくれなかった。俺にも準備がいるのに。いつも考えていた。タウ・ランが帰って来たら、出て行かなきゃと・・・だが、こんなに急とは思いもしなかった…帰って来る前に出て行かなきゃと。でも、これで良かった。黙っていてくれて。もし本当に出て行ってたら、この家にどう帰ればいいか分らなかっただろう。俺は出て行かずに済んだよ」
充分に思いを込めた義父の話が閉じたとき、ゆっくりと立ち上がった妻は夫の元に近づき、土下座して、嗚咽の中で、それ以外にない表現に結んだのだ。
「生まれ変わったら、牛や馬になってでも、あんたに尽くします・・・」
すかさず、夫は反応した。
「牛や馬などになるな。人間がいい。人間の女だったら、また一緒になれる。それでこそ、タウ・ランを俺の本当の娘にできる」
思いも寄らない義父の話に、今度は娘が反応した。
「刑務所の中で、本当のお父さんを思い出そうとしたけど、どうしても思い出せなかった。夢に出てくるのは、いつもあなたでした」
嗚咽の中の娘の告白。
「タウ・ラン、もう泣くな。17年だ。お前も辛かったろう」
「あの5元は、私が盗ったんです」
この嘘の告白こそ、娘の更生を検証するものだった。
「もういい。5元のせいで、こんなことに・・・もう、泣くな・・・」
全てが終焉した瞬間だった。
ラストシーン。
父と母、そして、娘の和解を目の当たりにした娘の若い女性主任が、内側から込み上げてきたものを必死に堪えて、静かに立ち去っていく。
余情に満ちた映像が閉じたとき、言い知れぬ感動が内深くに広がっていた。
6 「赦しの心理学」の困難さ
以下、「赦しの心理学」と題する拙稿の一部を、「息子のまなざし」(2002年製作)より、加筆・省略しつつ転載したい。
人が人を赦そうとするとき、それは人を赦そうという過程を開くということである。
人を赦そうという過程を開くということは、人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いが、人を赦そうとする人の内側に抱え込まれているということである。
人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いとは、人を赦そうという思いを抱え込まねばならないほどの赦し難さと、否応なく共存してしまっているということである。
私たちは、人を赦そうという思いを抱え込んでしまったとき、同時に赦し難さをも抱え込んでしまっているのである。
これがとても由々しきことなのだ。
相手の行為が、私をして、相手を赦そうという思いを抱え込ませることのない程度の行為である限り、私は相手の行為を最初から受容しているか、または無関心であるかのいずれかである。
相手の行為が、私をして相手を赦そうという思いを抱かせるような行為であれば、私は相手の行為を否定する過程をそれ以前に開いてしまっているのである。
この赦し難い思いを、自我が無化していく過程こそ赦すという行為の全てである。
赦しとは、自我が空間を処理することではない。
自我が開いた内側の重い時間を自らが引き受け、了解できるラインまで引っ張っていく苦渋な行程の別名である。
従って、笑って赦そうなどという欺瞞的な表現を、私は絶対支持しない。
笑って赦せる人は、最初から赦さねばならない時間を抱え込んでいないのである。
赦す主体にも、赦される客体にも、赦しのための苦渋な行程の媒介がそこにないから、愛とか、優しさとかいう甘美な言葉が醸し出すイメージに、何となく癒された思いを掬(すく)い取られてしまっている。
あまりにビジュアルな赦しのゲームが、日常を遊弋(ゆうよく)することになるのだろう。
人を赦すとき、私たちの内側には、既に、相手に対する赦し難さをも抱え込んでしまっているのだ。
この赦し難さを、内側で中和していく行程こそが、赦しの行程だった。
もう少し掘り下げて分析してみよう。
この赦しの行程には、四つの微妙に異なる意識がクロスし、相克しあっている、と私は考えている。
これを図示すると、以下のようになる。
(感情ライン) 赦せない ⇔ 赦したい
↑ X ↓
(道徳ライン) 赦してはならない ⇔ 赦さなくてはならない
感情ライン(赦せない、赦したい)と道徳(=理性)ライン(赦してはならない、赦さなくてはならない)の基本的対立という構図が、まず第一にある。
