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2010年12月29日水曜日

トリコロール 青の愛('93)       クシシュトフ・キェシロフスキ


<「喪失と再生」 ―― 「グリーフワーク」という問題の艱難さ>



1  「喪失と再生」 ―― 「グリーフワーク」という問題の艱難さ



人生の中で最も重いテーマの一つは、「喪失と再生」という問題であるだろう。

当然、個人差があるだろうが、人間が普通に生きていく限り、この厄介なテーマとの遭遇は回避できない可能性が高いのである。

だから、このテーマは古今東西、多くの文学や映像の題材となってきた。

私にとって印象深い映像作品を挙げれば、「男と女」であり、邦画では「幻の光」。

前者は、著名な癒し系の音楽を多用したメロドラマ調に作られていたが、作品の内実は、人間心理の奥深い懊悩の辺りにまで届いていて、決して世俗的なメロドラマに流されない映像構成が際立っていた。

また、後者は、音楽を殆ど用いることなく、風景描写と周囲の人間との精緻な関係性の中で、この問題の本質に肉薄する完成度の高い作品に仕上がっていた。

さて、本作のこと。

テーマは、前2作と同様に、「喪失と再生」。

「グリーフワーク」の問題である。

以下、テーマの本質に即して言及していきたい。




2  「グリーフワーク」の三つのステージ ―― 「完全喪失期」から「自己防衛期」へ



音楽療法体験セミナー・NPO法人そしおんブログより
「喪失」とは何か。

ここでいう「喪失」とは、「対象喪失」のこと。

では、「対象喪失」とは何か。

「過去が現在を支配すること」である。

「再生」とは何か。

「未来が現在を支配すること」である。

まず、「対象喪失」について。

愛情の対象人格を喪うに至る、「対象喪失」にとって本質的問題は、「グリーフワーク」の問題に尽きる。

「グリーフワーク」とは、「対象喪失」の悲哀から精神的に復元していくプロセスのことで、これには三つのステージがあるというのが私の仮説。

以下、「グリーフワーク」の三つのステージについて。

1 「完全喪失期」である。

これは、「自我破壊の危機」の時期でもある。

それは、この時期の本質が、「過去が現在を完全支配」していることに因っている。

この時期の危機を本作のケースで見ていくと、自動車事故で夫と娘を喪ったヒロインのジュリーが、「完全喪失」の衝撃によって、病院で自殺未遂を図った行為に現れていると言える。

2 「自己防衛期」である。

これは、「旅立ち」、「自己閉鎖」、「関係遮断」、「恐怖侵蝕」という概念によって説明される時期である。

「グリーフワーク」の中で、これが最も重要なステージなので、丁寧に例証しながら言及していこう。

そして、この時期の本質が「過去が現在を支配」しつつも、そこからの解放を遂行しなければ、過去が現在を侵蝕し、喰い荒し、時間を解体される恐怖感を抱くが故に、必死に「自己防衛」の手立てを模索せねばならない現実を認知し得ているからである。

従って、「旅立ち」という名の空間移動を図っても、「喪失」の衝撃とクロスする心理から逃れられない、この「自己防衛期」が最も重要なステージであるだろう。


この時期を本作のケースで見ていくと、ヒロインのジュリーが、事故に関わる過去の処分を遂行し、パリに旅立つ前に、マットレスのみの部屋で、自分を密かに愛するオリヴィエとの一夜限りの睦みの時間を共有したが、この行為も、彼が有名な作曲家であった夫の協力者であったからである。

そこに読み取れる心理は、自分を密かに愛するオリヴィエに反応する好意を見せつつも、「過去破壊」の意志が媒介されていたので、ジュリーがオリヴィエを置き去りにしたという文脈である。

ジュリーの「過去破壊」の「旅立ち」は、「子供のいない部屋探し」から開かれていく。

「旅立ち」先の大都市で映し出されたジュリーのアクションの中で印象深いのは、「プールでの遊泳」のシークエンスである。

ところが、交感神経の興奮を抑え、副交感神経の働きを優位にさせる「自己防衛」の故に、リラクゼーションを目的にした「プールでの遊泳」の只中に、ブルーの映像と、心象風景の乱れを表現する唐突な大音響が流されていく描写は、まさに、映像のテーマの在り処を端的に表現したシークエンスであった。

