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2010年12月31日金曜日

ショートカッツ('93)       ロバート・アルトマン


<「関係濃度の希薄性」という由々しき問題への考察>



  1  「日常性のサイクル」の安定的確保の艱難さ



 本作ほど、「日常性」の有りようについて考えた映像はない。

 「日常性」とは、その存在なしに成立し得ない、衣食住という人間の生存と社会の恒常的な安定の維持をベースにする生活過程である。

 従って、「日常性」は、その恒常的秩序の故に、それを保守しようとする傾向を持つが故に、良くも悪くも、「世俗性」という特性を現象化すると言える。

 「日常性」のこの傾向によって、そこには一定のサイクルが生まれる。

 この「日常性のサイクル」は、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つというのが、私の仮説。

 しかし実際のところ、「日常性のサイクル」は、常にこのように推移しないのだ。

 「安定」の確保が、絶対的に保証されていないからである。

 「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを宿命的に負っているからだ。

 その意味から言えば、私たちの「日常性」が、普段は見えにくい「非日常」と隣接し、時には「共存」していることが判然とするであろう。

 そして由々しきことに、「非日常」の本質が「死」をイメージさせる何かであるということだ。

 しかし私たちは、通常、「死」をイメージさせるものと対峙することは少ない。

 
ロバート・アルトマン監督
寧ろ、「死」をイメージさせるものから回避して生きていると言っていい。

 私たちは、最も触れたくない「観念としての死」の「恐怖」を、「日常性」の見えない辺りに封印してしまうのである。

 それ故に、「日常性」に微細な亀裂が侵入したとき、その「小さな傷」(ショート・カッツ)に合理的に対応できなかったり、或いは、それを「日常性」のうちに放置してしまったりすることで、その時間の延長上に、「非日常」が内包するネガティブな感情が突沸(とっぷつ)してしまうリスクを高めてしまうのだ。

 「日常性のサイクル」の安定的確保の艱難(かんなん)さこそ、私たちの人生の最大のテーマであるということ ――これ以外ではないだろう。



 2  「現実の人間の喜怒哀楽」への冷厳な視座



レイモンド・カーヴァー
さて、本作のこと。

 極めて構築力の高い本作は、3つの「死」という「非日常性」の極点を基軸にして、そこに最近接した者の 「日常性」の破綻、或いは、そこに最近接せずとも、「日常性」のうちに生まれた「小さな傷」を容易に自浄できずに、「非日常」が内包する厄介な感情を顕在化する様態や、脳天気に遣り過ごす人間的な裸形の生態の、様々に絡み合うミニマムな世界を、一切の感傷を排して、存分のアイロニーによって醸し出す滑稽感のうちに映し出していた。

 奇麗事に流さなければ、人間の「日常性」の様態が自己中心的、且つ、その場凌ぎであり、それゆえ世俗的である外にない、その物語の切り取り方は、ラストにおける「現実の人間の喜怒哀楽」への冷厳な視座のうちに、作家的な包括力を印象付けることで、殆どカリスマ的なロバート・アルトマンの表現宇宙が充分なまでに踊っていた。

以下、レイモンド・カーヴァー(アメリカの作家)の短編をもとに製作された、完成度の高いこの群像劇を、特定的に切り取って簡潔に批評したい。




 3  「死」という「非日常性」の極点に最近接する只中で



「人間が害虫を殺すか、害虫が人間を殺すかの戦いです」というヘリコプターの殺虫剤散布で始まり、ロサンゼルス地震で閉じていく本作の中で、「死」という「非日常」の極点を基軸にして、そこに最近接した者の 「日常性」の様態を描く幾つかのエピソードのうちに、基幹的なメッセージが包含されていたと言えるだろう。