次いで、それぞれのラインの中の対立(赦せない⇔赦したい、赦してはならない⇔赦さなくてはならない)があり、この対立が内側を突き上げ、しばしばそれを引き裂くほどの葛藤を招来する。
赦しの行程は、この四つの感情や意識がそれぞれにクロスしあって、人の内側の時間を暫く混沌状態に陥れ、そこに秩序を回復するまで深く、鋭利に抉っていくようなシビアな行程であると把握すべきなのである。
赦したいという感情には、憎悪の持続への疲労感がどこかで既に含まれているから、この感情が目立って浮き上がってきたら、早晩、赦さなくてはならないという理性的文法の内に収斂されていくであろう。
しかし、その感情の軌道は直線的ではない。
時間の経過によっても中和されにくい、濃密で澱んだ感情がしばしば疲労感を垣間見せても、自我に張り付いた赦し難さが、束の間訪れる気まぐれな感傷を破砕してしまえば、赦しを巡る重苦しい心理的葛藤は振り出しに戻ってしまって、またぞろ内側で反復されていくだろう。
時間の中で何かが迸(ほとばし)り、何かが鎮まり、そして又、何かが噴き上がっていくのだ。
厄介なのは、赦せないという感情が、赦してはならないという理性的文法に補完されると、感情が増幅してしまって、葛藤の中和が円滑に進まず、秩序の回復が支障を受けるという問題である。
赦しの行程では、赦せないという感情の処理が最も手強いのだ。
赦せないと思わせるほどの感情の澱みは、何ものによっても中和化しづらいからである。トラウマを負った自我が、果たして、自らをどこまで相対化できると言うのだろうか。
赦しの行程を永久に開かない自我が、まさに開かないことによってのみ生きてしまう様態もまた、「赦しの心理学」の奥行きの深さを物語るもの以外ではない。
それも仕方のないことだろう。
強いられて開いた行程の向こうに、眩い輝きが待っていると語ること自体、既に充分に傲慢なのだから。
この辺に、赦しの困難さがある。
重さがある。
辛さがある。
それでも多くの場合、赦しの行程を開くことなしには秩序を手に入れられない人々の、溢れるような切なさ、哀しさが虚空に舞って、鎮まれないでいる。
赦す他ない辛さを抱える自我が、最も厳しいのかも知れない。身の竦む思いがする。(以上、1999年4月 脱稿)
7 「贖罪意識の累加の17年」という内実の重さ
以上、長々と引用したが、「赦しの心理学」という問題意識を持って、本作の3人の登場人物たちの心の振れ方に迫ってみたい。
3人の登場人物とは、言うまでもなく、タウ・ランと彼女の両親である。
何より、タウ・ランの両親の心の振れ方こそ、最も枢要なテーマとなるだろう。
その文脈から言えば、この映画の一つの重要なポイントは、タウ・ランの両親が夫婦別れしなかった事実にあると思われる。
事件以前、この連れ子夫婦は、自分の娘に関わる問題で、四六時中夫婦喧嘩をしていたエピソードが、本作の序盤で映し出されていたが、喧嘩の勢いもあって、「離婚してやる」などと啖呵を切っていた、タウ・ランの母親の気の強さが印象深かった。
事件後17年間、映像は、この夫婦をフォローすることはしなかった。
夫婦が映像に再び登場するのは、タウ・ランの「突然の一時帰宅」のシークエンスによってである。
そこで映し出された夫婦の表情は、事件以前の彼らのそれとは全く別物になっていた。
17年間の老化を示す夫婦のやつれた相貌と、その元気の失せた表情は、明らかに「事件」の陰翳を引き摺る者の無気力感を露わにするものだった。
自分の娘を血縁のない妻の娘に殺された父親と、なお婚姻生活を延長させていたタウ・ランの母親は、「事件」によってもなお寄り添うように生きていた。
この夫婦が離婚しなかった最大の理由は、夫に対する妻の贖罪感の表れであると言っていい。
自分の娘が手にかけた義姉の父親の苦衷を察して、彼女は夫を捨てなかったに違いない。
夫もまた、夫婦生活を延長させることによって、事件のトラウマを繰り返し想起することの懊悩よりも、妻と別れることによって陥る絶望的な孤独感を怖れたと思われる。
その心情を察したが故に、妻は夫の傍に寄り添うことを決意し、それがせめてもの「事件」への贖罪の証と括ったのだろう。
従って、タウ・ランの母親が刑務所に訪ねなかったのは、夫への配慮であると言っていい。
変貌する都市北京③北京駅(イメージ画像・ウィキ)
