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2010年12月26日日曜日

勝手にしやがれ('59)        ジャン=リュック・ゴダール


<「破壊」という極上の快楽>



1  〈死〉に向かって突き進む男、〈生〉に振れる女



吐瀉物の如く吐き出される、殆ど内実を持ち得ない会話に象徴されるように、その「革命性」が注目された「物語性の曖昧化」によって、寧ろ、そこに炙り出されてくるイメージは、男の人生の刹那主義であると言っていい。

刹那主義とは、「今、このとき」の快楽しか求めない性向だ。

数え切れないほど違法行為を累加させてきた男の「犯罪人生」の中で、男の心象風景は、「逃避行」に存分の免疫ができると同時に、件の人生を延長させる「非日常の日常」の人生に飽きてきていた。

それは、疲弊感であると言えるだろう。

映画の原題の意味は、「すっかり息切れして」というもの。

そんな男にとって、唯一の救いは、ヘラルド・トリビューンと関係するアメリカの女性留学生である。

男には、そんな女と心中する覚悟すら感じられるのである。

男の人生は既に老化していて、ひたすら死に向かって突き進んでいるかのようだった。

そんな男との律動感の合わない関係の中で、女の好奇心が一時(いっとき)満たされるが、女は最後に裏切った。

女には、「全身刹那主義者」の男の「無軌道なる脳天気さ」のうちに、べったり張り付く「自壊性向」のように、死に振れていくという人生の選択肢を持っていなかったからだ。

例えば、男と女の重要な会話が、ラスト近くで拾われていた。

「もう愛したくない。あんたと寝たのは、これが本当の愛なのか確かめるためよ。意地悪になれるのは、愛してない証拠だわね・・・・私は束縛が嫌いなの」
「僕もそうだ」
「愛してる?」
「そう思いたければ」
「だから密告したの」
「殺し以下だな」
「逃げた方がいいわ」
「もう終わりだ。刑務所も悪くない」
「バカだわ」
「かもね」

こんな男と「逃避行」を継続させても、女の近未来には、「共犯者」という「負の記号」か、或いは、「死」へと突き進むダークサイドのイメージしか待機していないのだ。

それ故、女は男と共存することの「喪失のリスク」を計算し、半ば確信的に翻意したのである。

女にとって、男との共存を延長させる時間に「本当の愛」が拾えないことを、そこだけは、紛う方なく確信してしまったのだ。

しかし、「完全な裏切り」だけは避けたい。

自我が相応の裂傷を蒙るからだ。

だから、「共犯者」という「負の記号」を張り付けることなく、且つ、自我の相応の裂傷を回避するために、男を逃がそうとしたのである。

元より、インタビューシーンにおいて生き生きしていた女は、「近未来の幸福」に繋がるイメージラインを決して反故にしない。

男はそれを感受する。

とうとう、男は逃げることすら断念する。

「逃避行」の継続が抱え込む心理的重量感に、男は「息切れして」しまっているのだ。

「逃避行」の継続を支え切る自給熱量が、殆ど枯渇しているのだ。

「非日常の日常」の人生に疲弊した男の人生の選択肢は、もう「殺されるための逃走」を身体化する以外になかったのか。

最期に、男は呟く。

「全く最低だ・・・」

女は、傍らの刑事に尋ねた。

「今、何て言ったの?」
「あんたが最低だと」と刑事。
「最低って、どういう意味?」と女。

「最低」という意味に拘りながら、「近未来の幸福」に繋がるイメージラインを決して反故にしない、固有の人生の選択肢を拾い上げた女が、そこにいた。

〈生〉に振れる女は、〈死〉に向かって突き進む男の〈愛〉を受容できなかったのである。

それが、「逃避行」の継続の〈刹那性〉が辿り着く、〈虚無〉の風景以外ではなかったからだ。

「物語性の曖昧化」によって炙り出された本作は、少なくとも私にとって、そういう映画だった。



2  「新しき波」に飢えていた時代の推進力



現場での映画製作と無縁でも、映画表現のイメージを大切にした「カイエ・デュ・シネマ」の批評家たちは、「ロケ中心」、「同時録音」、「即興演出」という基本ファクターを捨てることなく、「詩的リアリズム」に象徴される既成の映画文法と一線を画したことで、商業映画の一切の映画製作のルールを批判的に超克しようとしたが、そこに集う批評家たちの個性の差は明瞭で、決して狭隘なセクト性のうちに収斂できなかったのも事実だった。