 ここで取り上げる物語の中で、痛ましくも、「一篇の人間ドラマ」の印象を観る者に与えるエピソードは、児童の交通事故に端を発した関係の交叉である。

 本稿では、児童の交通事故に端を発した関係の交叉に焦点を当てて、本作の構造に言及したい。

 発端は、一つの目立たない交通事故だった。

 円満な夫婦の愛児が、通学途中に車に撥(は)ねられたのである。

 撥ねたのは、ファミレスで働く既婚の女性ドライバー。

 呑んだくれの亭主に纏(まと)わりつかれる彼女は、自分が起こした事故に慄(おのの)くが、撥ねられた児童が「大丈夫」と言って、歩き出していく姿を確認することで安堵するものの、事故現場では精一杯のモラルを体現していた。

 普段から、「知らない人と話すな」と躾られている児童は、女性ドライバーを無視して帰宅したのである。

 帰宅していく児童を遣り過ごす行為は、普通の大人の振舞いの範疇にあるだろうが、残念ながら、彼女には、児童が事故で受けたダメージの後遺症についての理解が決定的に不足していた。

 それでも、彼女の中に不安が残る。

 クラッシュの衝撃を感受していたからだろう。

ファミレスで働く女性ドラバ―と夫
そのため、彼女は事故について、呑んだくれの夫に話すことで、せめてもの不安の払拭を図ろうとしている。

 この危うい情報に関わる「秘密の共有」は、その後も暫くは、夫婦の意識を捕捉していた。

 一方、車に撥ねられた児童本人のこと。

 自宅に戻った児童は、ベッドに横たわっていた。

 少しずつ、事故の後遺症が現出してきたのである。

 帰宅した児童の母(トップ画像の女性)であるフィニガン夫人は、未だ会話の可能な我が子から事故の説明を聞き、慄然とした。

 しかし、「運転していたのは女の人」と言うだけで、本人から正確な情報を得られない。

 不安を募らせるフィニガン夫人は、テレビキャスターを勤める夫(冒頭で、ヘリコプターによる殺虫剤散布を報じるキャスター)に連絡し、病院に連れて行った。

 病院の担当医は、フィニガン夫人の不安を宥(なだ)めるように、「児童の意識が回復すれば安心」という見立てをしていたが、軽傷(「小さな傷」のイメージ)であるという見込みが重篤化していく経緯の中で、夫婦の「日常性」の破綻が顕在化されていく。

 フィニガン夫婦は、「死」という「非日常性」の極点に最近接してしまうのだ。

 この間、孫の見舞いという口実で、フィニガン氏の実父(トップ画像の男性)が病院を訪れる。

 30年ぶりの再会である。

 折り合いの悪い父子関係の様態が、そこに垣間見える。

 児童の祖父でもある彼は、息子に対して、妻との過去の真実を語ることで、父子関係の亀裂の修復を図ろうとするものの、我が子の生命の危機の只中にあるフィニガン氏には、父の告白を断片的に拾うのが精一杯で、殆ど妥協の限界点に達していて、苛立ちが隠せないのだ。

 そして、我が子の死。

 「非日常性」の極点に達した夫婦には、事故以前に構築されていた「幸福家族」という、「安定」に向かう 「日常性のサイクル」が切断されて、そこにはもう、「非日常」が内包するネガティブな感情が突沸するだけだった。

