<コメディラインの範疇を越える心地悪さ ―― ラストカットの決定力>
1 コメディラインの範疇を越える心地悪さ ―― ラストカットの決定力
「他の番組を。テレビガイドは?」
ラストカットにおける視聴者の、この言葉の中に収斂される文脈こそ、この映画の全てである。
テレビ好きな二人の警備員によるこの台詞は、本作がテレビの虚構性を極限まで描き切った映画であることへの、それ以外にない決定的な括りとなるものだったからである。
テレビとは、特定他者を消費する視聴者に、最大限の視聴のサービスを提供する絶好の快楽装置である。
本作は、特定他者を消費する視聴者の貪欲なニーズに対して、それ以上ない商品を提供した。
「“トゥルーマンが愛飲するニカラグアのココア”17億の人間が誕生を見守りました。“スター誕生”220カ国が最初の一歩を放映。ハイテクの進歩で、隠しカメラが彼の日常を記録し続け、そのまま生で全世界に、毎日24時間、1日も休まず放送されています。世界最大のスタジオに作られたシーへブン島のセット。万里の長城に匹敵する建造物が島を覆っています。30年目を迎えた超人気番組!“トゥルーマン・ショー”!」
ナレーションの役割を持つ、この放送の説明で分るように、要するに本作は、出生以来、その人生の全てを24時間撮影され続けている、一人の平凡なセールスマンの物語なのである。
彼は、テレビの人気番組である「トゥルーマン・ショー」の「スター」として監視され続けて、昨日もそうであったような何の変哲もない日常を露わにしていくが、妻も母も親友も、彼が出会う町の通行人もまた役者でありながら、哀しいことに、自分の人生を生きているつもりの当の本人だけが、その決定的な事実を知らないのだ。
「トゥルーマン・ショー」の「スター」として監視され続けているが故に、彼は決して死ぬことはない。
完璧に管理された生活ゾーンで呼吸を繋ぐ男の物語は、その男の一挙手一投足をフォローしていく番組視聴者の一喜一憂を掻き立てるが故に、多少の冒険譚が挿入されていた方が商品価値が上がるのだ。
だから、ある出来事を契機にして、自分の〈状況〉の不自然さに気付き始めた辺りからの、彼の振舞いの変容に、番組視聴者は固唾を呑んで見守っていくのである。
まさに、特定他者を消費する視聴者の日常的生態が、その本質を露わにしていくのだ。
以上、簡潔に言及してきたが、このように、現実的に有り得ない設定をする物語の構造は、本質的にコメディラインで網羅する以外にないだろう。
設定の非リアリズム性が、物語を極限的にカリカチュアライズし、視聴のサービスを提供する絶好の快楽装置としてのテレビは、それを消費する視聴者の愉悦の媒体と化していく。
然るに、最初からリアリズムで勝負することを回避した映像が、観る者に与えた心地悪さは本質的にコメディラインの範疇を越えている。
だから、本作に対する評価が、明瞭に二分されてしまうのは当然のこと。
それは、物語で描かれた「面白さ」を愉悦できない人たちが、物語の視聴者の感情ラインと完全に切れていることを必ずしも意味しないだろう。
「私的自己意識」(常に自分の感情の有りようを意識すること)が強い自我ほど、却って本作に不快感を覚えて止まないとも言える。
自分の中にあって、自分がどこかで認めている感情ラインと同質のものを、物語の視聴者たちのそれと重ね合わせてしまうとき、そこで投影された自己像に不快感を覚えるのは当然だろう。
ピーター・ウィアー監督 |
2 「視聴者を視認する者」=「投影された自己像を認知する者」としての観客性
この映画のエッセンスは、保険会社の平凡なセールスマンであるトゥルーマンが、死んだはずの父と再会するシーンに象徴されている。
「やはり生きてた」とトゥルーマン。
「息子よ。この歳月の償いは必ず補う」と父。
「パパ」とトゥルーマン。嗚咽している。
それを観る視聴者も嗚咽している。
視聴者は、「父子」の感動の再開に釘付けなのだ。
なぜなら、トゥルーマンの父は、トゥルーマンの少年期に、我が子の眼の前でヨットから落ちて、海で溺死してしまったはずなのである。
ところが、トゥルーマンは、浮浪者姿の父と、町で偶然遭遇して驚愕する。