ただ、自分の中の映画表現のイメージを大切にすることで、定型的な人物造形の枠に収めず、限りなく率直な表現を貫徹するメンタリティだけは共通していた。

B級ハリウッド犯罪映画へのオマージュ作品として銘打った、本作の「勝手にしやがれ」の俳優の起用を見ても分るように、ジャン・ポール・ベルモンドのように全く無名な新人を主演に据え、「大スター主義」を否定する意図を押し出すことで、映画製作の鮮度の高さを強調する効果は、紛う方なく功を奏していく。

しかし見逃せないのは、ヌーベルバーグには、ルールの縛りが希薄であったことだ。

若いこと、低予算であること、無名な新人を起用したこと、等々の共通コードによって、映画表現のイメージを奔放に具現していった。

そんな中で、ゴダールの場合、「詩的リアリズム」に象徴される、既成の映画の物語の語り口を否定し、当時としては極北的な「作家主義」を貫徹し、それが既成の映画文法を破壊させしめる映像を世に放ったのである。

有名なジャンプカット(時間経過を省略したカットを繋ぎの編集技法)による、既成文法のセオリー無視の表現技法を駆使していく。

極め付けは、エキストラを使用しない非常識の街頭シークエンスに象徴されるように、ドキュメンタリーと虚構を混淆させ、物語のリアリズムを蹴飛ばし、主題性すら不分明な映像構成だったが、「詩的リアリズム」の「匠の職人技」に飽きつつあった若者世代には、この斬新さが「面白さ」を印象付けたとも言える。


アンドレ・バザンとトリュフォー
若者世代は、「新しき波」に飢えていたのである。



3  「破壊」という極上の快楽



ヌーベルバーグは、「新しさ」を求める者の「革命」だった。

ただ、その革命は、「ゴダールの革命」のうちに全て収斂されていかないように、「ゴダールの革命」という独自の概念が成立するだろう。

それは、「物語性の曖昧化」である。

ストーリー、プロット、モチーフ等に基づく類型化を特徴づける「物語」の、その「物語性の曖昧化」という革命は、「詩的リアリズム」に馴染んできた観客には、まさに鮮度の高い「革命」だった。

しかし、「物語性の曖昧化」を描き続けるドラマもまた、描き続けることによって「新しさ」を失っていく。

「新しさ」を失った映像は、いつしか観客に飽きられる。

だから「ゴダールの革命」は、単に「物語性の曖昧化」という、「新しさ」の「革命」のうちに収斂されると看做(みな)す辛辣な批評も成立するだろう。

「作家主義」の思想や、「ロケ中心」、「同時録音」、「即興演出」という基本ファクターを特色とするヌーベルバーグの精神は、その後も脈々と繋がれていきながらも、「フランス映画の墓掘り人」とまで称されたトリュフォーが、彼が怨嗟の対象とした「詩的リアリズム」と変わらない映像作家に流れ込んでいったように、人々は単に「新しさ」だけの世界では満足しなかったのである。

ジャン=リュック・ゴダール監督
それを歴史的に証明したのは、「ゴダールの革命」だった。

一切の従属を拒み、既成の体制それ自体を「破壊」することに、極上の快楽を得るという心理が透けて見えるジャン=リュック・ゴダールだけは、本質的に商業映画に復元できない地平にまで駆け抜けていった「革命」の推進者だったということか。

「破壊」という極上の快楽を捨てることを拒み続ける何か ―― それが、ゴダールという映像作家のラジカリズムを支える推進力であるのだろうか。

「『勝手にしやがれ』の新しさとは何か?まず第一に登場人物にたいする考え方があげられる。彼らを描くにあたって、ゴダールは明確な枠のなかに彼らを押し込めようとせず、むしろてんでんばらばらな矢印をつないだような作品に仕上げた。しかもそれを意図して行ったのだ。ゴダールは本能的作家であって、いわゆる論理なるものよりも(略)、彼の本能の論理なるものを追求する(フィガロ・リテール紙 1960年3月19日 リュック・ムーレ)」(「ゴダール」ジャン・コレ著/竹内健訳 三一書房)

リュック・ムーレ(フランスの映画監督、批評家)が言うように、本能的作家であるが故に、ジャン=リュック・ゴダールは「勝手にしやがれ」以来、本質的に変り得ない映像作家であり続けるのだろうか。

(2010年1月)

1 件のコメント:

前田京子 さんのコメント...

トリュフォーではなく コクトーです

恐らく バザンも違う