 不幸が現実化した祖父は、「非日常性」の極点が突沸する空気に弾き出されて、その場を立ち去っていった。

 祖父は、〈状況〉から置き去りにされたのだ。

 児童の死は、予測しない波紋を生み出した。

フィニガン夫妻に悪戯電話をプッシュし続けたケーキ屋
何者かが、我が子を喪ったフィニガン夫人のもとに、児童を揶揄するストーカー紛いの電話をかけてきたのである。

 夜間に集中する悪戯電話の張本人は、あろうことか、見知りのケーキ屋だった。

 その事実を察知したフィニガン夫妻は、早速、ケーキ屋に乗り込んだ。

 彼らは、遣り切れない思いの一切を、件のケーキ屋に吐き出したのである。

 フィニガン夫妻の愛児が死んでも、執拗に悪戯電話をプッシュし続けたケーキ屋は、事実を知らされるや否や、自分の犯した罪を恥じ、夫妻の前で深々と謝罪した。

ケーキ屋は、バースディケーキの注文がキャンセルされたことに立腹し、彼なりにストレスを解消していたのである。

 そして、もう一人、児童の死に衝撃を受けた人物がいる。

 フィニガン家の隣家に住む、チェリストの女性である。

 ジャズ歌手の母と折り合いが悪い彼女は、虚構の家族の空虚感の中で、その本来の音楽的感性の高さの故か、暗鬱な表情が映像の中で拾われていた。

 児童の死によって情緒を極点まで不安定にさせた彼女は、自宅で自死するに至ったのである。

繊細なチェリストの女性
あろうことか、彼女は、「死」という「非日常性」の極点に自己投入してしまったのだ。

 最後に、もう一度、事故の加害者である女性ドライバーの夫婦の話に戻す。

 当初こそ、事故の不安に怯えていた彼女だが、「あの子は大丈夫だった」という「認知の不協和」(矛盾解消のために、自分に都合よく合理化すること)を処理することで、本来の「日常性のサイクル」を復元させていた。

 呑んだくれの亭主との間に入った関係の亀裂も、いつしか復元させていて、見かけは「円満夫婦」の印象を顕在化させていたのである。



 4  「関係濃度の希薄性」という由々しき問題への考察



 3で紹介したエピソードの意味を考察したい。

 児童の死に纏(まつ)わるエピソードの中で、私たちが把握し得る最も重要な視座は、「関係濃度の希薄性」という問題である。

 フィニガン夫妻の悲哀を、「非日常」の極点として見たとき、児童の死に近接した者たちの反応の落差は、まさに、ごく普通の都市社会で生きる者たちの「関係濃度の狭隘性」である。

 言わずもがな、都市社会の快楽装置の只中に囲繞(いにょう)されている者が他者の不幸に無関心になりやすいのは、隣人の不幸が我が家の不幸になりやすかった共同体社会の構造性と無縁でいられるからであって、恐らく、それ以外の何ものでもないであろう。


都市社会の快楽装置・不夜城(イメージ画像・ブログより
従って、それは、都市社会に生きる者たちの心の荒廃感の本質を説明するものではない。

 どこまでも、彼らの相互の「関係濃度」の相違が、他人の不幸に関与する際に顕在化されてくるということである。

 例えば、児童の祖父は、孫との間に感情関係を形成することがなかったので、他人事とは言わないが、少なくとも、児童の死を「息子夫妻の不幸」という思いの枠内でしか、心理的アプローチを身体化し得なかった。

 ましてや、息子との30年ぶりの再会という現実が意味するものは、殆ど破綻し切った、形式的な父子関係が露わになった様態以外ではないだろう。

 だから、父子の会話の話題は限定的だった。

 父の告白的なエピソードのうちに拾われたものに、深い真実性が含まれていたとしても、孫の死によって、祖父が〈状況〉から置き去りにされたのは、フィニガン夫妻との心理的・物理的距離の埋め難い乖離の故でしかないのである。

 一方、チェリストの場合は、児童との直接的な関係も媒介されていて、心理的距離は極めて近接する位置にいた。

 しかも彼女の場合は、母との関係の折り合いの悪さに由来する、孤独感や虚無感を引き摺っていたという特別の事情がある。

 隣家の児童の死に対して、特段の反応をしない母への幻滅と怒り。

 彼女の自死には、単に児童の死へのインパクトのみならず、その死の現実の恐怖を共有する素振りすら見せず、父の悪口を連射するだけの、母に対する当て付けの含みを持っていたと言えるだろう。

