<チェイサーと化した民間人を、凶暴な攻撃者に変容させしめる警察機構の脆弱さ>
1 物語の序盤から炸裂するシリアルキラーの不気味さ
本作の凄いところは、一貫して、犯人のヨンミンの犯罪動機に触れるに足るような、身分・地位・学歴などの履歴や政治社会的背景に、犯罪のルーツを安直に還元させないところにある。
いつの時代でも、どのような凄惨な社会でも、ある一定の確率で、このような猟奇的な犯罪を繰り返す、シリアルキラーの犯罪者が出現してしまうということを、殆ど完璧に、且つ、リアルに描き切った点にある。
ここに、犯人ヨンミンへの取り調べの会話がある。
以下の通り。
「女を売ったのか?」と警官。
「違いますよ。売っていません。殺しました」とヨンミン。
笑みを浮かべながら答えるのだ。
「え?今、何て言った?殺した?」
相変わらず笑っている。
「はい。殺しました」
このときだけは、真顔で答えるヨンミン。
取り調べ警官は、お互いに顔を見合わせて、その真意を測り兼ねている。
この最初の拘束時のシーンが、本作の怖さを象徴していると言っていい。
更に、別の取り調べのシーン。
「ノミと金づちで?」と刑事。
「ノミと金づち」とヨンミン。
「理由は?」
「絞殺や刺殺は苦しむから。豚の屠畜を参考に」
「その後は?」
「壁に掛ける」
「何を?」
「死んだ奴らを」
「それから?」
「足首の裏の筋」
「アキレス腱?」
「そこをナイフで切る」
「死体を?」
「ええ」
「なぜ?」
「血を抜かないと運べない」
「だよな。軽くならない」
お互いに、笑みを浮かべている。
一貫して、他人事のように平然と答えるヨンミン。
「その次は?」
「一日置けば、血や汚いものが全部抜ける。その後、切断して埋める」
「どこに?埋める場所は?」
「あちこちに」
「具体的に言え。9人も家に埋める訳がない」
「9人じゃない。12人です。考えてみたら12人です」
「ふざけるな!」
鈍器を使用した兇行を平然たる態度で「自白」するシリアルキラーが、そこにいる。
しかし、肝心なところで黙秘する犯人の、計り知れない人間性の不気味さと狡猾さ。
取り調べ中に、平気でスナック菓子を食い、女性刑事をからかったりするシリアルキラーの不気味さが、物語の序盤から炸裂するのだ。
2 チェイサーと化した民間人を、凶暴な攻撃者に変容させしめる警察機構の脆弱さ
取り調べでの態度を見ても分るように、ヨンミンは肝心なところで逃げ切る狡猾さを露呈させていて、警察を揶揄(やゆ)するその態度には、シリアルキラー特有の確信犯的な振舞いが見受けられると言っていい。
更にはヨンミンは、警察上層部の者からの取り調べを受ける際に、そこだけは、揶揄する態度と切れていて、相手の頸を絞めんばかりの感情を騒がせていた。
その取り調べの担当官は、ヨンミンに対して、「お前は性的能力がない。だから女を殺したんだろう。私には分る」などと挑発したときだった。
しかし、ヨンミンは感情を一時(いっとき)騒がせるだけで、犯行動機を一切語らないのだ。
これは、本作を通して最後まで変わらない。
その辺りに、事件に対する作り手の把握の一端が垣間見える。
どれほど犯罪動機にアプローチする描写を挿入しても、このような男の犯罪の防止には結びつかず、それは殆ど、このような犯罪者と遭遇しないことの運不運の問題に尽きるとでも言うかのようだ。
それよりも、本作の中で作り手が描き出したのは、このようなシリアルキラーが運悪く出現してしまったときに、その現実を知った普通の市民の、厖大な不安や恐怖を軽減させるにはどうすべきなのかという問題提示である。
現実に、この忌まわしき物語で描かれた事件のおぞましい風景は、ヨンミンの犯罪の内実ばかりではなく、この男を繰り返し拘束しても、証拠不十分という理由で釈放せざるを得なかった、ソウル地方警察庁を頂点とする、典型的な国家警察である韓国の警察機構の脆弱さにこそあるだろう。(因みに、日本は都道府県警察の形態を採用)
