<「埋葬」と「再生」、或いは、紛う方ない「若き父性」の立ち上げ>
1 移動への憧憬と定着への縛り
「エンドーラ。僕らの住む町だ。冴えない町なんだ。いつも同じ表情で何も起こらない。僕の働く食料品店。今や、国道沿いのスーパーに客を取られてしまった。これが我が家。パパが建て、今は僕が修理を受け持つ。弟の寿命を10歳と言った医者たちは、その後、“いつでもあり”に訂正した。長く生きて欲しい日も、そうでない日もある。姉のエイミーは母親役。小学校の食堂で働いていたが、去年、火事で全焼した。妹のエレンは15歳。・・・兄のラリーは家を出た。そしてママ。かつては評判の美人だった。17年前にパパが死んでから、女手で頑張った。挙句に、こんな状態だ。7年間、外出していいない。僕はギルバート・グレイプ」
これが、冒頭のナレーション。
17年前の父の死は、地下室での縊首だった。
その衝撃で、この家族の母親は、一日中食べ続けた結果、200キロを優に越すほどの異常な肥満状態になり、今や、家の中での移動もままならない。
それが、「挙句に、こんな状態」の意味である。
この母の過食症は、「神経性大食症」と称される事実で判然とするように、夫の縊首という深刻なトラウマを抱えた時間を延長させた結果であって、紛れもなく、「摂食障害」という心理的な原因に起因する病理と言っていい。
そんな母を、「浜に打ち上げられた鯨」と自嘲気味に言い放つ、ナレーションの主であるギルバート。
寿命が10歳と宣告された弟は、給水塔に登る悪癖を持つ、18歳の誕生日を間近に控えた少年で、その名はアーニー。
アーニー |
このトレーラーの隊列だけが、二人が外部世界と交叉する唯一の接点なのだ。
外部世界と交叉する、この冒頭のシーンの中に、「移動への憧憬と定着への縛り」という、本作のテーマのエッセンスが内包されている。
以下、外部世界と交叉することが禁じられた若者の、「磨滅」とも言える心象世界を描いた、本作のストーリーラインをフォローしていこう。
2 「留め金で固定されている」青年の磨滅の〈現在性〉
本作は、主人公に感情移入できることが、観る者に「感動」を保証する最低限の「ルール」である事実を証明する、癒し系映画の典型例のような一篇。
観る者に感情移入させる対象人格は、言うまでもなく、ギルバート・グレイプ。
ギルバート・グレイプ |
本作のの原題は、「What’s Eating Gilbert Grape」。
「何が、ギルバート・グレイプを悩ませているのか?」。
或いは、「何が、ギルバート・グレイプを磨滅させているのか?」というような意味である。
あまりにストレートで、説明的な原題の稚拙さが気になるが、ここでは余計な言及は回避しよう。
ともあれ、この原題に示されているように、ギルバート・グレイプ(以下、ギルバート)が家族の中で背負っている荷物の重さは、恐らく、ごく普通の青年の耐性限界を超えるものだった。
そんな彼が、両親の離婚後、トレーラー・ハウスで、祖母と旅を繋ぐベッキーに吐露した言葉がある。
「移動が私の人生みたいね」
このベッキーの率直な物言いに、ギルバートも率直な反応を返していく。
「僕も移動したいけど、問題は母親。家にへばりついている。留め金で固定されているって感じかな」
この言葉は、彼の「悩み」や、「神経の磨滅」を端的に表現するものだった。
それにしても、「留め金で固定されている」という表現には、相当の尖りがある。
ギルバートは、彼の家族の存在の様態が、「留め金で固定されている」何かになっていると認知しているのである。
一体、家族とは何だろうか。
何より、そのことを考えさせる内実が、この映画には直截に包含されていた。
本来、「パンと情緒の共同体」である近代家族は、同時に「役割共同体」でもある。