言うまでもなく、「プールでの遊泳」での大音響は、事故のフラッシュバックを意味する音響的記号である。

ジュリーもまた、自分が運転していないとは言え、事故車に同乗していたのだ。

その車内で、夫と娘の死を目の当たりにし、自分だけが助かったという思いがある。

それ故、彼女の精神状態はPTSDの症状であると言っていい。

その把握なしに、「プールでの遊泳」でのフラッシュバックの現出は考えられないのである。

更に、事故を目撃した青年がジュリーを訪ねて来るシークエンスもあった。

その青年は、事故の現場からネックレスを持ち帰ってしまった行為を恥じ、それを返還しに来たのだが、そんな善意の青年の振舞いも、ジュリーにとって、「関係遮断」のための「旅立ち」を無化する心理効果でしかなかったのである。

そして最も印象深いのは、「ネズミのエピソード」である。

何匹もの子ネズミが、自分のアパートの部屋の片隅で巣を作っている現場を視認し、ジュリーは、不動産屋に別のアパートの部屋を探してもらうことを依頼する。

結局、アパートの住人である娼婦から猫を借りるが、何もできず、その娼婦がネズミ退治を引き受けるという顛末であった。

ネズミに対する彼女の恐怖感には、「母子愛着」を喚起させるイメージが張り付いているからだろう。

そして、オリヴィエの訪問。

彼もまた、ジュリーを忘れられないのだ。

忘れたい女と、忘れられない男の交叉には、関係性の自家撞着が絡みついて離れないのだ。

忘れようとしても、次々に事故を想起させ、より煩悶を深めるジュリーだけが、いつも置き去りにされてしまうのである。

そんなジュリーが、施設に認知症の母を訪ねて、「思い出も何もいらない」と吐露するのだ。

娘であるジュリーを特定できない母は、思い出を再生できないで、「時間」を繋げない人生を生きているのである。

過去を破壊したい女と、過去を破壊された女の対比は、存分に残酷極まるものだった。

そんな折、親しくなった娼婦から呼び出され、彼女が働く如何わしい店に出向いた。

娼婦の用件は、自分の店に「客」として現れた、実父の話を聞いてもらうことだった。

セックスを止められないと吐露しながら、娼婦の苦悩に触れ、話し相手になってもらったことに感謝されるジュリー。

自分だけが苦しんでいないという心理効果は、幾分でも、彼女のグリーフワークの一助になっていくだろう。

それでもなお、最も苦しい「喪の仕事」というグリーフワークの中枢に、彼女は捕捉されていたのである。



3  「グリーフワーク」の最終ステージ ―― 「再生期」という「自我が関与する物語の再構築」



「グリーフワーク」の三つのステージの中で、最終段階は「再生期」である。

「再生期」とは、「自我が関与する物語の再構築」の時期である。

映像で例証すれば、以下のエピソードが最も重要であるだろう。

偶(たま)さか観たテレビで、ジュリーは、夫が若い女性と写っている写真を視認したのである。

一切は、ここから変容していく。

夫に愛人が存在した事実をを知ったジュリーは、その女性に会いに行った。

その直後の「プールでの遊泳」では、心象風景の乱れを表現する大音響が流れなかったのだ。

彼女の中で、事故のフラッシュバックが現出しなかったのである。

夫の愛人との、2度目の対面。

ジュリーは夫の愛人に、屋敷を譲る話をした。

そのときの会話こそ、ジュリーの自我の奥深くに澱んだ悪しき記憶を、「自我が関与する物語の再構築」に添って変容していく契機になったものだった。

「彼があなたの話を」と夫の愛人。
「何て?」とジュリー。
「いい人だと。寛容だと。理想の女性。頼れる存在。その通りね」

夫の愛人は、悪意なしにそう言ったのだ。

ジュリーの表情が固まったのを見て、彼女は慌てて、「許して」と一言添えたが、もう遅かった。

相手の女は、その言葉が包含する「攻撃性」について理解している。

だから謝罪したのだ。

既に、夫の子を身籠っている愛人が、心のどこかで、「自分だけが、彼の愛を独占していた」という思いを持っていたことは疑い得ないだろう。

この言葉を突き付けられたジュリーは、自分に対する夫の「愛」の本質が、「理想の女性。頼れる存在」でしかないことを認知したのである。

それが、「グリーフワーク」の困難さの中で悶えていた彼女の自我を、決定的に解放系にしたエピソードであった。

この辺りからのジュリーの変容は、まるで憑き物がが落ちていったかのような心的経緯を描いていく。

夫のメモを元に、EU統合のシンボルとなるシンフォニーを依頼されていた夫の曲を完成させようと努め、遂に、殆ど彼女のオリジナルと言っていい協奏曲を創作するに至ったのである。