たった一人の人間の、鈍器を使った凄惨な連続殺人を犯したと語るシリアルキラーがいて、状況証拠が充分に整っているにも拘らず、この男を起訴できない苛立たしさが、本篇を通して一貫して漂流しているのだ。
警察機構の捜査能力の劣化を嘲笑(あざわら)うヨンミンを、最後まで追い続けるのが、本作の主人公である、デリヘル(女性派遣の性的サービス業)の経営者のジュンホ。
元刑事の彼は、損得原理でチェイサーを繋いでいくが、その間、警察の捜査権の障壁のために何度か拘束され、彼はその度に、「バカらしい」と叫ぶのみ。
この映画の本質は、そこにある。
民間人がチェイサーとなって犯人を追い詰め、制裁せねばならないという矛盾こそが、本作の基幹構造を支えていると言っていい。
詰まる所、犯人へのチェイサーだったのが、民間人であったということ。
即ち、他の韓国映画がそうであるように、ここではもっと徹底的に、本来、その機能を果たすべく警察機構が充分な捜査能力を発現しなかったこと。(朝鮮日報の社説でも取り上げていたが、韓国の国家警察の無能ぶりが紹介されていたものの、伝聞の域を超えないので定かではない)
その辺りが作り手の苛立ちとなって、チェイサーと化したジュンホに乗り移って、彼を凶暴な攻撃者に変容させていくのである。
3 身体行動の遠心力によって憎悪を振り撒く男の物語
本作で最も印象深く、且つ、重要であると思える映像構成は、シリアルキラーに捕捉されたデリヘル嬢のミジンを、単に一つの「商品価値」としか見ず、その「商品」である対象人格を見つけ出すべく奔走するジュンホが、事態の深刻さを認知し、更に、戻って来ない母を心配する娘を保護する過程の中で、明瞭に、「商品」としてのミジンを、一人の「かけがえのない人間」と受容するに至る心理(ミジンの娘を病院に連れて行ったときの書類に、「保護者」と記す場面に象徴)の振れ方を、その内面的文脈の濃密な濾過を媒介しつつ、次第に獰猛なハンターと見紛う男=チェイサーに変容していく様態のうちに、「夜の闇」の「疾走」という象徴性を通して描き切ったことである。
そこが凄かった。
犯人が初めから特定されているという物語のハンデを、獰猛なハンターに変容していく男の、殆ど狂気の如き情感世界を炙り出すことで、映像は常に緊張感溢れるシークエンスを繋いでいくのだ。
これは、シリアルキラーの「静」と対極化された、「動」を体現するチェイサーが、シリアルキラーの精神構造と変わらないような狂気を分娩していく心理行程を、内面描写によってではなく、外的表現力によって描き出した、サスペンスドラマの一つの到達点を記録するものだった。
チェイサーがシリアルキラーと決定的に分れるのは、全く掴み所がない後者の自我の歪みや爛れに対して、「動」を体現した前者には、過剰とも言える鋭角的な行動を拡大させるに至った心理的風景を、観る者に了解させ得る点にあったということだろう。
その意味で、本作は、ジュンホという名のチェイサーの物語であった。(トップ画像)
物語の展開がスピーディーに進行する映像の中で、彼の自我が、殆ど抑制系を持たない心理圧に押し潰されている描写 ―― そこも凄かった。
語ることの少ない男が、まさにその身体行動の遠心力によって、焦燥感、不安感、そして激しい憎悪・敵意の感情などを、殆ど枯渇することなく、男を囲繞する〈状況〉に向かって無軌道に振り撒き続けたこと ―― その辺りが、本作の秀逸性の特筆すべきところかも知れない。
(2011年2月)
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