一人の成熟した男は、「父親」や「夫」を演じ、一人の成熟した女は、「母親」や「妻」を演じ、未だ成熟に達しない男児や女児は、それぞれ「息子」や「娘」、或いは「兄」、「弟」や「姉」、「妹」という役割を演じている。
それぞれの役割が相互に補完しあって、一つの空間内に、家族という血縁共同体を形成するのである。
しかし、解放された自我が、そこで裸形の自我を曝け出し、外部環境で溜め込んだ膨大なストレスを、存分に吐き出す機能を持つはずの家族の中で、ギルバートの自我は、解放系に心地良く揺蕩(たゆた)っていないのだ。
ギルバートの役割は、弟妹に「パパ」と揶揄されるほどの負荷状況が、日常的に常態化されていた。
常に眼を離せない弟の世話を焼く行為は、入浴から食事、そして給水塔騒ぎに象徴される、街への迷惑への監視にまで及び、殆どそれは、「ママ」の役割と言っていい何かだった。
そして、張本人である弟のアーニー。
ギルバートと母 |
母親の想いが仮託された、18歳の誕生日パーティーがまもないアーニーは、「風呂で溺れて死にかけた」と訴えるほど、生活自律も困難な、知的障害のハンデの日常性を延長させるだけの、危うい自己基準の世界のうちに捕捉されているのである。
この物理的・心理的に限定された生活に捕捉されているギルバートは、閉鎖系の家族の中で、前述したように、「パパ」のみならず、「ママ」の役割をも担っているのである。
なぜなら、本来「ママ」の役割を担うべき母親が、「問題は母親。家にへばりついている」という状態なのだ。
それは彼にとって、「留め金で固定されている」という感触しかない何かなのだ。
従って彼は、「移動を禁止された青春」の時間を、日常的に延長されてしまった倫理的規範の枠内で、家族という小さなスポットの中に閉じ込められてしまっているのである。
「なぜ、僕を?」
ギルバートが、不倫相手の中年婦人に問いかけたときのこと。
「あなたは、いつもいるから。出て行かないから」
そう言われて、悄然とするギルバートの暗鬱な表情が印象深く映し出されていた。
更にギルバートは、夫の死によって、件の夫人が居づらくなって、街を去っていく際、「自分を捨てて皆の世話?」と言われる始末だった。
3 「埋葬」と「再生」、或いは、紛う方ない「若き父性」の立ち上げ
ギルバートの日常性は、基本的に破綻寸前の非日常の危うさの中で、ギリギリに保持されていた。
そんな彼のディストレス(不快心理が臨界点に達しつつあるストレス状態)を吸収したのは、「移動が私の人生」と言い放ったベッキーだった。
左からアーニー、ギルバート、ベッキー |
夕陽を見ながら、遥か遠くに見える我が家の小ささを確認したとき、彼の心は一時(いっとき)の解放感に充ち溢れていた。
「留め金で固定されている」という感触を持つ彼は、彼の自我を固定しているものを客観化することができたのである。
それは、永遠に継続すると思われたものを、心理的に相対化できたということを意味するのだ。
「あなたの望みは?」
「いい人間になる。こういうの苦手だ」
ギルバートは、そう答えたのである。
そこには、他人に依存しないギルバートの自我が、容易に言葉に結べない類の精神的救いを求める心理が垣間見えるだろう。
遂に、ギルバートの耐性限界が沸点に達したとき、我儘なアーニーに暴力を振るった興奮状態の心理の後押しで、家を飛び出したのだ。
彼の心は一気に移動に振れていくが、感情任せの移動に誘(いざな)う彼の車が、町の標識を視認したとき、Uターンを余儀なくされた。
グレイプ家の家族、ベッキー |
「こんな母親は重荷よ。どうなるかと思ったわ。お願い、ギルバート。黙って姿を消さないで」
帰宅直後、母の嘆きを拾ったギルバートは、もう「確信犯の移動者」に化けることが叶わなくなった。
抱擁する母子。
翌日、派手に催されたアーニーの誕生日パーティの終焉に合わせるかのように、2階のベッドに戻った母は、静かに昇天していった。
