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2011年3月11日金曜日

髪結いの亭主 ('90)    パトリス・ルコント


<「死への誘い」へと最近接する、「吸収するパワー」としての「愛のパワー」>



1  「物理的共存」を深めてもなお、「かほりたつ、官能」の継続力



男女の愛の本質は「性的感情」で、この感情に「共存感情」、「援助感情」、「独占感情」などが絡み合うことで、男女の「愛のパワー」は底知れないほどの突破力を持つ。

然るに、この男女の「愛のパワー」が全く劣化することなく、恒久的な継続力を持つことは殆ど困難である。

愛し合う男と女が「物理的共存」を深め、それを延長させていく夢の日々は、個々の感情を相互に馴化させ、裸形の自我が関係の中で剥き出しになっていくことで、いつしか、かつてそうであったような燃え滾(たぎ)る熱情を溶解させていくのだ。

加えて、物理的共存の中枢に「生活のリアリズム」が侵入してくることで、それを実感的に把握し得なかった、「純愛」というロマンティシズムの世界に戻れなくなっていくのである。

更に、最近接した個々の感情が濃密に触れ合うことで、関係を支える感情が鋭角的に騒ぎ出し、しばしば相互の自我のうちに「感情の落差」を生み出していくだろう。

それが、「物理的共存」を深め、それを延長させていった、普通の男女の共存の有りようである。

その関係の中から、漸次、〈性〉が脱色化していく現象は殆ど必然的であると言っていい。

しかし、その関係が相互の自我の堅固な安寧の基盤になっている限り、「共存感情」と「援助感情」が特段に劣化していないはずである。

ただ、関係の質が変容していくだけなのである。

ところが、本作で描かれた男と女の関係には、関係の質の変容が見られないのだ。

以下、「かほりたつ、官能」(キャッチコピー)の物語をフォローしてこう。




2  幻想の怖さを知悉する女、幻想を捨てられない男



「結婚して下さい」

一見(いちげん)の客に過ぎない男は、理髪店を譲り受け、それなりに成功しているように見える女に対して、唐突にプロポーズした。

髪に触れる手触りに異常な執心を持つフェティシストの男にとって、「髪結いの亭主」になることだけが少年期からの夢だったのだ。

3週間後、店を訪れた件の中年男に、「かほりたつ、官能」を漂わせる女は、驚くほど意外な反応をする。

「この間は、私をからかったのかしら。もし、本気だとしたら心を動かされました。お気持ちが同じなら、承諾します。妻になります」

男のプロポーズを、初めから決めていたと思わせる反応をする女が、そこにいた。

「ここにずっといよう、ここは申し分ない。買い物や手紙を出すのは、僕がやるよ」

女との共存のみで充足する男の殺し文句だが、どこまでも本音である。

以降、この理髪店は、二人の生活の全てとなっていくのだ。

他人の介在を不要とする男と女の関係は、理髪する妻を一日中凝視するだけの男の柔和な眼差しが、その過剰さを端的に表現していた。

この関係には、愛し合う男と女の感情が見事に勢揃いして、そこに特段の感情の落差も見られないのである。

男と女の睦みの日々が10年間継続し、関係を支えるパワーに劣化の兆しが読み取れないのだ。

女に対する男の愛の継続力は、その出会いの日々から全く変わることなく、男の愛に支えられた女の愛もまた、変容する隙を生ずることがないのである。

男と女の関係様態は、さながら堅固な要塞のようだった。

しかし、それが幻想であることを、少なくとも女は知っていた。

「毎日、年をとるんだ」と男。
「人生って嫌ね」と女。

この短い会話の中で、「かほりたつ、官能」を漂わせる女は、男の異性愛の対象となった絶対的な存在価値が、不可避なるエージング現象(加齢現象)と共に変容していく現実の怖さを認知しているのだ。

この会話には、伏線があった。

二人が、老人ホームを訪ねたときのこと。

そこには、女に理髪店を譲り渡した元のオーナーが生活していた。

「ここは死者の場所なんだ」

老人は、そう言ったのだ。

「彼女だけが私の命。皆が帰り、扉が閉まれば、全ては、永遠に私たちのためにあるのだ。店が私たちの世界。固い絆に結ばれた二人に、不仲の種など無縁なのだ。幸せになると分ってた。永遠に・・・」