 それでも、我が子の死によって、悲哀の極点に雪崩れ込むフィニガン夫人の思いに、彼女だけは心理的に架橋できていたのである。

 しかし、ケーキ屋の場合は、まさに現代社会の闇に潜む、ブラクラにも似た「匿名性の悪意」そのものだった。

 バースディケーキの注文のキャンセルの事情を知らないが故に、寡黙なケーキ屋は、匿名社会が分娩した「闇のテロリスト」に変身し切っていたのだ。

 そして、バースディケーキの注文のキャンセルの事情を知らない現実が内包する怖さの本質は、「闇のテロリスト」でありながら、自分が襲いかかる被害者家族との間で、最も肝心な最低限の情報を共有していない点にある。

 それは、極端な主観によって、「闇のテロリスト」を立ち上げることを可能にする現代社会の、大いなる虚無の実相であるだろうか。

児童の死に近接した最後の一人は、事故の加害者であるファミレス務めの女性ドライバー。

 時間の経過を通して、彼女の中で自分が起こした事故に関わる、「小さな傷」という観念は希釈化され、いつしか無化されていくだろう。

 なぜなら、前述したように、彼女の自我のうちに、「あの子は大丈夫だった」という「認知の不協和」の処理が遂行されているからである。

 何より由々しきことは、彼女もまた、ケーキ屋と同様に、被害者家族との情報を共有していない点である。

 情報の共有化が為されないことによって、彼女の中で「加害者」と「被害者」という観念は消え去っていくに違いない。

 このエピソードが意味するものは、本作の中で、現代の都市社会の中で呼吸を繋ぐ者たちの生態の現実を、最もアイロニカルに表現した一連のシークエンスだったということか。

 一方では、「非日常」の極点に達して悲哀を極める夫婦がいて、そして他方では、「非日常」を惹起した事態に最近接しながらも、夫婦の悲哀の原因者である者が維持する「日常性のサイクル」の安定が保証されることで、最後まで守られる、自分サイズの「幸福」の時間の継続性。

 そこには、一片の悪意も媒介されていないのだ。

 このエピソードに集約されるのは、普通の人間の普通の生活を営む者たちが、昨日まで普通の「日常性」を繋いできた時間の只中に、「非日常」の危機の襲来が惹起される可能性があっても、情報の共有化が為されない限り、それによって具現化される恐怖を無化できるという由々しき事態である。

 一切は、「関係濃度の希薄性」の問題に尽きるだろう。



 5  「小さな傷」が「狂気」を作り出してしまうことの怖さ



 最後に、「死」という「非日常性」の極点に最近接した者の「日常性」の破綻ではなく、そこに最近接せずとも、「日常性」のうちに生まれた「小さな傷」を容易に自浄できずに、「非日常」が内包する厄介な感情を顕在化させた典型的な様態の実例に対して、簡潔に言及してみよう。

 それは、ラストシーンにおける、真面目なプールの掃除作業員の「狂気」のこと。

 この描写こそ、「日常性」の中で生じた「小さな傷」が、「健全」な修復を受けることなく延長されるとき、予想し難い「狂気」を作り出してしまうことの怖さを露わにしたエピソードであるだろう。

真面目なプールの掃除作業員(右から二人目)
彼は、テレフォン・セックスという「不健全」な副業で、生活を遣り繰りする妻を日常的に目の当たりにしていて、いつしか自分の「性的衝動」が抑制困難な事態になっていった。

 そして、感情が解放系になるアウトドアの時間に、妻子を含めた仲間と共に踏み入れて、そこで出会った若い女性サイクリストへの遊び心(と言うより、真面目な本人は、友人の誘いに乗せられていくという経緯あり)が沸点に達したとき、突如、件のサイクリストの一人に襲いかかる男がそこにいた。