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来年、刑期を終える娘の「突然の一時帰宅」を夫に伝えなかったのは、それを伝えることによって夫の精神を撹乱させることを恐れたからである。
かくて、事情を知らない夫だけが、義理の娘であるタウ・ランの「突然の一時帰宅」を受け止めるに至るのだ。
当然ながら、心の整理ができない夫は、事態の「唐突な奇襲」が惹起したリアリズムを受容できない。
だから彼は、自分の部屋にこもって黙想する。
その直後、家族を呼んで自分の思いを告白したのは、更生した娘の姿を視認した安堵感を感受する心境になっていたからなのか。
それによって、自分の感情を自己確認できたと言っていいのか。
ここで私は、「赦しの心理学」という問題意識を想起する。
要するに、父親の感情ラインに変化が起こっていたのである。
即ち、「赦せない」という厄介な感情が、「赦したい」という柔和な感情に軟着していくプロセスが生まれたのだ。
変化が起こった父親の感情ラインが、「赦さねばならない」という道徳ラインに追いついたのである。
チャン・ユアン監督① |
「生まれ変わったら、牛や馬になってでも、あんたに尽くします・・・」
これは、嗚咽の中で、妻が夫に吐露した言葉。
究極の「服従主義」をイメージさせる言葉尻だけをを捉えて、この吐露の心理構造を、パターナリズムへの軟着点と把握するのは論理的過誤である。
この吐露の心理構造は、17年間にも及ぶ妻の贖罪感が、自室に引きこもって自分の思いを整理した末の、夫の心情告白によって救済されたからに他ならないだろう。
「空白の17年」の内実とは、実は「贖罪意識の累加の17年」であって、決して「心の空白」ではないのだ。
それがタウ・ランの自我をも呪縛し続けたからこそ、「突然の一時帰宅」が生んだ澱みをアイスブレイク(凍てつく雰囲気を解すこと)し得る「決定力」が求められたのである。
その「決定力」の極点が、父の心情告白だったのだ。
義父は、17年経って、その感情ラインに変化が起こって、道徳ラインに追いついたということ。
この把握こそ、本作で展開された精緻な心理の振れ方への最も由々しき了解点である。
私はそう考える。
8 国家機関を相手にする、赤子のように無力な一人の芸術家の継続力
本稿の最後に、チャン・ユアン監督の言葉を引用することで、彼の仕事の困難さを確認しておこう。
彼は、「空白の17年」における北京の町の変容について語っていた。
「私個人としては、こうした都市の変化は、過去の古い伝統が消え去っていく過程だと思います。多くの庶民にとっては、利便性が増したと言えるでしょう。なぜなら以前の胡同では、それぞれの家庭に便所がなく、共同便所を使わねばなりませんでした。水道ですらそうでした。ただし、映画の後半で老夫婦が住んでいるアパートのような場所に引っ越してしまうと、自然に近所の人間同士の関わりが薄くなっていく。こうした変化を肯定的に捉えるかどうかは、映画を見た人それぞれの考え方次第ということです」(「TOKYO FILMEⅩ チャン・ユアン監督 インタビュー」)
チャン・ユアン監督②(レコードチャイナHPより) |
「私の作品にはドキュメンタリーの要素がある。つねに“真実”や“現実”を大切にしたいと思いながら、映画を撮っていますから」
チャン・ユアン監督の表現の結晶である作品は、常に上映禁止処分を受ける受難を免れず、本作もまた、殆ど例外なしに、公開までに紆余曲折の経過を辿るに至った。
「脚本の許可が下りるまで1年かかり、撮影が終わった後も7ヶ月ほど待たされました。実際のところ中国国内で映画を作るのは難しい。中国の検閲制度というのは他の国とはまったく異質なもので、それが大きな障害になっています。もちろん検閲の担当者は、“君の映画のここが悪い”などと具体的なことは言ってきません。“悲惨な話だから”という曖昧な理由で問題になるのです。将来こうした状況が好転するかわからないし、検閲にどのように立ち向かうべきかという方法論も私には重要ではない。検閲を突破するのは容易ではありません。国家機関を相手にしては、ひとりの芸術家は赤子のように無力なのです」(前掲サイトより)
このような志を言語化するチャン・ユアン監督の、不屈の創作活動の継続力に脱帽するばかりである。
(2010年11月)
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