<「頑張ったけど負けた」―― 或いは、「純粋動機論」という厄介なメンタリティ>
1 夢スポーツの三命題
甲子園という夢舞台で物語を作る「高校野球」の本質を、私は「純粋・連帯・服従」という三命題によって把握している。
「夢スポーツの三命題」とも呼んでいる。
彼らはスポーツ天使となって「純粋」を表出し、「連帯」を作り出し、「服従」を演じて見せる。
天使たちはそこで、野外公演の有能なパフォーマーと化し、ステージの其処彼処(そこかしこ)にユニフォームの黒が駆け抜ける。
しかし、決して踏み越えることはない。
そこに眩い肉体が炸裂することがあっても、彼らが規範を踏み越えることは殆どないのだ。
仲間のミスを責めないし、連投のエースが打ち込まれたら、このスポーツの本来的な性格から言って、多くの場合、マウンドに友情の輪が作られる。
「連帯」こそ、夢スポーツの中枢的テーマなのだ。
2 「頑張ったけど負けた」 ―― 或いは、「純粋動機論」という厄介なメンタリティ
艇庫のロケセット(ウィキ) |
確かに、青春映画に張り付く暑苦しさが感じられない点において印象度の高い本作では、「純粋・連帯」という「夢スポーツの命題」が確認されるが、肝心の「服従」という「命題」が欠落しているのである。
この「服従」の欠落は、「権力関係」の形成力の弱さを物語っている。
従って、そこには、「支配」と「服従」の確とした人間関係が不全であることを示している。
原因は、この女子ボート部に、新任コーチとしてやって来た女の無気力さに根ざしている。
「訳あり」の事情で郷土に戻って来た彼女には、元日本代表のコックス(ボート競技での舵手)という輝かしい経歴を持ちながら、殆どやる気(熱血性)がみられないのだ。
彼女は、女子ボート部の5人の女性部員に一方的な指示(トレーニング・メニューの提示)を与えるが、そのフォローを全くしないのである。
それでも、指示に従って、基礎体力作りに励む女性部員たちの信じ難い素直さが、映像の中で拾われていた。
悦子 |
だから彼女は、道後温泉でたまたま出会ったコーチに、自分の思いをぶつけたのである。
「あたし、ボートがないと何にもないんです」
この一件以来、コーチの指導の内実には、少なくとも二度目の新人戦を控えて、練習に励む部員たちへの技術的アドバイスが加わっていくが、しかし、そこでの関係の本質は、「支配」と「服従」という「権力関係」の形成には程遠いものであった。
明らかに、本作の作り手は、「スポ根」ものの「青春スポーツ映画」の枠組みを壊したいのである。
「権力関係」のこのような形骸化によって強調されるのが、5人の部員たちの「自立性」と「連帯感」というメンタリティである。
そして、肝心の新人戦の日。
順調に決勝戦まで勝ち進んでいったものの、東校女子ボート部員たちの奮闘虚しく、僅差で敗れ去った。
そのシークエンスをクライマックスにした映像は、貧血症の悦子の苦痛をアップで捕捉しつつ、「がんばっていきまっしょい」という精神によって、心を一つにした少女たちのファイトがスローモーションで流されるのだ。
そこに、リーテッシュが歌う、「Ogiyodiora」の透明感のあるBGMが流れて、カメラは執拗に、その必死のファイトを捕捉していくのだ。
その間、2分30秒。
「敗北の美学」こそ、「青春スポーツ映画」の醍醐味だと言わんばかりのそのシークエンスは、競争で淘汰されることを嫌悪する中高年の観客に、それ以外にないカタルシスを保証するのである。
「頑張ったけど負けた」
「勝負」という暑苦しい概念に、殆ど価値を見い出すことのないであろう作り手のメッセージが、そこに包含されていたのは言うまでもない。
敢えて意地悪く言えば、この映画は、ボート部の活動に真摯に打ち込む5人の女子高校生たちの奮闘ぶりに仮託して、「頑張ったけど負けた。