これは、二人の結婚式の日に、ラジカセで鳴らす自己流のベリーダンス(アラビア風の踊り)を踊る男の、至福なるモノローグ。

こんな幻想で生きてきた男には、女が日々に感受する怖さが分らない。

既に、そこに微妙な感情の落差が胚胎しているのだ。

そして、悲劇が起こった。

老いによる変容が認知できている女にとって、男の一方的な愛の幻想は、重荷にしかならなくなったとき、女は入水自殺を遂げたのである。

雷を伴って、弾丸の雨が止まない日、女は「買い物に行って来る」と男に告げて、店を出て、その足で氾濫する河の中に身を投じたのである。

以下、男に遺した女の遺書。

「“あなた。あなたが死んだり、私に飽きる前に死ぬわ。優しさだけが残っても、それでは満足できない。不幸より死を選ぶの。抱擁の温もりや、あなたの香りや眼差し、キスを胸に死にます。あなたがくれた幸せな日々と共に、死んでいきます。息が止まるほど長いキスを送るわ。愛しています、あなただけを。永遠に忘れないで”」

それは、男の愛に支えられた女の至福が幻想である怖さを知悉(ちしつ)する者が、「かほりたつ、官能」を永遠化する、それ以外にない防衛戦略であったのか。



3  男の「究極の夢」をテーマとした妄想の物語



男女の愛の継続力は、それが沸点に達したと感受した辺りから少しずつ、しかし必ず変容する。

女の死は、「老い」による劣化への恐怖を過剰に意識する者が、至福の快楽を永遠化したいと願う強迫観念による捕捉の産物だった。

「家内が戻ります」

置き去りにされた男は、なお幻想を持ち続け、女の帰還を待っている。

これは、幻想で生きつづけた男の「究極のロマンティシズム」である。

ファンタジーであると言っていい。

と言うより、物語自体が、男の妄想の産物であると言い換えてもいいだろう。

「人生は単純だと父は言った。物でも人でも、強く願えば手に入るものだ。失敗するのは望み方が弱いからだと。夢はいつか叶う」

この父の言葉を信じて、少年期の夢を叶えた男の「究極のロマンティシズム」が具現したとき、男の妄想は肥大するばかりだった。

髪結いの女の亭主となって、安楽に暮らす日々を送れたこと。

女との深い睦みの10年間、僅か一回の末梢的な夫婦喧嘩があっただけで、幸福な日々を送り続けたこと。

そして極め付けは、柔和な陽射しが差し込む理髪店で仕事をする最中でも、愛する女房と睦み合える快楽を具現したこと。

紛れもなく、本作は、ラディカル・フェミニストから指弾されそうな、男の「究極の夢」をテーマとした妄想の物語であるということだ。



4  「死への誘(いざな)い」へと最近接する、「吸収するパワー」としての「愛のパワー」



本作を観ていたら、すっかり忘れていた一冊の評論を思い起こした。

有島武郎
有島武郎の「惜みなく愛は奪ふ」である。

以下、その一文を引用する。

「愛は自己への獲得である。愛は惜みなく奪うものだ。愛せられるものは奪われてはいるが、不思議なことには何物も奪われてはいない。然し愛するものは必ず奪っている。(略)愛はかつて義務を知らない。犠牲を知らない。献身を知らない。奪われるものが奪われることをゆるしつつあろうともあるまいとも、それらに煩《わずら》わされることなく愛は奪う。もし愛が相互的に働く場合には、私たちは争って互に互を奪い合う。決して与え合うのではない。その結果私たちは互に何物をも失うことがなく互に獲得する。(略)私は明らかに他を愛することによって凡てを自己に取入れているのを承認する」(青空文庫)

男と女の「愛のパワー」とは、「吸収するパワー」であり、その本質において、「死への誘(いざな)い」へと最近接するのである。

「物理的共存」を深め、それを延長させていく中で、〈性〉を脱色させつつ、男と女の愛を軟着し得る辺りまで関係を変容できなかった二人にとって、その関係を恒久化させる選択肢は限定的だったということだ。

一貫して女を相対化できない男は、ひたすら幻想の世界に呼吸を繋ぎ、その幻想の世界を捨てることなく、永遠に女を待ち続けるのだ。

パトリス・ルコント監督
究極の愛の物語は、「惜しみなく愛は奪う」という究極のゲームであった。

「君のお腹が、膨らむなんて耐えられない」

女との子供を儲けることを拒む男の人生とは、女が放出する「かほりたつ、官能」を「吸収するパワー」のみで生きてきて、それを吸収し尽くした後に、死に至らしめるエゴイズムの発現でしかなかったのである。

まさに、「惜しみなく愛は奪う」という究極のゲームが、男の人生を躍らせていたのだ。

(2011年3月)

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