ラストシーン。

彼女が完成させた協奏曲が、堂々と、しかし、それを聴く者が赤面するほどの、「愛」をテーマにした楽曲を歌いあげて閉じていくのだ。

たとえ私が奥義に通じていても
あらゆる知識に通じていても
山を動かすほどの信仰があってっも
愛がなければ 無に等しい
愛は善意に満ちる
愛は寛容なり
愛は善意に満ちる 
愛は決して妬むことはなく 決して高ぶらない 
愛は耐え忍び すべてを信じる 
全てを望み ひたすら耐える 
愛は決して滅びることはない 
予言はいつしか終わりを告げる 
言葉はいつしか沈黙する 
知識もいつかは消滅するだろう 
最後に残るのは 信仰と希望と愛 
この3つの中で 最も尊いものは愛

結局、一切のアポリアを「愛」に還元するだけの映像の、白々しくも厚顔な軟着点に落ち着くが、これがEU統合への「希望」を仮託するメッセージであるという含意は見え見えだが、私自身は、本作で描かれた物語の基調に限定する限り、これまで縷々(るる)言及してきたテーマのうちに把握している。

要するに本作は、「『喪失と再生』 ―― 『グリーフワーク』という問題の重さ」についての映画以外ではなかったということ。

この把握に尽きるのだ。



4  自我を食い荒し、削り取っていくことが予約される厳しさ


ここに、興味深い報告がある。

グリーフワーク・シンポジウム・全葬連HPより
「現代葬儀考 45号」に掲載された一文だが、そのブログログから引用してみる。

題して、「グリーフワーク」である。

「配偶者を喪ったある男性は、葬儀は何とか無事に済ませたが、何もする気が起きず、呆然とした日々を過ごしていた。アルバムの整理をしていたことがきっかけだった。始めはアルバムの写真が散失しないように説明をつけようとした。そのうち、短い説明だけでは不充分となり、いつの間にか妻の一代記になっていた。

妻との最初の出会いから始まり、共に歩んだ生涯を詳しく記録した。それだけでなく、彼の知らなかった子供の頃のこと、友人たちとのつきあい、活動を調査し、さまざまな人に出会って取材して記録した。その仕事は二年以上かかった。

思い出すたびに涙がこみ上げ、筆が止まったことも再三であった。昔のことでもっとあの時彼女にしてやればよかったのにと悔いたり、古い昔の自分の軽口を思い出して取り消したいと願ったり、作業は苦しみを自らに向けるものとなった。

彼女の部屋は生きていた時のままにされていた。夜に寝ようとすると彼女の不在が胸に突き刺される想いがして、夜は起きていて、昼間にソファーの上でまどろんだこともあった。それは、わざわざ悲しみを深くするための作業と思われるくらいであった。

親しい友人は彼の辛い作業を見ていて、思わず中止をし、早く妻のことを忘れるようアドバイスしたほうがいいのではないかと悩んだ。だが、死んだ妻のことだけに目を奪われた彼の姿は全てを拒絶するものだったので、友人は黙って見守らざるを得なかったという。

作業が半ばを過ぎたあたりになってから、彼は少しずつ元気になっていった。喪失感を上回って、彼女との生が、いかに自分を豊かにしてくれたことかを実感し始めたからだ。彼女の友人たちから聞いた楽しい思い出話は彼の心を慰め、癒してくれた。

彼がようやく作業を終えた時、彼は見事に立ち直っていた。

彼女の生が意味深いものであったことを、つくづくと、心の襞に届くまでに実感できていた。自分がいかに助けられたかも実感できていた。それだけではない。彼は以前はどちらかというと自分中心の勝手な人間であったが、他人を思いやる優しい感性の持ち主に変身していた。彼を知る人は彼の目がやわらかくなり、彼が変わったと話し合ったほどである。

クシシュトフ・キェシロフスキ監督
これがグリーフワークである」(筆者段落構成)

「喪失」を受容し、「喪失」の悲哀を言葉に変えることの困難さと重要性が、ここで語られている。

この作業を逃げないで遂行し得る程度の「喪失」かどうかについて、決して他人が安直に評価できる訳ではないにも拘らず、でき得るなら、「喪失」の悲哀を言葉に変えるなどの「仕事」に向かい、それを完遂すべきだろうと思うのだ。

「別離」は、新しい出会い=「再生」の始まりでもあるからだ。

しかし、その「仕事」が厄介なのは、「グリーフワーク」の三つのステージの中で最も厳しい、「完全喪失期」から「自己防衛期」の「内的時間」を耐える「仕事」が、それを負う者の自我を食い荒し、削り取っていくことが予約されてしまうからである。

(2001年1月)

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