しかし、その敗北は美しかった」という基幹メッセージを、「結果よりも過程」、「勝利よりも努力」の価値を保持し続ける数多の日本人にまで敷衍させることで、言葉は悪いが、「競争=悪」という厄介なメンタリティに張り付く、「負け犬根性」を正当化する一篇であったと言えなくもないのである。
なぜなら、件の厄介なメンタリティは、「結果よりも過程」、「勝利よりも努力」という把握によって、敗北に関わる現実から逃避し、「頑張った」事実のうちに何もかも浄化させ、そこで得る一種の「安心感」によって、「敗北の美学」という物語を仮構した自我を癒してしまう心理効果を生み出す、その一連の内的プロセス自身に価値を付与するからである。
詰まる所、「闘争」、「競争」の心理圧にあまりに脆弱な数多の日本人にとって、この物語の中で浄化されれば、最も本質的な「負け犬根性」を認知せずに済むからだ。
突飛なことを書くようだ、これが、「終戦記念日」としての8・15にのみ拘り、戦艦ミズーリー号で粛々と実施された、「敗戦記念日」としての9・2の歴史的事実の重量感を引き受けられない日本人的「負け犬根性」を、今なお延長させている由々しき現実ではなかったのか。
「動機が純粋ならば、その結果の失敗は問わない」という類の、「純粋動機論」の厄介なメンタリティもまた、私たちの世俗のうちに頑強に根を張っているようである。
この国は、いつまでたっても変らないのか。
変えられないのか。
「敗北」から学習できない脆弱さこそ、この国の人たちに多い痼疾(こしつ)であるだろう。
3 「瑞々しく、爽やか過ぎる青春映画」への由々しき退行
「悦子ファイト」のカットによって終焉するラストシーン。
清々しく、凛とした描写には大袈裟な括りもなく、とても良かった。
然るに、私にはどうしても気になるのである。
本作で確信的に欠落しているものがあるのだ。
それは、「性」、「飽和点に達した葛藤」、「周囲の大人との関係の亀裂」である。
ロケ地となった愛媛県今治市の鴨池海岸・ブログより
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青春を鍛えるには、それが鍛えられるに相応しい敵対物としての「仮想敵」が求められる、というのが私の仮説。
自己自身を含む、「仮想敵」との「飽和点に達した葛藤」は、自我を固有な形に彫像していく運動に収斂されていくので、その運動が極端に規範を逸脱しない限り、一種の通過儀礼としての一定の社会的認知を得る。
しかし、5人の女子高生の振舞いから、「性」、「飽和点に達した葛藤」、「周囲の大人との関係の亀裂」が見事なまでに削り取られていたのだ。
削り取られた果てに生き残されたのは、「瑞々しく、爽やか過ぎる青春映画」という限定的なカテゴリーの決定版。
これらの欠落によって保証された、「瑞々しく、爽やか過ぎる青春映画」は、とどのつまり「青春初期の映画」、即ち、「女子中生」の映画に退行してしまったのである。
では、本作は「アイドル映画」なのか。
違うだろう。
磯村一路監督 |
そして、私が最も不満なのは、前述したように、決勝戦での「スローモーション」と「情感溢れる癒し系の音楽」が被さってきたこと。
「敗北の美学」を独立系の価値として立ち上げるかのようなシークエンスは、ある意味でサクセス・ストーリーに対するアンチテーゼであると言っていい。
それが作り手の基幹メッセージだと言うのなら、それもまたいい。
それだけで、存分に「癒し」を得られる観客との情感的な共同戦線が形成されることに、特段の異議を唱えるつもりは全くない。
それにも拘らず、「体育会系」の暑苦しさを削り落して、淡々と展開させてきた「青春スポーツ映画」の「抑制の効いたパトス」が、このような情感的な軟着点のうちに自己完結させてしまう甘さが、私には一貫して気になるのだ。
(2010年12月)
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