父を追い続けたが、周囲の者の邪魔が入って、連れ去られてしまうというエピソードの挿入があったが、この一件も、当然「生放送」されていて、視聴者の関心を一気に高めるに至る。
邪魔をした者たちも、全て俳優。
相変わらず、トゥルーマンだけが事実を知らない。
しかし、この偶発的な一件によって、トゥルーマンの中で、少しずつ、町の者たちと自分の関係の不自然さに疑問を抱くようになっていく。
そんな中での、「父子」の感動の再開譚が開かれたのである。
無論、テレビ局の「ヤラセ」である。
クリストフ(画像右) |
トゥルーマンの誕生から30年間、彼の全生活を追い駆け、それをテレビで流し続けているディレクターである。
そのクリストフが、「父子」の感動の再開譚を演出するのだ。
「霧を抑えろ。クレーンカメラ、スタート。8カメ、もっと引け。カメラを引き、音楽をアップ。よし、クローズアップ」
「父子」の感動の再開を作り出して、成功裡に番組を終えたクリストフは安堵感を覚えた。
「見事だ!感動で涙が出た!」
そのクリストフを激励する、テレビ局のバラエティー局長(?)。
そして何より、この再開譚に釘付けとなる視聴者こそ、特定他者を消費することを愉悦する、私たち視聴者の感情ラインと重なるものである。
そこに、大いなる不快感を抱く者も多いだろう。
しかしそれが、紛れもなく、自分の分身であることを認知せざることを得なくなったとき、その不快感は映像総体への不快感を随伴するのか。
そこまで自己を相対化し切る、「視聴者を視認する者」=「投影された自己像を認知する者」としての観客が、果たしてどれほどいるだろうか。
寧ろ、物語の視聴者の存在を他人事のように考えている人たちもまた、決して少なくないのではないか。
繰り返すが、特定他者を消費することを愉悦する視聴者の欺瞞性を、本作の作り手は突き付けてきたのだ。
それが、ラストカットの決定力の凄味だったのである。
3 「君が生きている現実の世界は病んでいる。シーへブンは理想郷だ」
このような大掛かりなセットを作り上げたカリスマ的なテレビディレクタ ――― それがクリストフだった。
彼は独占インタビューの中で、確信的に語っていた。
「父親を消すことになった理由は?」とインタビュアー。
「トゥルーマンを島の外に出さないために、そこで父親の溺死を」とクリストフ。
“水の恐怖症で島を出られない”とインタビュアーの声。
トゥルーマン少年の自我に、“水の恐怖症で島を出られない”というトラウマを作り出すために、少年の父親を溺死させたのである。
「父親役のカークは、自分が消され、不満を募らせ番組に潜り込んだ」とクリストフ。
「22年間、彼が島から消えていた説明は?」とインタビュアー。
「記憶喪失」とクリストフ。
「さすが!」とインタビュアー。
そのために、島に5000台のカメラを設置したと、クリストフは言い添えた。
放送開始日に産まれたトゥルーマン |
「2週間の早産だったら。きっと本人も待ち切れなかったんだ」
「その熱意が認められて、彼が抜擢されたので?」
「母親が産みたくなかった子供が6人。トゥルーマンが放送開始日に産まれた」
「会社名義の養子縁組は、彼が初めてだったとか?」
「その通り」
「番組は巨額の収益を上げ、小国のGNPに匹敵するとか?」
「番組スタッフも、小国の人口並み」
「連日24時間放映で、CMブレークなし。その代わりに、番組内で商品を紹介」
「全てが売り物」
「一つだけ質問を。どうやって、トゥルーマンに疑いを持たせなかったので?」
「“徹底したリアリティ”それを保ったからだ」
「会社名義の養子縁組」という凄い言葉に象徴されているように、殆どフォローする必要のない本作の基本構造が、この会話の中に集約されていると言っていい。
ここで、クリストフの独占インタビューに横槍が入った。
ローレン |
「君が生きている現実の世界は病んでいる。シーへブンは理想郷だ」
これが、クリストフの答え。
「彼は自由のない囚人だわ」とローレン。
「それは違う。生きる目標を持ち、本気で事の真相を知りたいと願うなら、我々は止めない。率直に言って、君が腹立たしく思っているのは、彼自身が今の監獄を気に入っているということでは?」
ここでも、クリストフの答えは確信的だった。