 経緯を説明する。

 若い女性サイクリストを追う、二人の男。

 ペアになった二組。

 如何にもガールハントが不得手な真面目な男と、不釣り合いな印象の若い女性サイクリスト。

 出会った際に、プールの掃除作業員のその男が缶ビールを開け、そこで吹き零れて濡れたTシャツを、女性ハイカーが男の眼前で脱いでいく。

 男が彼女に襲いかかったのは、その瞬間だった。

 男の「性的衝動」に、スイッチが入ってしまったのだ。

 悲鳴を上げる女に、血走った眼を晒す男。

 その手や顔面には、血飛沫(ちしぶき)がべっとり付着していた。

 寡黙に徹した男は、遂にここまでストックしたと思わせるに足る、攻撃的衝動を全開させ、行き摺りの女性ハイカーを殺害するに至ったのだ。

 そのとき、出来した大地震によって「殺人事件」として処理されることなく、ラストシークエンスに流れ込む映像の残酷さは、既にアイロニーを超える恐怖を映し出してしまったのである。

 それもまた、私たちの「日常性」に張り付く危うさでもあるということなのだ。


倒壊した高速道路・ロマ・プリータ地震=サンフランシスコ地震(イメージ画像・ブログより
大地震の情報が、TV中継で、早速放送される。

 「M7.4で、死者が一人」

 「事件」が「事故」に変換されていたが故に、この放送を聞く者の反応は、「一人で良かった」というもの。

 結局、ズームが異なれば、「一人で良かった」という普通の感懐のうちに収斂されてしまうのだ。

 この現実を、「怖い」と表現することには無理があるだろう。

 人間は、「関係濃度の希薄性」の中で、「人間の死」を「他者の死」という普通の感覚のうちに収めてしまうのである。

 そのような括りで閉じた本作の人間理解の包括力に、ただ脱帽するばかりだった。



 6  包括的に受容する偽りなき人生の現実




 5で言及した男の「狂気」とは無縁に、亀裂が生じていた複数の夫婦の「和解」や「近接化」のエピソードは、「死」という「非日常」の極点に最近接せずに、その固有の「日常性」のうちに出来した、「小さな傷」の世俗的復元を果たした例証だった。

 
 このように、ファーストシーンとラストシーンの「自然災厄」の間に挿入された多くのエピソードには、「非日常」に隣接する「日常性」で惹起した「小さな傷」が、ごく普通の生活様態の中で紆余曲折を経て処理されたり、却って化膿させてしまったりするだろうが、それが偽りなき人生の現実であることを認知し、包括的に受容するしかないのだろう。


 ロバート・アルトマン監督
そんな作り手のシビアな人間観察のさまは、エンドロールで流されるジャズの歌詞のうちに端的に表現されていた。

 本稿の最後に、それを紹介しておこう。

 以下の通り。

 虹を求めていても
 きっと雨が降ってくる
 たとえ幸せに包まれても
 次の瞬間 悲しみが襲う
 あなたは囚われ人
 わたしも同じ囚われ人
 人生の囚われ人
 昨日そばにいたあの人が
 今日は去って行ってしまう
 どんなにつらくても
 人生は止まらずに流れていく
 あなたは囚われ人
 わたしも同じ囚われ人
 人生の囚われ人
 ツイてる時
 ツイてない時
 その中間の時 
 思いがけない何かが起こって 
 人生を動かし 変えていく 
 今日は世界の王者 
 
明日はドン底に落ち込む 
 今日はすべてが嘘 
 明日はすべてが真実
 あなたは囚われ人
 わたしも同じ囚われ人
 人生の囚われ人


 【余稿】 「日常性バイアス」について

 因みに、「日常性(正常性)バイアス」という社会心理学の概念がある。

 そこに亀裂が入るような事態が惹起しても、それを修復するに足る心理効果によって、本来の安定的秩序を復元しようとする自我の操作のことである。

 しかし、この機能が過剰に反応してしまうと、疲弊した自我が麻痺してしまうことで、災害などの危機に遭遇しても異常の認知を察知し得なくなるのだ。

 思うに、「日常性バイアス」が内包する怖さもまた看過し難いのである。

(2001年1月)

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