恐らく、心臓への負担がピークアウトに達していたのだろう。
母の死によって、グレイプ家の家族の物語は、一気に変容していく。
母の埋葬という事態が、町の人々の好奇の眼に晒されることを最も恐れたギルバートは、覚悟を括った者の強靭さを身体化していく。
家財道具を全て戸外に出し、昇天した母の遺体を残し、我が家を焼失させる行為を決断したのだ。
「ママを笑いものにさせない。アニー、お前も手伝え」
家財道具を戸外に出すことを命じる、ギルバートの毅然とした態度に、従順に従うアニー。
焼失される家屋。
真紅の炎が、エンドーラの空を染め上げていく。
ギルバートは、我が家を「ママの墓場」としたのである。
結局、彼は、縊死した父の代行を完璧に務め切った、紛う方ない「若き父性」であったのだ。
同時に、この「埋葬」は、グレイプ家の家族成員がそれぞれに選択した、新たな人生の「再生」のセレモニーであった。
一年後、アーニーを随伴したギルバートは、ベッキーのトレーラーに乗り込んでいく。
「僕らはどこへ?」とアーニー。
「どこへでも」とギルバート。
それは、「移動への憧憬と定着への縛り」という、ギルバートの自我に巣食っていた矛盾した観念が、それ以外にない絶妙のタイミングで溶けていった瞬間だった。
4 予定調和の感傷譚の技巧という、「匠」なる映像職人のあざとさ
本作は、ギルバートの人生の再出発のための物語である。
ベッキー |
自由奔放で、包容力があり、「移動が私の人生みたいね」と言ってのけるベッキーもまた、ギルバートと同様に、まるで「善なるキャンパー」のモデルを提示するかのように、観る者に感情移入させる人格像として設定されていたのである。
この人物造形を見ても分るように、本作の作り手であるラッセ・ハルストレム監督は、観る者を感動させるヒューマンドラマを作る技巧にかけては、「匠」なる映像職人であると言って良さそうだ。
簡単に人に頼らず、自分の力で必死に生きる、健気な若者がいた。
その若者は、どれほど苦境に陥っても、自分の家族と町を捨てることをしなかった。
自我の奥に封じ込んだ「移動への憧憬」という観念を抑制することで「非日常の危うさと隣接する日常」を繋いで生きてきて、そこで自分を捕縛していた濃密な関係が、まるで予定調和的に待っていたかの如く昇天していったとき、若者は過去の柵(しがらみ)の一切を、「若き父性」の立ち上げのうちに堂々と「埋葬」し、そこで得た「自由」という、特段の価値を持つ人生の切符を手に入れて、新たな旅立ちに向かうのだ。
その旅立ちには、決して捨ててはならない弟を随伴させていく。
そんな若者の旅の前途に、予定調和のラインに沿って、包括してくれる恋人が待っていて、絶妙のタイミングで吸収してくれるのだ。
この若者の「再生」の旅は、その旅を開かせてくれる「埋葬」と、その「埋葬」の先に待機する者の、愛情的包括力を設定するという基本ラインが、この映画の生命線となっていて、そのラインに誘(いざな)われる観客もまた、既に存分の感情移入を果たしているから、この物語の予定調和の感傷譚のうちに安心して身を預けていくのである。
そこにこそ、作り手が狙った感動譚のエッセンスが垣間見える。
それこそが、ハリウッドが最も好む、「厳しさを克服した者への報酬」という基本命題であると言えるのだ。
その類の映画に全く馴染めない私には、本作の表現力のレベルが、構築性が希薄ながら、せいぜい、ヒューマンドラマの「standard articles(定番の商品)」という評価でしか受容できなかったのである。
そんな私にとって、決して悪い印象を持たなかった本作だが、それでも、予定調和の感傷譚の技巧という、「匠」なる映像職人のあざとさだけが気になって仕方なかったのも事実だった。
(2011年2月)
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