4 外部世界にまで突き抜けた男の新たな旅立ち
クリストフの確信を裏切るように、トゥルーマンは行動を起こすに至った。
「自由のない囚人」という、その〈生〉が負った記号に「反逆」したのである。
失踪したトゥルーマンを、必死で捜索するクリストフと番組関係者たち。
賭けをする視聴者もいた。
そして、判明したトゥルーマンの逃亡先。
彼は、「禁断の海」をヨットで渡っていたのだ。
その手に持つ、ローレンの切り抜き写真。
クリストフは、そのトゥルーマンを捕捉するために、海に嵐を起こす戦術を取ったのだ。
「諦めて戻って来る」
それはクリストフの賭けであったが、諦めないで闘うトゥルーマンが、そこにいた。
「僕は負けないぞ!殺せるなら、殺してみろ!」
テレビの生中継を観る視聴者たちも、今や興奮の渦の中。
更に、嵐を強化する作戦を指令したクリストフ。
荒れ狂う人工の嵐の中で、悶え、苦しむトゥルーマン。
滑稽な構図だが、本人だけがそれを知らない。
それを目視して、クリストフは嵐作戦を中止させた。
まもなく、トゥルーマンの船は、ロケセットの中の海の縁に衝突した。
人工の嵐が治まった後、トゥルーマンはその縁を視認し、感触を確かめてみた。
その後、彼は安直な作りの縁に作られた階段を、恐々と、ゆっくりと上っていくのだ。(トップ画像)
その階段の上には出口があった。
ここで、クリストフはトゥルーマンに呼び掛ける。
「あんたは?」とトゥルーマン。
「人々に希望と歓びを与えているテレビ番組の制作者だ」とクリストフ。
「僕は、誰?」
「君は、スターだ」
「全部作りもの?」
トゥルーマンの問いに、クリストフは、そこだけは存分の思いを込めて語っていく。
「君は本物だ。だから、人が見る。外の世界より、真実があるのは、私が創った君の世界だ。君の周囲の嘘、まやかし。だが、君の世界に危険はない。私は、君の全てを知っている。君は恐いから、外へ出ていけないんだ。君をずっと見てきた。君が生まれたとき、最初のヨチヨチ歩き。学校に上がった日・・・君は逃げ出せん。死ぬまで・・・話せ。何か話せ。テレビに向かって、何か言え!全世界の生放送だ」
トゥルーマンの半生を観察し続けてきたクリストフには、まるで「父」や「母」の情感が胚胎しているようだった。
しかし、もうトゥルーマンの決意は変わらない。
「会えない時のために、“今日は!”と“今晩は!”」
「公的自己意識」(他者から見た自己の意識)に辿り着いたトゥルーマンは、テレビの生中継を観る視聴者に挨拶して、扉を開けて、虚構ではないであろう外部世界に出て行ったのである。
それは、外部世界にまで突き抜けた男の新たな旅立ちだった。
視聴者のやんやの喝采。
ここで、希代の人気番組である、「トゥルーマン・ショー」の中継は切断されることで終焉していった。
そして、冒頭で言及したラストカット。
「他の番組を。テレビガイドは?」
この言葉の中に収斂される文脈こそ、この映画の全てであることが了解されるのだ。。
5 存分の毒素が濃縮されている、戯画的なアイディアと手法による「挑発性」
先の独占インタビューでの、クリストフの言葉の中に、特定他者を消費する視聴者にマキシマムなサービスを提供している者の、揺るぎない自信と誇りが漲(みなぎ)っている。
物語の中で次々に繰り出される、自社の商品をCMとして流し込む広告主が背後にいて、それが、このような独善的なバラエティ番組を作り出す元締めになっている。
その構造を知らない者はいないだろう。
しかし、この映画は、そのような構造の欺瞞性を剔抉(てっけつ)する手法として、徹底したリアリズムで勝負することなしに、一貫してシリアス風味のコメディラインで描き切ってしまった。
寧ろ、その戯画的なアイディアと手法の中に存分の毒素が濃縮されていて、その毒気に不快感を覚えるほどの「挑発性」にこそ、本作の狙いがあったとも言えるだろう。
そのような描かれ方の軽薄さが内包する、程好い温度に保持されたリアリティの均衡感に、曰く言い難い薄気味悪さを感受してしまうからである。
(2011年3月)
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